補佐官ロザリアはテラスでお茶を楽しんでいた。
いつもなら賑やかなメンバーがそろうお茶の時間も今日は珍しく一人。
少し香りの強いキーマンを淹れて、爽やかな風に吹かれていると向こうから人影が現れた。
「よう。一人とは珍しいな。」
アイスブルーの瞳がロザリアを捕らえると、オスカーは向かいの椅子に腰を下ろした。
「俺にもなにかくれないか?」
予期せぬオスカーの登場に踊りだす心臓。
ロザリアの返事は一呼吸遅れてしまう。
「え、ええ。お待ちになって。」
勢いよく立ちあがった拍子に、テーブルの上の紅茶のカップが揺れて音を立てた。
オスカーがにやりと笑みを浮かべる。
ロザリアはキッチンに向かうと、オスカーのためにコーヒーを淹れ始めた。
ケトルの湯気が勢いよく立ち上るまでの間、ロザリアは両手をじっと胸の上にあてる。
ドキドキと高くなる心臓の音をどうにかして抑えたい。
久しぶりの二人の時間をこんなにも心待ちにしていたことを知られたくなくて、ロザリアは大きく息をついた。
目の前にカプチーノが置かれると、オスカーはカップを掲げてロザリアにウインクをした。
「俺の好きなものを覚えていてくれたとは、嬉しいな。」
ロザリアの頬がさっと朱に染まる。
その反応が楽しいのかオスカーはゆったりした笑みを浮かべてカップに口をつけた。
「あなたこそ、今日はお一人ですの?いつも周りを取り囲んでいるお綺麗な蝶たちはどうなさったのかしら?」
言ってから、しまったと思う。
これではまるで、いつもオスカーを気にしていると言っている様なものだ。
けれど、そんなロザリアの気持ちに気付いていないのか、オスカーは大げさに両手を広げて見せた。
「蝶だって?・・・あんがい蝶は俺の方なのかもしれないぜ。綺麗な花の周りをただ飛びまわっている蝶さ。」
「まあ、御冗談ばかり。あなたは周りの蝶を全てご自分のものになさりたいのではなくて?」
カップを置いた音がしてロザリアとオスカーの視線が重なる。
「俺が本当に欲しい花は固い蕾のまま俺を受け入れてくれそうもない。」
いつもからかうばかりのオスカーが時々見せるこの瞳がロザリアを惑わせる。
上手く返事を返すことができずに沈黙が流れると、オスカーは立ち上がった。
「うまい茶をありがとう。」
ロザリアはただ頷きを返すだけで何も言うことができなかった。
その夜、バルコニーに出たロザリアは星空を見上げた。
真剣な瞳にふと想いがこぼれそうになると、すぐにかわされてしまう。
オスカーとの距離は近付いているのか、以前と変わらないのか、ロザリアには分からなかった。
「わたくしがいけないのよね・・・。」
オスカーの前では、つい強がって想いを隠してしまう。
本当の気持ちが言えたなら、どんなに楽になれるだろう。
空をふと、小さな流れ星が駆けていく。
「どうかもっと、素直になれますように。」
思わず両手を合わせて流れ星に願いをかけたロザリアは、その子供じみた自分の行為にくすりと微笑んだ。
「いやだわ。 わたくしったら。」
ロザリアは流れ星に背を向けて、バルコニーを後にした。
その時に星が一瞬大きくきらめいたのに気づかないまま。
女王の間から聞こえてくる泣き声に宮殿の人間はすっかり足を止めなくなっている。
女王アンジェリークは、今までの泣き声をピタリと止めると、ロザリアを上目遣いで見つめた。
「ねえ、こんなに泣いてもダメ?」
「ダメです。」
女王の嘘泣きに騙されるのは今となってはあの方ぐらい。
ロザリアの心の中を見透かしたように、アンジェリークは頬を膨らませる。
「疲れたのー。休ませてー。」
「わかりました。これが片付いたらお茶にしましょう。」
きゃっ、と両足を上げたアンジェリークに両手を腰にあてたロザリアは肩を落とした。
休ませるつもりは毛頭ない。今日はどうしてもやらなければならないことがまだまだ山積みなのだ。
