≒4.5km

女王試験の頃、私は泣きそうになると、あの部屋に行った。
大きな窓と水槽。部屋中に反射する光。
その部屋にいると、海に抱かれているような気がして、とても落ち着いた。
そして、「大丈夫ですよ。」と、ぐっと唇を噛みしめた私に必ずかけてくれた言葉。
4つも年下の男の子なのに。どう見ても、まだ子供なのに。
ティムカ様の言葉は私を広い海へと連れ出してくれた。

「いつかイルカと話ができたらなぁって思うんです。あは、子供っぽい夢ですね。」
海の中のような部屋で、二人でイルカの写真集を見ていたときだった。
いつも教官として、私たちを導いてくれているティムカ様の、少しはにかんだ笑顔。
私は水からでた魚のように口をパクパクさせた。
「ティムカ様ならきっとできます!えっと、上手く言えないですけど、もし、言葉が通じなくても、心は通じるっていうか。
ティムカ様のお心はイルカたちもわかるはずです!」
言いながら、ナニが言いたかったのか、自分でもわからなくなってしまった。
口ごもった私にティムカ様は優しく微笑んで。
「ありがとうございます。貴女にそう言っていただけると、なんだか本当にできそうな気がしますね。」
いつも励ましていただいているのは、私のほうなのに。
まるで、私がなにかを与えているような気持ちになる。

「いつか一緒に行けたらいいですね。大好きな貴女とイルカなら、きっと心が通じ合えると思います。」
『大好き』にかかる言葉が、『貴女』なのか、『イルカ』なのか、その時の私は分からなかったけれど。
ティムカ様といると、私は波を漂うように、いつの間にか癒されて、笑顔でその部屋を出ることができた。

1


女王に選ばれた私が、次に出会えたのは、皇帝の侵略が起きた時。
辛い旅でもティムカ様はいつでも、「貴女なら大丈夫ですよ。」
そう言って、励ましてくれた。
海のような部屋はなくて、波のように漂う光もなかったけれど。
ティムカ様はやっぱり私を癒してくれた。
そして。
次に出会った時、ティムカ様はすっかり変わってしまっていた。
「貴女と一つしか変わらないんですよ。これでもう少し、手助けできることも増えたと思います。」
微笑んだティムカ様の黒真珠のような瞳が、まっすぐに私を見た。
以前のティムカ様がキラキラと輝く浅瀬の海だとしたら、今のティムカ様は、誰もいない楽園の静かな海。
ただ見つめているだけで、その懐に抱かれているような。そんな気がした。



「ちょっと、陛下。陛下。」
あら、陛下がココに来ているのかしら?
だったら、ちゃんとご挨拶をして、アルフォンシアの様子もお話して…。
「もう、アンジェ!こんなとこで寝てたら風邪引くヨ!」
「レイチェル?」
はっと目を開けた私の前にひろがる、きらびやかな室内。
豪奢な家具や高級そうな装飾に、私はやっと、ココがどこなのかを思い出した。
「ごめんなさい。ちょっと転寝しちゃった。」
「もう。しょうがないネ。エンジュも聖天使になって、この宇宙もようやく安定してきたし、気が抜けちゃうのも無理ないか。」
レイチェルの長い紫のベールが風でふわふわと揺れる。
キュートという言葉がぴったりだったレイチェルも、このところ、とても落ち着いた美人になった。
「昨夜、あんまり眠れなかったの。」
「・・・なにかあった?」
レイチェルの声が途端に不安そうに変わる。
無理もない。だって、ココまで来るのには、本当にいろいろあったから。
「ううん、宇宙のことじゃなくて。…昨日のお茶会の話、覚えてる?」
「ああ!あのコトか~!」


昨日のお茶会。
私たちは陛下からのお誘いを受けて、久しぶりに神鳥の宇宙に出かけた。
「いらっしゃい。今日はゆっくりしてちょうだいね。」
可愛い陛下と綺麗なロザリア様。
変わらない聖地の様子に、私は女王の重圧からほんの少し解放されたような気がして、はしゃいでいた。
だからつい、いつもなら言わないことまで言ってしまったのかもしれない。

「女王って、宇宙全部を愛さないといけないんですよね?」
「そうね。わたしもこの宇宙全部、その存在自体を愛してる、かな。」
陛下がふんわりと優しく笑って、ロザリア様と視線を交わした。
お二人の間に確かな友情と信頼の、暖かいオーラを感じる。
「あの、宇宙への愛と、恋人への愛は違うんですか?」
今度はお二人が顔を見合わせた。
レイチェルもびっくりしたような顔で私の方を見ている。
私は恥ずかしくなって、それっきり黙ってしまった。

「宇宙への愛と、恋人への愛は、とても似ているけれど、少し違いますわ。」
バカなことを、と、怒られるかもしれないと思っていたのに、ロザリア様は怒るどころかとても嬉しそうだった。
「うーん。恋愛感情っていうのとは、確かに違うわね。どちらも大切だけど。」
陛下もなんだか嬉しそう。
「じゃあ、お二人は、どういう違いがあると思うんですか?ワタシにはわかんないよ。」
レイチェルが唇を尖らせている。
実は私もそう思ってたから、レイチェルの質問はありがたかった。

