ぬくもりを抱いた午後の風は、ほんの少し気だるげな空気をロザリアに運んできた。
ふと時計を見上げれば、すでにお茶の時間を半刻ほど過ぎている。
一心不乱に書類と格闘していて、気がつけば一日が過ぎるているのが、このところの日常。
改めて背筋を伸ばし、ロザリアは書類に向き直った。
今日のうちに済ませておきたいことが、まだまだいくつもある。
手にした書類に目を通し、最後の署名をしようとしたところで、手が止まった。
「困りましたわね。」
最後の最後でサインが抜けている。
よくある軽いミスなのだから、別にサインをもらえばいいだけの話。
それだけだけれど、その相手がオスカーだということが、ロザリアの気持ちを重くする。
「しかたがありませんわね。」
ロザリアは自分に言い聞かせるように立ち上がった。
執務室を覗いてみたが、オスカーは不在だった。
ちょうどお茶の時間なのだから、おそらく誰かのところか、カフェにでもいるのだろう。
たくさんの女性に囲まれている彼の姿を思い浮かべると、まだ少しだけ胸が痛む。
けれど、それは以前のような刺すような痛みではなく、少し出しすぎてしまった紅茶の最後の一滴のような、苦みの残滓に近いかもしれない。
足早にカフェへ向かうと、思った通り、彼はそこにいた。
声をかけようとして、彼の向かいにある、別の人影に気がつく。
華やかな姿は勿論見間違えるはずもない。
ロザリアは少しためらった後、足を速めて、彼らの元に近づいた。
「お茶の時間を邪魔してしまってごめんなさいね。」
二人に声をかけると、オリヴィエはいつものように軽い調子で、
「いーの。別に好きでコイツとお茶してるわけじゃないんだから。」
と、手を振って返してくれた。
オリヴィエがいてくれてよかった、とロザリアはそっと安堵の息をついた。
あの日からもう数カ月。
もちろん、ロザリアの中で整理はついているし、オスカーの言いたかったことも、理解している。
けれど、平然としているオスカーを、まっすぐに見ることができない程度には、まだ気まずいのだ。
補佐官になってすぐ。
ロザリアは思いきって、オスカーに想いを打ち明けた。
誰にも話したことはなかったけれど、自分一人で抱え込むには、想いは大きくなりすぎていて。
女王候補という枷が外れたとたん、抑えることができなくなっていた。
「好き…ですの…。
オスカー様は、わたくしをどう思っていらっしゃいますか…?」
静かな湖面のようなアイスブルーの瞳に吸い寄せられて、溢れだした言葉。
彼の瞳の冷たい色が一瞬、熱く揺らいだ気がした。
「俺も君が好きだ。」
天にも昇る心地、とはまさにあの瞬間だろう。
めまいがするほどの幸福感で、世界が薔薇色に見えた。
けれど。
すぐに同じ彼の言葉で奈落へ突き落されることになったのだ。
その後、どうやって彼の元から去ったのか、よく覚えていない。
ただ見苦しく泣きだしたりせずに済んだことは、自分を褒めてやりたいとさえ思う。
どこへ行けば、いいのか。
自分の家に帰ればいいのに、気がつけば、足は勝手にオリヴィエの元へ向かっていた。
「どうしたの? すごい顔してるよ。」
ドアを開けたオリヴィエはひどく驚いた顔をしている。
黙ってうつむいてしまったロザリアの肩を優しく抱いたオリヴィエは、彼女をソファへと導き、押し込むように座らせた。
オリヴィエの付けている香りは、ロザリアの大好きな薔薇の香りに似ている。
気高く咲く薔薇のようになりたいのに。
そう思ったら、急に涙があふれて来た。
「オリヴィエ様…。」
何も言えないロザリアを、オリヴィエは優しく胸に抱き寄せた。
暖かな彼の胸は、涙と一緒にロザリアの悲しみまで吸い取ってくれるような気がする。
ロザリアは抱えていた痛みを吐き出すように、オリヴィエの胸で泣いた。
辺りが暗くなり、ようやく涙が止まったロザリアに、オリヴィエは暖かなカップを持ってきてくれた。
中から漂う甘い香りにロザリアの目じりが緩む。
一口含むと、濃いミルクの風味と優しい甘みが全身に広がった。
「美味しい…。」
驚いてオリヴィエを見上げると、彼は柔らかな笑みを浮かべて同じ紅茶を飲んでいる。
「甘いモノって、幸せになれるよね。 これも美味しいんだけどさ、飲み過ぎると太るからイヤなんだ。」
冗談めかした彼の言葉に、思わず笑みがこぼれた。
暖かな気持ちになれたのは、甘い紅茶のせいだったのか。
今もオリヴィエは涙の理由を聞かない。
ロザリアは胸に抱えていたクリアファイルから書類をとりだした。
「どうしてもここに、サインが欲しくて。 お願いできますかしら? …オスカー。」
まだ名前を呼ぶ時に、ほんの少し身構えてしまう。
それでも平然を装える程度には大人になれたと思う。
カフェを後にしたロザリアの口から、長いため息が零れた。
甘い甘いミルクティ。
落ち込んだ時、こっそり作るミルクティ。
あの日まで紅茶はストレートで飲むことが普通だったロザリアのキッチンの冷蔵庫に、今では欠かさずミルクが置かれている。
