攫うというよりも浮かぶように、ハンカチが空に飛んでいく。
「ああ・・・。」
ハンカチを追って視線を上げると、少し向こうにある大きな木の枝に引っかかっているのが見える。
ティムカはため息をついて、手を伸ばすと、思いっきり背伸びをした。
あともう少しで届きそうで、指先に触れるのは木の葉ばかり。
辺りをきょろきょろと見回したティムカは、膝を曲げると、精一杯ジャンプをした。
アクセサリーが重なる金属の音がしたが、手は空を切るだけ。
どうしようかと、顔に手を当ててうつむいた時に、すぐ横でかさりと木の葉が音を立てた。
「お困りのようですわね。」
すらりとした背中からまっすぐに伸びた白い手がハンカチを取り上げる。
優しく揺れるベールからわずかにこぼれる青紫の髪。
ロザリアは木の枝から取ったハンカチをティムカに差し出すと、ニッコリと微笑んだ。
「どうぞ。わたくしでも届いてよかったですわ。」
ティムカはハンカチを受け取ると、胸に手を当てて、軽く礼をした。
「ありがとうございます。とても困っていたところでした。…ロザリア様はこちらで何を?」
少し目線を上げないと、ロザリアの青い瞳を見ることはできない。
たった数センチ。ロザリアはヒールを履いているからもう少し高くなる。
それでも10cm足らずだろう。
なのに、その距離がとてつもなく大きく感じてしまう。
「本を読んでいましたの。この木の下はとても風通しが良くて気持ちがいいんですのよ。ティムカも一緒にいかが?」
言いながらロザリアは太い木の幹の反対側に腰を下ろすと、すぐ隣の草に手を触れて、ティムカにも座るように勧めた。
「しばらく雨も降っていませんから、そのまま腰をおろしても大丈夫ですわ。」
ためらっているのを、服が汚れることを気にしているせいだと思っているのか、ロザリアは微笑んでいる。
ティムカはゆっくりと近づくと、礼を欠かない程度に距離を開けて隣に座った。
「どんな本を読んでいらっしゃったのですか?」
ロザリアはわきに抱えていた緑色の表紙を膝の上に置いた。
「とても素敵な物語ですの。小人の国の王子が人間の王女に恋をして、人間の体を手に入れるんですのよ。」
ロザリアは本の表紙を手でなでると、一番初めのカラーページをティムカに見せる。
「ルヴァが薦めてくださったんですの。こんな可愛らしいお話を知っているなんて意外でしたわ。」
楽しそうに笑うロザリアにティムカの胸がツキンと針を刺したように痛む。
このところ、ときどき感じるその痛みは今まで感じたことのない鋭さで、ティムカは知らずに手で胸を押さえていた。
初めて聖地に招かれた時、ロザリアは「わたくしを姉だと思って、何でも聞いてくださいね。」と言った。
補佐官としての社交辞令ももちろんあったが、礼儀正しいティムカはロザリアにとって、とても好感のもてる少年だった。
年の近い守護聖たちは総じて騒々しいことが多い。
楽しいことも多いが、眉をひそめたくなるようなことも多くあることも事実。
「はい。僕のような若輩者になにができるか分りませんが、精一杯お役にたてるように努力します。」
キチンと礼を返すことのできるティムカにロザリアは微笑んだ。
上流階級の所作を持つロザリアはティムカにとっても、とても親しみのもてる女性で、本当の姉のように慕うようになるのにそう時間はかからなかった。
身にまとう空気がよく似ているのかもしれない。
ロザリアもティムカを弟のように可愛がり、お互いの部屋を行き来して、お茶を楽しむことも多くなっていた。
ティムカが痛みを感じるようになったのも、ちょうどそのくらいのころからだった。
「今日のロザリア様はいつもと違うような気がします。」
ティムカはロータスティをロザリアの前に置くと、自分もチェアに腰を下ろした。
大きな水槽が窓からの光を反射して、天井に光の波を映している。
聖地は晴天のことが多いが、故郷の星に比べれば気候はずっと穏やかで、ティムカには少し物足りなく思うこともあった。
「まあ、気付いたの?実はさっき、オリヴィエにリップをつけていただいたんですの。わたくしにはこういう色が似合うとおっしゃっていたけれど、どうかしら?」
「オリヴィエ様が?」
派手なメイクをしたオリヴィエの姿が脳裏に浮かぶ。
一見女性のようだが、芯はとてもしっかりした人だと感じていた。
オリヴィエがどんなふうにしてロザリアにリップをつけたのか、想像した時、ティムカの胸がツキンと痛んだ。
