お題「見つめる」
気になる視線
まただ。
自分を鋭く見つめる視線に気がついて、オリヴィエはさっと後ろを振り返った。
けれど、そこにはやはり誰もいない。
ただ、風にそよぐ緑の葉が穏やかに光をはじいているだけだ。
「ふう」
思わずため息をこぼしたオリヴィエは、そのままスタスタと歩き、執務室へ戻ると、椅子を大きく軋ませて、足を机に投げ出した。
ここ最近、オリヴィエが外にいると、どこからともなく感じる謎の視線。
初めは気のせいか、それとも、執務を抜け出して散歩している罪悪感とも思ったが、どうも違っているようだ。
見られている。
はっきりとそう感じるのだが、その視線に悪意はなく、距離を縮めようとする雰囲気もない。
悪意にしろ、好意にしろ、なにか明確な意思があれば読み取ることもできそうなのだが…
ただ様子をうかがうだけで、なにもないからこそ、逆に、見当がつかないのだ。
考えを巡らせていると、規則正しいリズムで、扉がノックされた。
「はあい、どうぞ」
そのリズムに胸を弾ませたオリヴィエは、予想通りにのぞいた姿に、自然と口角が上がる。
「ごきげんよう。オリヴィエ。少しお時間よろしいかしら」
「どうぞ、どうぞ。今、ちょうど暇してたんだよね」
「それはよかったですわ。…今からはそうは言っていられなくなると思いますけれど」
「ってことは執務か」
ちょっぴり肩をすくめたオリヴィエに、ロザリアが楽し気に目を細めた。
補佐官のドレスに身を包んだ彼女は、完璧な淑女であり、有能な同僚だ。
ロザリアは、手にしていたファイルから、束ねられた書類をいくつか取り出すと、机に広げ、オリヴィエにこれからの執務の指示を伝えてきた。
凛と涼やかな声と、薔薇の香。
少しの間に、彼女はずいぶんと大人の女性らしいふるまいをするようになった。
「では、お願いいたしますわ」
優雅な仕草で微笑むと、ロザリアはそそくさと部屋を出て行く。
女王候補の頃なら、お茶を飲んだり、たわいないおしゃべりの時間もあったのに、補佐官になってからは、毎日忙しそうにしていて、そんな誘いができる雰囲気でもない。
以前、彼女が美味しいと言ってくれた紅茶を淹れ、一人で飲むと、オリヴィエの心に寂しい風がふっと吹き抜けた。
ふとした時に、感じる視線。
数日経っても、それは変わらずに続いている。
庭園のカフェでお茶を飲んでいるとき。
執務の合間にぶらぶらと散歩をしているとき。
聖殿からの帰り道。
反射神経に関しては自信のあるオリヴィエだが、視線の主はさらに手練れらしい。
その影すら見つけられない相手に、オリヴィエはかなり焦れていた。
その日、中庭でまた視線に気がついたオリヴィエは、歩調を緩めず、とにかく進んだ。
花壇を抜け、薔薇のアーチをくぐり、角を曲がっても、まだついてくる視線に、オリヴィエはいきなり走り出した。
今日こそ突き止めてやる。
聖殿の中庭は小道が複雑に入り組んでいて、慣れない者はついてくるだけでやっとのはずだ。
軽快なフットワークでカーブを抜け、中庭の隅にたどり着いたとき、オリヴィエはぴたりと足を止めた。
花壇の片隅でロザリアがジョウロを手に薔薇の手入れをしている。
鮮やかな赤や黄色の大輪の薔薇の中でも、彼女の姿はひときわ美しく、目を奪われる。
つい、オリヴィエが見とれているとロザリアが気づいて、目を丸くした。
「オリヴィエ、こんなところに？」
ジョウロから水がぽたぽたと流れるまま、不思議そうに首をかしげるロザリア。
たしかに、こんな中庭の奥。
用がなければ来るようなところではない。
「あ～、ちょっとぼんやり歩いてたら、いつの間にか、ね」
オリヴィエが適当にごまかして、ウインクをすると、ロザリアはくすっと笑った。
「ぼんやりにもほどがありますわ。オリヴィエにもそんなことがありますのね」
屈託のない笑顔は、この中庭という場所のおかげだろうか。
久しぶりに見た彼女の笑顔に、オリヴィエの胸がことりと動いた。
