闇の守護聖の奥の間は、執務室が光を押さえている分だけ、穏やかな明るさに満ちている。
うららかな聖地の午後。
窓から差し込む自然の光だけの室中でも、彼女の輝きは少しも損なわれることがない。
むしろ、青で彩られたその姿は、この部屋の中に溶け込む一輪の花のようだ。
大きなソファにゆったりと寝そべり、紅茶を飲んでいたクラヴィスは、ロザリアの背中に、そう声をかけた。
「え…?! 今、 なんておっしゃいましたの?」
窓辺の飾り棚で花瓶に薔薇を生けていたロザリアは、目を丸くして、クラヴィスの方へと振り返った。
その瞬間、彼女が顔をしかめたかと思うと、手にしていた白薔薇が1本、床に落ちていく。
どうやら、クラヴィスの言葉に驚いて、つい握ってしまったらしい。
棘を刺したのか、ちらりと掌を見た後、
「あら、わたくしったら。」
慌てて拾い上げる姿が、クラヴィスの目に映った。
ロザリアは有能な補佐官だが、見た目よりもずっと、そそっかしいところがある。
それは彼女自身も十分に理解していて、だからこそ綿密に下調べをし、きちんと手順を整え、理解したうえで事に当たるようにしているのだ。
それが他人からは仕事熱心ととられ、完璧にも見えてしまうらしい。
事実以上に完璧な補佐官と噂されると、彼女はその評価に応えようと、また頑張りすぎるところがある。
クラヴィスはそういった人物を幼い時から間近で見てきていた。
熱心で純粋であるがゆえに、仲間からも煙たがられている幼なじみ。
首座の守護聖である彼の場合は、その高すぎる誇りゆえに放っておいた方がいいと思い、事実そうしてきたが、ロザリアの場合は違う。
少女ゆえの多感さや寂しさが、他人に壁を作り、それがクラヴィスにはとても不安定に思えたのだ。
強いものほど、脆さを秘めている。
実際、当時のロザリアはアンジェリークに比べて、ほとんどの守護聖からよく思われていなかった。
特別に構うことはしなかったが、ロザリアはクラヴィスから拒絶を受け取らなかったらしい。
もともと動物には好かれる性質だ。
懐く、という言い方は適切ではないかもしれないが、慕われるようになっていったのは、わかっていた。
そして、クラヴィスにとっても、彼女が自分の前でだけ見せる素のままの様子を、とてもほほえましく思うようになっている。
たとえば今のような、ささいな出来事でも。
「刺したのか…?」
クラヴィスが尋ねると、ロザリアは勢いよく首を振った。
まるで小さな子供のように、勢いよく。
彼女らしからぬ反応に、クラヴィスはほんの少し違和感を感じたが、それ以上追及するのは止めた。
ロザリアが再び、花瓶に身体を向け、花の姿を整え始めたからだ。
「本当に? 日の曜日にセレスティアに?」
背中を向けたままのロザリアが、クラヴィスに問いかける。
「気が向かぬか…?」
まさかこんなにも聞き返されるとはクラヴィスには予想外だった。
ロザリアくらいの少女ならば、外へ出ることを好むだろうと、漠然と考えていたのだ。
「いいえ! 行きたいですわ。 …わたくしでよろしければ。」
最後はなにやら口ごもるような様子で、ロザリアはいつまでも花を弄っている。
また彼女らしからぬ反応に、クラヴィスは今度こそ理由を聞こうと口を開きかけた。
けれど。
「わたくし、執務が残っていたんでしたわ。」
ロザリアは急にそわそわしだしたかと思うと、あっという間に部屋を出ていってしまったのだ。
もちろん白薔薇は綺麗に活けられてはいたけれど、お茶も飲まずに行ってしまうことは滅多にない。
特に約束を交わしているわけではないが、なんとなく、午後のお茶を一緒に過ごすことは習慣になっていると言ってもいい。
時間があれば、ロザリアはやって来るし、クラヴィスもそれを拒んだことはない。
さっきも白薔薇を持って現れたロザリアは、いつもと変わらず、紅茶を淹れてくれた。
クラヴィスの好む、少し苦みのあるキーマンの葉。
その紅茶に口をつけることもしないなんて。
