主星のコンサートホールは多くの人であふれていた。
どうやって手に入れたのか前から5列目のチケットを2枚差し出すと、二人は中に入る。
「なんで2枚用意してあったのさ?」
オリヴィエが尋ねるとロザリアは小馬鹿にしたように顎を上げて言う。
「あなたの分ではありませんのよ。きっと入れない方がいらっしゃるでしょうから、適当に捕まえて一緒に入っていただくつもりでしたの。
女性一人では恥ずかしいでしょう?」
付いてきてよかった。
聖地ならともかくこんなところで逆ナンする気だったのか、とオリヴィエは呆れた。
もう少し彼女には男について知ってもらいたい。・・・自分のこともそうだけれど。
どんどん歩いて行ってしまうロザリアをオリヴィエはあわてて追いかけて、その腕を取った。
「一緒にいないとおかしいんでしょ?」
エスコートするように差し出した右手にロザリアは珍しく笑顔で自分の手を重ねた。
華やかな二人は知らずに人々の注目を集めている。
ほとんどの人は女王と守護聖のことを知っていても顔まではわからないだろう。
ひそひそ囁き合う人たちは彼らがいったいどんな素性なのかと好奇心に溢れた目を向けていた。
そんな中でもロザリアは堂々として、誰よりも美しい。
一瞬彼女に見とれたオリヴィエは開演のベルで我に返ると、ロザリアを客席に連れて行った。
しんとした中で舞台に老人が現れた。
バイオリンを両手に捧げるように持って、ふと顎下に構える。
客席を静かに眺めた彼はある一点に気付いて、瞳を輝かせた。
そして改めてぐっとバイオリンを抱え直すと、静かに弦を引いた。
とたんに流れ出す麗麗とした調べに、知識のないオリヴィエですら胸をつかまれるような気がした。
年老いた姿からは想像のつかない輝いた音に、全ての観客が引き込まれていく。
「今日の彼はまるで少年のような音ね。」
隣に座った上品なマダムがつぶやいた。
オリヴィエの耳にもその音色ははるかなノスタルジーを呼び起こすように思えた。
自分のバイオリンの音が遠い昔に帰っていく。
舞台の上の老バイオリニストは榛色の瞳を客席に向けると、そこにいる蒼い影を見つめた。
「あなたのバイオリン、素晴らしいわ。」
可愛らしい唇から飛び出した言葉は高慢なように思えたけれど、彼女の表情がなによりも賞賛に満ちていて少年は顔を赤らめた。
それほど裕福ではない少年にとっていささか場違いなバイオリン教室のロビーで、教師の順番を待つまでの手慰みを聞かれていたのだ。
綺麗な蒼い瞳が少年を映すと、彼女は自分のバイオリンを取り出して、隣に並んだ。
「合奏しませんこと?わたくしは第2でかまいませんわ。」
頷いた少年が主旋律を弾くと、彼女がそれに従うように追いかけてきた。
周りにいた大人たちも思わず足を止める完璧な二重奏。
共に同じ教室でバイオリンを学んでいる生徒たちですら賞賛を隠すことなく拍手を送った。
彼にとっても初めての経験に思わず見つめあった。
同じくらいの年で合奏できる相手は今までいなかった。
青紫の巻き毛がふわりと揺れて、彼を見つめ返す。
「よい合奏でしたわ。来週も同じ時間にいらっしゃいますの?」
言葉も出せずに頷いた彼を少女はにっこりとほほ笑みで返した。
「カタルヘナのお嬢様に気に入られたようだね。」
レッスンの時間に教師に話しかけられて彼は初めてその少女が大貴族の娘であることを知った。
「あのお嬢様が第2バイオリンでいいというなんて、君はよほど見込まれたらしい。仲良くしておいて損はないよ。」
言われなくても仲良くなりたかった。