しかし、これでとりあえずやる気にさせることはできたはず。
嬉々として机に向かったアンジェリークを横目で見たロザリアは、突然鼻の頭がむずむずするような気がして鼻に手を当てた。
けれど、触ってみると、それほど変わった様子もなく、再びロザリアは仕事にもどる。
言いつけどおりに頑張ったアンジェリークが予定のところまで終わらせると、再びごねはじめた。
「ねー、さっきはここまで終わったらお茶にするって言ったじゃないー。」
「あと少し、ここにありますわよ?」
さりげなく増やしておいた書類をロザリアはアンジェリークの方へ寄せた。
「え!さっきより増えてるー。ロザリア、増やしたでしょ?」
「いいえ。変わっていませんわよ。」
素知らぬ顔で答えたロザリアの鼻がまた、むずむずとかゆくなった。
思わず鼻に手を当てたロザリアをアンジェリークがじっと見つめている。
「ね、ロザリア。お化粧変えた?なんか、いつもと少し違うみたい。」
「いつもと違うですって?」
「そう。なんか、鼻が高くなったみたいに見えるの。シャドウでも入れたの?いつもの方がかわいいわ。」
ロザリアは慌てて立ち上がると、レストルームの鏡を穴が開くほど見つめた。
おかしい。たしかに鼻が高くなっている様な気がする。
さっきのかゆみといい、おできでもできたのか、とロザリアは鼻の頭をこすった。
ドア越しにアンジェリークの声が聞こえてくる。
「ロザリアー。ホントにここまで終わったら、お茶にしていいのー?」
ロザリアはため息交じりに言葉を返した。
「そうですわね。そこまで終わったらお茶にしましょう。」
言ったとたんにまた、鼻がむずむずとしてくる。
鏡を眺めていたロザリアは目にしたものが信じられない、とでも言うように鏡のふちをつかんだ。
鼻が伸びた?!
鏡に映った自分の鼻はたしかにいつもよりずっと細長くなっていた。
青ざめたロザリアは目をつぶり、3度、深呼吸を繰り返すと、恐る恐る目を開けた。
きっと、疲れから来る見間違いに違いない。
出来るだけゆっくりとまぶたを上下させたロザリアはしばらくの間、鏡を凝視した。
変わらない。
違う、変わっている。・・・鼻が長い。
叫び出しそうになる口を両手で押さえると、ロザリアは洗面台に手をついた。
「ねえ。ロザリアどうしたの?気分でも悪いの?」
心配そうなアンジェリークが扉をノックする音がする。
うろうろとレストルームの中を歩き回ったロザリアは大きく頭を上下させると、ゆっくりと息を吐き出した。
「なんでもありませんわ。」
また鼻がむずむずする。
「ええと、やっぱり気分がすぐれませんわ。」
なんともない。
ロザリアはじっと鏡を見続けた。
「ね、ロザリア。ホントに休憩させてくれるのよね?」
猫なで声のアンジェリークの魂胆は分かっている。
お茶の時間にあの方のところへ行くつもりなのだ。そんなことになれば1時間は戻ってこない。
「ええ。そこまで終れば休憩ですわ。」
とたんに鼻のむずむずが始まる。ため息を押し殺したロザリアは仕方なくこう言った。
「今日は休憩を差し上げられませんわ。それどころか定時のお帰りだって難しいでしょうね。死んだ気になってやってもらいますわよ。」
あれほど気になった鼻のむずむずがぴたりと止まる。
もうロザリアにはわかっていた。
嘘をつくと、鼻が伸びるのだ。まるで、いつか聞いたおとぎ話のように。
レストルームのドアを開けたロザリアは、ひどく青い顔をしていて、思わずアンジェリークはそばへ駆け寄った。
うつむいて口元を押さえたロザリアは、苦しそうにくぐもった声を出している。
「ごめんなさい。今日はもう、部屋に下がらせてもらってもいいかしら?気分がすぐれないんですの。」
仕事の鬼のロザリアの言葉にアンジェリークはただただ首を縦に振った。
それを見たロザリアは弱弱しく頷くと、よろめきながら女王の間を出ていく。
