「もし、わたくしが浮気したら、オリヴィエはどうなさいますの?」
「ん?」
寝る前に開けておいた窓から、明け方の涼やかな空気が忍び込んで来て、自然と目が開いた。
まだ朝焼けの残る時刻。
遠くで鳥の声が聞こえて、オリヴィエは窓を閉めようと、少し身体を動かした。
「ん…。」
腕の中で青紫の髪が身じろぎする。
オリヴィエは伸ばしかけた手をゆっくりとシーツの中へと戻した。
彼女がとても疲れているのは知っている。
忙しい補佐官の仕事を一人で抱え込んでいるのに、それを苦労と思わないのがロザリアのいいところだ。
なんにでも熱心で、まっすぐで、オリヴィエにはないピュアなところを失っていない。
彼女の翼は女王の金ではなかったけれど、その真っ白な翼はオリヴィエを包み込んでくれる。
額に落ちた青紫の髪を耳にかけ、オリヴィエはロザリアをしっかりと抱きしめた。
寝かせてあげたい、と思ったのに、青紫の睫毛が震え、青い瞳がのぞく。
まだ焦点の合わないその瞳が、もう一度閉じるようにと念じてみても、彼女は目を覚ましてしまったようで、身体をオリヴィエに寄せてきた。
「暖かいですわ…。」
素肌が触れ合うと、お互いの熱が伝わってくる。
心地よさに、再び眠りにつこうとした、その時。
突然ロザリアが言いだしたのが、さっきの言葉だった。
「浮気、ねえ。」
オリヴィエは腕の中からごそごそと這い出してきたロザリアの隣で、肩肘をついた。
ちらりと斜めに彼女を見ると、寝起きのせいか、頬が子供のように赤く染まっている。
いつもの凛とした彼女からは、想像のつかないあどけない顔。
腕を伸ばしても届かない窓を閉めるのは、とりあえず止めておくことにした。
わずかにカーテンを揺する風が、意外にも心地よい。
空いている手をロザリアの肩に回し、オリヴィエはくすりと笑みをこぼした。
「あんただったら、どうする?」
「え?」
わずかに見開いた瞳に困惑の色が浮かぶ。
「どうせ、さんざん女子会とやらで話したんじゃないの? 彼氏が浮気したらどうするかって、ね。」
「そ、それは…。」
オリヴィエの言う通り。
昨日の土の曜日、久しぶりに両宇宙の女王と補佐官が集まる会議があった。
もちろん議題は 『両宇宙の発展の度合いを比較して、新宇宙の今後を予想する』という、いたって真面目なモノ。
けれど、会議の後のお茶会は、普通の女の子にもどった、いわゆる女子会になった。
お酒が入るわけでもないのに、女の子同志のおしゃべりには際限がない。
ましてや、みんなが彼氏持ちで、全員のことをイヤでも知っているとなれば、話がそちらに移っていくのも自然なことだった。
「なんか最近、愛されている感じがしないのよね。」
リモージュが言いだせば、レイチェルも頷く。
「そうそう、マンネリ、ってヤツかも! だいぶ付き合いも長くなってきて、みんな気が抜けてるんじゃない?
