突然、ロザリアの口から飛び出した言葉に、オリヴィエは手にしていた箸を取り落としそうになった。
正月2日の午後。
オリヴィエの屋敷でソファに並んで座り、シェフ特製のお雑煮をのんびりとつついていた最中、ごくごく普通に、まるで天気の話でもするようなロザリアの口調にオリヴィエは慌てた。
オリヴィエの知るかぎり、『姫はじめ』とはアレをアレしてアレすることで、ロザリアのような淑女が間違っても口にするような言葉ではない。
「……その言葉、誰から聞いたの?」
喉に詰まりかけた餅の欠片をぐっと飲み込み、オリヴィエが尋ねると、
「先程、オスカーに言われましたの。『お前たちはもう姫はじめを済ませんたんだろう』って」
やはり……。
オリヴィエは貼り付けた微笑みで頷きながら、心の中でオスカーを罵倒していた。
基本的に聖地も正月三が日は休みということになっている。
ただ何故かの恒例として、二日の朝、補佐官が守護聖たちの私邸を回るという行事があるのだ。
休みでダラダラしがちな守護聖たちに喝を入れるため、とかなんとか。
はっきりした理由はわからないが、当然、現補佐官のロザリアもここへ来る前に、全員の私邸を回ってきていた。
ラフにカーディガンを羽織ったオスカーにお年賀の品を渡し、たわいもない世間話をしていたら、
「お前たちはもう姫はじめも済ませんたんだろう?」
オスカーはニヤリと笑って、氷青の瞳を細めた。
もちろん、ロザリアに睨まれることを期待しての軽いジョークのつもりだったが、
「……姫はじめ……?」
ロザリアの眉が怪訝そうに寄せられたのを見て、オスカーはしまった、と慌てた。
まさか、その言葉自体を知らないとは。
深窓の令嬢だったロザリアの辞書には下世話な言葉は載っていないのだろう。
そして、
「それは何かしら?」
知識欲もあるから、知らない事があれば、こうして尋ねられる羽目になる。
さて、いよいよ面倒だとオスカーは自分がまいた種ながら、内心ため息をついた。
ここは上手く交わして、早々に追い払うのが適当だろう。
「新年最初に恋人同士が交わすことさ」
微妙なオスカーの言い回しに、ロザリアは一瞬考える素振りをして、すぐに何かを思いついたようだ。
「いいえ、それでしたらまだですわ。昨日は陛下と過ごしましたし、オリヴィエのところは一番最後に行く予定ですの。そのまま、お昼をご一緒する約束をしていますのよ」
嬉しそうにはにかむ笑顔に、今度はオスカーの悪戯心がむくむくと湧き上がる。
クリスマス付近にさんざんオリヴィエに聞かされた惚気への、ちょっとした仕返しだ。
「そうか。それならば君の方からオリヴィエに言ってみるといい。きっと喜ぶぜ」
ロザリアに『姫はじめしよう』と言われた時のオリヴィエの驚く顔が見られないのは非常に残念だが、想像するだけで美味しく酒が飲めそうだ。
妙ににっこり笑顔のオスカーを不思議に思ったものの、根が素直なロザリアは
「では、後ほどオリヴィエに会った時に言ってみますわ」
そう言って微笑み返したのだった。
『姫はじめ』の本当の意味には気づかないまま……。
「ダメ……かしら?」
小首を傾げてオリヴィエを見つめるロザリアの青い瞳はどこまでも純粋無垢で、絶対に言葉の意味を理解しているとは思えない。
少なくともアレがアレだとは露ほども思っていないだろう。
「ったく、オスカーのヤツ……」
思わず舌打ちしたオリヴィエは、箸を置くと、ロザリアの方へと身を乗り出した。
「あのさ、『姫はじめ』ってなにかホントにわかってる?」
囁き声で問いかけると、ロザリアはますます首を傾げ、目を丸くしている。
「え?……恋人同士が新年最初に交わすことでしょう?」
