育成を終えたロザリアが部屋に戻ると、なんと、あのアンジェリークが分厚い本を読んでいた。
女王試験も半ばを過ぎ、ロザリアとアンジェリークは非常にいい関係を築いていた。
それは、『飛空都市に来て一番良かったことはなんですか?』とインタビューを受けたら、『アンジェリークと出会えたことです。』と即答できるくらいで。
きっとそれはアンジェリークも同じだろうと思う。
『ロザリア、私達、ずっと親友よね!』と毎晩のように言われ、『コレ、ロザリアにだからあげるの!』と、お気に入りのクマのキャラクターのぬいぐるみをプレゼントされ。
端的に言えば、二人はすでに『親友』の域に達していた。
これもまた、数奇な運命と言っていい。
お互いに同じ学校に通っていたのに、それまでは一言も口をきいたことのない間柄だった。
それが今はこうして、アンジェリークは堂々と、ごく当たり前のように、ロザリアの部屋でくつろぎ、ばあやの淹れた紅茶を飲んでいる。
「まあ、明日は雨じゃないかしら? あんたが勉強してるなんて。」
ロザリアが言うと、アンジェリークはにへら、と笑った。
「だって~。 どれにしようか迷っちゃうんだもん~。 ロザリアはどれにする?
やっぱりクッキー? トリュフ? パイはレベルが高いよねえ。」
「は?」
話の見えていないロザリアに、アンジェリークは読んでいた本を見せつけた。
分厚い立派な本、ロザリアがてっきり育成の専門書だと思ったその本は、ページの半分が写真で埋められていて。
ど真ん中には美味しそうなガトーショコラが鎮座していた。
「これくらいなら余裕だけど、どうせならフォンダンショコラとか?
いっそ、ハートの特大ケーキにしちゃおうかな~。」
アンジェリークは本をぱらぱらとめくり、1人で騒いでいる。
飛空都市で初めてのバレンタインなのだから、浮かれるのも無理はない。
ましてや、それぞれに意中の彼がいるとあれば…。
盛り上がって当然だ。
「あんた、まさか、それを自分でつくるつもりなの?」
アンジェリークと一緒に本を覗き込んでいたロザリアがふと尋ねた。
写真のスイーツはどれも美味しそうで…店で売っているものと大差ない。
「当たり前じゃない! 義理チョコならともかく、今回は本命の本命。 ド本命の彼!
手作りで他の女の子に差をつけなきゃ!
…ただでさえ、守護聖様なんてたくさんもらうに決まってるんだから~。」
アンジェリークの目は真剣だ。
たしかに守護聖は美形ぞろい。
決して広くはない飛空都市にいるとはいえ、女官や職員など、妙齢の女性は少なくないし、ライバルは山のようにいる。
普通に買ったチョコレートを普通にプレゼントしても、それこそ埋もれてしまうだろう。
「手作り…。」
個性を出すには最高。 それはロザリアも理解している。
でも。
なぜか悩んだ様子のロザリアに、アンジェリークが笑いかけた。
「まさか、ロザリア、手作りとかしたことないの?」
その瞬間、ロザリアのこめかみにピッと青筋が立ち・・・・がくんと頭が垂れた。
「そうか~。お嬢様は料理なんてしないんだねえ。」
アンジェリークはばあやの用意したクッキーをかじりながら、うんうんと頷いた。
「だって、料理はシェフの仕事ですもの。 デザートも全て用意してくださいますし。」
ロザリアの生家では、キッチンに入るのは使用人だけだった。
喉が渇けば呼び鈴を鳴らし、飲み物をサービスさせる。
おやつの時間になれば、何も言わずともすべてがセッティングされ、出来立てのスイーツが出てくる。
それが当然の暮らしだったのだ。
「じゃあ、今までのバレンタインはどうしてたの?」
「えっ?! お父様に…。」
語尾が小さくなっていくロザリアにアンジェリークは、は~~~と大げさにため息をついた。
よく母の手伝いをしている、というアンジェリークの手際はなかなかに見事なものだった。