エルンストなんて、この間、デートに執務服で来たんだヨ。緊張感ゼロだよネ。」
たしかに新宇宙ができてから数年。
みんなの交際もほぼ同時期からなのだから、長いと言えば長い。
いつもなら、控え目にみんなの話に相槌を打つだけのコレットでさえ、
「そうね…。最近、あんまり言葉にしてくれないかも…。」
などと言いながら、思案顔で紅茶を飲んでいる。
「ね、ロザリアもそう思うわよね?」
話を振られたロザリアは、あいまいに首をかしげた。
オリヴィエはオシャレも完ぺきだし、いつでも愛の言葉をささやいてくれる。
正直、非の打ちどころがない。
むしろ前よりも優しくなった気がするくらいだ。
素直にリモージュにそう言うと、リモージュはやれやれ、といった調子で肩をすくめた。
「急に優しくなる時って、浮気してるときらしいわ。」
みんなの視線が一斉にロザリアに向けられた。
「えー!浮気!ロザリア様、ダイジョウブ?」
「大変ですね…。」
なぜかオリヴィエの浮気は決定していて、ロザリアは同情されている。
でも、そこまでみんなから言われると、本当にそうなんじゃないかという気がしてくるから不思議だ。
いつでもお姫様のようにロザリアを扱ってくれるのは、もしかして、浮気のカムフラージュなのではないのか。
本当は…。
疑いかけて、すぐに心の中を否定した。
オリヴィエを疑うことは、自分の心を疑うことだ。
ロザリアは紅茶の香りを嗅ぎながら、彼の顔を思い浮かべていた。
オリヴィエが浮気をしているという議論は、果てしなく広がりを見せている。
「ね、どうするの?ロザリア?」
「どうする・・・って…。」
「やっぱり、ばちーんとかました方がイイと思うヨ!」
「そうです!許せません!」
「いっそ、フってやるとか!」
口々に言われて、本当に困ったロザリアは、お茶のお代わりを準備する、と言って、その場を逃げ出した。
たっぷりのお湯をケトルで沸かし、きちんと茶葉が開くまで待ってから戻っても、まだ話題は変わらず。
「ランディが浮気したら、わたし、頭からコーラをぶっかけてやるわ!」
「ランディ様はしませんよ~だって、陛下にメロメロだもーん。」
「あら、エルンストもそうじゃない? なんだかんだ言って、二人の付き合いもこの中じゃ一番長いし。」
「もしエルンストが浮気したら、絶対に許さないヨ! あいつのPCのデータ、全部消去してやる!」
「エルンストみたいな真面目な人は絶対しないと思うわ。アリオスは…。わからないけど…。あんなに素敵な人だもの…。向こうから迫られちゃうかも…。」
「長さよりも絆の濃さ!アリオスなんて転生までしてきたんだヨ!」
「アリオスが他の人がいいって言うんなら、私…。」
紅茶もお菓子もものすごいスピードで消費されていき、結局のところ、みんなラブラブで浮気なんてしそうもない、という結論に落ち着いたのは、もう日が沈むころになってから。
「わたしたちが浮気したら、どんな反応するかな?」
最後にそう言ったリモージュの言葉が、どうしても頭から離れなかったのだ。
「あんたが教えてくれたら、私も答えるよ。人に聞く前にまず自分から、でしょ?」
なんだかその理屈はとっても合わない気がするけれど。
一生懸命考えるロザリアの肩を抱き寄せ、オリヴィエは髪に口づけた。
シーツの隙間から覗く、透けるような白い肌。
オリヴィエが背中に指を滑らせると、ロザリアはくすぐったそうに身体を縮めた。
「もし、あなたが浮気をしたら、って言うことですわよね。」
「そ。あんた以外の女にこんなことをしたら、ってこと。」
頬に掌をあてて、唇を包み込むように口づけた後、ゆっくりと与えあうキスを繰り返した。
「どうする?」
少し意地悪く微笑めば、ロザリアの眉が悲しげに下がる。
じっと唇に拳をあてて考えこんだロザリアを、オリヴィエは黙って見つめた。
