オリヴィエが広げて見せてきたのは、分厚いカタログの一ページ。
下界ではかなり高名なデザイナーのシーズンのコレクションカタログで、気に入った服があれば、直接オーダーもできるらしい。
コレクションの定番の例に漏れず、このカタログの最後もフォーマルなドレス類。
とりわけウェディングドレスが大きく掲載されている。
「素敵、だと思いますわ。」
広げられたページをひとしきり眺めたあと、ロザリアは小さく首をかしげた。
幾重にも重なったティアードが華やかなドレスは、たっぷりとしたフリルがまるで花びらのように広がっている。
ふんわりした袖も、身体にフィットしすぎないラインも可愛い。
髪飾りも白い生花が使われていて、あえてグリーンのブーケもみずみずしく、生まれたての親指姫のイメージだ。
ロザリアに似合うかどうかは別として、ひときわ可愛らしいドレスなのは間違いない。
「そうかなあ。」
ロザリアの返事にオリヴィエは不満そうに唇をとがらせた。
「ちょっとつまんない感じじゃない?」
たしかにキラキラしたアクセサリーや、豪華なレースのない、ふわふわしたフリルだけのドレスは、オリヴィエからすれば、つまらなく見えるのかもしれない。
けれど、ロザリアは、その飾り気のなさに逆に心ひかれた。
結婚という、ゼロからのスタートにふさわしい気がしたのだ。
「とても素敵だと思いますわ。」
重ねてロザリアが言うと、オリヴィエは肩をすくめた。
「このデザイナーもこんなドレスを作るようになったんだねえ。」
カタログをパタンと閉じたオリヴィエは、テーブルの紅茶を飲み干して、執務に戻る準備を始めた。
午後のお茶の時間はあっという間だ。
今は一緒に暮らしているのだから、執務が終わって家に帰れば、また二人で過ごせるのだが、こういうひとときも大事な時間に変わりはない。
「じゃあ、終わったら迎えに来るからね。
あと少し、離れちゃうけど、これで我慢して」
素早く頬に落とされたキスと去り際のウインク。
「もう!」
いつも通りのことなのに、やっぱり照れてしまって、ロザリアはオリヴィエの消えたドアを軽くにらみつけていた。
お茶を片付けて、執務のために女王の間に戻ったロザリアは、なにげなくさっきのウェディングドレスの話をした。
やはりウェディングドレスは女の子の憧れだから、アンジェリークも興味津々で聞いている。
つい熱っぽく語ってしまうと、
「ふーん、ウェディングドレスか~。」
アンジェリークはペンを指先でくるくる回し、何かを思い出したかのように、にやりと笑った。
「それって、もしかして、結婚を意識してるってことじゃない?」
「え?」
思わずペンを取り落としたロザリアは、アンジェリークの顔をまじまじと見つめてしまった。
「そんなこと…。 今更。」
補佐官になってすぐから、オリヴィエの屋敷に一緒に暮らすようになった。
きっかけは思い出せないけれど、そうなるのが、ごく当たり前だったような気がする。
二人で一緒に起きて、執務に行き、一緒に眠る。
そんな夫婦同然の生活が、ずっと続いているのだ。
「今更、っていうけど、今更だから、ちゃんとした方がいいんだって!
結婚って、女の子にとっては大事な夢でしょう?」
アンジェリークに両手を握られ、真正面から瞳をじっとのぞき込まれる。
真摯な緑の瞳に見つめられると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。
さすが女王の説得力、なのだろうか。
「オリヴィエにそのつもりがあれば、わたくしは…。」
もちろん受け入れる。
オリヴィエ以外との未来なんて、考えたことすらないのだから。
こくりと頷いたロザリアに、アンジェリークも満面の笑みだ。
「そっか~、とうとう結婚か~。
ドレスはオリヴィエに任せるとして、他はわたしも全面協力するからね!
ケーキはどうしよう? 式には聖獣のみんなも呼ぶわよね?