ぽつんと残ったアンジェリークは仕事から解放されたことを手放しで喜べずに茫然と立っていた。
「あのロザリアが・・・。大丈夫かしら?」
やりたくない、と思っていた山積みの書類に目をやったアンジェリークはデスクによいしょっと腰を下ろすと、もくもくとペンを動かし始めた。
不思議なものでやらなくてもよくなれば、やらなければいけないという気になるのだ。
時計の音がこちこちと時間を刻んでいると、規則的な靴音が響いて扉の前で止まった。
アンジェリークは時計の針を確認すると、少し愉快そうな表情になる。
時計の針は3時少し前。
靴音がしなくても、この時間に現れるのは決まっている。
ノックと同時に顔をのぞかせたのはアンジェリークの予想通り、オスカーだった。
「女王陛下にはご機嫌麗しくなによりでございます。」
慇懃な挨拶の間も如歳なく部屋に視線をめぐらせたオスカーの目が細められる。
それに気づいたアンジェリークはくすくすとこぼれる笑みを隠そうともせずにいた。
「ねえ、オスカー、ちょうどよかったわ。少しお願いをしてもいいかしら?」
目当ての不在に落胆した様子も見せず、オスカーはアンジェリークに向き直った。
「あのね、さっき、ロザリアったら気分が悪いって部屋に戻ってしまったの。様子を見てきてもらえないかしら?」
「ロザリアが?」
顔色を変えたオスカーを内心笑いながら、アンジェリークは頷いた。
「そうなの。心配だけど、わたしは手が離せなくて。」
もう部屋から出ていこうとしているオスカーの背中にアンジェリークは「お願いね!」と声をかけると、椅子に座りなおした。
女王の間から出たオスカーは自然に早足になっていく。
補佐官室のドアをノックと同時に開けると、ロザリアは背中を向けて、ソファに座っていた。
「気分が悪いというのは本当か?」
足音も高らかに部屋に入ってきたオスカーの声にロザリアは仰天した。
振り返れば、顔を見られてしまう。顔を見られれば、この異変に気付かれてしまう。
ロザリアは立ち上がると、部屋の隅へと移動した。
「なんでもありませんわ。」
また、鼻がむずむずする。なんでもなくないのだから、たしかに嘘をついているのことになるのだろう。
泣きたくなるのをこらえるために必死に顔を伏せるロザリアは本当に気分が悪そうにオスカーには思えた。
「大丈夫なのか?」
言いながら近づこうとしたとき、ロザリアの鋭い声が響く。
「こちらに来ないで!早く出て行って!!」
叫び声のような拒絶は今までに一度も聞いたことのないような声音だった。
オスカーの足がその場でぴたりと止まる。
「君を心配することさえ、許してはくれないのか?」
ロザリアはなにも言えなかった。これ以上何か言えば、嘘を重ねるだけになってしまう。
「とにかく出て行ってくださいませ!」
「なにもないというのなら、せめて俺に花のかんばせを見せてくれ。蝶を哀れだと思うなら、それくらいはいいだろう?」
オスカーの近づく気配にロザリアはうろたえる。
顔を見せる?・・・そんなことは絶対にできない。
「こないでって言っているでしょう!」
ロザリアはサイドボードに乗っていたぬいぐるみを投げつけた。
ぬいぐるみはそのままオスカーの胸を直撃する。
胸に当たって落ちたぬいぐるみをオスカーが拾い上げると、その間にもロザリアはどんどんと物を投げつけてきた。
「あっちへ行って!」
仲良く並んでいたぬいぐるみ、飾られていた造花のブーケ、フリルのティッシュケース、銀細工の犬の置物、バレリーナをかたどったアクセサリーホルダー、写真立て・・・。
オスカーめがけて飛んでくる物はどんどん重くて大きな物になっていく。
ロザリアの手に銀の写真立てが握られているのを見たオスカーは、ふとさびしげな微笑を浮かべると、両手を上げた。
「俺に近づいてほしくないということはよくわかった。これ以上散らかせば、片付けも大変になるだけだ。