やはり多少不自然さをおぼえたものの、もともとクラヴィスは好奇心のあるタイプではない。
追いかけていってまで理由を聞こうという気にはなれず、そのまま一人で午後のお茶を飲み続けていた。
クラヴィスには、時間という概念はあまりない。
カードを弄んでいるうちに、すでに夜が近付いていたらしい。
いつも執務の終わりを慰めてくれるリュミエールがハープを抱えてやってきた時、クラヴィスはまだロザリアの淹れてくれた紅茶を飲んでいた。
もちろんすっかり冷めてしまってはいたが。
「クラヴィス様。今日もよい一日でございました。」
クラヴィスは特に言葉を返さないが、にっこりとほほ笑んだリュミエールは、優雅な手つきで、いつもの曲を奏で始めた。
音楽というものは不思議だ。
時に水晶球以上に人の心を映すことがある。
リュミエールのハープにいつもと違う音色を読みとったクラヴィスは、曲が終わった後、寝そべっていた身体を起こした。
「なにかあったのか・・・?」
クラヴィスの問いかけに、リュミエールは再びにっこりとほほ笑んだ。
「クラヴィス様。 わたくしはとてもよいことだと思います。」
「…何のことだ。」
眉を寄せたクラヴィスに、リュミエールは微笑みを浮かべたまま、すぐにハープを抱え、そそくさと出ていってしまった。
いつもなら、2、3曲は聞かせてくれる音色がないと、なんとなくもの寂しい。
けれど、リュミエールにも気が乗らないこともあるだろう。
何となくそわそわした様子だったリュミエールを思い浮かべ、違和感を意識の底に追いやる。
それからクラヴィスは、ゆっくりとソファから立ちあがると、残りの執務を片づけるべく、机に向かった。
夜の方が集中できるのは、昔から同じ。
これでも、ロザリアが補佐官になってからは、執務をためないように気をつけているのだ。
クラヴィスが貯め込めば、それだけ彼女の負担も重くなることを知っているから。
書類にサインをしていると、ドアがなった。
ドア越しにでも聞こえるざわざわした話し声と、このあわただしい叩き方は、彼らぐらいしか思いつかない。
「なんだ・・・。」
面倒くさいが、返事をしなければ、それは別の意味で面倒なことになる。
クラヴィスが声を上げた瞬間、もうドアは開いていた。
「クラヴィス様!」
暑苦しく走り込んできたのはランディだ。
「よかったですね!」
その隣で、花を抱えたマルセルが満面の笑みを浮かべている。
「これ、クラヴィス様へのプレゼントです。 どうぞ。」
抱えていた花を、マルセルはクラヴィスに向かって突き出した。
マルセルの顔がすっぽり隠れるくらいの大量の花が、クラヴィスの視界をふさいでくる。
美しい花を厭うわけではないが、これでは、この後の執務に困ってしまう。
クラヴィスはわずかに顔をそらし、サイドテーブルに視線を向けた。
「あちらに…。」
言った途端に、視界から花が消え、ランディとマルセルがサイドテーブルに花を並べているのが見える。
二人とも本当に晴れやかな表情で、クラヴィスはふっと笑みを浮かべた。
「じゃあ、僕たち、失礼します!」
「ああ…。」
本当はなぜ、彼らが揃って花を届けに来たのか聞きたかった。
けれど、彼らもまた、リュミエールと同じように、言うだけ言うとそそくさと部屋を飛び出していってしまったのだ。
今日は、なにかの記念日だっただろうか。
一人になり、クラヴィスは頭の中で今日の日付を思い浮かべてみたが、なにも思い当ることはない。
不思議に思っていると、ふと、マルセルが残していった花の香りに気がついた。
先日、マルセルが偶然、私邸に届けてくれた花。
あれに似合うような花瓶が欲しくて、ロザリアとセレスティアに行こうと思ったのだ。
彼女ならば、きっと、よいものを選んでくれると思ったから。
このままでは花が萎れてしまうと考えたクラヴィスは、とりあえず花を花瓶に移そうと奥の間へ足を向けた。
さっき、ロザリアが白薔薇を飾っていたが、少しつめれば、この花たちも入れることができるだろう。