わ~、大変。 日にちが決まったら、すぐに報告してね!」
まるで自分のことのように浮かれるアンジェリークに、ロザリアは苦笑を浮かべるしかない。
それでも、ロザリア自身、つい結婚式の想像をしたり、新婚旅行の行き先を考えてしてしまうのだった。
そわそわしながら、一週間が過ぎた頃。
ロザリアは急な執務が入り、残業する羽目になってしまった。
「ごめんなさい。 ここまでどうしても今日中に終わらせておきたいんですの。」
自分の執務が終わり、迎えに来てくれたオリヴィエにロザリアは、申し訳なさそうに目を伏せた。
書類にして10枚。
時間的には1時間程度だが、オリヴィエはロザリアの終業を待ってくれるという。
「一緒に帰りたいでしょ?」
補佐官室中央のソファにゆったりと足を組んで座り、軽く顎をあげて、ロザリアにウインクをする。
何気ない動作なのに、どこか艶っぽくて、カッコいい。
見慣れたはずの姿でも、ロザリアはドキドキしてしまって、慌てて、ペンを握り直した。
「頑張りますわ。」
早く終わらせようと気合いを入れて、書類に向かうロザリアを、オリヴィエはじっと見つめている。
しばらく、ロザリアがペンを走らせる音と紙のこすれる音が時計の音と混じり合う、無機質な時間が流れる。
あと少し、というところで、不意に
「ねえ、あんたは補佐官の仕事が好きかい?」
オリヴィエがそんな言葉を投げかけた。
「え?」
ロザリアはペンを止め、オリヴィエを見つめ返した。
彼のブルーグレーの瞳は柔らかく細められているが、ふざけているような色はない。
ロザリアはクスリと笑うと、
「ええ。 大好きですわ。 わたくしの天職だと今は思っていますわ。 女王よりもずっと。」
正直に答えた。
女王を目指していたあの頃は見えなかったけれど、自分の適性は、まさに補佐官にあると、今は心から思っている。
女王試験に負けたとき、もしもオリヴィエが補佐官を薦めてくれなかったら。
今の自分はきっとない。
それだけでも、ロザリアにとって、オリヴィエは特別な存在なのだ。
「そう。」
ロザリアの返事を、ゆっくり飲み込むように、オリヴィエは頷いた。
「やっぱりね。 あんたってば、執務してるとき、めちゃくちゃ楽しそうだもん。
今も、なーんかにやにやしてたし。」
「え?! 本当ですの?」
「ホント。 明日、どうやって陛下をいじめてやろうかとか考えてたんじゃないの?」
「そんなこと! …少しは考えていたかもしれませんけど。」
「ホラ。 やっぱり。」
「だって! 今日の残業だって、陛下がもう少し早くサインを入れてくれていればしなくてすんだんですのよ。
あなたをお待たせすることだってありませんでしたのに。」
ロザリアが頬を膨らませると、オリヴィエは我慢できないというように吹き出した。
「待つのは全然構わないから。
こうしてあんたのそばにいられるなら、ココだって家だって同じでしょ?
でも、さすがにお腹が空いてきたから、早く終わって欲しいけど。」
ね?というように、お腹のあたりを押さえるオリヴィエに、ロザリアも頷いた。
「わたくしもですわ。 あと少しですから。」
「ん。 頑張って。」
再び、書類に向かったロザリアは、その後のオリヴィエの表情を見ていなかった。
ぼんやりとソファに腰を下ろしたまま、どこか遠くを見る彼の視線は、まるで何も見えていないようで。
オリヴィエらしくない、考え込む横顔をしていたのだった。
いつも通りの日常に、ロザリアはウェディングドレスの話の件をすっかり忘れていた。
思い出すことになったきっかけは、一枚の書類。
それも請求書といわれるものだ。
その紙をひらひらとロザリアの目の前につきだして、アンジェリークは、不思議な高笑いをしていた。
「ほーほっほっほ! コレを見たら、もう言い逃れできないわよ。」
腰に手を当てた立ち姿は、遠い昔のロザリアを彷彿とさせる姿だ。
「・・・なんですの。」
とはいえ、そこを突っ込む気にはならない。
上機嫌のアンジェリークに、そんなことを言っても無駄だとよくわかっているからだ。
こういうときのアンジェリークは唯我独尊なのだから。
「しょうがないから見せてあげる。」
もっともったいぶるかと思ったら、案外すんなりとアンジェリークはロザリアに紙を差し出した。
「モノがモノだから、わたしのところに間違って届いちゃったみたいなの。
ね、これだよ? 絶対にアレでしょ?」
