Bittersweet ~side Olivie~

カツカツと、小気味良いリズムで刻まれるヒールの音。
ヒールを履きなれた人間だけが鳴らすことのできる音が、今の彼女にはとてもよく似合っている。
ほんの少し前までは、まだ慣れない補佐官の仕事のように、その音はどこか頼りなげに聞こえていた。
彼女が変わった理由はたくさんあるだろう。
補佐官の執務に慣れてきたこと。
女王候補の時よりも高いヒールの靴に変えたこと。
なによりも、彼女自身が大人になったせいもある。
そしてそのことはオリヴィエをほんの少し苦しくさせるのだ。


「お茶の時間を邪魔してしまってごめんなさいね。」
申し訳なさそうに、カフェに足を踏み入れて来たロザリアに、オリヴィエは
「いーの。別に好きでコイツとお茶してるわけじゃないんだから。」
と、軽く手を振って返した。
いかにもうっとおしい、と言いたげなオリヴィエの仕草に、向かいに座っているオスカーもカップを目の位置まで上げ、
「言いたくないが、俺も同意見だ。」
と、返す。
いつも通り当たり前の軽い応酬。
それをほほえましく見ているロザリアの表情が、とても凛としてキレイだ。

ひとしきり世間話のようなものを交わした後、ロザリアが胸に抱えたクリアファイルの束から一枚の書類を抜き出した。
「どうしてもここに、サインが欲しくて。 お願いできますかしら? …オスカー。」
ロザリアの声に、オリヴィエの息がとまる。
彼女が彼の名前を呼ぶ時。
いつも少しだけ、間が空く。
そして、その一瞬の間の後に紡ぎだされる声は、明らかに違う。
ためらうように、ゆっくりと。
まるで、名前を呼ぶことに、特別な意味があるみたいに。

「ああ。」
オスカーはロザリアが差し出した書類とペンを受け取ると、指示された通りに署名をした。
さっき、彼女が口にした文字も、ただのインクの一部ならば、こんなにも普通の文字なのに。
オリヴィエは書かれた文字を、ぼんやりと視界の端にいれながら、冷めかけた紅茶を口に入れた。
暖かい時よりも、苦みが増した気がして、思わず眉が寄る。



女王候補の頃、オスカーはロザリアを『お嬢ちゃん』と呼んでいた。
それはプライドの高い彼女にとって、とても許せることではなかったらしく、当初はかなりオスカーを嫌っていた。
初めからロザリアを気に入って、すぐに親しくなったオリヴィエは、よく愚痴を聞かされていたものだった。
キザでプレイボーイで、鼻もちならない自信過剰男。
もちろんオスカーがそれだけの男でないことは、オリヴィエもよく知っていた。
彼女をからかうのも、彼らしい励ましなのだということも。
けれど、オリヴィエはロザリアにオスカーのいいところを教えようとは全く思わなかった。
最初から、なんとなく気づいていたのかもしれない。
ロザリアが恋をするならば、きっと、オスカーにだろう、と。
そして、それを認めたくない自分は、きっと彼女を好きなんだろう、と。

試験の間、特に彼と彼女の距離は変わらなかった。
『お嬢ちゃん』と呼ぶオスカーに、眉を吊り上げるロザリア。
変わっていったのは、ロザリアのオスカーへの評価だ。
キザでプレイボーイで鼻もちならない自信過剰男。でも、時に優しい男。
計算だとしたら、オスカーの方法は正しかった。
ロザリアは優しいだけの男になど惹かれたりしない。
オリヴィエがそれに気がついた時にはすでに手遅れで。
優しい男にしかなれなかったオリヴィエは、彼女の視線の行く先を手に入れることができなかった。
そして試験が終わり、ロザリアは補佐官になった。
オスカーが、彼女を名前で呼ぶようになったのは、それから。



「これでいいか? …ロザリア。」
オスカーも彼女の名前を呼ぶ時、ほんの少し間が空く。
そして、その後、やはり少し真剣な声になる。
まるで、名前を呼ぶことに、特別な思いを抱いているみたいに。
彼女と彼の間の特別な空気に、一体どれだけの人間が気づいているだろう。
おそらく二人自身は、それぞれにうまく隠しおおせていると思っているに違いない。

「ええ。ありがとう。 お邪魔しましたわ。」
にっこりと笑みを浮かべたロザリアは、やはりとてもキレイで。
オリヴィエは彼女の背中を見送っているオスカーに、カップの影で苦い笑みをこぼした。



「オリヴィエ…。」
ふと目を開けると、心配そうな青い瞳がある。
ぼんやりと考え事をしていて、いつの間にか眠りこんでいたらしい。
辺りが暗くなっていたことにも気がつかなかった。
なんの予定もない土の曜日の午後。
お茶の時間に入れたはずの紅茶はすっかり冷めていて、テーブルの上にカップの長い影が落ちている。
レースのカーテンから斜めに差し込む薄いオレンジの空は、すでに一番星を抱えていた。
「こんなところで転寝をなさっていると、風邪をひきますわよ?」
無邪気に笑いながら、ロザリアが近くにあったひざかけをオリヴィエの上にかけている。