クラヴィスは花瓶に花を差し込んだ。
マルセルが持ってきたチューリップは、色鮮やかで、白薔薇ともほどよく調和しているように見える。
「チューリップか・・・。」
聖地の常春の気候で、チューリップは珍しい花ではない。
マルセルの花壇にもきっと頻繁に咲いているはずだ。
けれど、なぜ、今日、彼はこの花を持ってきたのだろう。
わからないまま、花を眺めていると、無遠慮にドアが開く音がした。
こんな開け方をするのは、あの男しかいない。
クラヴィスが物想いを中断し、執務室へ戻ると、やはりそこにはジュリアスが仁王立ちで待っていた。
「そなた、何をしていた。」
「マルセルから花をもらった・・・。」
短いやり取りで、全てが理解できるのも、付き合いの長さゆえだ。
ジュリアスはじろりと椅子に座ったクラヴィスをねめつけると、手にしていた書類を机の上に置いた。
「これなのだが、そなたの意見を取り入れて、こちらへ誘導することにした。」
「そうか。」
少し前に、会議の議題になった惑星の処分。
速やかな処置を主張したジュリアスに、クラヴィスだけが反論した。
その時はかなり険悪になったと覚えていたが、どうやらジュリアスの方にも思うところがあったのだろう。
「言いだしたのはそなたなのだから、責任をもって取り組んでほしい。」
「ああ…。わかった。」
クラヴィスが素直に従ったのが意外だったのか、ジュリアスは一瞬、息をつめた。
そもそもクラヴィスの方からジュリアスに反抗することはほとんどないというのに、なぜか、彼はクラヴィスの方が反抗的だと決めつけている。
本当に難儀な性格なのだ。ジュリアスという男は。
ため息交じりで苦笑したクラヴィスを、グッと眉間にしわを寄せたジュリアスが見つめている。
いつもなら、ここで、わかりやすい嫌味の一つでも言って出ていくジュリアスなのに、今日はなぜか、いつまでもその場に立っている。
さすがに不審に思ったクラヴィスが、口を開こうとした瞬間に、ジュリアスが咳払いをした。
なぜか今日は、こうして言葉を邪魔されることが多い気がする。
「そなた、ロザリアとセレスティアへ行くそうだな。」
「…なぜ、それを…?」
ジュリアスは一層眉間のしわを深くして、つまらなそうにつぶやいた。
「陛下から聞いたのだ。 そなたのほうからロザリアを誘った、とな。」
晴天の霹靂、宇宙の神秘。
いずれかはわからないが、この難儀なジュリアスと女王陛下は恋仲だ。
いったい、このジュリアスのような面倒な男のどこに、あの天真爛漫というか、天然ボケというか、おとぼけな女王陛下が惹かれたのかは分からない。
とにかく、二人は、話せば映画のようなロマンスを経て、今となっては聖地公認のカップルだ。
もちろん、そこには、補佐官のロザリアも多く関わっていたし、ロザリアの頑張りを図らずも見ることになってしまったクラヴィスも関係していた。
と言っても、二人が恋仲であるがゆえに隠し事がなく、ロザリアが陛下に話したことは、ジュリアスにも筒抜けになってしまう、ということを除けば、別にクラヴィスにはなんの影響もないことだ。
「クラヴィス、私はずっと後悔していた胸のつかえがとれた事に、素直に感謝せねばなるまいな。」
ジュリアスは少し沈痛とも取れる表情のまま、クラヴィスを見つめた。
「前女王陛下とそなたとのことを、あの時、もっと慮っていれば、とずっと後悔していた。
自分と陛下とのことがおこり、なおのこと、その思いは強くなっていった。
そなたの幸福を私が奪ってしまったのではないか、とな。
だが、そなたが、過去の傷を癒し、新たな関係を築こうと考えているのだと知って、私は・・・。」
「待て…。お前の言っていることがわからぬ。」
滔々と話し始めるジュリアスに、思わずクラヴィスは割って入っていた。
そんなことをすれば、100倍になって説教が返ってくるとわかっていたが、どうにも聞き逃すことができない。
過去のことは確かにクラヴィスの中でいまだに傷跡を残している。