アンジェリークの言葉は意味不明だが、理解はできる。
請求書の品目は、布とレース。
それも最高級のシルクとフランスレースだ。
普段、目にしている布地とは桁が二つも違う。
「白いシルクで作るドレスなんて、アレしかないよね!」
ロザリアの脳裏に、以前、オリヴィエと見たカタログのウェディングドレスが浮かんだ。
ふんわりと広がるティアードのフリルスカート。
清楚で可憐な花の妖精のような。
上質なシルクとオリヴィエの腕ならば、あのドレスを再現させることも簡単なはずだ。
「オリヴィエったら、きざよね~。
こっそりウェディングドレスを作って、プロポーズなんて。」
アンジェリークはすっかり浮かれた様子で、にやにやとロザリアの周りを飛び跳ねている。
親友の幸せは自分の幸せ。
きっとロザリアが逆の立場だったとしても、同じように喜んだはずだ。
「いよいよ結婚か~。 いいな~。 わたしも早くしたい!」
女王とは思えない発言だが、恋愛がすでに解禁されている御代では、一人の少女として、ごく当たり前の感情だ。
実際、アンジェリークも結婚しようと言えば、すぐにでもできる相手がいる。
でも、だからこそ、余計にロザリアの結婚が嬉しいのだ。
補佐官だって、女王だって、普通に女の子の幸せをつかめるのだと、全宇宙に宣言できる。
ところが、ロザリアとオリヴィエの未来の想像を話し始めたアンジェリークの浮かれ具合とは対照的に、ロザリアの心はモヤモヤとしていた。
こっそりウェディングドレスを作る、というのは、いかにもオリヴィエのしそうなサプライズではあるし、ここ一月ほどずっと、執務が終わってから出かけていて、忙しそうにしていた理由も、このためだと思えば納得できる。
けれど、あまりにも、隠しすぎているような気がするのだ。
プロポーズなら、何もドレスじゃなくてもいい。
むしろ指輪の方が一般的だろう。
オリヴィエはアクセサリーのデザインもしているし、つきあい始めた頃、『エンゲージリングは手作りする』と言っていた。
なぜ、ドレスなのだろう。
なんとかアンジェリークを落ち着かせて、執務を再開したものの、ロザリアの気持ちは晴れないままだった。
「今日も遅くなるから、わるいけど、夕食は別にしてもらえるかな。」
執務終了間際、補佐官室にやってきたオリヴィエは申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。
どきり、とロザリアの胸が騒ぐ。
一緒に住んでいるとはいえ、お互いのプライベートは尊重するべきだとロザリアは思っている。
オリヴィエを信頼しているから、浮気を疑うこともない。
だから、今までの一ヶ月、ロザリアはオリヴィエの外出の理由を聞かずにいた。
けれど、さっき、アンジェリークから聞いてしまったことがどうしても気になってしまう。
そのまま出て行こうとしたオリヴィエを、ロザリアは思わず呼び止めていた。
「あの、どちらにお出かけですの?」
ぴたり、と足を止めたオリヴィエがゆっくりと振り向いた。
ふふふ、と楽しげな笑みは、いつもの彼だけれど、微妙な緊張感をロザリアは感じ取ってしまう。
「気になるの? かわいいね。」
あでやかに笑い、
「もしかして、嫉妬? それなら心配いらないよ。
私にはあんただけ、っていつも言ってるでしょ。」
くすぐったい台詞を照れもなく断言するのもいつものオリヴィエだ。
「それに、毎晩、あんたとしてるのに、これ以上他の女の子と浮気する体力、私にはないからね。
オスカーじゃあるまいし。」
続く、からかいの言葉もいつも通り。
つい赤くなってしまうロザリアを楽しげに見つめるのも、いつも通り。
「今はまだ秘密だけど、そのうち、あんたにもちゃんと教えるからさ。
もうちょっと許してよ。」
そう言われてしまえば、ロザリアはそれ以上追求できなかった。
オリヴィエは誰にでも人当たりがいいが、ある一定以上には踏み込ませない部分がある。
ロザリアには、その一番深くまでを許してくれているが、たぶん、今の秘密は、それよりももっと奥のところにあるのだろう。
それならば彼は決して明かしてはくれないはずだ。
「わかりましたわ。 ごめんなさい。 おかしな詮索をしてしまって。」
「ううん。 私こそごめん。」
素直に引き下がったロザリアに、オリヴィエは優しく微笑んだ。
「・・・ホントにもうすぐわかるからさ。 ごめんね。」
ほんの一瞬だけ、瞳によぎった切ない色。