「許し、ますわ。」
「へえ。」
オリヴィエは唇の片端をほんの少し上げるように微笑んだ。
彼女の青い瞳に映る自分の姿。
綺麗な瞳にはきっと、綺麗な自分しか映っていないだろう。
「なんで?」
すっと、指を頬に伸ばせば、赤みのとれていた頬が、またほんのりと染まる。
同じ朝を迎えるのにも慣れたはずなのに、こうしたコミュニケーションになかなか彼女は慣れてくれない。
「だって…。怒ったり、あなたのいやがるようなことをすれば、もっと嫌われてしまいますわ。
浮気なら、まだ、わたくしのところへ戻って来てくださるということですもの。離れてしまうのは、もっといや…。」
オリヴィエの身体の下に手を回し、ロザリアはギュッとしがみついた。
彼女の髪から漂う薔薇の香り。
オリヴィエも彼女の背中に添えた手に力を込めた。
「許せるの? あんたの想いって、そんな程度?」
心の中に浮かんだ言葉をオリヴィエは奥へと飲み込んだ。
多分、本当にロザリアは許してくれるだろう。
何事もなかったかのようにオリヴィエの前でふるまいながら、一人になった時に涙を流す。
彼女はそういう女だ。
けれど、それでは物足りない。
もっと、我を忘れるほどに嫉妬して、身を滅ぼすほど、オリヴィエを憎むほどの愛が欲しい。
限りなく自分勝手な要求ではあるけれど。
「じゃあ、いいね。」
しがみついていたロザリアが顔を上げる。
オリヴィエはわざと視線を外した。
「許してくれるんでしょ?浮気してても。」
からかうような口調に、ほんの少しの意地悪さを込めると、オリヴィエを見つめる青が陰りを帯びる。
「…わたくし、信じていますわ。」
身体を丸めたロザリアがオリヴィエの胸に寄り添ってくる。
耳を澄まさなくても鼓動の聞こえる距離で、嘘をつくのは無意味だ。
まして、ロザリアを傷つけてまで、意地悪を通せるほど悪人でもない。
結局、自分は彼女を愛しすぎているのだから。
オリヴィエから零れた笑みに、ロザリアが身体を固くした。
決定的な何かを言われるのではないかと、緊張しているのがわかる。
「冗談。するわけないよ。…私、そんなに体力ないし。あんたと毎晩こうしてるっていうのに、それ以外にもなんて無理。」
「まあ。」
ほっとしたのと、オリヴィエに耳をかまれたのと、両方のせいだろう。
身体を捩るように、ロザリアがオリヴィエを睨みつけた。
窓の隙間から日差しが差し込んでくる。
早朝を過ぎると、とたんに太陽が眩しく輝きだすのはなぜだろう。
朝の光が慎み深い淑女だとすれば、今はまるで、奔放な悪女だ。
あと少し、日が昇れば、ちょうど枕まで陽がかかり、眠っていられないほど眩しくなる。
「わたくしは答えましたわ。次はオリヴィエの番。」
肩におかれたオリヴィエの手を、するりとすり抜けてロザリアが言った。
こんなことなら、もう少し、不安がらせておいてもよかったかもしれない、とオリヴィエは後悔してしまう。
本心を告げてみようか。
もし、彼女が浮気をしたなら、なんて、答えは決まっている。
「あのさ、その浮気って、どこまで? ちょっといいな、って思うくらい?それとも、今、こうしてるようなことくらい?」
引き延ばすように問いかけると、ロザリアは少し考えている。
「多分、今くらいですわ。」
「OK。朝を迎えるような関係ってことだね。」
ロザリアが小さく頷く。
「たとえば、あんたが私のところに来て、こう言ったりする。『わたくし、あの男と寝ましたわ。』」
オリヴィエが口真似をすると、ロザリアは不愉快そうに眉を寄せた。
「そんなこと、言いませんわ。」
「まあまあ。皺、できるよ。」
オリヴィエが眉間のしわを軽く小突くと、ロザリアは皺を伸ばすようににっこりとほほ笑んだ。
薔薇のような笑顔に、オリヴィエの胸が疼く。