レシピの通りに順序良く、材料を用意し、進めていく。
エプロンをつけた二人が並んでいる姿は、とても女王という地位を争うライバルには見えない。
年頃の普通の女の子だ。
「今日は初めてでも簡単にできるチョコチップクッキーよ。」
「…そんなもの、とてもプレゼントにできませんわ。」
「まずは練習! バレンタインまでにはもうちょっと難しいのも作れるようになりましょう!」
妙にはりきるアンジェリークにロザリアは首をかしげた。
「あんた…。 なんかあるんじゃなくて? 笑顔過ぎるわよ。怖いわ。」
「やだ! なんにもないよ~。 ただ、私がロザリアに教えてあげられるのが嬉しいだけ!」
アンジェリークはてへ、と舌を出すと、泡だて器を回し始めた。
「さ~あ、ロザリアもこっち! 頑張って!!」
「わかってますわよ。」
「あ! ちょっと、混ぜすぎ~!」
「え?! だって、あんたが、これをまぜろって。」
「切るように、だよお。」
「粉が残っているのは気になりますわ。」
「あ~~あ。 ま、大丈夫か!」
そんなこんなで、二人で作った初めてのお菓子は…
「美味しい!」
「焼きたてって、ちょっと特別だよね。」
目を丸くしたロザリアにアンジェリークが笑う。
そうして、こつこつと練習を続け、バレンタイン前にはなんとかロザリアも一通りのことは覚えることができたのだった。
バレンタインの前日、ロザリアはアンジェリークと二人で、いわゆる義理チョコを作ることにした。
本命への練習、というと聞こえが悪いが、日ごろお世話になっている感謝の気持ちは十分に込めたつもりだ。
二人で9個。
きちんとそれぞれに合うリボンを選び、準備は万端。
「明日、一緒に回ろうね。」
アンジェリークの言葉にロザリアもうなずく。
「あ、もちろん、本命は別、だよ?」
そして、なぜか
「もー! ロザリアったらー! やっだー!!!」と肩を思いっきり叩かれ、ロザリアは今度も頷いた。
昔、スモルニイの同級生に、告白についてきてほしい、と頼まれたことがあった。
相手の男性がロザリアの母の友人の息子で、少なくない程度の面識があったせいだが、ロザリアは正直困ってしまったのだ。
呼び出すことは構わないが、その場にいるのは許してほしい。
初めに彼女にはそう断った。
一緒に居たりしたら、告白の結果に関わらず、非常に気まずいのが目に見えるではないか。
ところが、結局、彼女は「1人じゃ不安なの~。」と、ロザリアを引き留めて。
フラれた後には「あなたが味方をしてくれなかったから。 友達だと思っていたのに。」と、わけのわからない理由で責めた。
まったく『友達』なんて都合のいい冗談だ。
そういう点でもアンジェリークは、女王候補にふさわしいとロザリアは考えていた。
自分の意見をしっかり持っているし、なによりロザリアと正反対に見えて、価値観が似ている。
「よし! じゃあ、明日ね。」
「ええ。 頑張りましょう。」
本命のチョコレートはそれぞれで作る。
これも二人の間の暗黙の了解だった。
箱とリボンを選び、カードを書く。
ロザリアが想い人のために選んだのは、鮮やかなローズピンクの箱にスカイブルーのリボン。
オリヴィエをイメージするときに真っ先に思い浮かんだのが、ルージュの色のローズピンク。
そして、その彼に合わせるなら、自分の好きなスカイブルーだと思ったのだ。
二人のイメージカラーで一つの組み合わせを作る。
なんとなく少女趣味のようでおかしい気もしたが、そのくすぐったさも心地よい。
「これで…いいかしら?」
なんとか出来上がったトリュフチョコレートは、アンジェリークと二人で作った時よりも、ほんの少し不格好な気がする。
丸く丸めたつもりだったのに、どこかいびつなものもあったし、大きさも不ぞろいだ。
それでも、フォークで転がしながらコーティングのチョコをつけると、それなりのものが出来上がる。