今まで見たことのないようなオリヴィエの表情に、思わず息をのんだロザリアは、去って行く彼の背中を黙って見送るしかできなかった。
オリヴィエの足音が遠ざかって行くにつれて、ロザリアはいても立ってもいられなくなった。
アンジェリークの言うとおり、サプライズプロポーズなら、あんな言い方をするだろうか。
あんな悲しげな瞳をするだろうか。
このまま何もしなければ、永遠に後悔する予感がする。
ロザリアは立ち上がると、着替えも荷物もそのままに、補佐官室を飛び出した。
うっすらではあるけれど、まだオリヴィエの足音は聞こえている。
今ならまだ追いつける。
ヒールを脱ぎ、自分の足音を殺すと、ロザリアはオリヴィエの後を追った。
慣れない尾行に神経をすり減らしたが、幸いなことに、オリヴィエは聖殿を出ても徒歩のままだった。
うっすらと白い月が空に浮かび、濃い青が足下から広がっていく。
明るい分だけ近づきすぎるとバレてしまいそうで、少し離れたところでついて行くしかない。
けれど、彼を見失うことがないのは、その鮮やかな姿のおかげだ。
月明かりに揺れる淡い金の髪とすらりとした体躯は、宵闇の遠目でも十分に輝いて見える。
のぞき見だからこそ、その整った容姿がはっきりとわかるのだ。
もう何年も恋人として過ごしているけれど、やっぱりオリヴィエは素敵な人で、その姿を見るだけでときめいてしまう。
スパイごっこの緊張感も合わさって、ロザリアの心臓は躍り出しそうなほど震えていた。
オリヴィエが足を止めたのは、意外な場所だった。
ロザリアもよく知っているオスカーの私邸。
炎の守護聖にふさわしい、重厚な造りの屋敷は明かりのついていない窓が多く、どこか鬱蒼とすら感じる。
そういえば、オスカーは使用人をいれることを好まないと言っていたから、明かりもこの程度になってしまうのだろう。
ただ、門のあたりは街灯もあり、かなり明るい。
オリヴィエはノックもせずに玄関のドアを開けると、そのまま中へと姿を消した。
ドアが閉まり、しんとあたりが静まりかえると、ロザリアはつめていた息を吐き出した。
屋敷の中に入って行ったということは、オリヴィエの用事はオスカーに関わりのあることなのだろう。
二人の間の微妙な友情関係は、女王候補時代から変わっていないから、ロザリアに言えないなにかがあってもおかしくない。
ホッとしたような、それでいてどこか納得できないような気がして、ロザリアはしばらく立ち尽くしていた。
帰ろうか、と踵を返した時、屋敷の裏手に明かりが灯り、ざわっと空気が揺れる。
タイミング的に、あの場所にオリヴィエがいるではないかと感じて、ロザリアは帰りかけた足を戻し、屋敷の庭へと忍び込んだ。
ロザリアも何度か来たことがあるが、オスカーの屋敷の庭は広い。
剣の稽古をしたり、身体の鍛練をすることもあるためか、かなりのスペースがあり、見通しも良くなっている。
けれど、本当に人気がなく、庭園灯も最小限しかついていないのだ。
芝生が整えられていなければ、足下すら危うかっただろう。
防犯的にはどうかとも思うが、そもそもオスカー自身が最大の防犯になるだろうから、コレでも問題ないに違いない。
それにお金目当てなら、もっと忍び込みやすい屋敷が、この聖地にはいくらでもある。
ロザリアは端に植えられた樹木の脇をゆっくりと歩き、明かりの近くへと進んだ。
屋敷の隅の一部屋は、天井まで続いているフランス窓が大きく両面に開け放たれ、薄手のカーテンが緩い風に靡いている。
聖地は常に過ごしやすい気候で、窓を開けさえすれば、いつでも心地よい風を感じることができるのだ。
壁伝いに、窓のすぐ横の木の後ろに潜んだロザリアは、そっと中の様子をうかがった。
窓が大きく開いているおかげで、部屋の内部までよく見える。
中央のソファにオスカーがどっしりと腰を下ろし、グラスを傾けている。
テーブルの上に置かれたボトルは、まだ若いヴィンテージのワインだ。
食事と一緒に楽しむランクのものだから、ひょっとしら夕食の残りなのかもしれない。
オスカーは軽い調子で立て続けに2杯をあおり、3杯目をグラスに満たしている。
部屋に他に人影はなく、オスカーを覗いていることに、軽い罪悪感を感じ始めた頃。
ガタッと奥に面した扉が開き、真っ白な物体が現われた。
ゆらゆらとした、ひらひら白いモノ。
まるで幽霊のようで、ロザリアが息をのむと、同時にオリヴィエの姿が扉の向こうから見えてきた。
