24時間のキス

2.

午後になると、少し風が強くなってくる。
ロザリアは開け放していた窓を細くすると、タッセルでカーテンを止めようとした。
ひらひらと舞うカーテンは涼しげで心地よいけれど、執務をするには少しうるさい。
手を伸ばしてカーテンの薄い布を捉えようとしていると、背後から大きな手が伸びてきた。
「ありがとう。」
ロザリアの頭に広い胸が当たっている。
大きな手はロザリアの頭上当たりでカーテンをまとめた。

「礼なら、言葉以外のものでくれないか?」
「まあ、何がお望みかしら?」
ロザリアが振り向くと、オスカーは一歩身体をずらし、礼儀違反ではない距離をおいた。
「君だ。」
大きな手がロザリアの指先を捉え、彼の唇が触れそうな距離へと近づける。
けれど唇はその位置で止まったまま、触れてはこなかった。
「だが、今日は俺が君へ贈り物をする日だ。…もし君が望むのなら、俺は全てを捧げても構わないんだがな。」
冗談めかした口調でオスカーはロザリアの瞳を見つめた。
願わくば、この瞳に真実を感じ取ってほしい。
『お嬢ちゃん』から『君』と呼ぶようになった、オスカーの変化を彼女は気付いてもくれないのだ。

「一体、何人の方に同じことを仰っているのかしら?毎日全てを捧げていては、あなたの身体がもちませんわよ。」
冗談で返すロザリアにオスカーは目を細めると、その場にひざまづいた。
手をとられたまま、オスカーを見下ろす形になり、ロザリアは目を丸くして、立ちすくんだ。
「では俺からのプレゼントだ。君に心からのキスを。」

手のひらに落とされた、長い口付け。
ゆっくりと唇を離したオスカーは騎士のように恭しく彼女の手を掲げると、氷青色の瞳をまっすぐに向けた。
「君だけだ。ロザリア。」
冷たい青に浮かぶ熱さにロザリアの胸がざわめく。
今、全宇宙の恋人を自負する彼の瞳を独占しているのだから。
「陛下からの勅命は終わりましたでしょう?おふざけはおよしになって。」
繋がれたままの指先が熱を帯びてくるような気がして、ロザリアが顔を背けると、一瞬オスカーは握る手に力を込めた。
逃がさない、と、その熱で告げた後、ようやくゆっくりと彼女から手を離していく。
駆け引きならばオスカーの方に長がある。
一瞬名残惜しそうな顔をした彼女に密かに笑みを漏らした。
「俺の誕生日には君の口づけをもらえるように陛下に頼んでおこう。」
「まあ!」

強引に背中を押されるようにして、補佐官室を追い出されたオスカーの目の前で扉が勢い良く閉められた。
今頃はプリプリして、オスカーの悪態をついていることだろう。
怒って紅潮した顔も魅力的だが、自分の腕のなかで恥らうように頬を染めさせてみたい。
いずれは、必ず。
扉の前で、オスカーは手を胸に当て、たった一人の女性へ騎士の礼をしたのだった。


斜めに差し込むオレンジの光。
細く開けた窓から少し冷気をおびた風がはいりこんで来て、ロザリアは身震いした。
もうかなり日が傾いて来ているのだ。
あとは執務を終わらせて、アンジェリークと誕生日のディナーを共にすればいい。
補佐官になってから、そうやって誕生日を過ごしてきた。
アンジェリークがこの間からロザリアの好きなシャルロットポワールを練習しているのを知っている。
驚かせるつもりだろうが、出しっぱなしのエプロンやレシピ本を見て、とっくに気づいていた。
「焦げていなければいいけど。」
去年の誕生日、焦げているのか元々そういう色なのか、わからないガトーショコラで次の日一日、気分が悪かったのだ。
それでもアンジェリークの思いが嬉しくて、笑いが止まらなかったのだけれど。