こわごわ味見すれば、パキッといい歯触りがして、中の柔らかなチョコが口に広がった。
ほんのり効いたコアントロー。
実は、ラム酒の代わりにコアントローを使ったのには訳がある。
以前、二人で食事をした時、彼が飲んでいたカクテルを一口だけもらったことがあった。
夕日のような綺麗なオレンジ色に惹かれて、ほんの少しだけ、とおねだりしたのだ。
オリヴィエは意味深に笑いながら、「一口だけだよ?」とグラスを渡してくれた。
鼻先をくすぐるオレンジの香り。
喉を通った爽やかな柑橘の風味。
とても美味しかったけれど、オリヴィエはそのカクテルの名前を最後まで教えてはくれなかった。
「あんたがもう少し大人になったらね。」
その一言にロザリアがどれほどがっかりしたか…彼は考えてもいないに違いない。
でも、その後、いろいろ調べて分かったのだ。
カクテルの名前もその意味も。
だからこそ、ささやかな意趣返しに、コアントローを使おうと思い立ったのだ。
「明日、ですわ。」
出来上がったのはすでに深夜近く。
ようやくリボンをかけた小さな箱をベッドサイドにおいて、ロザリアは眠りについたのだった。
いよいよバレンタイン。
育成を終えたロザリアとアンジェリークは、義理チョコを配るために守護聖達の間を廻った。
バレンタイン自体を知らない堅物の守護聖や、全く興味なさそうに「その上に置いておいてくれればいい・・・。」という守護聖。
とても嬉しそうに飛び上がってくれたり、「ケッ。甘いモンなんかいらねー。」と言いつつ、大事そうに抱えてくれたり。
様々な反応が楽しかった。
なかなか居所のわからなかったオスカーをやっと執務室で見つけると。
なんと彼の部屋にはチョコレートの小山…いや、巨大な山ができていた。
「よお。お嬢ちゃんたち。 俺に渡すものを持ってきたんだろう?」
「はい、どうぞ。」
ロザリアが面倒そうに手提げの中からチョコを取り出すと、オスカーは大げさに音のしそうなウインクを投げかけてくる。
アンジェリークがさっと避けたのに気が付いて、ロザリアはうつむいて笑いをこらえた。
「ありがたくいただくぜ。 今日という日に贈られたチョコは全て俺への愛だからな。」
「ただの感謝の気持ちですけれど。」
冷静に言い放つロザリアにもオスカーは動じた様子がない。
むしろ、にやりと嫌な感じの笑みを浮かべて、二人を見ている。
たまらずロザリアが尋ねた。
「…なんですの?」
「いや。 …俺以外にもたくさんのチョコをもらってる男ならいくらでもいるぜ。
普段はぼんやりしてる学者先生の部屋にも包みが山積みだったしな。」
とたんにアンジェリークの緑の目が零れ落ちそうに見開かれた。
「やだ! 本当ですか?!」
オスカーはくっと笑い、
「ああ、本当だぜ。 当の本人は、今日が何の日かわかってないのか、『は~。チョコよりもおせんべいが…』とか言ってたがな。
お嬢ちゃんもあんな唐変木はやめて、俺にしておいたらどうだ?」
アンジェリークがいーっと変顔すると、オスカーは大きな声を立てて笑った。
「そういえば、極楽鳥の部屋にも撒き餌みたいに置いてあったな。」
ぴくり、と意図せずロザリアの眉が動く。
アンジェリークのように大げさに騒がないけれど、ロザリアも動揺していた。
オリヴィエがチョコをたくさんもらっているらしい。
お肌に悪いからチョコは食べ過ぎないようにしている、と、言っていたのに。
もしかすると、あれはロザリアにチョコを渡させないようにする牽制だったのだろうか。
考え始めるとネガティブな事ばかりが浮かんできて、ロザリアは手提げをぐっと握りしめた。
「じゃあ、失礼しまーす。 義理チョコなのに、お引止めしてしまってすみません!」
バターンと勢いよくドアを閉めたアンジェリークに、ロザリアも廊下に引きずり出される。
アンジェリークはキッと唇を引き締めて、グッと拳を握り、一人、気合を入れていた。