「よっこいしょ。」
どうやら白いモノはオリヴィエが肩に背負っているようで、かなり重いらしい。
オリヴィエは慎重にそれを肩から下ろして床に置くと、形を整え始めた。
そこでようやくロザリアは、オリヴィエが抱えてきたモノがトルソーで、白いひらひらはドレスの一部だとわかった。
ひらひらと白いモノはシャンデリアの明かりをキラキラとはじき、その姿を次第に明らかにする。
真っ白なウェディングドレス。
そのドレスは、以前にオリヴィエと見たカタログのドレスによく似ているけれど、少し違っていた。
細かなティアードが重なり合うスカートのデザインは同じだけれど、段ごとの裾すべてにレースが縫い付けられ、豪華さと優美さが増している。
ふんわりした袖はなく、代わりにできた胸元の深いカッティングはセクシーさもあり、デザインそのものは可愛らしいままなのに、大人の女性にも似合うドレスになっているのだ。
「ほとんどできあがってるじゃないか。」
ソファに座ったオスカーが、ひゅうと口笛を吹き、オリヴィエに話しかける。
「まあね。 あとはクリスタルをちりばめるくらいかな。」
オリヴィエは部屋のチェストから、大きな箱を取り出し、トルソーの前に置いた。
オリヴィエお気に入りの道具箱は、ロザリアも見覚えがある。
たしか、スライドする上部に裁縫セットが入っていて、下部にはビーズやスパンコールといった小物がたくさん詰まっていた。
オリヴィエは箱の中からさらに箱をいくつか取りだし、針と糸も準備している。
これから、あの小さなクリスタルをドレスに縫い付けていくのだろうか。
細かな作業を考えただけで、オリヴィエがそのドレスにどれほどの気持ちを込めているのかが伝わってくる。
ロザリアは涙をぐっと堪えて、その場に立ち尽くしていた。
アンジェリークの言ったとおり、オリヴィエはウェディングドレスを作っていた。
それがロザリアのためだとすれば、本当に幸せだ。
幸せすぎて、息をするのも忘れそうなほど。
大げさではなくて、今までの人生で一番の幸せだと思う。
同時にオリヴィエを疑ってしまった自分が恥ずかしくて、すぐにでも謝りたくなった。
疑って、こんなところまでついてきて。
あげく、彼がまだ秘密と言っていたことを暴いてしまった。
オリヴィエがドレスを縫う静かな衣擦れの音が、木々の葉擦れの音に重なって聞こえてくる。
少し考えて、今すぐに謝ろうと、決意したロザリアが顔を上げた瞬間。
オスカーの声がした。
「できあがったら、ロザリアにプロポーズか?
これを着て、隣に並んで欲しい、とでも言うのか。
お前もかなりきざなことを考えるな。」
酔いも手伝ってか、オスカーの口調は軽い。
友人関係の二人だからこそ、なのかもしれないが、ずばりと核心を突いた質問に、飛び出しかけたロザリアの身体が固まる。
はしたないとは思うけれど、どうせならオリヴィエの口から、プロポーズの真意を聴きたいという欲求に逆らえなかったのだ。
オリヴィエのことだから、すぐに軽口で返すかと思ったのに、なぜか、恐ろしいほどの沈黙があたりを包みこむ。
しばらくしてから、オリヴィエの口から放たれた言葉に、今度こそロザリアの息が止まった。
「まさか。 プロポーズなんてするわけないじゃない。
これは、私からの最後のプレゼントだよ。
あの子がいつか結婚するときに着てもらえるように、ってね。」
「なに?」
オスカーは心から驚いた様子で目を見開き、手にしていたグラスをテーブルに戻した。
とても酒を飲みながらする話ではないと感じ取ったのだろう。
からかいの色が浮かんでいたアイスブルーの瞳が、すっと鋭く細められた。
「それはロザリアと別れるということか?
お前が? 信じられないな。」
オリヴィエの深い想いを、オスカーは誰よりも知っていた。
女王候補の頃から、影になり日向になり、彼女を支え続けてきたことも知っている。
あれほど彼女を愛していたのに。
心変わりは世の常だとオスカー自身、身に染みてはいても、とうてい信じられることではない。
「信じられない? そんなことないでしょ。
いつだってなんだって、永遠に同じって事はないんだからさ。
…なんだって変わるんだ。 変わるしか、ないんだよ。」
静かなオリヴィエの口調は、何かをじっと押し殺しているようで。
すべてを諦めきっているようにも感じられた。
「そんなプレゼントをもらって、ロザリアが喜ぶとでも思うのか?