「ね、そういえば、ちょうどお茶の時間だし、私の執務室に来ない？ すごくあんた好みの茶葉があるんだよね」
最後に彼女をお茶に誘ったのは、補佐官になってすぐの頃だった。
忙しそうなロザリアに息抜きを、と声をかけたものの、見事に玉砕。
別にショックを受けたつもりはなかったけれど、多少、傷になっていたのかもしれない。
なんとなく、声をかけづらくなっていたのは事実だ。
ロザリアは少し迷っているのか、青い瞳を揺らしたけれど、すぐに綺麗な微笑みを浮かべた。
「オリヴィエとお茶をするのは、なんだか久しぶりな気がしますわ」
ゆったりと執務室のソファに体を沈めたロザリアは、漂う茶葉の香りを楽しんでいるようだ。
「そうだね。補佐官になってからは、あんたもすごく忙しそうだったし」
「本当に。やっと、少し慣れてきたような気がしますの。薔薇を見に行く余裕もできましたわ」
色とりどりのマカロンをつまみながら、たわいもないおしゃべりをする時間。
「ね、また誘ってもいい？」
別れ際にオリヴィエが訪ねると、ロザリアは、ほんのりと頬を染め、はっきりと頷いたのだった。
それからも、オリヴィエは視線を時々感じたが、少しずつ、視線の持つ感情が変化しているのを感じた。
もちろん、明確な悪意はないし、どちらかと言えば、好意的な気もするのだが…。
正直に言えば、その視線に慣れた、というのが正解だろう。
追いかけられても、オリヴィエは気にならなくなっていたのだ。
今日も背後斜め右から、いつもの視線を感じつつ、オリヴィエは中庭のベンチでのんびり日向ぼっこをしていた。
ぽかぽかの日差しは心地よく、透ける緑の葉のが目にも優しい。
オリヴィエの心も穏やかで、自然と鼻歌が出てきてしまう。
「あら？」
うとうとしかかっていたオリヴィエの耳に、涼やかな声が聞えてくる。
「こんなところでなにをしているのかしら？」
サボりを咎められた、と、一気に目が覚め振り返ると、やはり、そこにはロザリアが立っている。
けれど、彼女が声をかけたのは、どうやらオリヴィエではなかったらしい。
彼女の腕の中にいるのは、灰色の猫。
「聖殿までわたくしを追いかけてきたの？」
猫はロザリアの腕に頭を摺り寄せ、撫でられる手に喉をゴロゴロ鳴らしている。
ロザリアもすっかり子供をいつくしむ母のような目で、猫に頬ずりしそうな雰囲気だ。
思わず、じっと見つめてしまったオリヴィエに気が付いたロザリアは、恥ずかしそうに眉を寄せた。
「その猫、あんたの？」
「ええ。補佐官になってすぐ、庭園で迷っていたところをうちに連れて帰りましたの。すごく頭のいい子なんですのよ」
灰色の毛にきらりと輝く黄金色の瞳。
オリヴィエを見つめる、その視線に感じるデジャブ。
「…ね、ロザリア。その子、オス？」
「え？ええ、男の子ですけれど」
「だいぶ落ち着いて抱っこされてるけど、いつもそんな感じ？」
「ええ、とってもおとなしくて、わたくしのいろんな悩みを聞いてくれたりしますのよ。補佐官になってから忙しいことが多かったですし、つい愚痴を言ってしまったり」
「もしかして、私のことも話したりしてる？」
「そ、それは…」
言葉に詰まって頬を赤らめたロザリアに、オリヴィエは今までの胸のつかえがとれた気がした。
オリヴィエはロザリアに近づくと、彼女の腕の中でのんびりと尻尾を揺らす猫と視線を合わせた。
綺麗な黄金の瞳。
その奥で見慣れた悪戯な光がきらりと輝く。
「私はあんたのお眼鏡にかなったかい？」
猫は知らんふりであくびをして、ロザリアの胸のあたりに頭をこすりつけている。
そのしぐさが勝ち誇ったように見えて、オリヴィエは苦笑した。
けれど、もちろん、負ける気はない。
オリヴィエが勝負の合図のウインクを投げると、猫は驚いたように目を丸くして、
「にゃおん」
一声、高く鳴いたのだった。
３・見つめる
2021/11/07 up