ぼんやりしていると、あっという間に日が落ちてきた。
暗くなってきた手元を灯そうと、ロザリアはランプの紐を引いたが、明かりがつかない。
電球がきれたのかと、傘を覗き込んだ時。
灯ったのは、ブルーの淡い光。
ランプシェードを透かして壁や天井に白い小さな光も浮かび上がっている。
青のなかに点々とまたたく小さな光。
それはまるで、星空。
「綺麗・・・。」
ぐるりと一面を見回したロザリアは思わずため息を漏らしてつぶやいた。
一体誰が、と思いながら、頭の中には一人しか浮かばない。
ロザリアがじっと光を見ていると、窓がガタガタと音を立てて開いた。

「外から見えたからよ。…おめーが生まれた日の星なんだぜ。」
星座とかはわかんねーけど、と、ゼフェルは小さな声で付け足した。
「陛下に聞いたら、欲しいもんはねーって言うしよ。」
「陛下に?では、別のモノを言われたのではなくて?」
カッと、目に見えてわかるほどゼフェルの顔が赤くなる。
「知らねーよ!」と言ってから気がついた。
他の奴らはどうしたのだろう、と。
「皆様、きちんとくださいましたわ。」
疑問はすぐに解消されたが、その言葉に血の気が引いた。
「おめー、ま、まさか、その、。」
全員とキスを?!
ゼフェルの喉が鳴ると同時に、ロザリアはくすくすと笑い出した。
「本当にアンジェリークったら、いつも驚かされますわ。でも、とてもいい誕生日の思い出になると思いますの。皆様からの気持ち、確かに受け取りましたもの。」
この先聖地を去る日が来ても、きっと今日のことは忘れないと思う。
楽しそうに笑うロザリアにゼフェルは気が抜けた様に鼻をこすった。
「ゼフェルはどうなさいますの?」
やっと元に戻った顔が、さっきよりもさらに熱くなる。
どうするとはそうすることで、そうするということはああいうことで。
混乱のあまり、声が出なくなった。
「目を閉じた方がよろしくて?」
いいながら目を閉じたロザリアの顔がすぐ目の前にある。

口から飛び出しそうなほど鼓動を打ち鳴らす心臓を飲み込んで、ゼフェルはロザリアに唇を近づけた。
息がかかるのではないかと思う距離まで来て、ゼフェルはたまらずに後ろへと飛びすさる。
今、自分は確かに唇に触れようとしていた。
ここで彼女の香りを吸い込んだら、後戻りができなくなりそうで、思わず息を止める。
「バーカ!!!なんでオレがそんなことしなきゃなんねーんだよ! プレゼントならもうやっただろ!欲張るんじゃねー!」
慌てた拍子に手が当たり、ランプが床に倒れると、星空が形を変えた。
青い光だけに照らされた彼女は、月の女神の様に見えて。
思わず伸ばしたゼフェルの手にロザリアの長い髪が触れた。
「あー、クソ!」
叫んだゼフェルは、手にした髪を自分の唇に当てると、パッと手を離した。
つい吸い込んだ彼女の薔薇の香りがゼフェルの体中を、駆け回っていく。
「やったからな!」
目を丸くしたロザリアが何か言うよりも前に、ゼフェルは来た時と同じ様に窓から飛び出して行った。
「もう、落ち着きのない方ですこと。」
飛び出した意味はわからないが、彼のくれたプレゼントはとても綺麗だと思う。
形の変わった星座たちを見つめながら、ロザリアは小さく笑みを浮かべていた。