けれどそこから新たな血が噴き出すようなことはない。
時間と、そして新しい風が傷跡を覆い隠してくれたからだ。
ジュリアスと陛下の恋の成就も、その風の一つ。
聖地のような古い場所でも、少しすつ変わっていくと、教えられた。
「そなた、ロザリアをセレスティアに誘ったのだろう? 今度の日の曜日に。」
「ああ…。」
それは否定しない。
だが、それとジュリアスの言葉の意味が繋がらないだけだ。
「まさか、知らぬのか?」
ジュリアスの眉がわずかに上がる。
珍しく困惑した彼の様子にクラヴィスは黙りこんだ。
「今度の日の曜日、セレスティアではイベントがある。」
もちろんクラヴィスには初耳だ。
「その日、セレスティアには特別なものしか入ることができぬのだ。」
「特別?」
クラヴィスは瞳を細めた。
もしかすると、ロザリアは入ることができないと知っていて、困惑したのだろうか。
あの時、薔薇を取り落としたロザリアの様子を思い出す。
「恋人同士しか門をくぐることができない、と決まっているのだ。
だから、その日にセレスティアへ誘うということは、恋人になってほしい、という意味らしい。
…私も陛下からさっき聞かされたばかりなのだが。」
言いきって、ジュリアスはクラヴィスに視線を向けた。
昔からのことだが、クラヴィスという男は本当に表情が変わらない。
今も相変わらず、気だるそうにどこか宙を見ているだけだ。
お茶の時間を過ぎた頃、ロザリアが女王の間に飛び込んできた。
なにもないお茶の時間、ジュリアスと女王アンジェリークは一緒にお茶を飲む事にしている。
お互い忙しい身だから、それこそお茶を飲む時くらいしか一日のうちでも顔を合わせることがないのだ。
そんな二人を気遣ってか、たいていロザリアは姿を消してしまう。
どこにいるかは、もちろん誰でも知っているが。
部屋に飛び込んできたロザリアにジュリアスは目を丸くした。
いつも冷静沈着で貴婦人然としたロザリアが、ドアが閉まった途端に、その場にへたりこんでしまったからだ。
「あ、アンジェ…。わたくし、クラヴィスに誘われましたの。今度の日の曜日、セレスティアに。」
「え?!」
大声を上げて、椅子から飛び上がった女王に、ジュリアスは驚いた。
女王の突飛な行動はすでに慣れていたが、今日の様子は、その予想をはるかに超えていたからだ。
飛び上がってロザリアに駆けよった女王は、なんと、その場に一緒に座り込むと、彼女をぎゅーっと抱きしめ、泣きだしたのだ。
「ロザリア~~!!! よかったね!!」
まさに抱き合う、といった様子で泣く二人を、ジュリアスはなすすべもなく見守っていた。
そして、その後、セレスティアでのイベントのことを説明されたのだ。
「わたし達も行きましょう。」という女王陛下の天使の微笑みと一緒に。
あの時のロザリアは顔を真っ赤にして、とても可憐な恋する乙女だった。
以前のジュリアスなら、到底理解できなかっただろうが、自分も恋をするようになれば、それくらいはわかる。
ロザリアがクラヴィスをどれほど想っていて、その申し出をどれほど喜んでいるかということも。
「そなた、知らなかったのだな。
思えば、そなたのような何事にも無関心な男が、セレスティアのそのようなイベントを知っているはずもない。
…われわれのほうこそ、とんでもない誤解をしていたようだ。」
ロザリアがこれを知れば、さぞかし落胆するだろう。
ロザリアの心情は、親友である女王の心情にも影響があることは間違いない。
勢いで約束させられた日の曜日のデートも、内心恥ずかしくて行きたくなかったのだが、中止になるかと思うと、残念になるから不思議だ。
クラヴィスは相変わらず、何を考えているのかわからないような顔をして、平然と水晶球を弄んでいる。
自分ばかりがやきもきしているように思えて、ジュリアスは苛立ちを隠せなくなった。
「…私が言えるようなことではないが、そのつもりがないのであれば、きっぱり断るほうがよいのではないか?
