フィボナッチ数列を数えてみたら?

ヤバい。
ちらりと腕時計を見たレオナードは、限界まで早足になって、目的地まで急いでいた。
一度、走り出してはみたものの、日ごろ全く運動らしきものをしていない身体はすぐに悲鳴をあげ、今はもう無理だ。
心はもちろん走っているつもりなのだが、他人が見ればそうは見えない速度。
それでも、額に汗はにじむし、足音だけは人一倍だ。
ここが聖地なら、今さらレオナードが騒いでいたところで、誰も気にも留めないだろうが、今、レオナードがいるのはセレスティア。
彼が筆頭守護聖であることを知る者は誰もいない。
急ぎ足の大男に、皆がギョッとして道を開けている。

約束の場所が見えてきて、レオナードはようやく速度を緩めた。
とりあえずの言い訳を頭に思い浮かべながら、前を見ると、そこにいたのは、可憐な青薔薇のような美少女。
そして。
それに群がる悪い虫が2匹。

「おい、おにーちゃんたちよォ。
 そのオンナは俺のモンなんだ。 とっとと散りやがれ。」

いきなりの上から目線の言葉と、しっしっとまさに虫を追い払いような手つきに、群がっていた男たちが一斉に胡乱な眼をレオナードに向けた。
けれどそれは一瞬で。
レオナードの迫力に、すぐに情けないほど小さくなっている。
たしかにその手の修羅場をくぐりぬけているレオナードには、彼らなど羽虫程度に過ぎないのだろうが。
「散れって言ってんだろうぉが。 それとも追い払われてーの?」
にやりと危険な視線を送れば、男たちはへらへらと笑いながら、後ずさりしていった。
あとは一目散に逃げ出す背中が、レオナードの視界に残る。

「ったく。ああいう奴らはいつの時代も変わんねーな。
 お前も気をつけろよ? 一人でこんなとこいたら、いいエサだぜ。」
苦笑交じりに振り返ったレオナードは、ロザリアの恐ろしい微笑みに凍りついた。
甘さなど微塵もない、冷たい視線が恐ろしい。
「な、なんだよ。」
なぜかじりっと下がってしまう自分が情けなくもなって、レオナードもロザリアを見つめ返した。
けれど、もともと疾しいのは遅れて来た自分なのだ。
頭の中でいろいろ考えていた言い訳も一瞬で吹っ飛んだ。


「ちょっと、遅れただけだろ。」
「30分ですわ。」
「俺ん中じゃ、10時ってのは、前後30分まで入んだよ。」
「もう何度目だと思ってらっしゃいますの? 時間どおりに来てくださったこと、ありまして?」
美人の微笑みは威力が違う。
とくに怒っている時はなおさらだ。
言葉に詰まったレオナードから視線を外したロザリアは、すたすたと先へ歩いていってしまった。

「おい。…おいって!」
「なんですの?」
また駈け出す羽目になって、レオナードは舌打ちしながら、ロザリアの腕を掴んだ。
「どこ行くんだ。」
「どこって…。 きゃ!」
掴んだ腕を引き寄せて、ロザリアを腕の中にすっぽりと包みこむ。
細いけれど、柔らかな身体は抱き心地も最高だ。
残念ながら、まだ邪魔なモノに遮られた状態でしか感じたことはないのだが。

「怒んなよ。 俺だってなァ。 結構最近忙しいんだぜ。 昨日もおとといも執務がたんまりだ。
 やっと終わったのが、夜中じゃ、しょうがねえだろ?」
ロザリアが仕事熱心なのは承知の上だ。
執務の都合、といえば、納得してくれるだろうし、実際、ここのところ忙しいのは本当だ。
もとはといえば、週の頭にサボり過ぎていたのが原因なのだが。

レオナードはロザリアの頭に軽く唇を落した。
ふわりと香る薔薇の香り。
おとなしく抱かれているロザリアに、このまま機嫌を直してくれるのか、とホッとしたのも束の間。
向う脛を思い切り蹴り挙げられて、レオナードは抱いていた腕をほどくと、足を抱えて悶絶した。
「痛ええ!! 」
「オスカーに聞いた護身術が早速役に立ちましたわ。 レオナードが不埒な真似をしてきたら、思い切りやれ、と言われましたの。」
「んだとお?」
あの赤毛ヤロー、と心の中で悪態をついていると、ロザリアが冷たい目で睨んでいる。