「ん?これはなに?」
開いたドアから廊下に点った電灯のまぶしい明かりが差し込んでくる。
もう、廊下に電灯をつけるような時間なのだ、とあわてて時計をみたロザリアは、とっくに就業時間が過ぎていることに気が付いた。
「いけない、アンジェが待っているわ。」
まだ少し片付けなければならないことが残っているというのに、随分ぼんやりしてしまっていた。
これでは約束に遅れてしまう。
あわてた様子のロザリアを見て、オリヴィエはドアをすり抜けるようにして中に入ると、後ろ手で静かにドアを閉めた。
「あ、もうちょっと遅くていい、って陛下から伝言。まだ出来てない、って。なんだろうね?」
ロザリアの脳裏に、悪戦苦闘しているアンジェリークの姿が浮かんだ。
一年に一度しかケーキを焼かないのだから、上達などするはずがない。
ましてや、アンジェリークときたら、料理の才能が皆無なのだから。
ソファから浮かせかけた腰を再び沈めたロザリアの隣に、オリヴィエも腰をおろした。
「きれいだね。」
部屋中を光らせるランプの星に、オリヴィエは頭をぐるりと巡らせる。
「ええ。ゼフェルが誕生日プレゼントに下さったんですの。わたくしが生まれた日の星空らしいですわ。」
「へえ、意外に粋なことを考えるじゃないか。」
「本当に。思ってもいませんでしたわ。」
きれいな笑顔で微笑む彼女に、胸がちくりと痛む。
ゼフェルがどんな想いでこのプレゼントを思いついたのか。
わかるだけに、彼女の笑顔が苦しいのだ。

しばらく黙って星空を見ていたオリヴィエは、ポケットから小さなものを取り出した。
「私からもプレゼント。」
ゴールドのリップスティックに真っ赤なリボン。
硬質的なのに、どこか上品で高貴な感じがするのは、全体に丸みを帯びたデザインだからかもしれない。
「まあ、どんな色かしら? オリヴィエが選んで下さったのなら、安心ですけれど。」
オリヴィエから受け取ったロザリアは、リボンを外し、スティックを回した。
化粧品特有の華やかな香りがあたりに広がる。
「暗くて色がよくわかりませんわ。」
そういえば、部屋の明かりは星空のまま。
薄暗いを通り越して、暗い。
「それね、私が今つけてるのと同じ色なんだよ。今シーズンの新色。」
「まあ、そうなんですの?」
言われてオリヴィエの顔をじっと見てみたが、やはり暗くてよくわからない。

「ふふ。そんなに顔を近づけて。キスしちゃうよ?」
「え?!」
ロザリアは目を丸くして、慌てて後ろに下がった。
「冗談。あんたってばホントかわいいんだから。」
星の明かりがオリヴィエのブルーグレーの瞳に宿り、ロザリアを見つめている。
長い睫毛と完璧に整った造形。
普段は女性にしか見えないのに、なぜか今日はとても男性的だ。
きっと周りの暗さが彼の華やかな部分を取り除き、素の姿を見せているのだと思う。
ロザリアでなくても、彼にこうして見つめられたなら、ドキドキしてしまうだろう。

「つけてあげようか?」
ふと天使が通り過ぎた一瞬の後、オリヴィエが言った。
「ええ。お願いしますわ。」
オリヴィエのメイクの腕は、折り紙付きだし、むしろ自分で塗るより綺麗かもしれない。
「じゃ、ちょっと、目、つぶって。」
素直に目を閉じるロザリアに、オリヴィエは苦笑した。
今日一日、キスの嵐を受けただろうから、慣れた、といえばそうなんだろうけれど。
全く無防備にもほどがある。
逆に言えば、守護聖達はとても紳士的だったということだ。
さて、どうしようか。
このまま唇を奪ってしまってもいいけれど。
言いなりになるのも、ちょっと面白くないような気もする。
オリヴィエはロザリアの顎に手を延ばした。
指先でつい、と持ち上げれば、花のような唇はすぐに手の届くところにある。

