けれど、今日ほどそう思ったことはない。
だって。
レイチェルは遥か遠くに見えるユーイの姿に、手を振る気力もなく、立ちつくした。
ふと振り返れば、ずいぶん登ってきている。
自分たちが歩いて来た道が、地平線の向こうに消えていることに気がついて、レイチェルはふう、と、ため息をこぼした。
「おーい。なにやってんだ？ 早く来いよ！」
元気いっぱいなユーイは大きく両手を振って、まだ下の方にいるレイチェルを呼んでいる。
レイチェルは両手でぐっと膝を押さえつけるようにして足を伸ばした後、再び登り始めた。
傾斜のきつい山道は、日ごろそれほど運動しているわけではないレイチェルにとってかなりつらい。
「もう、ワタシは頭脳派なんだヨ。わかってる？」
呟いてみてもユーイに聞こえるはずもない。
ひょいひょいと登っていくユーイから遅れ始めたのも、かなり初期のころだった。
久しぶりのデート。
ユーイといわゆる恋人になってからというもの、毎日があわただしく過ぎていき、なかなかゆっくり話をする時間もなかった。
守護聖と補佐官としての型通りの会話しかないのが寂しくて、何度も風の執務室を訪れてはみた。
けれどユーイも忙しいのか、すれ違ってばかり。
そもそも手紙やメールなんていうモノをまったく活用しないユーイだから、それは本当に一言の意思の疎通もない日々で。
さすがに、焦れたレイチェルから、『どこか連れてって。』とメールを出したのだ。
その返事が『日の曜日。６時に聖殿前』。
夜の６時の間違いかもしれないと思いつつ、一応デートらしい身支度をして来てみれば、すでにユーイが待っていた。
そして、連れてこられたのが、ココ。
セレスティアの端にある山、だった。
「ちょっと待ってヨ。」
「おい、だらしがねぇぞ。これくらいの山で。」
それはレイチェルもわかっている。
ユーイはレイチェルの持っていた荷物も全て持ってくれているのだ。
でも、デートだと思って気合を入れた服装は、山登りには向いていない。
ひらひらしたスカートの下にはきちんとスパッツを履いているから、まあ、いい。
けれど、ウェッジソールのサンダルはさっきから紐が食い込んできて痛いし、ヒールがあるから足首がおぼつかない。
それに、今日は身体が重い。
よりによって、今日は月に一度の一番体調の悪い日なのだ。
普段から結構症状の重いレイチェルは、今まではこの日に出かけようと思ったこともなかった。
ユーイはドンドン登っていく。
羽が生えたように軽い彼の足取りは、レイチェルの大好きな自由なユーイそのものだ。
いつも前を見ていて、その先に必ず素敵なことが待っているような気分になれる。
いつもなら、そんなユーイに追い付いて、追い越してやりたい、と思うのに、今日は自由にならない身体が恨めしいだけだ。
それに。
どうして、ユーイは自分を気にしてくれないのだろう。
さっきから身体を引きずるようにしているレイチェルに気がついてもくれない。
「早く、早く。」と急かされるたびに泣きそうになっていることも。
じわっとレイチェルの下腹部に鈍痛が走る。
「おい！ちょっとはスピード上げろよ！」
上から叫ぶユーイの声にレイチェルはパッと顔を上げた。
目があったユーイは、こちらの様子に構うこともなく笑顔で手招きしている。
手にはレイチェルのバッグ。
今日のデートのために下ろしたばかりの、ピンクのエナメルのバッグだ。
サンダルだって、新品。
それなのに、砂がついたのか、白いリボンはすすけてしまっている。
なんだか、今の気分みたい。
レイチェルの頭にかっと血が上った。
「ワタシ、帰る！」
レイチェルはくるりと踵を返すと、元来た道を一気に駆け下りた。
あんなに大変だった登り道も下りは楽だ。
足首がぐにゃりと曲がりそうになって、あわてて身体を立て直すと、後ろを振り向くこともしない。
「なんだよー！！ どうしたんだ？！」
ユーイの声が聞こえたけれど、レイチェルは止まらなかった。
