THÉ AU CHOCOLAT ~rachel~

自動ドアが両脇に開くと、とたんに空調の効いた室内特有の乾燥した空気が流れてきた。
清潔なホールの奥にある入室センサーにIDカードを掲げると、さらにドアが開く。
ここから先は特定の人物しか入るのことのできないエリア。
リノリウムの床に少し高めのヒールの音が響かせて右に曲がると、すぐに重たげなドアがある。
形だけノックをして、すぐにドアを開けた。

「やっほー。なにしてる?」
ことさら明るい声で中にいるはずの人物に声をかけると、いつもの場所には誰もいなかった。
代わりに奥の方から声が聞こえる。
「どうしたんです?なにか御用ですか?」
眼鏡を押し上げながら、エルンストが給湯室から顔を出した。
水の流れる音が少し変化して、エルンストは再び給湯室の中へ消える。
「今、休憩をしようと思っていたところです。よろしければあなたも飲みますか?」
3つ並んだガス圧式の椅子の真ん中がエルンストの指定席。
鋼の守護聖になった今も執務室より落ち着くと言って、ここに入り浸っているのだ。
大きなモニターがあって、キーボードとマウスが測ったように定位置に置かれている。
レイチェルは左側の椅子に腰を下ろすと、手にしていた紙袋を床に置いた。
「うん。飲むよ。朝からなんか喉がカラカラなんだ。」
緊張しているせいだ、なんて思いたくはないけれど、喉の渇きはこの建物に入ってからますますひどくなったような気がする。
レイチェルは足元の紙袋をちらりと見た。

カチャカチャと陶器の触れあうような音がして、レイチェルは首をかしげた。
エルンストの愛用のマグはアルミ製のいたってシンプルなものだ。
レイチェルに出してくれるのも、同じようなもので。
しかもコーヒーメーカーにセットされているコーヒーを注いでくるだけの、彼らしい『飲み物』。
それが今日はやけに時間がかかっている。
いつもと違う様子にレイチェルの胸が高鳴った。
もしかして、今日のことを気付いているのかもしれない。エルンストなら絶対に気付いていないと思ったけれど。

気付けばしんと部屋は静まり返っていて、レイチェルは視線を辺りに巡らせた。
本来なら腰高の出窓があるのだが、エルンストは無粋にも出窓の部分をロールカーテンで覆ってしまっていた。
明かりを取るためという役割に出窓の部分は必要ないということらしい。
たまに空気を入れ替えるときに開ける残り二つの窓にも同じようなロールカーテンがかけられている。
レイチェルは出窓の部分に見慣れない影があるのに気づいた。
「なにかな?」
確かめようとしたときに、鼻先をある香りがかすめた。

つい最近、どこかで嗅いだ事がある。
給湯室から出てきたエルンストはトレーの上に2つのカップを乗せていた。
見たこともないような綺麗な白磁のティーカップ。
香りはそのカップから漂っていた。
「お待たせしてしまいましたね。カップを探すのに思ったより手間取りました。」
PCにこぼすことを恐れて、いつも飲み物を置いているサイドテーブルにエルンストがトレーを置いた。
カップの中にはコーヒーではない、赤褐色の飲み物が入っている。
「今日は紅茶です。あまり淹れた経験がないので、味の保証はありませんが。」
エルンストはなぜか少し照れたようにそう言った。
レイチェルの胸にずきっと痛みが走る。


この間の土の曜日、レイチェルは神鳥の補佐官の私邸のテラスに招かれた。
とても気持ちのいい午後で、時折吹く風も爽やか。
『女子会』と称して集まった4人は、ロザリアの手製のお菓子をつまみながら噂話に興じていた。
ロザリアが飲み物を運んでくると、少しビターな甘い香りが漂い、レイチェルはカップに顔を近付けた。
「コレ、なんだか変わった香りですネ。」
「あら、気付いたんですの?」
ロザリアは微笑むと、カップを持ち上げた。
「本当です。なんだか甘い香りがします。」
コレットもカップの中の匂いを嗅いでいる。
リモージュがふふふ、と意味ありげな笑いを漏らした。
「チョコレートだよね?去年もこの時期にロザリアが淹れてくれたもん。」
「へー!チョコレート!たしかにそう言われればそんな香り。」
思いっきり香りを吸い込むと、ほろ苦いカカオの匂いを感じる。
「ホラ、もうすぐバレンタインでしょ? 『甘いものを食べすぎると、お肌によくないんだよね。』なーんて言う誰かさんのためにわざわざ取り寄せるってわけ!」
「アンジェ!」
ロザリアが慌てたようにリモージュの口をふさいだ。
とっても女性らしくて綺麗なロザリアが意外にも恋愛に疎いこともみんなよく知っている。
そんなロザリアをリモージュがからかうのもいつものことだ。
「あ!チョコレートの代わりにプレゼントするんですネ!」
レイチェルが言うと、リモージュが口をふさがれながらも、コクコクと首を縦に振った。
「なるほどー。」
「甘いものが苦手な男性にも有効かもしれませんね。」
コレットまで感心したように頷く。
ロザリアは恥ずかしそうにため息をついたものの、すぐに二人に微笑んだ。
「どうせ差し上げるなら、少しでも喜んでいただけるものの方がいいでしょう?チョコレートでなくても、想いを伝えるモノなら何でもいいのではないかしら?」
「さすがー!ラブラブな人は言うことが違うわね!」
「もう!アンジェ!いい加減になさって!」
ふざけ合いながら、お茶会は陽が落ちるまで続いたのだった。