「さあ! いよいよ、ここからが本番よ! ロザリア。」
「ええ…。」
ずんずん先を行くアンジェリークについて廊下を進むと、先にオリヴィエの執務室に着き、、ロザリアは肩を落とした。
オスカーに会うまでは、ヤル気いっぱいだった気持ちが、今はかなりしぼんでしまっている。
扉を開けたら、チョコレートがいっぱいで、本命チョコを大切に食べているオリヴィエを見る羽目になるかもしれない。
そうなったら…玉砕だ。
逃げてしまおうか、と思ったが、背後にアンジェリークがいて、それも出来そうもない。
アンジェリークだってきっとすぐに飛んでいきたいのを我慢して、ロザリアを見届けようとしてくれているのだ。
こういう時、しり込みするのはたいていロザリアの方だから。
意を決して、ドアをノックすると、「はーい、開いてるよ。」と、いつものオリヴィエの声がする。
ちらりとアンジェリークに目くばせし、ロザリアはドアを開いた。
「いらっしゃい。」
どうやらオリヴィエはすでに今日の執務を放棄したようだ。
ソファに深く腰かけ、雑誌をめくっている。
執務机の上、ソファテーブルの上、それから床におかれたダンボール。
山積みになっているプレゼントに占拠されていては、何もできないのも仕方がない。
ロザリアの視線に気が付いたのか、オリヴィエはその山を見ると、肩をすくめた。
「なんか、聖地からも届いたみたいでさ。 おかしいよねえ?
私、今までこんなにもらったことなかったんだよ。 どっちかっていうと、女の子には引かれるタイプだしさ。
良くても友達どまりっていうか。 …わかるでしょ?」
面白そうに言うオリヴィエに、ロザリアは黙り込んだ。
オリヴィエは気づいていないのだろうか。
オリヴィエのことを一人の男性として、惹かれている存在がすぐ傍にもいることに。
「…そんなにたくさん食べるのは大変でしょうね。」
「ん? ホントだよね。 チョコはキライじゃないけど、お肌にはよくないしね。
どうしようか…。 まあ、しばらくジョギングでもして体調管理に努めるしかないか。」
きっとオリヴィエはこの山積みのチョコをきちんと全部食べるのだろう。
マイペースに見えて、意外に心配りのある人なのだ。
「どれが誰からのプレゼントか、わかっておりますの?」
ふとロザリアが尋ねると、オリヴィエは首を振った。
「ぜーんぜん。 いきなり箱で送り付けられて、ここに置いてかれたんだよ。
カードに名前でも書いてあればいいけど…。
お返しにも困るよねえ。」
本当に困っているのかわからない顔で、オリヴィエは笑っている。
「あ、ゴメン。 お茶淹れるよ。 ちょっと待ってて。」
思い出したようにオリヴィエは席を立つと、奥の間にお茶の支度をしに消えていった。
1人になったロザリアは、執務机のプレゼントの山から箱を手に取り、いくつかをしげしげと眺めた。
綺麗なラッピングばかりの、有名なお店のモノが多い。
オリヴィエは良くも悪くも美意識の高い人だ。
食べ物も持ち物も、自分のポリシーを大切にして、気に入らないものは手にしない。
…きっとチョコレートも同じだろう。
ふいにロザリアは手提げの中のチョコレートのことを思いだした。
心を込めて作ったし、味だって、決して悪くはなかった。
けれど、このたくさんのチョコと比べたら。
見劣りするのは間違いない。
「自己満足、ですわね…。」
どれだけ気持ちを込めようと、食べる方にはそんなものは関係ない。
綺麗で美味しいほうがイイに決まっているのだ。
ましてや、特別な気持ちのない相手からのプレゼントなら尚更。
ロザリアは手提げの中から、昨日作ったチョコレートを取り出した。
試行錯誤のラッピングもこうしてみると、なんとなく不格好な気がして、いたたまれない。
奥から漂ってくる紅茶の香り。
「お待たせ。」
オリヴィエの声が聞こえてきて、ロザリアは咄嗟に山の中へ自分のチョコレートを押し込んでいた。