宇宙への愛と、恋人への愛。 どちらかを選ばなければいけないんじゃないの?
ううん、私は女王なんだから、宇宙への愛を選ばないといけない。
だから誰にも恋してはいけない。
そう思ったら、なんだか胸が痛くなった。
思わずうつむいた私の目に、昨日、雨だったせいで、ところどころにできている水たまりが映る。
テラスを通り抜ける風が、小さな波を作って、キラキラと光を反射していて。
まるで、小さな海みたい。
すると、イルカが飛び跳ねたように、小さな水しぶきが立った。
「どう違うかなんて、簡単でしょ?」
けらけらと笑うその人の細い靴先が水たまりに触れたからだ。

「簡単?どうしてですか?オリヴィエ様!」
「ん?アンタにはわかんない? ねえ、ちゃんと恋してるの?」
ぷーっと頬を膨らませたレイチェルを、やっぱりオリヴィエ様はけらけらと笑った。
「アンジェリークは?わかる?」
私は首を振った。
二つの違いが分かるほど、私は愛も恋もしていないから。
相変わらずきらびやかなオリヴィエ様は、ストールを翻して、ロザリア様のすぐ後ろに立つと、その肩に両手を乗せた。

「愛と恋との違いなんてね。キスしたい、キスされたい。そう思うかってことくらいじゃない?」
そう言ったオリヴィエ様は、ロザリア様の頬に唇を寄せた。
優しく触れるキスには、ものすごく愛がこもっているように見えて。
カッとロザリア様の顔が耳まで赤くなる。
今まで気がつかなかったけど、もしかして。
「えーー!!!お二人はそういう関係だったんですか??」
レイチェルもびっくりしてるから、やっぱり気がついてなかったんだ。
オリヴィエ様は私たちにウインクして、今度はロザリア様の前に頬をつきだした。
「私にもちょうだい?」
こんなに照れているロザリア様を初めて見た。
でも。
ロザリア様は、溜息をつきながらも、オリヴィエ様の頬に口づけを返してる。

「わかった?」
「もう、オリヴィエ!」
今度は怒って顔が赤いって私にもわかる。
でも、目は笑っているから、やっぱりロザリア様もオリヴィエ様が好きなんだ…。
「愛はさ、与えるだけでも満足できるんだ。宇宙全部にだってあげられる。でもね。恋人への愛は違うんだよ。
与えるだけじゃなくて、相手からも欲しくなる。キスしたらキスされたい。愛したら愛されたい、ってね。」

たとえば、もし、宇宙の人々が女王の私に背いても、私は自分の宇宙を放りだしたりしない。
ずっと守り育てていける。
好かれなくても好きでいられる。愛していける。
でも、あの方には私を好きになってほしい。
好きだから、好きになってほしい。
それが恋なの?

オリヴィエ様のダークブルーの瞳が私をじっと見ている。
心を見透かされているようで、ドキッとしてしまった。
「だから、二つの愛は全然違う。どっちかなんて思わないで、両方持ってたらいいんだよ。・・・この陛下みたいにね。」
オリヴィエ様が、今度は陛下に向かってウインク。
陛下はあわてたように「しーっ。内緒でしょ。」って、唇に人差し指を当てた。

「え!陛下にも恋人がいるってことー?!」
またレイチェルが叫んでる。
私も同じ気持ちだったけど、たぶん、レイチェルよりもびっくりしたから、声も出なかったんだと思う。
恋をしてもいい。女王でも誰かと愛し合ってもいい。
そう、教えてくれたような気がしたから。

2


「ま、陛下たちに恋人がいたなんて、ビックリだったよネ。」
レイチェルの長いため息に、私も頷いた。
「でもさ。」
くすっとレイチェルが笑う。なんだろう。すごく暖かい感じ。
「よかったヨ!これで、アナタも大手を振って、恋愛できるじゃん。」
「えーっ?!」
恥ずかしいくらい大きな声を出してた。
「れ、恋愛って…。」
「ん? いいじゃない! 今ならきっと執務室にいると思うヨ。」

にっこり、なのかな…。
レイチェルがものすごい笑顔で私を見ている。
バレバレだったんだ。私の気持ち。
レイチェルにも、陛下にもロザリア様にも。
「うん…。ありがとう、レイチェル。」
「どういたしまして!…ワタシも、一緒に宇宙を支えてるんだからね。一人じゃないヨ。」
やだ。泣きそうになっちゃう。
私は上手く言えなくて、ただ頷いただけだったけど、レイチェルは分かったよ、って、ぽんと背中を叩いてくれた。
足取りが軽くて、まるで、水の中を泳ぐ人魚になったみたい。
私は一直線にティムカ様の執務室まで走って行った。



「こんにちは。陛下。お急ぎのようですが、なにかご用でしょうか?」
できたばかりの執務室は、とても綺麗なブルー。
やっぱり大きな窓があって、風が吹くたびにキラキラと揺れる光が入ってくる。
壁に反射する光で部屋中が海のよう。
一番眩しい光の中にティムカ様がいて、私の鼓動が激しくなる。