もう一度彼女と合奏をしたい。
次の週も、その次の週も少年はいつもより早く教室について彼女との合奏を続けた。
少しずつ大人になって、レッスンの時間が増えても必ずレッスンの前の合奏を繰り返した。
その時、いつかバイオリニストになりたいという夢を彼女にだけ話した。
「きっとなれますわ。あなたにはそれだけの才能がありますもの。」
蒼い瞳はまっすぐで夢に満ちている。
君とずっと合奏をしていたい。二重奏をするたびに思う完璧なハーモニー。
「君は? バイオリンを続けるの?」
大貴族の娘である彼女がいつまでもバイオリンを続けるはずもない。
それでももし彼女が望むなら、いつか立派なバイオリニストになって迎えに行きたい。
それが僕の本当の夢。
「わたくしは女王になるんですのよ。そのための教育を受けているんですの。」
彼女が女王のサクリアを持ち、そのための教育を受けていることを知っていた。
けれど、女王の交代が今起こるとは限らない。
もし、交代がなければ、彼女はどうするんだろう。
「もし、女王にならなかったらどうするの?バイオリニストになるの?」
彼女が恥ずかしそうに耳打ちすると、少年は笑いだす。
「僕、きっとバイオリニストになるよ。君に聞いてほしいんだ。それまで待っていてくれる?」
少女は笑顔で頷いた。
「ええ。あなたが世界一、いいえ、宇宙一のバイオリニストになるのを楽しみにしていますわ。」
それからすぐ女王試験が行われ、彼女は女王になった。
夢をかなえた彼女のために、僕は。
ベートーベンのバイオリンソナタを最後に、カーテンの幕が下りた。
割れるような拍手の中でアンコールに現れたバイオリニストは静かに礼をすると、蒼い影を見つめる。
「僕の大切な人に。」
そう言って奏でた曲はあの日二人で初めて弾いた二重奏。
第一バイオリンだけで演奏されたその編曲に多くの観客が不思議そうな顔をした。
「こんな曲をアンコールに?」
隣のマダムがいぶかしげに再びつぶやいた。
バイオリニストとして最後に弾くこの曲は、ただ、君のためだけに。
ロザリアの頬に静かに涙が伝わる。
はるかな時の思い出を調べにのせて、コンサートは幕を閉じた。
「ロザリア!!」
老人の声に驚いて、ロビーの人波がさっと割れた。
舞台から降りたバイオリニストは体を転がすように人波をわけると、蒼紫の髪に呼びかける。
振り返った彼女は変わらずに美しかった。
白い肌も縁取る青紫の巻き髪も毅然とした立ち姿も、その輝いた青い瞳もなに一つ変わっていない。
その姿に老バイオリニストの心も一瞬にして少年に戻る。
「僕に会わずに帰るつもり?」
ロザリアは花のように微笑むと言った。
「今日はただのロザリアとして来ましたの。お会いできるなんて思っていませんでしたわ。」
走ったせいか咳き込んだバイオリニストの背中をマネージャーらしき男が支えた。
控え室に案内された二人はバイオリニストと向かい合うようにソファーに座った。
「なぜ今日のことを?」
「雑誌でみたんですのよ。あなたの引退コンサートですもの。どうしても行きたくて。」
ふっと口端を上げたオリヴィエを老バイオリニストはじっと見た。
その視線に気付いたロザリアが渋々と言った口調で紹介する。
「この方は夢の守護聖オリヴィエですの。・・・・勝手についてきたんですわ。」
バイオリニストとしての敏感な耳でロザリアの声音が変わったことに気づいて、目を細めた。
彼はロザリアに向かって、頭を下げると
「マネージャーの部屋に行って、僕のバイオリンと楽譜を持ってきてもらえないかな?