お茶を飲みながら、オリヴィエと何を話したのか。
自分の部屋に戻ってからも、ロザリアは全く思い出せなかった。
たぶん、いつものようにオシャレのことや流行のお店やスイーツのこと。
ロザリアが知らなかった世界をオリヴィエに聞いて。
ロザリアの好きなことを話して。
そんなふうに時間が過ぎていったのだと思う。
「では、そろそろ戻りますわ。 楽しい時間をありがとうございました。」
ロザリアはソファから立ち上がると、スカートの裾を摘まみ、右足のトウを後ろに膝を折った。
いつも通りの退出の礼。
「私も楽しかったよ。」 と、返事があると思っていたが、今日はなぜかオリヴィエは何も言わない。
ロザリアが首をかしげていると、オリヴィエは困ったように前髪をかき上げた。
「…こっちから言うのもなんだと思うけど、あんた、なんか忘れてない?」
「え?」
ますます不思議そうに首を傾げたロザリアに、オリヴィエは大げさにため息をついた。
「あのね、今日が何の日か、気付いてないわけないでしょ? この部屋見てさ。」
「あ・・。」
思わず両手で口を押えたロザリアは、慌てて手提げの中から袋を取り出した。
てっぺんを小さなリボンでギュッと茶巾絞りにしたピンクの柔らかなシフォンの袋。
昨日、アンジェリークと一緒に作ったチョコレートだ。
「もうしわけありません。 これ、わたくし達女王候補から、皆様への感謝の気持ちですわ。
まだ試験も半ばですけれど、これからもよろしくお願いいたします。」
丁寧な言葉と一緒にオリヴィエに差し出すと、彼は綺麗に手入れされた指先で、その小さな包みを受け取った。
「…ふうん。 ありがとう。
あんたたち二人から、なんだね。」
「はい。」
ちらりとロザリアはオリヴィエの背後にあるチョコの山に視線を向けた。
山の中腹からわずかにはみ出したローズピンクの箱。
ああしておけば、きっといつか彼はロザリアのチョコを食べてくれるだろう。
たくさんの中の一つとして。
ドレッサーの前で髪を梳かし、ロザリアは明日の育成のことを考えてみた。
夢の力は十分すぎるほどフェリシアに満ちているから、しばらくはお願いに行かなくてもいい。
オリヴィエの顔を見ればチョコのことが気になってしまうから、会わないことが一番だ。
問題は、アンジェリークの追求だが…今、まだ、彼女は寮に戻ってきてはいないようだ。
戻っていたら、真っ先にロザリアに報告にくるはずだから間違いない。
こんな時間まで一緒にいるのなら、きっとアンジェリークは告白に成功したのだろう。
ロザリアから見ても、二人の気持ちが通じていることはわかっていたから、もともと心配はしていなかった。
それでも。
「全く、レディがこんな時間まで外出だなんて…。 明日、しっかりお灸をすえなくては。」
まるで口うるさい姉のようなことが浮かんできて、ロザリアは苦笑した。
とりあえず、今日は、アンジェリークに会う前に寝てしまおう。
彼女の幸せな話を聞くのは少し辛い。
そして、自分のことを話すのはもっと…できない気がした。
突然、コン、と、なにかがぶつかるような音がした。
音のした窓の方を振り返ると、さらにガタガタと揺するような音が続いている。
この平和な飛空都市で侵入者という事もないだろうが、ロザリアはおそるおそるカーテンをあけ、何事かと窓を覗き込んだ。
窓の外で、にっと笑いながら、ひらひらと手を振っているのは、間違いなくオリヴィエ。
執務服のままなのは、今まで執務をしていたのだろうか。
少し疲れた顔をしているようにも見える。
ビックリしたロザリアは窓を開けると、オリヴィエに小声で話しかけた。
「どうなさいましたの?」
「どうって…。あんたに話したいことがあって。 ほら、表からだとばあやさんに会っちゃうからさ。
あんたが気づいてくれたらいいと思って。 …ね、入ってもいい?」