さっきからずっとトイレだって我慢していたのだ。
だんだん道がなだらかになって、ふもとにつくと、レイチェルは大急ぎで近くのお店まで走っていった。
「それは…災難でしたわね。」
ロザリアの淹れてくれたアイスティにミルクを入れ、ストローでかき混ぜると、見事な乳白色に濁る。
一口飲んで、顔をしかめたレイチェルに、コレットがシロップを差し出した。
「それで帰って来ちゃったんだ…。」
「ハイ。もう付き合ってられないって感じ。」
シロップを全部注いで、ようやく好みの甘さになったアールグレイをレイチェルはストローで吸い上げた。
レイチェルは最近、ミルクティに凝っている。
おそらくミルクばかり飲んでいるユーイの影響なのだろうが、本人は全く気が付いていない。
コレットは密かにこれ以上レイチェルの背が高くなったら…と、気にしているというのに。
「みんなが羨ましい…。」
つい、レイチェルから愚痴がこぼれた。
三人の彼のような大人の男性なら。
きっとレイチェルの不調にも気がついてくれただろうし、それ以前に服装を見て、山に登ろうだなんて思わないはずだ。
「羨ましい？どうして？」
リモージュはブラックのままのアールグレイを難しい顔をして飲み込んでいる。
ロザリアが差し出したシロップに手をつけようともしないのは、苦いコーヒーの好きな彼に少しでも合わせようとしているためだ。
「だって…。はあ、ユーイはワタシに会えなくても平気そうだし。やっぱり恋人なら少しは会いたいとかって思うもんじゃない？」
ストローで氷をつつくと、カラン、と涼しげな音がする。
いつも一気に飲み物を飲んで、その後の氷をガリガリ噛むユーイを思い出した。
「そうね。会えない時も彼のことを考えてしまうわ。…だから会いに来てくれた時はとても嬉しいの。」
コレットの彼は、神出鬼没な人だ。
特別な任務だから仕方がないけれど、会いたい時に会えないのは、やはりさびしいのだろう。
でも、時間さえあれば、彼はコレットのところに必ず行っている。
彼の方から、必ず。
「わたくしだって。近くにいるからと言って、いつでも会えるわけではありませんのよ。」
それはわかる。
補佐官はもちろん、守護聖だって忙しいから、いくら２つ隣の部屋にいるといっても、四六時中傍にいるわけにはいかないだろう。
でも、なにかあれば必ずロザリアのことを最優先にするだろうと思わせる何かがある。
普段はつかみどころがないけれど、実はとても男らしい人だ。
「会いたい、って、思うこと自体が素敵なことなんじゃないかしら？ その人を想って胸が苦しくなったり、切なくなったり。」
リモージュが最後のアイスティを飲みこんだ。
すぐにお菓子を口に入れたところを見ると、相当我慢していたらしい。
「そうですわね。やっぱり好きな人にはいつでも会いたいですもの。でも会えないから会えた時が嬉しい。そういうものではないかしら？」
「私もそう思います。」
３人が乙女な会話をしているところに、レイチェルのため息が流れ込んできた。
「じゃあ、全然会いたいとも言ってくれないユーイは、ワタシのことなんかなんとも思ってないってコトなんですかね…。」
言ってる自分が辛すぎて、レイチェルは再び長いため息をこぼした。
補佐官の仕事は山ほどあるのだから、会おうとしなければ全然会わなくても済む。
むしろ抜け出して風の執務室に行く時間がなくなった分だけ、仕事もはかどるというものだ。
けれど。
レイチェルはイライラとペンを回しながら、目の前の書類を見下ろした。
ユーイから回ってきたそれは、誤字と脱字のオンパレード。
まだ丁寧に書かれているから許す気にもなるが、あまりにもひどい。
いつもなら顔を見るついでに訂正させるのだが、あれからもう一週間近くも会っていないと、逆に今さら会いに行くのも躊躇われる。
どうしようかと少し考えて、レイチェルは立ち上がった。
「ちょっと、これ、ひどすぎるヨ。」