初めて感じる痛み。
ティムカは思わず、胸を抑えると、テーブルに手をついた。
「どうかなさいまして?」
心配そうに声をかけるロザリアの顔が目に入ると、痛みがすうっと引いていく。
「いえ。なんでもありません。ご心配をおかけしてしまって申し訳ありません。」
本当に恐縮したように肩を縮めたティムカをロザリアはまだ心配そうに見つめている。
「なにか困ったことがあれば、すぐに言ってくださいませね。」
「はい。ありがとうございます。」
いつもなら故郷を思い出すロータスティの味がまるで違うように感じられて、ティムカはロザリアに知られないように小さくため息をついた。
ロザリアにとって、自分は心配ばかりをかけてしまう弟なのだ。
もし、彼女にふさわしい、外見も年齢も、釣りあう男性だったら。
どうしても変えることのできない距離を思うたびに、またティムカの胸は痛くなった。
大きな木の下で、お互いに好きな本を読んだり、持ってきたお茶を飲んだりするのが聖地でのティムカの一番好きな時間。
すぐ隣で本を読んでいるロザリアのベールが柔らかな風に揺れると、綺麗な蒼い瞳が覗く。
ぼんやりと横顔を見ていたティムカの視線に気づいたのか、ロザリアが顔を上げた。
「退屈ですの?これをお貸ししましょうか?」
読んでいたページに銀のしおりを挟むと、ロザリアは本を閉じた。
「いいえ。こうしていると、とても気持ちが晴れるような気がします。ロザリア様こそ、お気になさらずに。」
見渡す限り人の姿はなく、まるで世界が二人だけのモノのように思える。
ティムカの耳元で風の通り抜ける気配がした。
「ロザリア様は陛下のことを、どう思っておいでなのですか?」
「え?」
突然の質問にロザリアは驚いたようにティムカをじっと見つめている。
ティムカは頬を赤らめると、少しうつむいた。
「申し訳ありません。あの、個人的にというわけではなくて、『女王』という存在がロザリア様にとってどういうものなのか、お伺いしたかったんです。」
そこまで言って、楽になったのか、ティムカはいつも通りの穏やかな口調に戻った。
「僕もいつかは『王』になる身です。このところ陛下を見ていて、よい王とはなんなのかを考えてしまいます。」
良くも悪くも女王はとても直感的で、あまり思慮深い方とは思えない。
実務はロザリアの方がずっと優れているし、ティムカからみれば、なぜロザリアが補佐官なのか、不思議に思うことが多かった。
試験のことも結果のことも、もちろん知ってはいたけれど。
「ティムカ。」
まっすぐにティムカを見つめるロザリアの瞳は微笑んでいる。
「『王』は民を導くものだと思いますの。あなた自身の役割を見失わずに信念を持って行動すれば、からなずよい王になれるはずですわ。」
木々の隙間からこぼれる光がロザリアの周りをキラキラと飛んでいる。
「わたくしは陛下を支えていくことが自分の役割だと理解していますの。」
唇を押さえた白い指から、クスッと笑い声が漏れる。
「だって陛下ときたら、わたくしがいなければ、サボろうとばかりするんですもの。見張っていないと安心できませんわ。…だから時にはこうして、わたくしも外に出るんですのよ。」
綺麗な笑顔にいつもと違う甘い胸の痛みを感じてしまう。
この痛みをなんと言ったらいいのか、適当な言葉が見つからない。
ロザリアはティムカに極上の笑みを向けた。
「あなたは素晴らしい王になるでしょうね。わたくしはそう信じていますわ。」
女王試験が終わり、故郷に戻ったティムカは噴水のある中庭で一休みをすることを日課にしていた。
王として、刻まれたスケジュールはとてもいそがしい。
今日もようやく空いた時間はすでに午後。
強すぎるくらいの日差しがほんの少し和らぎ始める時間、ティムカは噴水のふちに腰を下ろし、水音を聞いていた。
「ティムカ。またここにいたのですね。」
珍しく供も連れずに、王妃はティムカのいる噴水の方へ近づいてくると、ベンチに座った。
「はい。ここはとても落ち着くんです。・・・なにかお話でも?」
すぐに予想した通りの言葉が王妃の口から出て、ティムカは指を組んだ。
「わかっています。婚姻が王家に与える意味も十分理解しています。ただ、もう少し、待っていただけませんか?」
噴水の中央に膝を揃えて横座りしている乙女の像がある。