昔の男からのウェディングドレスを着て、結婚する女なんて、男にとっても気味が悪いだけだ。」
「…そうかもね。
だから、これはホントは私の自己満足なんだ。
プレゼントしたときにあの子がこれを着てくれて、その姿を一度でも見ることができたら・・・。
きっとあの子の本当の結婚式を私が見ることはないからさ。
だから…」
オリヴィエが最後まで言い終わる前に、ガタッと大きな音を立てて、床を蹴るように、オスカーが立ち上がる。
「まさか…お前…」
その続きを躊躇うオスカーに、オリヴィエはふっと苦笑を浮かべると、小さく肩を竦めた。
「ま、そういうこと。
まだ女王陛下も気づいてないみたいだけど、自分のことだからね。
ちょっと前からおかしいな、って感じてて、最近は決定的な感じ。」
「どうしてだ? 俺たちの中でもお前はまだ新しい方だろう?」
オスカーは立ち上がったまま、ぐっと拳を握り、オリヴィエを睨みつけている。
こんなに慌てた様子のオスカーをロザリアは初めて見た。
けれど、この時点でもまだ、ロザリアは彼らの会話の意味を理解していなかった。
それ以前に聞こえてしまった、オリヴィエがプロポーズをするつもりがないということや、ドレスが最後のプレゼントだということで、既に衝撃で頭がいっぱいだったからだ。
「なんでだろうね。
ホント、考えたこともなかったよ。
まさかこんなに早くサクリアが無くなるなんてさ。」
初めはふわっと耳に届いた言葉が、次第に重みを増していく。
『サクリアが無くなる』
今、誰が、なんと言った?
ロザリアは冷水を浴びせられたように、頭の先から凍りついていく感覚に溺れた。
サクリアが無くなるということは、守護聖の立場を失い、聖地を去らなければいけないということだ。
役目を終えれば、無用のモノとして、追い出される。
それが今までの聖地のシステム。
「ロザリアには話したのか?」
オリヴィエは首を振り、
「いつかはバレるだろうけどね。
バレちゃう前に、ドレスをプレゼントして、綺麗にお別れすよるよ。
あの子の心に傷を残すようなことはしないつもり。」
微かなため息と無理のある笑顔。
「私がいなくなっても、ここで補佐官を続けて、また、いつか新しい恋をして…。
幸せに、なって欲しいんだ。 あの子には、誰よりも。」
「ついてきてほしいとは言わないのか?」
「今、補佐官として頑張ってキラキラしてるあの子を連れ出すなんて野暮な真似、私はしたくないね。
私の隣でニコニコ笑ってるだけのお嫁さんの役なんて、あの子にはもったいない。」
オリヴィエは夢の守護聖だから。
実は誰よりも夢や未来を大切にしているのかもしれない。
オスカーは改めて、守護聖という存在に思いを馳せた。
自分なら。
どこで何をするとしても、自分が幸せにすればいいと、きっと愛する人を連れ出してしまうだろうから。
「永遠に、会えなくなるんだぞ。」
悪あがきだと分かっていても、オスカーは問わずにはいられなかった。
愛し合う二人が別れなければならないなんて、悲劇の中だけでたくさんだ。
「言ったでしょ?
あの子には幸せになってほしいって。
私の願いはそれだけなんだよ。」
これ以上はない、とばかりに、オリヴィエは針を持ち直した。
スカートの裾を摘み、小さなクリスタルをひとつ縫い付けると、キラリと光が反射する。
木陰に身を潜めていたロザリアは、ぐっと唇を噛み締めていた。
今までの二人の会話が頭の中でグルグルと回り、足が震えてしまう。
やがて、冷え冷えとしていた心臓が大きく動き始めると、ロザリアは足を一歩、踏み出した。
オリヴィエの言葉を一つ一つ反芻して、やっと全部を理解して。
ロザリアに最初に湧き上がった感情は。
「何もかも自分一人で決めて、わたくしの気持ちはどうでもよろしいんですの?!」
ただ、ただ、激しい怒りだった。
テラスから乗り込んできたロザリアに、オリヴィエとオスカーは唖然として、言葉を失った。
補佐官になってからのロザリアは常に笑みを絶やさない、大人の女性としての振る舞いを続けていて、こんなふうに感情的になる姿を見るのは久しぶりだ。
けれど、そう言えば、女王候補だった頃はわりと怒りっぽい部分もあったな、と真っ赤な顔でオリヴィエを睨みつけているロザリアを見て、オスカーはそんなことを考えてしまう。
「そんな大事なことをなぜ、わたくしに相談してくださらないの?」
ガツガツと床に打ち込むようにヒールを鳴らして、ロザリアが詰め寄ってくる。
オリヴィエは一瞬、天を仰ぐと、すぐに大げさに肩を竦めてみせた。
「相談してどうなるの?
サクリアは無くなる。 聖地からは出なきゃいけない。
で?