いきなりドアを開けると、風の執務室には人の気配がない。
今日は急ぎの執務もないのだから、部屋にいない理由は一つしかない。
「サボり…だね！！！」
レイチェルの頭にかっと血が上った。
自分は執務が忙しくて、ロクに出かける暇もないのに、こうしてユーイはどこかに飛び出してしまっている。
しかも、自分のところではない、別のところに。
「なんでよ。なんで、ワタシのところに来てくれないの…。」
間違いだらけの書類を机の上に叩きつけるように置くと、レイチェルは部屋を飛び出した。
やっぱり自分が想うほど、ユーイは想っていないのだ。
腹立たしさとみじめさと、いろんな感情がごちゃまぜになって押し寄せてくる。
補佐官室に戻ってみると、執務机の上にピンクのバッグが置かれているのに気がついた。
この間、ユーイの手に置き去りにしてきたバッグ。
「タイミング、悪すぎ…。」
さっきまで待っていたのに、会いに行ってみたら、いなくて。
戻ってきたら、来てくれていて。
「ユーイのバカ！」
なんでこんなにうまくいかないんだろう。
「バカバカバカ！ 女の気持ちなんて全然わかってないんだから！」
こんな補佐官用の細いドレスじゃなければ、ソファなんて、ぶち壊してやるのに。
それでも思い切り足を上げて、ソファの足を蹴飛ばすと、ソファからごろり、と何かが転げ落ちた。
「オマエ、すごいな。」
痛そうに顔をしかめている、ツートンカラーの頭。
いたずらっ子のような、みかん色の瞳がレイチェルを見つめている。
「ユーイ？！」
レイチェルがビックリして瞬きもできずにいると、ユーイはすぐにパッと飛び上がるように立ち上がった。
「でもオレはレイチェルのそういうところ好きだ。」
「な！！！」
率直な愛の言葉に、レイチェルがただ口をパクパクとさせていると、ユーイは転がり落ちたソファに再び腰を下ろした。
「オマエが戻るの待ってたんだ。…この間、急に帰っちゃっただろ？ すごく気になってたんだぞ。」
「ウソ！」
気になってたんなら、すぐに来てくれるはずだ。
こんなに放っておいて、今さらそんな優しいことを言うなんて。
「嘘じゃない。でもいつ来てもオマエ、いないからさ。今日は戻ってくるまで、絶対に待っててやろうって。」
「だからって執務時間中にサボって、昼寝なんてして！」
「それは…悪かった。」
ユーイはぺこりと頭を下げたけれど、レイチェルは収まらない。
「だいたいアナタはいつもそうなんだよ！ 人の話なんて全然聞いてないし、ワタシのことだって全然気にしてない。
超自己中で、フラフラしてて。この間だって、ワタシが疲れてるのに、気がついてもくれないし。
山登りなら最初からそう言ってよ！そしたらあんなスカートにしなかったし、新しいサンダルにだってしなかったのに！
それに、すぐに追いかけてきてもくれないし！ 会いに来てもくれないし！
ワタシばっかり我慢してる！」
今のことを怒っていたはずなのに、いつの間にかこの間のデートのこと、そして日ごろの不満までぶちまけていた。
レイチェルは顔を真っ赤にして、はあはあと肩で息をしている。
ソファで胡坐をかいていたユーイは、ポカンとレイチェルの言葉を聞いていたかと思うと、急に満面の笑みを浮かべて笑い出した。
「なんだ、オマエ、最初からそう言ってくれたらいいのにさ。オレだってもっと会いたかった。
でも、オマエが補佐官がんばってるから、オレもガマンしてたんだ。
じっちゃんにも女の邪魔すると怖いって、言われてたしな。」
「…笑わないでヨ。」
『会いたかった』
レイチェルはそう言われただけで、泣きそうになるくらいに嬉しい自分がイヤだった。
今、うっすらとにじむ涙は笑われたことを怒っている、悔し涙のようなモノ。
嬉し涙なんかじゃない。
そう言い聞かせて、ユーイを睨みつけた。
「オマエの本心聞いたし、オレ、これからは我慢なんてしない。」
「ダメだよ！…ちゃんと執務もして。」