そなたの不用意な言動が、ロザリアをより傷つけることになるのだぞ。」
返事を期待してはいなかったが、本当に無視をされると腹が立つ。
ジュリアスは、イライラとトーガの裾を直すと、今度こそ、部屋を出ていった。
一人残されたクラヴィスは、くっと笑みをこぼした。
リュミエールやマルセルたちの不審な行動が、やっと腑に落ちたからだ。
女王は無邪気な性格で、隠し事のできるタイプではない。
とくに幸せなことはおすそ分けしたくなるらしく、親友であるロザリアの事となれば、ますます黙っていられなかったのだろう。
行動に出るかどうかはともかく、おそらく、すでに守護聖たちはみな、今回の事を知っているに違いない。
「たかが花瓶一つで・・・。ずいぶん大事になったものだ。」
それでも、クラヴィスは不思議と落ち着いている自分にも気がついていた。
時が傷を癒してくれた。
そして、今度は時が、前へ進んでいいのだ、と教えてくれているような気がする。
それから週末まで、ロザリアは一度もクラヴィスのところへお茶に訪れることはなかった。
本当に忙しかったのか、それともクラヴィスと顔を合わせるのが気まずいと思ったのかは分からない。
だがクラヴィスは、ジュリアスがあのことをロザリアに話しているとは思っていなかった。
なぜ、と聞かれれば、答えにくいが、ジュリアスが、そういうことを軽々しく口に出す男ではないことはわかるのだ。
腐れ縁とは困ったもの。
結局、あれから何も起こらないまま、クラヴィスはいつも通りの時間を過ごしていた。
日の曜日。
クラヴィスは約束の時間に星の小道の入口に立っていた。
時計を持たないクラヴィスにはわからなかったが、実はもう約束の時間を10分ほど過ぎている。
聖地の気候は穏やかで、風も時折クラヴィスの黒髪を揺らす程度で、不快ではない。
クラヴィスは次第にぼんやりと思考の淵に落ちていった。
そもそもこうしてロザリアと外で待ち合わせをすること自体が珍しい。
普段、休みの日に二人で会うときは、たいてい彼女がクラヴィスの私邸にやって来るからだ。
そして、一日、家でのんびりお茶を飲んだり、思い思いに本を読んだりして過ごす。
そこには特別甘い雰囲気があるわけでもない。
彼女と自分の関係を、ことさらなにかに当てはめようと、クラヴィスは考えていなかったし、ロザリアもそれでいいのだと思っていた。
けれど。
「クラヴィス!」
大声で名前を呼ばれ、ようやくクラヴィスは外へと意識を向けた。
顔を真っ赤にしたロザリアが、小道を駆けてくる。
長く下ろしたままの青紫の髪が、走るたびに大きく揺れ、あっという間にクラヴィスの目の前に来たと思うと、彼女は大きく頭を下げた。
「申し訳ありません! こんなに遅くなってしまって。 わたくし…。」
肩で息をしているロザリアは、上手く言葉も出てこないようだ。
何度も息継ぎを繰り返している。
そのうちに、背後から、さらに大きな甲高い声が聞こえてきた。
「ちょっとー! 待ってー!!」
聞き間違いようもない、女王陛下の声。
本人は走っているつもりなのかもしれないが、隣にいるジュリアスはそれほど急いでいるようにも見えない。
おそらくストライドの違いなのだろうが、なになら笑みを誘う光景だ。
クラヴィスも思わずふっと笑みをこぼしてしまった。
ようやくクラヴィスとロザリアのところまでやって来たアンジェリークが、唇を尖らせている。
こういう姿をしていると、アンジェリークが女王だなんて全く信じられない。
「ごめんなさいって、言ってるじゃないの~。 置いてくなんてひどいわ。」