彼女がこの瞳で他の男を見つめたら。
「殺すね。」
口から出た言葉に、オリヴィエは我ながら驚いた。
失敗したかもしれない。
ロザリアは青い瞳をポカンと見開いたまま、黙り込んでいる。
オリヴィエはふっと吐息を漏らし、否定の言葉を告げようとした。
「誰を、ですの?」
逃げるように離れようとした手をロザリアが引きとめる。
彼女の白い細い指が、オリヴィエの指を絡め取るように繋がれた。
登り始めた陽は、既にベッドの半分近くまでに伸び、常春の聖地らしく、穏やかな空気が流れ込んできている。
それ以上に、ロザリアの手は暖かかった。
「あんたを殺して、私も死ぬ。」
手をつないだまま、ロザリアを抱きしめた。
自分の鼓動に重なる彼女の鼓動は、恐ろしい言葉の後だというのに、全く変化がない。
もしかして、オリヴィエの答えを予想していたのかもしれないと思った。
「違うね…。あんたを殺すから、私も死ぬんだ。あんたがいない世界で、生きていけるはずがないから。」
背中に回した手に、青紫の髪が絡みつく。
指で梳けば、水のように流れて白い背中に零れおちた。
ロザリアは黙って、オリヴィエに身体を預けている。
絡めた指に力を込めて、彼女の手を握りしめた。
「…私は許したりしないよ。」
オリヴィエの鼓動が速くなった。
今まで、見せたことのなかった顔をロザリアに見せている。
どこまでも貪欲で、醜いほどの愛を、彼女は受け入れてくれるだろうか。
動かない彼女の顔を確かめたくて、オリヴィエは背中にまわしていた手を緩め、距離を開けた。
見上げてくるロザリアの瞳は、やはり透き通るほど青い。
「わたくし、愛されているのですわね。」
それに答えずに、オリヴィエはロザリアの頬を両手で挟み込むと、息をするのも苦しいほどの口づけを与えた。
時折零れる彼女の吐息が、朝という景色には似つかわしくないほど、艶やかで。
頭を押さえつけるように、唇を何度も重ねた。
自分はこんなにもロザリアに飢えている。
このまま唇から繋がって、混ざり合ってしまえばいいと、思うほどに。
「わたくしは、やっぱり許しますわ。でも。」
「でも?」
思わず聞き返したくなるほど、ロザリアは綺麗な笑顔を浮かべている。
「もし、あなたが浮気をしたら、わたくしは死にますわ。そうしたら、あなたも生きてはいられないのでしょう?」
「…そうだね。」
ロザリアに顔を見られたくなくて、オリヴィエはわざと彼女を強く抱きしめた。
胸で包み込んでしまえば、自分の顔に浮かぶ笑みを彼女は気づかないだろう。
自分のために、彼女は死んでくれる。
それが嬉しくてたまらない。
「私もかなり、愛されてるね。」
「ええ。ご存じなかったの?」
つんと答えた彼女を見ようと首を曲げると、上った陽がとうとう枕に届いてきた。
眩しくて目を細めると、そのすきに、ロザリアが布団から這い出してくる。
起き上がり、シーツで前を隠している彼女の綺麗な背中のラインと長い髪が逆光にきらめいて、神々しいまでに美しい。
じっと見つめていると、ロザリアが恥ずかしそうに自分の身体にシーツを巻きつけた。
「まだ、早いよ。」
ロザリアを強引に引き倒したオリヴィエは、抗議しようとする口を唇でふさいだ。
愛されているのだ。
命を人質にして、オリヴィエを縛ろうとするほどの究極のエゴイズム。
醜いほどの強い愛は、オリヴィエだけが持っていたのではなかった。
ロザリアも、同じ。
確かな実感を感じたオリヴィエは、開いていた窓を閉めると、そのままロザリアをベッドに押し倒した。
「今日はここから出さない、って言ったらどうする?」
「…聞かなくても、おわかりでしょう?」
青い瞳が熱で潤んでいる。
「じゃあ、決まりだね。」
言葉とともにキスの雨を降らせたオリヴィエは、ロザリアと自分の身体を再びシーツに包み込んだのだった。
FIN