「まあ、そうなんだけど」
「恋人同士が交わすことと言ったら……」
ロザリアはほんの少し睫毛を伏せると、恥ずかしそうに頬を染めた。
「……口づけ……」
ぽつりと呟いて、すぐに、かあっと耳まで赤くなったロザリアは両手で顔を覆った。
「いやですわ、オリヴィエったら。はっきり言いにくいから『姫はじめ』って言いましたのに」
指の隙間からちらりとオリヴィエを覗く青い瞳は、どこか恨めしげだ。
いやいや、実はあんたはもっとすごいこと要求してるんだよ、と言いたいのをグッと我慢して、オリヴィエはロザリアの頭を撫でた。
「ごめん。言いにくいこと言わせちゃって」
ロザリアは顔を覆ったまま、じっと動かない。
相変わらず耳は真っ赤だから、恥ずかしさが収まっていないのだろう。
「ね、顔を見せてよ」
ふるふると首を降るロザリア。
「それじゃ、何もできないよ」
「……いやそうだったじゃありませんの」
不満そうな声色に、オリヴィエはクスリと笑みをこぼした。
「イヤなはずないでしょ。ちょっとビックリしただけ」
「……本当に?」
「ホント、ホント」
ロザリアの顔を覆っていた手が半分降りて、青い瞳がしっかりとオリヴィエを見つめる。
目尻がほんのり赤く染まって、上目遣いのロザリアはいつもの補佐官然とした雰囲気が消えて、めちゃくちゃ可愛らしい。
オリヴィエは脳裏で『姫はじめ』がぐるぐる回るのを、必死でこらえた。
「では、目を閉じてくださいませ」
「ん」
オリヴィエは言われるまま、目を閉じた。
晴れて恋人になってから、キスは何度も交わしたけれど、そういえば彼女からくれるのは初めてではないだろうか。
らしくなく心臓がドキドキと音を立て、閉じた睫毛がかすかに震える。
けれど、待っているモノがオリヴィエに触れる気配はなく、さすがに痺れを切らしかけた頃。
バラの香りがふわりと漂い、鼻先数センチにロザリアの吐息を感じた。
触れそうで、触れない。
近づきかけて、また離れて。
さすがに待ちきれなくて、オリヴィエが目を開けると、ロザリアが勢いよく顔を近づけてくるタイミングと重なった。
ゴツン。
「痛っ」
ぶつかったのは、ある意味仕方がない。
なにせ、すごい勢いで来たロザリアの両目はぎゅっと閉じられていたのだから。
「……失敗ですわ」
「そりゃ、あんたまで目を瞑ってたら失敗するよ」
オリヴィエがツンと額を人差し指でつつくと、ロザリアはムッと眉を寄せた。
「もう一度ですわ」
負けず嫌いの性格が顔を出したのか、ムキになるロザリアにオリヴィエはクスリと笑う。
「もう待てないよ」
オリヴィエは細い腰を抱き寄せて顎に指をかけると、あっという間にロザリアの唇を奪った。
最初は触れるだけのキス。
それからゆっくりと。
「ん」
甘い吐息が漏れたあとは、舌を絡めて、全部を味わうように。
ちゅっと音を立てて、唇が離れると、
「『姫はじめ』しましたわ」
瞳を潤ませたロザリアが嬉しそうに微笑む。
とても満足そうで幸せそうな、その笑顔を見ていたら、ホントの意味なんて、どうでもいい事のように思えた。
「ちょっとお雑煮の味だったけどね」
「もう!オリヴィエったらロマンがありませんわ!」
ぷうっと膨れたロザリアをまたなだめて。
よしよしと頭を撫でて、見つめ合って。
そんななにげないやり取りが本当に幸せだ。
こんな毎日が今年も続けばいいと、心から思う。
「あ、『姫はじめ』した、って他の人には絶対言っちゃダメだからね」
「……言いませんわ。そんな恥ずかしいこと」
つんと尖らせた唇に、また一つ、キスを落として。
「絶対だよ」
来年は本当の『姫はじめ』ができることを、こっそり神様にお祈りするオリヴィエなのだった。
FIN