かなりの年月を経ているせいか、ところどころ変色もしているし、輪郭もぼやけていた。
長い髪が緩やかに背中を流れ、瞳は愛おしむように足元を見ている。
ティムカがこの像に気付いたのは、女王試験が終わって散歩をしていた時だった。
白亜宮の惑星には薔薇がない。
その像の足元に彫られた薔薇を、幼いころは珍しい花の一つと思っていた。
けれど、今はその花を見ていたい。彼女のことを思い出させてくれるから。
「好きな方でもいるの?もし、そうなら、私達は歓迎するつもりでいますよ。」
「母様。好きな女性なんていません。でも。」
花にあふれた中庭は慣れ親しんだ強い香りの花の匂いに満ちている。
囁くような淡い薔薇の香りは遠い記憶とともに薄れてしまっているのに。
「幸せでいて欲しいと思っている方がいます。・・・なのに、今、その方のそばに僕ではない誰かがいると、そう思うと胸が痛いのです。
ずっと前からそうでした。あの方が他の男性の名を呼ぶだけで、僕は苦しくて。」
「好きなのですね。その女性が。」
王妃はゆっくりと立ち上がると、ティムカの髪をなでた。
「好きだなんて。僕は彼女よりもずっと子供でした。姉のように思っていたんです。」
「想いに年齢は関係ありませんよ。女王試験から戻ったあなたは以前よりもずっと大人になっていました。それは想いを知ったからだったのですね。」
あの頃、彼女を見上げなければ、目を合わせることができない自分が、とてもイヤだった。
守ることも支えることも、あの頃の自分にはできなかった。
だから、気付かないふりをしていたのかもしれない。
胸の痛みを知りながら、それが何のせいなのか、知ろうとは思わなかった。
「婚姻の話はもう少し待つことにしましょう。あなたが納得するまで、急がせたりはしませんよ。」
王妃は髪をなで続けていた手を止めると、肩のショールのずれを直し、奥へと消えていった。
一人きりになると、急に噴水の水の音が耳につくような気がする。
ティムカは懐から緑色をした1冊の本を取りだすと、パラパラとページをめくった。
別れ際にロザリアがプレゼントをしてくれたその本を、ティムカはいつでも持ち歩いていた。
銀のしおりが挟んであるページはティムカの一番好きなシーン。
小人の国の王子が人間の体を手に入れる、一番のクライマックスだ。
王女に出会うまで、王子は小人として楽しく暮らしていた。
与えられた運命を受け入れて、その中で小さいながらも幸せを見つけて。
なのに、王子は全てと引き換えに人間となり、王女を選んだ。
「王子は怖くなかったんでしょうか。」
小人として、王女は王子を可愛がってくれていた。
けれど、人間になった王子を王女が愛してくれる保証はない。
ティムカは噴水を覗き込むと、水鏡に映る自分の姿を見た。
今ならもう、彼女を見上げる必要はないだろう。
「僕の役割はこの星の王になることですよね。」
誰に語るわけでもなく、ティムカの口から言葉がこぼれる。
素晴らしい王になると言ってくれたロザリア。
彼女は補佐官として、今も女王を支えていて、そしていつか、彼女を守り支える役割を持つ誰かと出会うのだろう。
それが自分であればいいのに、と初めてはっきりとそう思った。
もう会うこともできないかもしれないロザリアと、今さら気がついた想いを叶えることは難しいかもしれないけれど。
ティムカは本を閉じると、西日を浴びる石の薔薇を見つめていた。
ふわりと風が吹いて、肩からかけた布が舞い上がる。
アルカディアに来てから数日。
ティムカは空いた時間を利用して、散歩に出ていた。
この惑星にはまだ、見事な自然があちこちに残されている。
サクリアが満ちてくれば、今の景色も少しづつ変わっていくのだろう。
一面に草の広がる丘の上に大きな木が立っていた。
目の前の景色を眺めると、聖地にもよく似た場所があったと思う。
木陰の下で本を読んだり、おしゃべりをしたり。
ずいぶん昔のことのような気もするし、ついこの間の出来事のような気もする。
ふとその木の下に、ある人影を認めて、ティムカの鼓動が速くなると、知らずに駆けだしていた。
風がさっきよりも強く吹きあげると、ロザリアの手の中のハンカチが飛ばされた。
白いレースのハンカチは一瞬高く舞い上がると、すぐ上の木の枝にかかってしまう。
ロザリアはかかとを上げ、手を伸ばしたが、あと少しというところで、手が届かない。
「どうしましょう。」