紅茶を入れて、温めたミルクを注いで、砂糖を2杯。
ロザリアが作るミルクティはオリヴィエの淹れてくれたミルクティに似ているのけれど、どこか違う。
あの優しい甘さがどうしても出ない。
何度か彼にレシピを聞こうと思ったものの、あの時のことを思い出されるのが嫌で聞くことができないのだ。
いつでも優しくロザリアを包み込んでくれるオリヴィエ。
このごろ、彼のことを考えると、心が温かくなる。
好き、なのだと思う。
オスカーを想っていた激情とは違うけれど、今までとは違う気持ちをオリヴィエに対して抱き始めていることは事実だ。
オリヴィエもロザリアのことを嫌いではないだろう。
でも、きっと、自分の『好き』と彼の『好き』は違う。
二つのミルクティが違うように。
もう同じ間違いを犯したくなかった。
もしもオリヴィエとも気まずくなってしまったら、とても聖地にはいられない。
ふと目にしたカレンダーに、小さな文字が書かれていた。
バレンタインデー。
好きな人にチョコレートを渡して、愛の告白をする日。
この気持ちを彼に伝えることなんてできない。
ならば、せめて、チョコレートを。
土の曜日、ロザリアは朝からケーキを焼いていた。
レシピ通りでは苦みが強すぎる。
何度か分量を変え、ようやく満足のいく甘さになったのは、もうとっくにお茶の時間も過ぎた頃。
慌てて、ケーキを包み、オリヴィエの家に向かった。
歩くたびに、袋からふんわりとチョコレートが香り、ロザリアの鼓動が激しくなる。
お菓子を持っていくだけ。
いつも通りにすればいい、と言い聞かせながら、夕暮れの小道を急いだ。
オリヴィエの家に着き、ドアをノックしても、中からは返事がない。
構わず、ロザリアは中へと歩みを進めた。
女王候補の頃から、休みの日に彼を訪ねることは少なくない。
ふと思いついてやって来たロザリアを、オリヴィエはいつでも歓迎してくれたのだ。
長椅子の上で身体を投げ出すように、オリヴィエは眠っていた。
さらさらと風に揺れる金の髪に、夕暮れのオレンジの光がキラキラと映えている。
男性に対する褒め言葉にはならないのかもしれないが、キレイ、だと思った。
何もかけずにいて肌寒いのか、オリヴィエはギュッと腕を組んで、身体を縮めている。
メイクをしていない彼の顔を見るのは久しぶりだ。
思わずじっと見ていると、長い睫毛が震え、ダークブルーの瞳がぼんやりとロザリアを捕えた。
「オリヴィエ…。」
つい名前を呼ぶと、見つめ返されて、息が苦しくなる。
ロザリアは慌てて目をそらすと、近くにあったひざかけを手にとり、オリヴィエの身体にかけた。
「来てくれて嬉しいよ。」
ロザリアの全身がカッと熱くなる。
ささやかな一言にも翻弄されてしまう自分がうらめしくて、やはり、彼を好きなのだと、思い知らされた。
「お茶、淹れ直しますわ。」
テーブルの上に置き去りになっていたカップを手にキッチンに逃げ込むと、ロザリアは自分の頬に手を当てた。
火照ったように熱くなっている。
こんな顔を見たら、勘のいいオリヴィエは気づいてしまうだろう。
そして、ロザリアを避けるようになるかもしれない。
大きく深呼吸をしながら、紅茶を淹れた。
慣れた手順はロザリアに落ち着きを取り戻す時間を与えてくれたようだ。
トレーにポットとカップを乗せた頃には、なんとかいつものロザリアに戻れていた。
促されるまま、焼いたばかりのチョコレートケーキをとりだした。
「そっか。もうすぐだもんね。」
バレンタインが近い、とオリヴィエもわかっているらしい。
ドキリとしたが、彼はそれ以上何も言わなかった。
「すっごく美味しいよ。」
甘すぎるくらいのチョコレートケーキをオリヴィエは満足そうに食べてくれている。
甘いモノが幸せを運んでくれるというのは、嘘じゃないのかもしれない。
だって、彼のそばにいる今、自分はこんなにも幸せだ。
「よかった! そう言っていただけて、安心しましたわ。」
当日は、きっと、みんなと同じ小さなチョコレートしか渡せない。
彼だけが特別だと、誰にも知らせることはできないから。
想いをこめたチョコレートを渡す日がバレンタインだとしたら、今日をバレンタインだと思えばいい。
ロザリアはケーキを食べながら、オリヴィエといつも通りの話をした。
ファッションのことや流行りのお店のこと。
楽しそうに笑うオリヴィエ。
片想いも2回目になると、うまく隠せるようになる。
ずっと背伸びをしてきたけれど、こんなふうに大人になりたかったわけじゃないのに。
最後の一口を頬張ると、甘すぎるはずのケーキがわずかな苦みを残していった。
「このケーキなら、ちゃんとあんたの想いが伝わるよ。」
帰り際、オリヴィエはダークブルーの瞳を細めて、そう言った。
オリヴィエのために焼いたのに。
少しも伝わっていないのは、やはりロザリアの想いを考えたこともないからだろう。
微笑みを浮かべるのが辛くて、黙って頷いた。
帰ったら、ミルクティを飲もう。
この心の苦みを全部、消してしまえるように。
FIN