「あんたったら、約束の時間に着替えも済んでないってどういうことなんですの? わたくしが待ち合わせに遅れてしまったじゃないの!」
プリプリと怒る補佐官と、ひたすら謝る陛下の図。
いつも通りの光景が、今日も目の前で繰り広げられている。
クラヴィスは再び、ふっと笑みをこぼすと、アンジェリークの隣で眉間にしわを寄せているジュリアスに目を向けた。
「待たせたようだな。…すまぬ。」
難しい顔をしたまま、ジュリアスは謝罪の言葉を口にした。
もちろん、この光景を見ていれば、遅刻の原因がアンジェリークにあることはわかる。
けれど、彼はアンジェリークの失敗は自分の失敗と捉えているのだろう。
まったくもって、気まじめなジュリアスらしい。
「もう、今度限りですわよ。」
おなじみのセリフが聞こえてきて、ようやく二人の言い争いは終わったようだ。
今度限り、が、一体何度あるのかは知らないが、クラヴィスの知る限りでも、10回はロザリアのそのセリフを耳にしている。
それが仲直りの一つの合図になっているのも間違いない。
「うん! もうしないから!」
子犬のようなキラキラした瞳でアンジェリークはロザリアの腕にギュッとしがみついた。
男同士ではありえないが、彼女達に限らず、女同士というのはスキンシップが当たり前らしい。
恋人のように仲良く腕を組んだ二人は、見つめ合いながら、なにやら笑っている。
知りあってから、それほど長くはなくとも、彼女たちは間違いなく親友なのだろう。
なぜか4人で星の小道を抜け、セレスティアに向かうことになった。
行く先は同じなのだから、効率的なことは確かだ。
少女二人は相変わらず腕を組んだまま、楽しそうに先を歩いている。
子猫がじゃれ合うような光景に、クラヴィスはほほえましさを感じていたが、ジュリアスは違うらしい。
ふとジュリアスを見たクラヴィスは、彼の眉間のしわがいっそう深くなっていることに驚いた。
それにアンジェリークがロザリアにしなだれかかるたびに、ジュリアスは難しい顔を隠さなくなっている。
今はすでに、不機嫌と言ってもいいくらいの表情だ。
「ロザリア、大好き~!」
アンジェリークの声にジュリアスのこめかみがピクリと動いた。
少し歩くと、すぐにセレスティアの門が見えて来た。
色とりどりのバルーンが門のまわりに飾られ、多くの人々が集まっている。
『恋人たちのセレスティア』と書かれた大きな看板。噴水を取り囲むように並べられたたくさんの花。
イベントは見るからに盛況で、係員に誘導されて次々とカップルたちが門をくぐっている。
二人で門の前に立つと、係員が手をつながせて、カップルがどうかを調べているらしい。
あちこちで恥ずかしそうに笑う声や、楽しそうにからかい合う声が聞こえてくる。
クラヴィスは、その背の高さのおかげで、人ごみを少し上の目線から眺めていた。
こんなににぎやかな場所に来ることはほとんどない。
もし今日がイベントでなく、普通の日の曜日なら、セレスティアもここまで混雑してはいなかっただろう。
人ごみは好きではない。
好きではないはずなのに、目の前にいるロザリアがとても嬉しそうにしていることに、わずかに心が浮き立っているのを感じる。
誰かの喜ぶ顔が、自分にとっても喜びになることも、ずっと忘れていた。
「並ばなくちゃ、入れないわよ!」
気がつくと、アンジェリークとロザリアはきちんと列に並んでいる。
ぼんやりしていたクラヴィスと、こういうことに慣れていないジュリアスは、列から外れたところで、ぽつんと立っているようになってしまっていた。