君が元気なこともよくわかった。俺は退散しよう。」
写真立てを振り上げたロザリアの手がぴたりと止まって、オスカーはため息をついた。
足もとに転がっている物を拾い上げようとすると、ロザリアが短く言う。
「そのままで結構ですわ。早く出て行ってくださいませ。」
オスカーは手に持ったままだったぬいぐるみをテーブルに置くと、静かに部屋を出ていった。
黙って背を向けていたロザリアはオスカーがドアを閉めた音にようやく振り向く。
ちらばったぬいぐるみがじっとロザリアを見つめていた。
次の日。
大きなマスクをしたロザリアはいつも通り女王の間に向かった。
結局、昨夜は誰とも会わずに過ごせたが、いつまでもそういうわけにはいかないだろう。
寝不足のためにほんの少し赤くなった青い瞳をまっすぐに向けたまま、ロザリアはアンジェリークの元に近づいた。
「ねえ、アンジェ。」
弱弱しい声で名前を呼ばれたアンジェリークは目を丸くしてロザリアを見つめた。
「ど、どうしたの?ロザリア?」
怒られることにはすっかり慣れたが、こんな弱気なロザリアには慣れていない。
二人の間に緊張した空気が流れると、ロザリアはため息をついて、言った。
「たしかにあなたに仕事ばかりをさせてしまうことを申し訳ないと思っているわ。でも、決して悪意があるわけではないの。だから、もう許してくれないかしら?」
「え?許す?どういうこと?」
お人よしそうな緑の瞳はぽかんとしたままで、小首を傾げた姿は本当になにも知らないようにもみえる。
けれど、一晩考えてロザリアが思い当たった結論は一つ。
「あなたの力なのでしょう?もう、騙して無理に仕事をさせたりしないから、元に戻してちょうだい。」
マスクを取ったロザリアの顔。
血の気が引く、とはまさにこのことなのね、とアンジェリークはぼんやりと考える。
しばらく口をパクパクと金魚のように動かしたアンジェリークはすっかり動転していた。
「わたしじゃない。わたしじゃないわ。いくら女王だからってそんな力はないと思うの・・・。」
首をぶんぶんと横に振って、両手をばたつかせたアンジェリークは必死な瞳でロザリアを見た。
たしかに厳し過ぎるところはあっても、ロザリアの熱心さからくるものだとわかっていたし、こんな悪戯をするはずがない。
泣き出しそうな顔をして、首を振り続けるアンジェリークにロザリアはマスクをかけ直すと、肩を落とした。
「わかりましたわ。あなたではないのね。」
アンジェリークが。首をぶんぶんと縦に振る。
「ロザリア~~。どうしちゃったのかな?」
泣きべそをかきながら手を握るアンジェリークをロザリアはため息をつきながら抱きしめた。
泣きたいのはわたくしだわ。
アンジェリークの仕業ではないとすると、どうしたらいいのか見当もつかない。
こうなれば、これ以上鼻が高くならないように、嘘をつかないようにするだけ。
ロザリアは頭を整理して、そう結論を出すと、アンジェリークを追い立てるように仕事を始めたのだった。
「ねえ、あんた、最近ロザリアの様子がおかしいと思わない?」
突然執務室を尋ねてきたオリヴィエの言葉にオスカーは執務を中断して、顔を上げた。
「どういうことだ?」
「みんな噂してるよ? あんた、気付かなかった?」
気づくもなにも、と言いかけてオリヴィエの好奇心丸だしの瞳に気がそがれたオスカーはふんと鼻を鳴らした。
「知らないな。」
ふうん、と値踏みするように腕を組んだオリヴィエはあからさまにオスカーに顔を近づけて言った。
「まったく、お気楽なちょうちょ暮らしに慣れて、ホントの恋を忘れちゃった、なんてことはないだろうね?」
顔色を変えたオスカーから素早く離れたオリヴィエは振り向きざまに手を振ると、
「ちゃんと向き合った方がいいんじゃない?あんたのお姫様、ホントに変だよ。」と、部屋を出て行った。
オリヴィエの残り香を消そうとするように、オスカーは手にした書類を振りまわした。