ロザリアは戸惑った。
淑女の部屋を訪れるにしては、いささか遅い時間。
しかも、窓からとは礼儀も何もあったものではない。
けれど。
「…どうぞ。 ただし、今日だけ、ですわよ。」
守護聖だから安心だと思ったわけでもない。
ただ、オリヴィエが会いに来てくれたことが嬉しくて、はしたないという思いが負けてしまったのだ。
オリヴィエは身軽にひらりと窓を乗り越えると、あっという間もなく、部屋の中に足を踏み入れている。
それでも礼儀を損なわない程度の距離感を保っているのが彼らしかった。
「…ごめんね。 でも、どうしても、今日中に聞いておきたいことがあって。」
オリヴィエのダークブルーの瞳がじっとロザリアを見つめている。
静かな夜。
部屋の中に二人きり。
急にそのことを意識し始めると、ロザリアの鼓動がうるさいほどに鳴り出した。
知らずに足が震え、とても彼の顔を見ていられない。
「なんですの? 早くおっしゃってくださいませ。」
慌てて背を向けると、ふわりとオリヴィエの香りがロザリアを包み込んだ。
「え・・・?」
香りだけじゃない。
彼の腕が、体が、ロザリアを抱きしめている。
あっという間にゼロになった距離が、ロザリアから心の自由も奪ってしまったように思えた。
拒みたいのに、拒めないのだ。
「教えて。 これ、 あんたの?」
オリヴィエがふわふわの羽のストールの間から取り出したのは、見覚えのあるローズピンクとスカイブルー。
ロザリアの全身がカッと熱くなった。
なぜ、彼がこれを?
どうして?
バレてしまったという恥ずかしさと疑問で、頭の中がいっぱいになって、とても言葉が出ない。
頷く事さえできないロザリアを、オリヴィエはさらにギュッと抱き寄せた。
線画:さみぃ様、 着色:ちゃおず
「あのチョコの山の中でね、このピンクが一番、綺麗だと思ったんだ。
私のルージュと同じ色。 それと、この、ブルー。 まるであんたみたいだって。」
ロザリアが帰った後、オリヴィエは気が抜けたようにしばらく執務室でぼんやりと座っていた。
期待していなかった、といえば、嘘になる。
隠し事のできないアンジェリークから、『ロザリアと二人で手作りチョコの練習をしてるんです~』 と聞き出した日から、ずっと、ロザリアがチョコをあげる相手が気になって仕方がなかったのだ。
手作りをしたいと思うほど、彼女が想う相手。
一番ロザリアと親しいのは自分だとは思っている。
でも、それは恋ではないかもしれない。
そんな恐れも入り混じり、今日一日、ソワソワしながらロザリアを待っていた。
…途中で見覚えのない大量のチョコが届くという、おかしなアクシデントは入ったが。
けれど、その結果が、このチョコ。
オリヴィエは目の前のピンクの包みを見て、ため息をこぼした。
皆の部屋で見た、お約束の『義理チョコ』。
手作りには違いなさそうだが、とても特別とは思えない。
「勘違い、だったのかな。」
むしろ、ただの願望。
再びため息をついて、カップを片付けようとした時、執務机の上のチョコの山が目に入った。
いろんなお店の、趣向を凝らしたパッケージ。
その色とりどりのラッピングの中で、なぜか目を引いた、ローズピンク。
半ば埋もれていたその箱を、オリヴィエは掘り出した。
手慣れた様子はないけれど、丁寧にラッピングされた箱には、同じようにきちんと結ばれたスカイブルーのリボンがかかっている。
オリヴィエの好きなローズピンクと、彼女のようなスカイブルー。
不思議な期待にオリヴィエの鼓動が早まった。
逸る気持ちと焦る手で、リボンの合間に挟み込まれたカードをひらくと、
『オリヴィエ様へ 想いをこめて』
たった一言だけ。
それでもその文字で、誰の文字かわかってしまった。
あとはもう、いてもたってもいられなくて。
こうして、今、彼女を腕に抱いている。
「…私へのチョコレート、だよね? 違うなら、違うって言って。」
