三色すみれ

その日の朝、わたくしは庭先のハーブの中に小さな花を見つけました。

春先には多様な色でわたくしたちを楽しませてくれるその花は、本来この季節には見ることのない花。
もし、わたくしがハーブ園を意識しなければ、きっとその花は、この汗ばむ季節の風に吹かれ、いつしか萎れていたことでしょう。
わたくしはたった一輪だけ咲いた小さな花の姿に驚きを隠せませんでした。
昨夜の夢のような出来事が、間違いなく事実であったことを、その花が教えてくれていたのです。


昨夜、わたくしは夜に誘われるように、森の中を歩いていました。
なぜか目が冴えて眠れない。
誰しもある、そんなありふれた夜でした。
夜の森は聖地であっても、そこだけが異世界のようにざわめいています。
さながら妖精たちの集う場所。
ふと何かの声が聞こえ、わたくしは森の奥へと歩みを進めました。
こんな夜は、本当に妖精に出会えるのではないか。
そんな期待を抱いたわたくしを、彼は本当に出迎えてくれたのです。


「その髪の色は本当の色?」
わたくしの周りを虹色の羽を持った彼が飛び回ります。
「ええ。生まれつきの色です。」
「珍しいね! あなたを連れて帰ったら、きっと王様もお喜びになるね。」
彼は無遠慮にわたくしの髪を引き、その小さな体にぐるりと巻きつけました。
毛先を頬に当て、くすぐったそうにけらけらと笑っています。
楽しそうな彼の様子に、わたくしも思わず微笑みました。

「残念ですね。大変心惹かれるお誘いですが、わたくしはここを離れることを許されてはいない身なのです。」
そう告げると、彼は残念そうに身体に巻いた髪を解き、再び辺りを飛び始めました。
くるくると色を変える彼の羽。
月明かりに浮かぶその姿に、わたくしはしばし見惚れていました。
やがて、彼はわたくしの肩に止まり、小さな声でこう言ったのです。

「せめて、あなたのその髪を、私にひと房、くださいませんか?」
その時、わたくしは彼と出会えた幸運に、快くその願いを承諾しました。
頷いたわたくしの前で、彼がさっと手を振ると、すでにその手には、水色の髪がひと房、握られています。
わたくしは痛みを感じることもありませんでした。
彼は胸に手を当て、まるで紳士のような礼をしたかと思うと、切り取ったわたくしの髪を自らの首に巻きつけました。
「ぜひお礼をさせてください。」
わたくしはすぐに首を横に振りました。
この出会いこそが、なによりものお礼だと、わたくしは考えていたのです。
けれど、彼は一瞬目を閉じた後、小さく笑いました。

「あなたのために、明日、あの花を咲かせましょう。」
「花・・・ですか?」
「はい。その花の汁を眠っている彼女の瞼に垂らすのです。目覚めた時、彼女は最初に見た者を深く愛するようになるでしょう。」
彼の言葉の意味を、わたくしは少し遅れて理解しました。
彼はその花を使って、彼女を我がものにせよ、と言っていたのです。
わたくしは動揺を隠せませんでした。
たしかに彼女を深く想ってはいましたが、誰にも告げることのない秘めた想いでした。
なぜ、彼はそのことに気がついたのでしょう。

「私たち妖精は、あなたの心の中にも住んでいるのですよ。」
おどけたように言う彼は、わたくしの髪を巻いたまま、ふわりと虹色の羽をはばたかせました。
水色の髪がまるで羽衣のように彼の身体を包み込んでいます。
眩しい月明かりにわたくしが目を奪われた、ほんの一瞬の間。
すでに彼の姿は消えていました。
そして、そのままベッドに入ったわたくしは、さっきまでの目の冴えが嘘のように、穏やかな眠りについたのです。


「夢では、無かったのですね…。」
思わず口をついた言葉に、小さな花が応えるように揺れています。
わたくしはその花を摘み取り、ハンカチで包みました。
この小さな花をそのまま、この真夏のような光の中に晒してしておくには忍びないと思ったのです。



午前の執務は滞りなく終わりました。
気だるい午後は、昨夜の夜更かしのせいでしょうか。
わたくしを夢の世界へ誘おうと、手招きしているように思えました。
このままその誘いに乗ってしまおうかと思った瞬間、机の上に置いたままになっていたハンカチの包みが目に入ったのです。
うっすらと中が透け、その紫の花弁は、わたくしになにかを囁いています。
その声に導かれるように、わたくしの足は彼女の元へと向かっていました。

やはり、と言うべきなのでしょう。
彼女はソファに腰を下ろし、ひじ掛けにもたれかかるようにして眠っていました。
柔らかく閉じた瞼から、長い睫毛の影が落ち、まさに天使の休息です。
わたくしは彼女の前に跪きました。
吐息を感じるほど近くに。
これほど彼女に近づいたのは、おそらく初めてのこと。
わたくしの鼓動で彼女が目を覚ましてしまうのではないかと思うほど、大きく胸が高鳴るのを感じました。

わたくしは手にしていたハンカチを彼女の顔に近づけました。
ぎゅっと手の中でそれを絞ると、じわりと薄紫が染み出してきます。
ぽたり、と音がするように、綺麗な雫がこぼれ、彼女の瞼に落ちました。
そして、わたくしが息を飲む間もなく、その雫は瞼の中に吸い込まれていったのです。
広がるわけでも、頬に零れるわけでもなく。
それは忽然と瞼の中に入って行きました。
それを見て、わたくしは、その媚薬が確かに真実の物であると悟ったのです。

「ん…。」
彼女が身じろぎしました。
おそらくもうすぐ、彼女は目を開くでしょう。
そして、目の前にいるわたくしを、その美しい瞳に映すはずです。
妖精の言葉が真実であれば、その時。
あれほどに望んだ彼女の心を、わたくしは手に入れることができるのです。
わたくしは息をひそめて、その時を待ちました。
愛しい彼女をこの腕に抱く瞬間を。

彼女の瞼が震えます。
今、もう瞳がひらくだろう、と思った時、わたくしの手が動いていました。
そして、心の中で強く念じていたのです。
『どうか、彼女をもう一度、眠りに導いてくださいますように。』
耳の奥で、彼の声が聞こえたような気がしました。
そして、願いどおり、彼女の瞳が開くことはありませんでした。
一度瞼を震わせた彼女は、再び、深い眠りの奥へと落ちて行ったようです。
わたくしは彼女の瞳を覆っていた手をゆっくりと外しました。

ふと、手にしていたハンカチを見ると、薄紫のしみが消えています。
ハンカチを開いてみても、そこにあの小さな花の姿は無くなっていました。
きっと、わたくしの願いを彼は聞き届けてくれたのです。
お礼は一つだけ。
いかにも彼らしい選択です。


わたくしは気づかれないように執務室に戻ると、そっと胸に手を添えました。
もし彼が本当にわたくしの中に住んでいるというのなら。
「ありがとうございます。」
彼女を自らの力以外で手に入れようとする愚かな心を、彼は諌めてくれたのに違いありません。
昨日、わたくしは彼女がある守護聖と親しげに話している姿を見て、激しい嫉妬に苛まれていたのです。
そのことが眠りという安らぎから、わたくしを遠ざけていました。
それを知っていて、彼はあの花をわたくしに授けたのでしょう。

わたくしは失くしてしまった花を、夏の終わりにあの場所へ植えてみようと思いました。
できることならば、彼女とともに。


花言葉は「私を想ってください」


FIN
Page Top