そのうちに馬鹿馬鹿しくなって手を下ろすと、ふと苦笑が漏れる。
「気づくはずないだろう?あれほど避けられてどうして気づけるっていうんだ。」
補佐官室から追い出されたあの日から、ロザリアはオスカーをあからさまに避けていた。
廊下の向こうで姿を見ただけでも逃げて行ってしまう。
書類を持ってくるのも女官たちだけで、ロザリア自身が顔を見せることはない。
大きなマスクをつけた姿が気になっても、「風邪なのか?」の一言を言う機会さえくれないのだ。
今まで嫌われていると思ったことは一度もなかった。
それどころか、あまのじゃくな態度は好意の裏返しだと、密かに自負してもいた。
けれど、これほどの拒絶を受けている今、その考えは誤りだったのかと思い始めてもいる。
「俺らしくもない・・・。」
様子がおかしいと聞いただけで自然と心が落ち着かない。
オスカーは時計を見上げた。
マントを取り上げると、向かう先はいつもの場所。
ドアをノックして扉を開けると、そこには女王が一人きりで座っていた。
「あら、オスカー。久しぶりね。」
女王アンジェリークはいろいろな意味で素直な女性だ。
その表情からオスカーは女王が何かを隠しているということをすぐに感じ取った。
「女王陛下にはご機嫌麗しく・・・。」
慇懃な口上を遮るようにアンジェリークがオスカーを手招きする。
「なんでしょうか?」
一歩近づいたオスカーにさらに近付くように手招きを繰り返すアンジェリーク。
誘われるまま、すぐ近くまで来たオスカーにアンジェリークは思い切ったように言った。
「オスカー、ロザリアのどこが好き? 顔?」
一瞬驚いたオスカーはすぐにもとの不敵な笑みを浮かべてアンジェリークを見つめる。
「一言では言えないな。どこか一部分が好きだ、なんてそんな軽々しい気持ちじゃない。」
今度はアンジェリークが驚いた表情をする。
「いやだわ。好きっていうことは否定しないのね。ね、顔はどれくらい好き?もし。もしよ?前と変わっていたらどう?」
アンジェリークの突拍子のなさはいつものことだ。
戸惑いが確信に変わったオスカーは内心苦笑しながらきっぱりと言った。
「たとえどう変わっていても、彼女であれば俺の気持ちは変わらない。これでいいか?」
そして、畳みかける。
「さあ、ロザリアが俺を避ける理由を教えてくれ。」
聖地の夜は、恐ろしいほどの静寂に包まれている。
夜着に着替えたロザリアは一日の疲れを取りはらう儀式のように、長い青紫の髪にブラシを当てていた。
目の前にある鏡は照明を落としていることもあって、はっきりと顔を映してはいない。
それはロザリアの意図した通りではあったが、やはり気になって何度も目を凝らして鏡の中を見つめた。
嘘をつかないように心がけたおかげで、あれから鼻が極端に長くなるようなことはない。
それでも、初めに比べれば全体のバランスが悪いのは認めざるおえないだろう。
極端に不格好ではない。
それに人間の価値が容姿で決まるとも思っていない。
けれど、彼にだけはこの顔を見られたくないのも真実だ。
長い長いため息の後、ブラシを置いたロザリアは開け放たれた窓の向こうに人影を認めて立ち上がった。
「誰?」
震える声で尋ねたとき、月を覆っていた雲が風に流されて、光があらわになる。
眩しいほどの月明かりの下に緋色の髪が煌めいた。
「こんな時間に女性を尋ねるなんて、非常識だとは思いませんの?」
怒りと困惑の入り混じったロザリアの声が響く。
オスカーは黙って、カーテンを割って部屋に入ると、ロザリアに近づいた。
「こないで!」
ロザリアが大きな声を上げて後ろに下がると、オスカーは人差し指を自分の唇にあてて小さく囁いた。
「大きな声を出さないほうがいい。俺がここにいることが使用人に知れることになってもいいのか?」
ロザリアの声が詰まる。