あんたは私についてくるの? 補佐官を辞めて?」
斜に構えた言い方をしながら、オリヴィエの瞳は真剣だった。
予定とは変わってしまったが、バレてしまったなら、もう開き直って、彼女の真意を確かめたい。
どこか切なくて縋るようなオリヴィエの瞳をロザリアはまっすぐ見返すと、きっぱりと言い放った。
「補佐官は辞めません。
この仕事はわたくしの天職だと思いますし、アンジェを一人残して、出ていくことも出来ません。」
「…そう…。」
オリヴィエは顔色ひとつ変えず、ロザリアの言葉を受け止めた。
見事な最後通牒。
僅かな声の震えだけがオリヴィエの動揺を伝えている。
「あんたならそう言うと…」
「だから!」
オリヴィエをピシャリと遮って、ロザリアはさらに詰め寄る。
拳を震わせて、まるで今にも殴りかかるのではないかという勢いのロザリアに、オリヴィエは足を後ろにずらした。
それでも、二人の距離は数センチにまで迫り、お互いの息遣いまで聴こえそうだ。
「だから!
なぜ、わたくしが補佐官を辞めて、あなたについて行かなくてはいけないんですの?
わたくしはまだ補佐官をやめませんわ。
あなたが守護聖でなくなっても、わたくしは今までと同じように執務をしますわ。
今までと同じように、朝ご飯を一緒に食べて、できるだけギリギリに出仕しますし、執務が終わったらすぐに帰ってきて、あなたと夕ご飯を食べますわ。
それから一緒にお話して、一緒に眠りますの。
守護聖でなくなったって、やることならたくさんあるじゃありませんの。
わたくしのためにご飯を作って、お部屋を綺麗にして、時々、マッサージしてくれたら、とても嬉しいですわ。
家でわたくしの帰りを待っているのでは、あなたは幸せになれませんの?
お嫁さんのような役では不満なんですの?
わたくしは、あなたが隣にいてくださるだけで、幸せですのに…!」
涙なんて、一欠片も出なかった。
ただ悔しくて。
オリヴィエがいなくなっても、ロザリアが生きていけると思われていたことが悔しくて。
簡単に別れて他の男に靡くような、そんな軽い愛情だったら、ロザリアはあの試験の時にとっくに元の世界に戻っている。
オリヴィエが何者にも代え難い存在だと思ったから、今、こうしてここにいるのだ。
「ねえ、オスカー。
そういうのってアリかな?」
ロザリアの勢いに呆然としていたオスカーも、急に話を振られて、ハッと意識を取り戻した。
暗かったオリヴィエの瞳に、いつもの輝きが戻っていることに、どこか安堵している自分がいる。
オスカーは、顎に手を当てて、考えるようなそぶりをすると、
「そうだな。
たしかに、夫婦でこの聖地に来ている職員はたくさんいるな。
警備担当に軍から派遣されてる奴らもほとんど妻帯者だし、聖殿の秘書官長殿の奥方はすごい美人だぜ。」
ニヤリと口角を上げて、意味ありげに笑った。
まさか人妻にまで手を出しているとは思えないが・・・その点に関しての信用はまるでできないのがオスカーという男だ。
「美人かどうかは聞いてないんだけど。 まあ、いいよ。
そっか。
職員の家族なら、聖地で暮らしてもいいんだね。」
毛をめいっぱい逆立てて怒る子猫のようなロザリアを前に、オリヴィエはクスリと笑みを漏らすと、両手でぎゅっと彼女の身体を抱きしめた。
暖かくて柔らかくて、愛しい。
この腕の中に在る、ロザリアという存在のすべてが、オリヴィエの心も体もあっという間に満たしていく。
どうして、手放せると思ったのか。
他の男に委ねられると思ったのか。
「・・・意外と動揺してた、ってことか。
自分のこと、もっとクールな男だと思ってたんだけどね。」
小さなつぶやきは、ロザリアの耳にも届かなくて。
怪訝な顔で聞き返そうと、体を離しかけたロザリアを、オリヴィエは逃すまいとさらに強く抱きしめていた。
「ごめん。
私が間違ってたよ。
あんたに補佐官を続けて欲しい、って思ってたのに、結局は、私について来て欲しいって、そればっかりだった。
本当はどうしたら、あんたが続けられるか、私に何ができるかを、考えるべきだったんだね。」
オリヴィエの視線は、自然とドレスに向いていた。
純白のシルクは虹色に輝き、縫い付けられたクリスタルがさらに輝きを与えている。
清楚で優雅な中にどこか少女らしさを持つ、細部まで凝ったデザインは、まさにロザリアのためのドレスだ。
今まではただ彼女に似合えばいいとだけ、考えていたけれど。
今はこのドレスを着たロザリアの隣で、笑う自分の姿を、はっきりと思い浮かべることが出来る。
「ねえ、これからもなにがあっても、二人で生きていこうよ。
あんたが補佐官を続ける間、私はあんたの支えになる。
次に私が新しい夢を追いかけるときは、あんたが私を支えて。
そういう生き方、私達ならきっとできると思わない?」
オリヴィエのダークブルーの瞳が優しくロザリアを捕らえる。
ずっと願っていた、彼との未来。
お互いがどんな立場になっても、この想いはきっと変わらないと誓えるから。
ロザリアは返事の代わりに、そっと瞳を閉じた。
どんな言葉を告げるよりも、彼の想いを全部受け止めたい。
オリヴィエの吐息が唇に触れ、まさに重なり合おうとした、その瞬間。
「おい、ここがどこだか忘れてないか?」
完全に呆れた様子のオスカーが、すぐ隣で腕を組み、二人を見下ろしている。
本当にすっかりオスカーの存在を忘れていたロザリアは、顔を真っ赤にしてうつむくしかない。
ところが
「あんたも野暮な男だねえ。
そういうときは、そっと部屋を出てくもんでしょうが。」
オリヴィエは悪びれた様子もなく、ロザリアを相変わらず抱きしめている。
けれど、我に返ったロザリアにとっては、それすらも、もう居心地が悪い。
「俺が出て行った後、お前が何をするか、わからないとでも思ってるのか?」
「まあ、たぶん予想通りじゃない?
