「ねえ、もしワタシが浮気したら、アナタ、どうする?」
カタカタと鳴るキーボード。
部屋の中に恋人同士の男女が二人きりだというのに、微塵も甘いムードがないのは、きっとこの部屋の雰囲気のせいだろう。
真っ白い清潔な壁とピカピカのフローリング。
或る意味整理整頓され過ぎているという印象の部屋。
唯一、レイチェルが窓辺に飾ったハート型のサボテンが、人の住んでいる空間らしさを醸し出している。
カタリ、とキーボードの音が止まり、エルンストが顔を上げた。
「申し訳ありません。よく聞き取れなかったのですが。もう一度、言っていただけますか。」
恋人になってからかなりの日が経つというのに、エルンストの固いセリフは相変わらずだ。
それでも、レイチェルの言葉に必ず応えてくれるようになったのは、大きな変化。
くだらない、そう、たとえば、今の質問のようなことにも。
「だから、ワタシが浮気したら、アナタはどうするか、ってこと。」
大きな変化といえば、この部屋にもある。
以前はPCデスクしかなかった空間に大きなソファベッドが置かれたこと。
デスクの隣におかれたソファに寝転べば、そこでPCに触れているエルンストを見つめることができる。
少し手を伸ばせば、触れることもできる。
今もソファに寝転んだまま、レイチェルはエルンストのすぐ隣でノートPCを開いていた。
「浮気したんですか。」
「まさか!」
起き上って即答したレイチェルを、エルンストが眼鏡の奥から一瞥した。
「では、お答えいたしかねますね。推論だけで議論するのは性に合いません。」
「もう!じゃあさ、仮定としてなら、いいでしょ? 仮説を立てて検討することは議論の上でも重要なプロセスだと思うヨ。」
議論という点ならレイチェルも負けてはいない。
引きそうもない気配を感じ取ったのか、エルンストはキーボードから手を離すと、椅子をくるりと回転させた。
「では、『もし、あなたが浮気をしたら』という仮定で検討してみましょう。」
「ウン。」
なぜかソファの上で正座したレイチェルを前に、エルンストは眼鏡の縁をくいっと上げた。
「まずは相手をつきとめることから始めるでしょう。相手がわからなければ、対処のしようがありませんから。」
「え、でも、そういうのって、隠すでしょ?なかなか見つからないんじゃない?」
そこでエルンストは、意味ありげに笑った。
「貴女のことですからね。きっと私にはわかります。」
「…いいケド。」
少し気になったが、多分本当にエルンストならわかる気がする。
幼い時から、今まで、エルンストに隠し事をして、上手く行ったためしがない。
ただ、この想いだけは、告白されるまで、ばれてはいなかったようだけれど。
「相手がわかれば、どのような人物かを調査します。主に容姿や年齢、家族構成など、表面的な条件を検討するでしょう。」
「ふーん。」
実にエルンストらしい。
「それが満足のいく結果であれば、行動や性格などの内面の調査へ移ります。ここが一番手間と時間がかかるところでしょうね。」
「性格とか調べてどうするの?」
なかなか結論を教えてくれないエルンストにレイチェルは苛立ってきた。
ノートPCを放りだし、クッションを抱きしめる。
「そして、もし、相手が貴女にふさわしいと判断した場合、私は身を引きます。」
「えっ!」
レイチェルは思わずぎゅっとクッションを握りしめていた。
「身を引く、ってどういうこと…?」
「相手の方が私よりも貴女を幸せにしてくれそうだと思ったら、私は貴女との関係を解消する、という意味です。」
「そうなんだ…。」
レイチェルは言葉がでなかった。
別に相手の男とケンカをしてほしいとか、力ずくでも取り返してほしいとか、そんなことを考えていたわけではないけれど。
こうもあっさり、言いきられてしまうと、なんだか辛い。
エルンストにとって、自分という存在は、簡単に手放せるものなのだと、思い知らされた気がする。
レイチェルの体温が上がったのと同時に、エアコンが急に動き出した。
人工的な風が頬にあたり、喉が渇いてくる。
涙が出そうなのも、きっと、空気が乾燥してきたせいだ。
レイチェルはクッションに顔をうずめて、なんとか涙が出るのをこらえようとした。
「ですが、おそらく、この結論はないでしょう。」
エルンストはサイドテーブルにおかれていたコーヒーサーバーを取り上げると、いつもレイチェルが使っているマグカップへとコーヒーを注いだ。
気がきかないと思われているエルンストだが、こういう配慮は、むしろ人並み以上の気がする。
きっと先読みするのが得意なのだろう。
レイチェルはマグカップを受け取ると、クッションを抱いたまま、コーヒーを飲み込んだ。
「…どういう意味?」
張り付いた喉が潤って、ようやく声が出た。
「先ほどは、その相手が私より貴女にふさわしい、という仮定でした。ですが、その可能性はほぼ0です。
私ほど、貴女を理解している人間は、この世には存在しないでしょうからね。」
エルンストは平然と自分のマグカップにもコーヒーを注いでいる。
けれどエルンストは一瞬口に含んだコーヒーに、すぐに顔をしかめた。
レイチェルもさっき思ったのだが、いつもよりコーヒーの温度が高い。
きっとエルンストも動揺しているのだ、と思ったら、なんだかおかしくなってきた。
「スゴイ自信だね。」
ふうふうと中身を冷ましながらレイチェルが言うと、エルンストは、マグカップの縁でくいっと眼鏡を上げた。
ちょっとレンズが曇ったことが、またおかしい。
「貴女とはずいぶん長い付き合いですからね。…これからの分も含めたら、おそらく誰よりも、と言っていいでしょう。
理解していて当然です。」
「でもね、エルンスト。」
マグカップをおいたレイチェルは、ソファからにじり寄るようにして、デスクへと近づいた。
座っているエルンストを上目遣いで見ると、彼は少し照れたのか、視線を避けている。
「理解してるってだけじゃ、ダメだと思うヨ。 誰よりも…好き、とかじゃないと。そのへんはどうなの?」
エルンストはコーヒーをがぶがぶと飲みこんでいる。
さっき、とんでもなくがっかりさせられたんだから、少しくらいはそのお返しをしてもらわないと気が済まない。
「ね、どうなの?」
「そ、それは…。」
眼鏡の奥の瞳が動揺している。
けれど、それはほんの一瞬で、すぐにエルンストは余裕の笑みを浮かべた。
「誰よりも、かどうかはわかりません。愛情は、測定の方法がありませんからね。」
「もう、つまんない!」
レイチェルがふくれると、エルンストはふっと瞳を緩めた。
「貴女が開発してください。そうすれば、きっと、私の気持ちが嘘ではないことを信じていただけるでしょう。」
真顔で言われて、レイチェルのほうが赤面してしまった。
もし愛情が測れたら、自分が一番だ、と信じているとしか思えない。
「わかった!ワタシ、いつか開発してみせる!」
「期待していますよ。」
くるりと椅子を戻したエルンストが、再びキーボードを叩き始めた。
真剣な表情に、しばらくは集中させてあげてもいいかな、と思う。
レイチェルもソファにごろりとうつぶせになって、ノートPCを開けると、新しいファイルを立ち上げた。
『愛情測定器』
書かれたファイル名に、後でエルンストが苦笑したのは、言うまでもない。
FIN