「わかってる。ちゃんとやらないとオマエが困るし、日の曜日まで潰れちゃうもんな！」
レイチェルよりも小さいはずなのに、こんな時、ユーイはやけに大きく見える。
「バカ…。」
「オマエに比べたら、たいていのヤツはバカだ。」
「そうじゃない！」
「わかってる。」
気がつけば、レイチェルもユーイの隣に座っていた。
こうして一緒にいられたら、それだけで本当に嬉しい。
ふと、間違いだらけだった書類のことが頭に浮かんだが、それもすぐにユーイの笑顔に消されてしまったのだった。
「お茶のお代わりありますヨ？」
両宇宙の女王と補佐官の集まる土の曜日の定例会は、相変わらずのお茶会だ。
今日は聖獣の宇宙で開かれているから、レイチェルがお茶のサービスを担当している。
「なーんかレイチェル、機嫌がいいのね。」
「陛下もやっぱりわかりました？」
「まあ、きっと彼と仲直りなさったのね。」
矢継ぎ早に言われて、一瞬面くらったレイチェルだったが、すぐににんまりと笑顔を浮かべた。
「やだなァ。どうしてわかっちゃうの？」
「そりゃあ、わかるわよ。」
リモージュがお皿のクッキーを手に取った。
「だって、この大きなハート。どう突っ込んでいいのか、わかんないくらいだわ。」
浮かれた気分で手作りしたクッキーはハート形ばかり。
他の形を作ろうだなんて、微塵も思わなかったのだから仕方がない。
「私たちは味見なんですよ、陛下。」
コレットが笑う。
「明日のデートに持っていくための、毒見、でしょ？レイチェル。」
なかなかに鋭いコレットにレイチェルは肩をすくめた。
毒見までの気持ちはないが、練習なのは事実だ。
「まあ、では、わたくしが採点して差し上げますわ。」
ロザリアがクッキーを齧る。
「えっ。いいです。ロザリア様ほどじゃなくて、いいんですから。どーせ、アイツはなんでも食べるし。」
大慌てで首を振ったレイチェルを皆が笑った。
にぎやかなお茶会が終わって、レイチェルはシャワーの後、髪をとかしていた。
日ごろまとめてばかりいるから、明日は下ろしたままにしようか。
でも、山登りには結んでおいた方がいい気もする。
デート前のうきうきした気持ちのおかげか、今すぐにでも頂上に飛んで行けそうな気分だ。
「６時に聖殿前ってことは、支度に１時間…余裕持って２時間？！ わ、もう寝なくちゃ。」
次に目が覚めた時は、ユーイに会える。
でも。
「アイツ、ちゃんと寝てるかな。ま、早寝早起きは得意技だし、心配ないか。」
今日一日、会わなかっただけなのに、もう会いたくてたまらない。
会えなくて寂しいと思うことも素敵なことだ、と、陛下は言っていたけれど。
小さくため息をついて、ベッドに入ろうとした、その時。
こつん、と窓が鳴った。
あわてて窓を開けると、飛び込んできたのは、明るいオレンジ。
夜でも太陽のように輝くユーイの瞳だ。
「もう寝てるかと思ったけど、オレ、今日も会いたくなった。」
ユーイも寝る直前だったのかもしれない。
ラフなスタイルのまま、シャワー上がりの髪も生乾きのまま。
「偶然だね。ワタシも会いたいと思ってたんだヨ。」
レイチェルが笑うと、ユーイは照れたように鼻をこすっている。
「オレ達、おんなじこと考えてたんだな。」
「そうだネ。」
月明かりが青く輝いている。
見つめ合った瞬間、目を閉じようかと思ったレイチェルの頭を、思ったよりもがっしりとしたユーイの掌がぽんと叩いた。
「じゃあな。明日、遅れるなよ！」
「そっちこそ！ 明日はワタシが先に頂上に着くんだからネ！」
「あはは！ それでこそレイチェルだな。オレだって負けないぞ。」
べーっと舌を出してみせると、もうユーイの姿は見えなくなっていて。
太陽の消えた星空だけが残っていた。
「もう、やっぱり全然女心がわかってないヨ！…ああいう時は、おやすみのキスをするもんでしょ。」
唇を尖らせたレイチェルの呟きを、その星だけが聞いていたのだった。
FIN