「わかってませんのね。」
「あん?」
「…もうよろしいですわ。」
ロザリアの瞳がほんの少し、寂しそうに陰ったような気がする。
けれど上手い慰めの言葉も見つからないまま、レオナードは憮然と彼女を見下ろしていた。
青紫の髪がわずかに風に揺れ、肩の動きでため息をついたのがわかる。
レオナードの胸がチクリと痛んだ。

「わたくし、喉が渇きましたわ。 お茶でも飲みませんこと? 」
「あ、ああ。」
足を踏み出した時、蹴られた脛がずきっと鈍い痛みを抱える。
その痛みよりも胸に刺さる棘の方が気になって、レオナードはロザリアから少し遅れて後についていった。


カフェに入り、ロザリアは紅茶を、レオナードはサンドイッチとコーヒーを頼んだ。
ランチには少し早いけれど、朝食も食べずに慌てて出てきたせいで、お腹がすいていたのだ。
運ばれてきた途端に、サンドイッチにかぶりつくレオナードを、ロザリアが見つめてくる。
その視線が気になって、レオナードは手を止めた。
「じろじろ見んなよォ。 気になるだろうが。」
「…ごめんなさい。」

ロザリアは小さくつぶやくと、それきり窓の外を眺めはじめた。
通りに面したカフェの窓からは、たくさんの人々が行き交っているのが見える。
仲良さそうに歩くカップル、手をつなぐ親子連れ。
天気がいい土の曜日は絶好のお出かけ日和なのだろう。

サンドイッチの最後の一かけらを口に押し込んだレオナードは、ロザリアの横顔に目を向けた。
どこか上の空のような顔は、いつも凛とした彼女には珍しい。
それでもきちんとレオナードのことは気にしているらしく、さっきもさりげなく、おしぼりを手渡してくれた。
全く無視されているわけではない。
けれど、なぜか、声がかけづらい。
レオナードはおしぼりで手を拭きながら、足を組み変えた。

「あのよ。」
「なんですの?」
優雅な仕草でロザリアがカップをソーサーに戻した。
見れば、ロザリアの前におかれた紅茶はすでに空になっているし、じっとレオナードを見る顔も赤くなっている。
今さら向かい合ってお茶を飲むくらいで照れてるわけではないだろう。
もしかして、まだ、怒っているのだろうか。
レオナードが考えていると、ふと窓からキラッと何かが反射する眩しい光が差し込んできた。
通り過ぎていく自転車のフレーム。
つられて外に目を向けると、街路樹の隙間を抜ける光が、ギラギラと目を射ってくる。
今日のアルカディアはまるで初夏を思わせるような陽気だ。
長袖をまくって歩いている人々が次々と通り過ぎていた。

「ちっ。」
レオナードはロザリアの顔が赤い理由に、ようやく気がついた。
もともと彼女は透けるように肌が白い。
こんな天気のいい日に外にいたら、すぐに焼けてしまうのだろう。
30分。
たった、だなんて、本当は自分だってそんな風には思っていない。
きちんとした性格のロザリアはきっと約束の時間の少し前には来ているだろうから、どれくらい待たせたのかわからない。
それは喉も渇くだろうし、日にも焼ける。
補佐官の彼女なら、怒って帰っていたに違いないのに。
あんなふうに悪い虫に絡まれても、待っていてくれたのだ。
喉元まで出かかった言葉を、レオナードはコーヒーと一緒に飲み込んだ。

「出ようぜ。」
「え?」
「それとも、お代わりでもすんのか?」
「いいえ、もうよろしいわ。」
「じゃあ、ついてこいよ。」
突然立ち上がったレオナードに、ロザリアが慌てたように追いかけてくるのが見える。
きっとレオナードの唐突な行動に、またため息の一つでもついているはずだ。
カフェの外は風こそ涼やかだが、日差しは相変わらずキツイ。
レオナードはズボンのポケットに手を突っ込むと、すたすたと歩きだした。


突然、足にがつんと大きな衝撃を感じて、レオナードは下を向いた。
見れば、足元に子供が転がっている。
背が高いと、こういうとき、不便というか厄介だ。
その気がなくても、小さいモノにはぶつけられやすい。
レオナードが手を出すよりも前に、子供は立ち上がると、まるで目を合わせるのを恐れるように、さっと走り去ろうとした。
それだけの、よくある光景。