招き入れた上の痴話げんか。そんな噂はごめんこうむりたい。
なおも近づくオスカーにロザリアはドレッサーの上のブラシをつかんで投げつけた。
「こないでと言っているでしょう?」
ブラシはオスカーから遠く離れたところに軌跡を描いて落ちる。ロザリアはさらにポプリのサシェをつかんで投げつけた。
「なぜだ?なぜ、俺に近づいてほしくないんだ?」
返事をすることもなく、ロザリアは近くにあった化粧水の瓶やクリームのボトルを投げ続ける。
いくつかはオスカーに当たったが、オスカーはそれでもひるむことなく、ロザリアの目の前に立った。
「俺を好きか?」
クッションを持ち上げたロザリアの手首をつかんで言った。
ロザリアはうつむいたまま、首を横に振っている。
「わたくしはあなたの周りを飛ぶたくさんの蝶の1羽になるのはいやなんですの。」
それは本当の気持ち。
その他大勢の一人になるくらいなら、あきらめたい。なのにあきらめきれない。
「君はまるでわかっていないな。」
月明かりに照らされたオスカーの端正な顔が少し悲しげに歪む。
「言っただろう。俺の方が蝶なのだと。君という花を求めてさまよう哀れな蝶は俺の方さ。」
「嘘。」
「嘘じゃない。君の答えを聞かせてくれないか?」
アイスブルーの瞳がロザリアを見つめている。息をするのも苦しくなって、ロザリアは叫んだ。
「キライ。あなたなんて、大嫌い。」
とたんに鼻がむずむずとしてくる。それでもロザリアは言葉を止めることができなかった。
「大嫌いですわ!あなたなんて、大嫌い!早く出て行って!」
自分の出した声の大きさに驚きながら、ロザリアは鼻が伸びるのを感じて手で鼻を覆った。
ほんの一言の嘘なのに、鼻は10cmくらいに伸びている。
ロザリアは顔を見られないように、ますます下を向いた。
「君は嘘つきだな。」
オスカーの声はどこか楽しそうな気配がする。
「ほら、こんなに鼻が伸びているじゃないか。嘘なんだろ?本当のことを言わないとますます伸びるぞ。」
反射的に顔を上げたロザリアの顎をオスカーの手が捕らえる。
「もう一度、言ってくれ。君は、俺を、好きか?」
「キライよ!」
鼻がむずむずとして、少し伸びる。
「もう一度。」
「大嫌いですわ!」
また、伸びる。
数回のやり取りを繰り返した後、オスカーが言った。
「そろそろやめてくれ。」
オスカーのアイスブルーの瞳がロザリアに近づいて行く。
「これ以上鼻が高くなると、キスがしにくくなるだろう?」
高く伸びた鼻を避けるようにロザリアの唇をふさいだオスカーは、掴んでいた手首を離すと、その両腕でロザリアを抱きしめた。
重ねた唇の間から漏れるロザリアの吐息が次第に甘いものに変わっていくと、オスカーはようやく唇を離す。
「もう一度、言ってくれ。」
青い瞳は、これ以上ないほどしっかりとオスカーを見つめている。
「わたくし、こんな顔になってしまいましたのよ?それでも、構わないとおっしゃいますの?」
黙って頷くオスカーの瞳もロザリアをしっかりと見つめていた。
ロザリアの心の底にしまいこまれていた想いがようやくあふれ出す。
「あなたを、好きですわ。ずっと、ずっと以前から、あなただけを。」
ロザリアの髪に触れていたオスカーの手がロザリアの頬を包む。
再び触れた唇はさっきよりもずっと甘い恋の味。
次第に深くなる口付けに、ロザリアはオスカーの体を押し返した。
「どうした?」
「いいえ。あの。鼻が・・・。」
深いキスになるのも無理はない。
あれほど邪魔になっていたロザリアの鼻がいつの間にか元通りに戻っていた。
「本当だな。」
一瞬驚いた声を出したオスカーはすぐにロザリアの鼻に優しく唇を寄せた。
「君の本当の声を聞かせてくれた。感謝しないとな。」
鼻から唇へ。そして・・・。
二人の上で輝く星が一つ、ひときわ大きくきらりと輝いたことに、誰ひとり、気づいた者はいなかったのだった。
FIN