あの時と同じ香り。
レイチェルはカップの中の紅茶を覗き込んだ。
少し色は濃い目のような気がするし、香りも強いけれど、きっと間違いない。
カップのふちからちらりと見ると、エルンストはどこか遠くを見ているようにぼんやりとしていた。
「珍しいネ。紅茶なんて。エルンストはコーヒーしか飲まないと思ってたよ。」
軽くそういうと、エルンストは少し慌てたようにカップをソーサーに戻した。
いつもと勝手が違うのか、ガシャッと大きな音を立てたことにも少し驚いた顔をしている。
「そうですね。たしかに珍しいかもしれません。」
ふと、エルンストがカップに視線を落とす。
紅茶の中になにかの面影を探しているような、そんな顔をしている。
「ちょっと変わった味。エルンストがこういうの好きだなんて思わなかった。」
素直に尋ねることができずに、わざとそう言ってみた。
理解力も分析力も人並み以上のはずなのに、人間のことは、自分のことですらよくわからない。
「いえ。…いただいたんです。だから淹れてみただけで、特に好みの味というわけではありません。」
レイチェルは戸棚の隅に置かれている缶に目を向けた。
以前レイチェルが買ってきたお土産。
エルンストが好きそうだと選んだコーヒーが並んでいる。
「ワタシのは飲んでもくれないくせに。」
ぽつりとつぶやいた言葉にエルンストは気付かない。
カップを傾けて、紅茶を一口飲んだ。
出し過ぎなのか、この間よりずっと苦くて、あまりおいしいとは思えなかった。

「そういえば、何の御用ですか?」
ゆっくりと紅茶を飲んだエルンストは、思い出したようにレイチェルに顔を向けた。
少しドキリとして足を動かすと、足元の紙袋に当たって、かさかさと音を立てる。
存在を知られてしまった紙袋を今さら隠すわけにもいかず、レイチェルは仕方なく膝に抱えた。
「今日、バレンタインだからネ。ワタシもみんなに配ってるってわけ。」
「そうですか。」
レイチェルは紙袋の中に手を入れると、残っていた2つのチョコレートから、小さい方を取りだした。
「どうせ誰からももらってないんでしょ?ワタシがあげるよ。」
真っ赤なペーパーに包まれた小さな箱は、どこにでも売っていそうなモノ。
ラメの入ったシルバーのリボンについたハート型の鈴がいかにもバレンタインらしかった。
「言っとくけど、義理チョコだから。」
「わかりました。お返しについてはきちんと相応の物をさせていただきます。」
エルンストらしい言葉にレイチェルは腕を組んで、椅子の背もたれをぐっと後ろにそらした。
あの人にはどんな言葉を返したんだろう。
部屋に漂う甘い香りに息が苦しくなるような気がする。

「じゃ、ワタシ、まだ配ってる途中だから行くね。」
勢いをつけて立ち上がると、椅子が大きな音を立てて倒れた。
ひっくり返ったキャスターが、カラカラと回っている。
「ごめん~。」
椅子を起こそうとしてかがみ込むと、ロールカーテンが揺れて、出窓の影が動いた。
アルミのマグカップに活けられた小さな薔薇が目に入る。
「大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫。」
椅子を立て直して、レイチェルはそのままドアへ向かった。
紙袋がやけに重いような気がして、腕を大きく振ると、頭の後ろに持ち上げた。
「お茶、ごちそうサマ。」
後ろ手に手を振ると、エルンストはもうモニターの電源を入れるところだった。


自動ドアが開くと、午後の風はほんの少し頬に冷たく当たる。
人目に付きにくい木陰で、レイチェルは立ち止ると、紙袋からピンクの箱を取りだした。
さっきエルンストに渡したモノよりも2まわりは大きくて、数倍立派な箱。
大きな赤いリボンが幾重にも巻かれていて、一目で高級とわかる。
「余分に買っておいてよかったかも。」
予備に買っておいた義理チョコが思わぬところで役に立った。
「やっぱりワタシって天才だネ。こうなるなんて、もちろん思ってなかったけど…。」
レイチェルはリボンを取ると、箱を開けた。
キレイに並んだチョコレートから無造作に一粒口に入れると、外した包装紙とリボンを紙袋にしまう。
「来年はこっちを渡すから。」
今はまだ、あの人に敵わないかもしれないけれど。
絶対、勝ってみせる。
立て続けに3個、チョコレートを口に入れたレイチェルは、両手をぐっと握りしめて、空に向かって付き出したのだった。


FIN
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