こんなふうに彼女がオリヴィエの屋敷を訪れることは珍しくない。
女王候補の頃から、時々、何の前触れもなく彼女はやって来た。
上手にお菓子が焼けた時。アンジェリークとケンカをした時。
理由は様々だったけれど、ロザリアが訪れてくれることが嬉しかった。
恋ではなくても、彼女の心に別の誰かがいたとしても。
オリヴィエを必要としてくれていることは事実なのだから。

補佐官になってすぐの頃。
家に来た途端に泣きだしたロザリアを、慰める方法が見つからなくて、つい抱き寄せた日があった。
胸を濡らす涙があたたかくて、それ以上に彼女の細い肩が愛おしくて。
この距離を失うくらいなら、決して想いを悟られたりはしないと誓ったのだ。


「ん…。 もうこんな時間なんだ。」
壁にかかった時計の時刻を見て、オリヴィエは身体を起こした。
すでに夕食をとっていてもおかしくない時刻だ。
ロザリアはソファのひじ掛けに軽く腰をかけ、まだぼんやりしているオリヴィエをのぞきこんだ。
下ろしたままの青紫の長い髪が背から前へと流れ、薔薇のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。
こんなに傍にいるのに。
なぜか哀しくなって、オリヴィエは曖昧な笑みを浮かべた。

「珍しいですわね。…今日はお化粧もしてらっしゃらないなんて。」
「ふふ。そうだね。 なんかさ、とことん怠惰になってみたかったんだよ。 なーんにもしないで、ゴロゴロしてさ。」
「たまにはそういう時も必要ですわ。いつもオリヴィエはみんなに気を使っていらっしゃるでしょう?」
彼女の瞳が柔らかく細められる。
少し前まで、そんな大人の表情はしなかった。

「そういうわけじゃないんだけどねえ。他の奴らが個性的すぎて、単にドン引きしてるだけ。」
「引いてくれるから助かっているのですわ。 本当に他の方々ときたら…。」
ロザリアは楽しそうにくすくすと笑っている。
そして、ふと思いついたように、眉を寄せた。
「わたくし、せっかくの怠惰な一日を邪魔してしまったかしら?」
オリヴィエはメッシュの入れていない金の髪を揺らして、首を横に振った。
「まさか。 来てくれて嬉しいよ。」
彼女が邪魔になるなんて、考えたこともない。


「お茶、淹れ直しますわ。」
ロザリアが立ち上がり、置いたままだったカップを持って、キッチンへと消えていった。
ケトルに水を入れる音、紅茶の缶を探る音。お湯が湧く音。
そして漂う紅茶の香り。
二人きりの時間は苦しいけれど、それ以上に幸せだ。

「なにかあった?」
カップの縁まで温められた紅茶を一口すすり、オリヴィエはロザリアに声をかけた。
さっと彼女の頬が赤く染まったかと思うと、床に置かれていた紙袋を取り上げ、膝へと抱え直している。
そわそわと落ち着かない様子は、補佐官の凛とした彼女からは想像がつかないほど可憐だ。
彼女が袋を動かした時に、中から甘い香りがして、オリヴィエにはその中身が何なのか、わかってしまった。

「ガトーショコラを焼いてみたんですの。 よろしければ、食べてみてくださいませんこと?」
言ってしまえば楽になったのか、ロザリアはいそいそと袋からケーキをとりだした。
真っ白なパウダーシュガーのかかったチョコレートケーキ。
「そっか。もうすぐだもんね。」
呟いたオリヴィエにロザリアは頬を赤らめたまま、頷いた。

バレンタイン。
チョコレートをプレゼントして、女性から男性へ愛を告白する日。
今年、彼女は彼に想いを伝えるつもりなんだろうか。

「いいよ。味見してあげる。」
温めたナイフでケーキを切り分けようとしているロザリアに、オリヴィエはわざと軽い口ぶりで言った。
アイツにプレゼントするために焼いたケーキを、一番に食べるなんて、なんだかおかしな気分だ。
つい、くっと笑みをこぼしたオリヴィエをロザリアが不思議そうに見つめている。
「ごめん。おかしかったんじゃないんだ。 あんまり美味しそうで、嬉しくなっちゃったんだよ。」
「そんなに期待なさらないで。…チョコレートを多めにしてみましたの。ちょっと甘いかもしれませんわ。」
ロザリアがくれるモノなら、きっとアイツは炭だって美味しいと言って食べるだろう。
自分と同じように。


ケーキはほろ苦かった。
それとも苦いのは気持ちの方で、ケーキ自体は甘いのかもしれない。
「どうかしら?」
不安そうなロザリアに、オリヴィエは満足そうにほほ笑んだ。
「すっごく美味しいよ。」
途端にロザリアは輝くような笑顔を浮かべている。
「よかった! そう言っていただけて、安心しましたわ。」
言いながら、彼女もケーキを一口頬張った。

楽しそうに笑うロザリア。
こんなに傍にいるのに、どうして彼女は自分のものじゃないんだろう。
どうしてこのケーキはこんなに苦いんだろう。
チョコレートの甘い香りは身体をめぐる毒のようで。

「オリヴィエ。」
ためらいなく自分の名を呼ぶロザリアの声に、オリヴィエはさらに苦みの増したケーキを飲み込んだのだった。


FIN
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