こちらの方はバイオリンのこと、わからなそうだから。」
老バイオリニストはしわのふえた顔を笑顔にして続ける。
「女王様にこんなことを頼んだら、逮捕されるかな?」
ロザリアは笑いながら立ち上がると、彼の願いを叶えるために出て行った。
後に二人が残される。
「君がうらやましい。彼女と同じ時をこれからも生きていける。」
老バイオリニストがつぶやいた。
「僕はもうすぐいなくなる。ロザリアの心からも消えてしまうだろう。それが寂しいんだ。」
オリヴィエは彼に目を合わさずに答えた。
「ロザリアはあんたを忘れたりしない。それに、あんたは彼女の中にちゃんと生き続けるよ。そのバイオリンの音で。」
きっと、その音を聞くたびにロザリアは彼のことを思い出す。
自分が彼女の元から去った後も彼女の心からその音楽が消えることはないだろう。
私こそ、あんたがうらやましい、とオリヴィエは心から思った。
「ロザリアは君のことが好きなんだね。」
オリヴィエはぶっと噴き出してしまった。
「え、とね、その辺は複雑で、一口には言えないんだけど、ロザリアはもう私のこと何とも思ってないんじゃないかな~と思うんだよね。」
老人の目が一層細くなって、くすくすと笑う。
「前は何とも思ってたんだね。君ならロザリアのもう一つの夢をかなえてくれると思ったんだけど。」
「お嫁さんになりたいの。」
昔聞いたもう一つの彼女の夢。
くすくす笑いを続けた老バイオリニストをオリヴィエが憮然と眺めているとロザリアが戻ってきた。
「これを君に持っていてほしいんだ。」
バイオリンと楽譜をロザリアに手渡した老バイオリニストはゆっくりと彼女を見つめた。
「断らないでほしい。
僕には家族もいないから。あげるとしたら君しかいないんだ。きちんと手入れをしてほしいからね。
この曲も君のために書いたから。」
ロザリアは手の中のバイオリンケースを赤ん坊を抱くように胸に抱えると、にっこりと笑った。
その笑顔はしばらく見たこともないような素直な顔で、オリヴィエは胸がギュッと痛くなる。
「大切にしますわ。」
老人は一言、「ありがとう。」と言うと、疲れたように目を閉じた。
それを合図に二人は部屋を出る。
これが永遠の別れだとお互いに知っていた。
僕の魂はバイオリンとともに君の元にある。
僕の人生そのものだった、君のそばに。
老バイオリニストは穏やかに微笑むと、彼女の去ったドアに向かって別れを告げたのだった。
数日後、突然呼び出されたオリヴィエは女王の私室に向かった。
「またリフレクソロジーをお願いしますわ。」という一言で日の曜日だろうがなんだろうが呼び出しをくらうのだ。
わざと時間に遅れて行くと、バイオリンの音が聞こえてくる。
それは一度しか聞いたことのないオリヴィエでさえも心に残ったあの日聞いた最後の曲だった。
老バイオリニストの演奏に遜色のないその音色はやはりオリヴィエに遠い思い出を呼び起こした。
「いい曲だね。」
オリヴィエが入ってきたことにも気づかずに演奏を続けていたロザリアは、曲が終わって初めてその存在に気付いたように目を向けた。
なにも言わずにソファに座るとすっとオリヴィエに足を差し出す。
オリヴィエも黙って彼女の足を取ると、マッサージをし始めた。
横を向いたままのロザリアがつぼを押すたびにピクリと揺れた。
「痛いなら泣いてもいいんだよ? ここには私しかいないからさ。
泣いても足つぼが痛いからだって思うから。」
ロザリアの肩が震えて、静かに涙があふれ出した。
まだコンサートから2日しかたっていない。
それでも下界の時が過ぎるのはあまりにも早すぎた。
マッサージが終わると、オリヴィエはロザリアの隣に座った。
肩を貸そうと頭を抱き寄せると、ロザリアが両手でぐいっと押し返してきて、ぎょっとする。
「なれなれしいですわよ。」
さっきまでのおとなしい彼女はどこに行ったんだろう。
オリヴィエを見つめるロザリアはもういつものように顎を上げている。
「本当に痛いんだから。わざとやっているのではなくて?」
どうしても目が赤いことをマッサージのせいにしたいらしい。
オリヴィエはロザリアの手を取ると、「ここもつぼらしいよ?」 と指の間をギュッと押した。
突然手を握られて赤くなったロザリアはその痛さに 「きゃっ!」と飛び上がる。
「もう!あなたって人は!」
「好きになった?」
まだ手を握ったままのオリヴィエはロザリアの瞳を見つめて言った。
その優しいブルーグレーの瞳にロザリアの胸がきゅっと痛くなる。
それを振り払うように首をぶんぶん振ったロザリアは仁王立ちになって人差し指でオリヴィエの鼻先をさした。
「そんなわけないでしょう!!!」
しっしっと追い払われたオリヴィエはドアの外で空を見上げた。
やっぱり女王様はこのほうがいい。
泣きだしそうだった空の雲間から射してきた日にオリヴィエは安心したように微笑んだ。
FIN