大丈夫。 朝には終わるから。」
「冗談じゃない。続きは帰って、自分の家でやってくれ。」
しっし、と猫の子を追い払う手つきで、オスカーが顔をしかめる。
「そうだね。
独り身のあんたにあんまり見せつけるのもかわいそうだし、続きは家でしよっか。
ね、ロザリア?」
オリヴィエはようやくロザリアを腕から解放したかと思うと、今度はバックハグの体勢で、背中から密着してくる。
耳を甘噛みして、首筋にキスを落とすリップ音。
もともと人前でもスキンシップや愛情表現をはばからないオリヴィエだけれど、いくらなんでもこれは恥ずかしすぎる。
オスカーの顔をまともに見られず、ロザリアは慌てて頭を下げると、オリヴィエを引きはがして、部屋から逃げ出した。
「ちょ、ロザリア。 待ってよ。」
なぜか庭へと走って行ったロザリアを、オリヴィエは追いかけようとした。
けれど、思い出したかのように足を止め、くるりとオスカーの方を振り向く。
「ドレス! 後で取りに来るから、ちゃんと置いといてよ!
シルクなんだから、日の当たらないところにね!」
それから数ヶ月後。
夢の守護聖交代に合わせ、オリヴィエとロザリアの結婚式が執り行われた。
女王からの贈り物か、今日の聖地は雲ひとつない青空が広がっている。
ロザリアの身を包むのは、もちろん、あのドレスだ。
オリヴィエの手で最後まで仕上げられたドレスには、おびただしい数のクリスタルが縫い付けられ、それぞれが太陽の輝きを反射して、ロザリアを光り輝かせている。
「綺麗だよ。」
フラワーシャワーのために並ぶ見慣れた顔を、教会の階段上から見下ろして、オリヴィエはロザリアの腰を抱き寄せた。
「このドレスのおかげですわ。」
緊張と興奮のせいか、ロザリアの頬はうっすらと赤く染まり、青い瞳は潤んでいる。
今日のロザリアは世界で一番美しいとオリヴィエは改めて思った。
もしかしたら、愛というフィルターで自分の目が曇っているだけかもしれないけれど、それならそれでいい。
だって、間違いなく、今の二人は世界で最高に幸せだ。
「さ。行こうか。」
階段下の参列者達が、待ちきれない様子で、二人に手を振っている。
一番はしゃいでいるのがアンジェリークだ。
隣のルヴァに窘められても、ずっと跳び跳ね続けていて、絶対に明日は筋肉痛で執務もできないだろう。
コレットやレイチェル、エンジュも花びらの詰まった籠を手に持って、今か今かと、二人の登場を待っている。
オリヴィエが差し出した手に、ロザリアはそっと手を重ねた。
「これからもよろしくね。
今日からは、夢の守護聖じゃなくて、専業主夫だけど。」
「まあ! あなたが専業主夫?」
「そうでしょ? 毎日早く帰ってきてよね。
可愛い奥さんがおうちで待ってるからさ。 ダーリン?」
くすくすと笑うロザリアに、オリヴィエは軽くウインクをしてみせた。
並んで階段を降りると、わあっと歓声が上がり、花びらが降り注ぐ。
二人の永遠は、今日から新しいスタート。
FIN
二人の新婚生活をちょっと覗いちゃう?→YES