すでに彼女たちの後ろにもカップルが並んでいて、ある意味、とても目立つクラヴィスとジュリアスをひそひそと噂しているようだ。
まさかと思うが恋人だとでも思われているのだろうか。
もちろんジュリアスはそんなことなど露ほども思わず、ただ列を乱している自分を恥じたようだ。
少し照れた様子で列の最後尾に並ぼうとするジュリアスを、クラヴィスが押しとどめた。
「ロザリア。」
クラヴィスが呼ぶと、
「なんですの?」
ほんのり頬を赤くして、ロザリアが青い瞳を向けてくる。
今朝の彼女は、どうも照れているらしく、クラヴィスをまっすぐに見てくれない。
クラヴィスは、ふっと薄く笑みを浮かべると、ロザリアの腕を掴んだ。
「お前の恋人は私だ…。」
腕を掴んだまま、クラヴィスは列からロザリアを引っ張り出すと、少し離れたところにいたジュリアスのところまで歩いていった。
「ジュリアス、お前があそこへ入るといい…。 私達は後ろに並ぶ。」
「なに? それでは、そなたたちが遅れてしまうではないか。」
気まじめなジュリアスは、どこまでも真面目に言い返してくる。
気がきかない、というのもここまでくると笑えてしまう。
「わからぬか。私はお前と恋人になってセレスティアに入るつもりはない…。」
「なに?!」
一瞬、気色ばんだジュリアスは、クラヴィスが笑みを浮かべていることに気がついた。
何事にも無気力なクラヴィスが、こんなにも機敏に、しかも楽しげに行動しているところを初めて見たような気がする。
まだ幼い頃から、クラヴィスはどこか冷めていて、なにかに執着する様子がなかった。
遠い昔の恋の時も、彼はあるがままの運命を受け入れ、抗おうとはしなかったのだ。
そんなクラヴィスが。
思わずまじまじと見つめていると、
「もう少しよー! 早くー!」
アンジェリークの叫び声がして、ジュリアスはようやくクラヴィスから視線を外した。
「すまぬ。それでは、そなたに従おう。」
「もう追いかけてくるな…。 邪魔だ。」
お前もそう思っているのだろう?と、クラヴィスに目で言われ、ジュリアスは言葉に詰まる。
さっきからずっと、アンジェリークをロザリアにとられっぱなしで、正直、嫉妬していたのだ。
本当にクラヴィスはイヤな男だと、ジュリアスはため息をついた。
幼なじみだから仕方がないのだが、彼の前では隠し事さえできない。
もっとも普段のクラヴィスは、ジュリアスの気持ちを知ろうとなどしないけれど。
「わかった。 そなたたちこそ、ついてくるでないぞ。」
ジュリアスはひた、と紺碧の瞳をクラヴィスに向けて、念を押した。
相変わらずクラヴィスは返事をしなかったが、ロザリアが頷いたので、満足することにした。
ジュリアスとアンジェリークが門の中へと消えていくと、改めてクラヴィスとロザリアは、列の最後尾に並んだ。
「待たせることになったな…。」
成り行きとはいえ、再び列に並ばせることになってしまった。
しかもかなり後ろに。
クラヴィスがそう言うと、ロザリアは顔をあげて、今日初めて、彼をまっすぐに見た。
「いいえ。 わたくしもクラヴィスと入りたいと思っていましたの。」
「そうか…。」
クラヴィスの知る、どの青とも違う美しい青は、この春の日によく似合う。
門をくぐるまで、あと少し。
その瞬間から、急に世界が変わることはない。
けれど、ロザリアとの関係に、今までとは違う名前がつくことは確かだろう。
クラヴィスが見上げた空に、門から逃げ出した赤い風船が一つ、消えていくのが見えた。
FIN