けれど、
「待てよ。」
レオナードはその子供の襟をグイっとつかむと、そのまま引きずりだした。
一瞬、周囲の人々も目を向けたが、すぐにある雰囲気を感じ取ったのか、黙って行きすぎていくだけだ。
後を追いかけて来たロザリアが、心配そうにその様子を見ている。
なにか言われるか、とも思ったが、ロザリアは黙って後ろについてきた。
ここで声を上げたりしないのは、レオナードを信頼してくれているからだろう。
子供も大人しく、レオナードに引きずられている。
人通りが減った町の外れで、レオナードはようやく足を止め、子供の前に膝をついた。

「おとなしく出せ。 しらばっくれたら、ただじゃおかねえぞ。」
ドスの利いた声ですごめば、子供は青くなって震えている。
せわしない街中では気付かなかったが、子供はかなり痩せていて、服も汚れていた。
いい暮らしとは言えないのが一目でわかる。
ぶるぶると手を震わせて、子供は服の中から、レオナードの物らしい札入れを出した。
レオナードが怖いのだろう。
怯えたように、うつむいたままだ。
レオナードが手を挙げた瞬間、子供は身体を固くして、ギュッと縮まった。
殴られることを予感したのだ。
実際、ロザリアも思わず目を閉じていた。

「こんな真似は止めといたほうがいいぜ。 楽して手に入れられるもんなんざ、ロクなもんじゃねえ。」
振りあげた手を、レオナードは子供の頭に乗せた。
不揃いに切られた髪がレオナードの掌でくしゃっとまとまる。
「おい。 悪けどよォ、あそこでなんか買ってきてくれねえか?」
レオナードが指差したのは、小さなクレープの屋台だ。
「ええ。」
ロザリアはすぐにその店へ走ると、一番大きなクレープを買った。

「早く食っちまえ。」
レオナードは膝をついたまま、子供が一心不乱にクレープを食べるのを見ている。
イチゴとバナナとチョコとアイスと。
全てのトッピングの入ったスペシャルクレープが、見る見るうちになくなった。
子供は手を震わせて、包み紙についたクリームまでを舐めとっている。
食べ終えた包み紙を受け取ったレオナードは、ようやく立ち上がると、子供の肩を押した。

「行けよ。…けどよォ、もう止めとけ。 一回でもやっちまったら、お前もヤツらとおんなじだ。」
子供は不安げにレオナードを見上げている。
けれど、それきり黙りこんだレオナードに、子供は小さく頭を下げると、ロザリアを一瞥して走っていった。
バタバタと、足に合っていない靴が道路にぶつかる音が遠ざかっていく。
「ちっ。」
舌打ちしたレオナードがロザリアを振り返る。
傷ついたようなレオナードの瞳に、ロザリアは思わず彼の腕を掴んでいた。



木々が日差しを遮り、それまでの暑さが嘘のように、涼しい。
あれほど人の多かった大通りから少し離れた森の湖は驚くほど静かだった。
腕にすがりついたままのロザリアを連れて、レオナードは、つい人のいない方へ歩いてきてしまった。
今、ロザリア以外には、見せたくない顔をしているだろう。
湖のほとりまで歩いて、レオナードは立ち止った。
穏やかに流れる水音と、その水がはねるたびにできる光の輪。
綺麗な光景なのに、なぜかため息が零れる。
ふとロザリアの顔を見ると、彼女も泣き出しそうな顔をしていた。

「んな顔すんなよ。」
ロザリアを促して、レオナードは草の上に腰を下ろした。
このあたりは草もキレイだから、彼女の服を汚す心配もないだろう。
「セレスティアだって、立派な街だ。 ああいう街ってのは表の顔だけじゃねえ。
 人が集まりゃ、裏もできる。…女王陛下や守護聖なんてのが、どんだけなにをやっても仕方ねえ。
 それが人間の営み、ってヤツだ。」
ロザリアにはわからないかもしれない。
きっと彼女は表の世界だけを見て育ってきたはずだから。
それでも、なにも言わずにレオナードのしたいようにさせてくれていた。
傍にいるのが、ロザリアでよかった、と、心の底からそう思う。

「なぜ、財布を取り上げたんですの? 」
「金をやらなかったことを怒ってんのか?」
「そういうわけではありませんけれど…。」
やっぱりロザリアは頭がイイ。
レオナードに理由があることをちゃんとわかっている。
けれど、やっぱり彼女は何も知らない。