困ったような彼女の声に、ティムカは後ろから手を伸ばした。
ほんの少しかかとを上げて手を伸ばすと、帽子の飾りが揺れて、風鈴のように澄んだ音がする。
ロザリアの髪がティムカの鼻先をかすめると、淡い薔薇の香りがした。
「どうぞ。」
手を差し出したロザリアに、白いハンカチを渡す。
自分を見上げた青い瞳。
「いつかもこんなことがありましたわね。」
「はい。同じようなことがありました。僕がロザリア様にハンカチを取っていただいたんです。」
「そうでしたわ。あの時はまだ、ティムカの方が小さくて。今はすっかり逆転されてしまいましたもの。」
白い手を唇に当てて、クスッと漏れる笑い声。
あの頃よりずっときれいになったロザリアの変わらないしぐさに、ティムカの胸に甘い痛みが蘇る。
通り抜ける風が木の葉を揺らし、二人の足元に光が舞った。
「もう一度、貴女に会えたら伝えたいことがあったんです。でも。」
「でも?」
ロザリアは首をかしげた。
そして、しばらくの沈黙の後、ティムカの黒い瞳が光るのを見て、手にしていたハンカチをそっと差し出した。
「あれ。すみません。僕、おかしいですね。」
素直に受け取ったハンカチを目に当てて、ティムカは苦笑した。
ロザリアが手にしている本があの緑の表紙の本だと気付いた時、想いが溢れて止まらなくなったのだ。
「ティムカは変わっていませんのね。」
少し眉を寄せたティムカに気付いたのかロザリアは首を軽く横に振った。
「誤解させてしまったのなら申し訳ありませんわ。でも、わたくしはあなたが変わっていなくて嬉しいんですのよ。」
ロザリアはそのまま木の下に腰を下ろすと、抱えていた本を膝に乗せた。
手にしていたのは緑の本と、もうひとつ、赤い本。
「ティムカに見せたいと思っていましたの。」
そう言われて、ティムカもロザリアの隣に腰を下ろした。
以前よりも少しだけ距離をおいたのは、それだけ自分が大人になったからだと思う。
ロザリアは赤い本をティムカに手渡すと風に舞い上がる髪を耳のそばで押さえた。
黙ってページをめくったティムカは、本に書かれた見慣れた名前に驚いて顔を上げる。
「これは…。」
「女王試験が終わってから、ルヴァが教えてくださいましたの。あなたに差し上げた本の続きなんですのよ。」
ロザリアの『ルヴァ』という言葉にまた胸がツキンと痛む。
その痛みの意味も、今はもう知っていた。
パラパラとページをめくって最後のイラストを見たティムカの手が止まる。
人間になった王子が王女を守るように抱きしめていた。
王子の腕の中で、幸せそうに寄りそう王女。
「よかった。二人は結ばれたのですね。」
ティムカが本を閉じて、ロザリアを見ると、二人の視線が重なった。
回りの音が全て消え、世界が二人だけのモノになったような気がした瞬間。
「そろそろ行かなくては。あまり女王に休憩ばかりさせてはいけませんもの。」
ロザリアが微笑んだ。
彼女もまた、変わらずにきちんと自分の決めた役割をこなしているのだ。
「変わりたい」と思っていたけれど、「変わらない」ことも同じくらい大切なことなのかもしれない。
たとえば、この風を心地よいと思う気持ちや、美しい世界を守りたいと思う気持ち。
そして、彼女とこうしていたいという気持ち。
「また、ここに本を読みにいらしてくださいますか?」
立ち上がったロザリアを見上げて、ティムカは言った。
「ええ。またここで本を読んでいると思いますわ。補佐官を休みたいと思った時に。」
「はい。僕もそう思った時にここに来ることにします。」
ロザリアは緑の本だけを持って会釈をすると、聖殿に向かってまっすぐに歩いていった。
柔らかな日差しに、長い青紫の髪がまるで空の一部のように揺れている。
ティムカは彼女の残していった赤い本を手に取ると、銀のしおりのはさんであったページを開いた。
『小人のあなたも、今のあなたも、私には同じように大切な方です。』
王女の言葉が目に飛び込んでくる。
なぜ、ロザリアがこのページにしおりを挟んでいたのか、ただの偶然なのだろうか。
もし彼女が自分といる時間を大切だと思っていてくれるなら、今はそれだけで十分だと思う。
彼女を見上げることはもうないけれど、王子のように守り切るだけの男になるにはもう少し時間が必要だから。
ティムカは木の幹に寄り掛かると、足を崩して、赤い表紙の本の最初のページをめくった。
FIN