オリヴィエは上着から、さっきプレゼントしたモノと同じリップスティックを取り出した。
このところ愛用している自分のリップだ。
ゴールドのキャップを取り、くるりと回すと広がる、華やかな香りも同じ。
オリヴィエは、それをロザリアの唇に当てた。
「とてもいい香りですわ。」
「気に入ってくれた?」
目を閉じた彼女の下唇の中心から、両脇へ。
今度は上唇から両脇へ。
顎を軽く下に押し、ほんの少し開いた両端にもリップの先をなぞらせていく。
まるで、唇を重ねていく時のように。

「できたよ。」
声をかけた時、もう、オリヴィエの中のリップスティックは1本だけになっていた。
「ありがとうございます。」
それをロザリアに返すと、オリヴィエは少し意地悪く微笑んだ。
「そろそろ、陛下の方もいいんじゃない?」
今の今までそのコトをすっかり忘れていたロザリアが青ざめた。
「わ、わたくし、行かなくては。」
「そう?プレゼント、渡せてよかったよ。」
「あ、あの。」
言いにくそうに頬を赤らめたロザリアは、ドレスを握りしめた。
「もう一つのプレゼントですけど。」
「ん?まだ欲しいモノでもあるの?」
素知らぬ顔で聞き返したオリヴィエに、青い瞳が残念そうな影を浮かべた。
きっと、陛下が伝えなかったと思っているに違いない。
「遅れると、陛下が拗ねるよ?」
「ええ、それでは失礼しますわ。」
星空の景色から飛び出していくロザリアを、オリヴィエは軽く手を振って見送った。

「ね?、みんなからのプレゼント、どうだった?」
フォークを振り上げて尋ねるアンジェリークをロザリアはジロリと睨みつけた。
「あんたのせいで、さんざんだったわ。」
「えー。おかしいなー。オスカーに聞いたら、自分の誕生日の時もぜひ、このプレゼントにして欲しいって言ってたけど。」
「絶対にやめてちょうだい。」
つい振り上げてしまったフォークをアンジェリークがニヤニヤと見つめている。
「うふ。じゃあ、まだロザリアのファーストキスは守られてるのね。わたしがもらっちゃおうかなー。」
目を閉じて近づいて来たアンジェリークの唇にロザリアはケーキの塊を押し付けてやった。
「ぶほ。」
むせたように息を吐き出すと、ケーキについている白い粉糖がまいあがる。
「かけすぎですわ。」
「だって、変な味なんだもん。」
「これじゃ、砂糖の味しかしないじゃないの。シャルロットポワールはどうなったんですの?」
「あー、あれ。難しすぎちゃって。来年またチャレンジするわ!」
結局、リベンジしたというガトーショコラは焦げてこそいなかったが、味がなかった。
この黒い色はチョコ以外の何でできているのだろうというほどに。
「おかしいなー。キスしていいって、言っといたんだけどなー。みんな、意外に度胸がないっていうか、ダメじゃなーい。
わたしからのプレゼントは彼!っていうつもりだったのに・・・。」
粉糖を一生懸命払っているロザリアのそばでアンジェリークがつぶやいた。
「? なにかおっしゃって?」
首をかしげたロザリアに、アンジェリークは顔の前で大きく両手を振ると、「なんでもなーい!」と、叫んだのだった。


次の日。
プレゼントされたリップをつけようと、ロザリアはスティックを回した。
華やかな香りは昨日、オリヴィエがつけてくれた時に感じた香り。
そのまま、リップをブラシに取ろうとして、ロザリアの手が止まった。
リップの先端は綺麗に形作られていて、全く使った形跡がないのだ。
確かに昨日、リップはロザリアの唇についていた。
「似合ってる!」とアンジェリークが褒めてくれたのもしっかりと覚えているのだから。
では、なぜ。

『それね、私が今つけてるのと同じ色なんだよ。』

突然思い出した言葉に、ロザリアの体の熱が上がる。
新品のリップの先が意味する、その理由は。
「もう!ずるい方!」
顔を真っ赤に染めたロザリアは、ブラシを元に戻すと、直接唇にリップを引いたのだった。


FIN
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