「子供ってのは、たいてい誰かに世話になってる。 一人じゃ生きていけねえからな。
 だけどよ、ガキの世話してるからいいヤツだとは限らねえんだ。
 ガキのほうが油断するから、盗みも楽だ。うまくいきゃあ同情して金ももらえる。
 そういうガキに寄生してる大人が裏にいるんだ。」

自分は孤児院にいたが、そこからもはみ出した子供たちは、そうやって生きていた。
オトナになり、裏を見るようになってから、幾度となく目にした、子供たちの姿。
「ガキに金をやったら、大人が取り上げる。…食いもんなら腹に入れちまえば、絶対とられないからよ。」
ロクに食べ物ももらえず、飢えた子供。
愛されていない姿が、どうしても自分の過去に繋がってしまう。
レオナードはふっと笑みをこぼした。


ふわり、と風が揺れたかと思うと、レオナードの視界に青紫の髪が広がった。
そして、バラの香りと、頬に触れる柔らかな感触。
ロザリアの腕がレオナードの首を抱き、頬が触れ合っている。
ぎゅっと抱きしめられているのだと、わかっても、レオナードは彼女の背に手を回すこともできず、固まっていた。

「わたくし、あなたが好きですわ。」
「ああ、わかってる。」
「まあ。 ずいぶんな自信ですこと。」
「お前は俺のもんだ、って言っただろうが。…ま、俺もお前のもんだけどなァ。」

やっと呪縛が解けたように、レオナードはロザリアの背に腕を回した。
それから少し喉を鳴らし、息を整える。

「待たせて悪かった。」

誰かに謝るなんて、考えたこともない時期もあった。
謝ったら負け、弱いヤツのやること。
今でも抵抗がないわけではないけれど、ロザリアになら弱さをさらけ出しても、平気だと思えた。

「わたくし、怒っていましたわ。 でも、本当はそれ以上に寂しかったんですの。」
「…なんでだよ。」
「だって、わたくしは、あなたに会える日は、いつでも早くに目が覚めてしまうんですの。
 会いたくて、いてもたってもいられなくて。
 それなのに、あなたは寝坊して遅れてくるんですもの。
 会いたくてたまらないのは、わたくしだけみたい…。」
本当に寂しそうにロザリアの語尾が小さくなっていく。

「バカ言ってんじゃねえよ。」
レオナードはさらにぎゅっと腕に力を込め、ロザリアの頭を抱え込んだ。
「俺はなあ、お前がいなけりゃ、執務だってやる気になんねえ。
 週末にお前に会えるから、やってんだ。 じゃなけりゃ、やらねえに決まってんだろ。」
「そんなことを大きな声でおっしゃらないで。」
少し怒ったような声に、安心した。
でも、その声はすぐにまた弱弱しいものに変わってしまう。

「では、なぜ、ちゃんと来てくださらないんですの…? 一人で待っていると、とても不安ですわ。」
虫に絡まれて困っていたロザリアの姿が思い浮かぶ。
「…努力するからよォ。」
「努力しなければいけませんの?」
拗ねたような口調が愛らしい。
レオナードは肩を落とし、ロザリアの耳元に囁いた。

「…今度遅れたら、一日、お前の奴隷になってやる。 それで許してくれねえか。」
「一日奴隷、ですわね。 今からお願いを考えておきますわ。
 部屋の模様替えもしたいですし、庭の薔薇の植え替えもしたいと思っていましたの。」
「あのなァ…。」
なにをさせる気なんだ、と言いかけて、レオナードは黙り込んだ。
ふと顔を上げたロザリアの瞳があまりにもキレイで、でもどこか不安そうだったから。

いっそ本当のことを言ってしまおうか。
小さい頃から、楽しみなことがあると、なかなか寝付けない。
たとえば遠足の前の日だとか、滅多に出ない御馳走の出る、クリスマスの前の晩だとか。
ロザリアと会えると思う前の夜。
何度も寝がえりを繰り返しているうちに、気がつけば真夜中を過ぎていて、案の定、寝坊してしまう、ということを。

「お前のせいなんだぜ。」
嬉しいことも楽しいことも、穏やかなこの一時も。
そして、愛されているという、実感も。
全部、ロザリアがくれる大切なものだ。
大人しく寝てなんていられるわけもない。
レオナードは、不思議そうに首を傾げるロザリアをぎゅっと抱きしめたのだった。


FIN
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