「あの…。私…。」
いきなり想いを伝えたら、ティムカ様はどんな顔をされるかしら。
誰にでも優しくて、敬意を忘れない方だから、きっと困りながらも微笑んでくださるに違いない。
「どうなさったのです?…陛下なら大丈夫ですよ。何があっても私は陛下を信じますから。」
ティムカ様は全然変わらない。
外見は、それこそ眩しいくらい素敵になられたけれど。
まっすぐな瞳は、見ているだけで私を、広い海へと連れ出してくれるような気がする。


「あ、あの、愛と恋はどう違うんですか?」
私の口から飛び出した言葉に、ティムカ様は目を丸くした。
まるで女王試験の学習のときみたいな質問。
足元から全身が熱くなってきた。でも、もう止められない。
「ティムカ様はイルカが大好きなんですよね?じゃあ、イルカとキスしたいとか思うんですか?」
「え…?キス、ですか?」
ギュッと目をつぶって下を向いたままの私には、ティムカ様の表情は見えない。
でも、困惑した様子は気配でわかる。
ティムカ様が守護聖になってくれて、初めて交わす会話だったのに。

「キス…は、どうかわかりませんが、彼らが私に好意をもってくれてのことなら、とても嬉しいでしょうね。」
「じゃあ、ティムカ様はイルカにキスをされたいんですね!」
オリヴィエ様のウソつき。
恋じゃなくてもキスされたいことだって、あるじゃない。
私が黙ってしまったので、ティムカ様はますます困惑してしまったみたい。
私も、どうしたらいいのか、分からなくなった。

「陛下はどうですか?イルカと遊んでみたいって言っていましたよね?」
「はい…。遊びたいです。」
イルカと私とティムカ様と。
その時にもしイルカにキスをされたら、やっぱり私も嬉しいと思う。
「ああ、よかった…。私だけがそう思っているのではないかと気にしていたんです。」
「え…?」
「陛下が以前のように話をしてくださらないので、もうイルカには興味がなくなったのかと思っていました。」
ティムカ様が私のことを気にしてくれていたなんて。
どうしよう。嬉しくて、足が震えそう。
ティムカ様はそんな私の様子に気が付いていないのか、突然、ふっと笑いだした。

「あ、いえ、すみません。なんだか想像してしまって。」
ティムカ様はくすくすと笑ったあと、ほんの少し、困った顔をした。
なんの想像をして、そんな顔をされるんだろう。
私の視線に気がついたティムカ様は困った顔のまま、微笑んだ。
「イルカが貴女にキスして、初めはほほえましいと思ったのですが、貴女からキスをするのはちょっと…。」
「ちょっと…?」
「イヤだなあ、と…。ふふ、おかしいですね。」

「私は、ティムカ様がイルカにキスをするのも、されるのも、なんだかイヤです!」
ティムカ様は私の勢いにビックリしたみたいに、きょとんとしている。
これじゃまるで、私がイルカに嫉妬しているみたい。みたい、じゃなくて、きっと、そうなのかも。
他の誰とも、たとえイルカにでも、キスなんてしないでほしい、と、思っていたから。

3

「わかりました。イルカにはしないようにします。・・・では、なにになら、許してくださいますか?」
ティムカ様の思いがけない言葉に私は絶句してしまった。
今、ちょうど考えていたことを、見透かされたみたいで。
聞こえていないと思ったのか、ティムカ様が繰り返した。
「なにになら、キスをしても?」


「私…。」
「え?」
何を口走ってしまったのか。
私はあわてて両手を目の前で強く振ると、「なんちゃって!冗談です!冗談!!!」と叫んだ。
心臓がバクバクして痛いくらい。
顔も火を噴きそうなほど熱い。
ちらっと上目づかいにティムカ様を見て、私は驚いた。
だって、ティムカ様の顔も真っ赤になっていたから。
「冗談…ですか、そうですよね。ふふっ。」
ティムカ様はまだ赤い顔のまま。
ちょっといたずらっぽいその笑い方は、初めて会った頃にはなかった大人な表情のような気がして、ドキリとしてしまった。

「実は私も、貴女がキスをするなら…と考えていました。一体なにになら許せるのか、と。」
海の底のような光がまぶしいのか、ティムカ様がまぶしいのか。
漂う光の波は、あの頃のように穏やかに私を包んでくれる。
なのに、ティムカ様の傍にいるだけで。
ドキドキしすぎて、心臓が壊れてしまうそうになる。
でも、離れたいとは思わない。壊れてもいいから、ずっとこのままで。

4


「少しわかった気がします。」
「なにがですか?」
思わず聞き返した私の目の前で、光の波が大きな影を映すと、波の合間から突然現れたイルカのようにティムカ様が傍に立っていた。
ビックリするほど近くで黒真珠の瞳が私を捕える。

「さっき尋ねられましたよね?…愛と恋の違いです。」

私の目の前が暗くなった。
その理由が分かったのは、ほんの数秒後。
頬に触れた暖かさが恋の証拠とわかった時だった。


FIN
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