お題「夢の守護聖」

夢見た日々に

死にネタ注意


甘い香りに誘われて、オリヴィエはゆっくりと瞼をあげた。
どうやらうっかり、外でうたたねしてしまっていたようだ。
硬い木のベンチにもたれかかるようにして、頭を空に向けていたせいか、首が痛い。
頬にあたる少し冷えた風に、ぶるりと体を震わせ、ぼんやりした頭で周囲を見回すと、緑の葉を茂らせた木々が一面に広がっている。
聖地とは違う、控えめな日差しに、遠くまで見渡せる澄んだ空気。
若い木はその日差しを少しでも多く浴びようと、懸命に葉を揺らし、まるで、短い夏を必死に謳歌しようとしているようにも見える。
のどかで、なにもない。
なのに、なぜか懐かしさを感じる景色。

ああ、そうか。
この景色は故郷の星に似ているのだ。

腑に落ちて、オリヴィエは立ち上がった。
さっきからずっと、鼻歌が聞こえきている。
聞き覚えのある声が気になって、耳を澄ませながら細い石畳を進むと、赤屋根の小さな家があった。
年季の入った木材の平屋建てだが、絵本の家のようなレンガの煙突や可愛らしい窓がついている。
平凡なドアをくぐると、カランとベルが鳴り、
「あら、オリヴィエ」
青紫の長い髪を一つに結び、シンプルなエプロンを付けたロザリアが、笑顔で振り返った。

「りんご?」
彼女の手元でフライパンが、じゅうじゅうと音を立てて、甘いにおいを醸している。
「ええ。さっき、向こうの奥様からたくさんいただきましたの。二人では食べきる前に腐らせてしまいそうで、まずはアップルパイにしようと思いましたのよ」
バターと砂糖の香ばしいキャラメルと、甘いリンゴの匂い。
平和でとても幸せな匂いだ。
「もしかして、アップルパイはお嫌いだったかしら?」
「いや、結構好きだけど、カロリーが高いからね。あまり食べないようにしてるんだ。これでも美を司る守護聖だからさ。そのへんは気を付けてるってわけ」
軽く肩をすくめてそう言うと、ロザリアはくすくすと笑う。

「いやですわ。まだそんなことをおっしゃるなんて」
「え?」
ロザリアのくすくす笑いに、オリヴィエは改めて自分の姿を見直した。
そういえば、執務服ではないし、こんな服が自分のクローゼットに入っているはずもない。
ごく当たり前の白いTシャツに綿のパンツ。
おしゃれさよりも実用性で選んだような、シンプルなスタイルだ。

「あれ?なんでこんな格好?これじゃ普通過ぎて私らしくないじゃない」
Tシャツの裾をつまみ、首をかしげていると、ロザリアの姿も目に入った。
彼女もまた、ごく普通の綿のワンピースを着ている。
髪をまとめているのもシンプルなシュシュで、アクセサリーと言えば、小さなペンダントと指輪くらいだ。
もちろん、どんなに地味でもその美貌や気品は少しも損なわれていないのだが。

「今日は裏庭の手入れをするっておっしゃっていたじゃありませんの。それに、守護聖の時の服はすべて処分したはずですわ。これからの二人にはもう必要ないって…まさかお忘れになった?」
笑いを引っ込めて、今度は心配そうに表情を曇らせたロザリアに、オリヴィエは目を丸くした。
全く記憶がないが、ロザリアの話から推測すると、オリヴィエはもう守護聖ではなく、ロザリアと二人でこの田舎でのんびり暮らしているらしい。
このダサいTシャツで、おそらくノーメイク。
髪もセットしていなくて、ハイヒールどころか、泥だらけのスニーカー。

「…ちょっと焦げ臭くない?」
オリヴィエが鼻をくん、と鳴らすと、
「あ!」
ロザリアが慌ててフライパンの中身をかき混ぜた。
甘い甘いリンゴとキャラメルの香り。
窓から差し込む、柔らかな日差しと、遠くから聞える羊のような鳴き声。
そばには当たり前のように、彼女がいて。
きっとこんな毎日を幸せというのだ。
ふと、目頭が熱くなって、オリヴィエは慌てて、指で拭った。