耳元で甘く囁くオリヴィエの声に、ロザリアは狼狽していた。
想いを込めたチョコレート。
でも、あんなにたくさんの素敵なチョコレートに比べたら、本当につまらないものだ。
こんな小さな箱で、中身だって手作りで。
お世辞にだって世界一美味しいなんて言えない。
「申し訳ありません…。 あの、捨ててくださって結構ですから…。」
「捨てる? どうして?」
ロザリアは俯いた。
「だって、こんな…。 つまらない、手作りで、オリヴィエ様にはふさわしくありませんわ…。」
言葉に詰まったロザリアをオリヴィエはじっと抱きしめる。
「嬉しいよ。 こんなにチョコレートをもらうことが嬉しいなんて、初めてなんだ。
手作りなんてさ、正直バカにしてたんだよ。 買ったほうが絶対美味しいのに、って。
でもね…。 あんたが私のために作ってくれたって思ったらさ。
本当に嬉しいんだ。 カッコ悪いよね。」
オリヴィエにとって、綺麗と美味しいは大事だ。
でも、それ以上に大切で、もっと素敵なものもあると、初めて分かった気がする。
オリヴィエの心からの言葉に、ロザリアも素直になりたいと感じていた。
綺麗で美味しいチョコレートなら、きっと世界にたくさんある。
でも、ロザリアがオリヴィエにプレゼントしたかったのは、チョコレートそのものではなくて。
オリヴィエを想う、この気持ち。
「オリヴィエ様…。 わたくしからのチョコレート、受け取っていただけますか?」
まだ俯いたままのロザリアがつぶやく。
オリヴィエはようやくロザリアを腕から解放すると、彼女の顎を持ち上げ、真正面から宝石のようなブルーの瞳を見つめた。
「もちろんだよ。 本当にありがとう。」
額に心からのキスを落とすと、ロザリアは真っ赤な顔で、また俯いてしまった。
「食べてもいい?」
オリヴィエはリボンを外し、ペーパーをとると、箱をあけた。
小さなトリュフが4つ。
手作りのせいか、大きさも不ぞろいで、真ん丸とは言い難い。
ロザリアは改めて恥ずかしくなった。
それでも、チョコを手にしたオリヴィエがとてもうれしそうに笑っているから。
綺麗な指でつままれたチョコレートがオリヴィエのローズピンクの唇に吸い込まれていくのを黙って見ていた。
「ん…。 コレ…。」
口の中のチョコレートをゆっくりと味わっていたオリヴィエがニッと笑った。
なにか考えているような、たくらんでいるような笑みだ。
「すごく美味しいよ。 ホントに。」
2個目を指でつまんで、すぐにまた口に入れる。
やっぱりしばらく味わっていたかと思うと、急にロザリアに向かってウインクをした。
「コアントローだね。 ふふ。」
オリヴィエはくすくすと笑っている。
ロザリアはカッと全身が熱くなるのを感じた。
ひょっとして彼はロザリアのささやかな悪戯に気付いてしまったのだろうか。
聞くに聞けないことだけに、ただドキドキとするのを我慢するしかない。
2個を食べ終えた時点で、オリヴィエは箱を閉じ、元通りのラッピングに戻している。
綺麗に包み終えたオリヴィエは、ロザリアを再び背後から抱き寄せると、耳元に囁いた。
「『ベッドの中で』。」
「え?.何ておっしゃったんですの?」
吐息まじりの艶めいた言葉と、頬をなぞる指にロザリアの胸がざわめく。
「大人になったら、って約束したのに、待てないの?
私と飲みたいって言うんなら…覚悟しておいで。」
やっぱり彼にはお見通しなのだ。
あの時のカクテル。
『Between The Sheets』。
その意味が分からないほど子供じゃない、とオリヴィエに仄めかしたつもりだったのに。
こんな艶っぽい彼を見せられたら、子供の方がイイかもしれないと思ってしまう。
…溶けてしまいそう。
違う。
きっともう彼に溶かされている。
耳まで赤くなって絶句したロザリアに、オリヴィエはにっこりとほほ笑んだのだった。
FIN