「なんだか今日のオリヴィエは変ですわ」
「…ごめん」
こんな幸せがなぜ、頭からすっぽり抜け落ちているのか。
不思議でたまらないが、オリヴィエは深く追及するのを止めた。
ロザリアがいて、アップルパイがあって。
これ以上、もう、なにもいらない。
オリヴィエはフライパンから、さっとリンゴのかけらをとると、口の中に放り込んだのだった。



静かな部屋に響く、機械のモーター音のうなり。
機械からは何本ものケーブルが脇のベッドまで伸び、そのうえで眠っている人間に繋がっている。
「まだ目覚めないか」
刻々と数字と波形を刻むディスプレイには、なんの変化もない。
ベッドの傍らで数値を見ていたオスカーは、ジュリアスの問いかけに小さく頷いた。

「数値的には異常はありません。ただ、やはり、サクリアの状態が…」
守護聖同士で、ある程度サクリアの状態は感知できる。
ただ、サクリアの均衡は保たれているのに、この状態なのが異常なのだ。
ベッドの上で寝ている人物にジュリアスとオスカーは目を向けた。
その体は不思議な光に包まれ、まるで、ガラスケースの中の人形のよう微動だにしない。
「これがサクリアの殻か」
「王立研究院の調査の結果ではそのようです。このサクリアのオーラが殻のように守っていたおかげで、オリヴィエだけが傷一つなく助かった、と」
「…なるほどな。宇宙意思がオリヴィエを守っているということか」
「おそらく」
しばらく、二人の間に沈黙が落ち、また、機械の音だけが響いている。

星間シャトルの事故が起きたのは、ちょうど一週間前。
二人揃えた休暇で、リゾート地へ向かったオリヴィエとロザリアが、その事故に遭遇したのは、不運としか言いようがない。
事故原因は隕石の衝突と言われているが、真実が解明されることはないだろう。
なぜなら、証拠となるシャトルの機体がほとんど残っていないからだ。
爆発、炎上し、海に墜落した機体は、わずかな破片を浮かべただけで、すべては藻屑と消えた。
乗員も乗客もすべて。
ただ一人、オリヴィエだけが、この状態で海に浮かんでいるのが発見された。
サクリアのオーラに包まれ、傷一つなく。
警備隊隊長として捜索の先頭に立ったオスカーは、その光景に背筋が凍るような感覚を覚えた。
海にポツンと浮かぶ、光の球体。
夢の守護聖であるオリヴィエを守るためだけに、その力は発動したのだろう。
すべてが消え去ってもなお、オリヴィエだけを生かした。

「…笑っているな」
サクリアのオーラに包まれたオリヴィエの身体には全く異常がなく、本来なら、すぐにでも目を覚ますはずだった。
けれど、事故から一週間がたっても、オリヴィエは意識を取り戻さない。
夢のサクリアの殻の中から、出てこようとしないのだ。
点滴や栄養剤で、生命を維持してはいるものの、このままの状態ではいずれ立ち行かなくなる。
あと数日待って、変化がなければ、ジュリアスが首座の守護聖の権限で、オリヴィエのサクリアのオーラを壊すと宣言していた。

「夢のサクリアで、幸せな夢を見ているのかもしれません」
事故の瞬間、なにがあったのか、オスカーにはわからない。
けれど、目の前で、愛しい人を失った衝撃は、想像に余りある。
「今しばらくは、夢を見させてやるがよい」
ジュリアスが病室を去った後、オスカーは眠り続けるオリヴィエの眦がわずかに光るのに気が付いたのだった。



「守護聖を退任したらさ、ド田舎でのんびり暮らすのもいいよね」
午後のティータイムのたわいもない会話。
「まあ、わたくしもそう思っていましたの。動物を飼って、天気のいい日はテラスでお茶をしたり」
「ふふ。じゃ、一緒に行っちゃう?…私の奥さんとして、なーんて、どう?」
冗談に紛れて伝えた本音に、ロザリアは頬を染めて頷いた。

サクリアが尽きた後のささやかな夢は、たった一つ。
愛する人と二人で過ごす幸せな日々。

4・夢の守護聖
2021/11/21 up