Smoke gets in your eyes

森の湖はわずかな星明かりに照らされて、静かに湖面のみをきらめかせていた。
地面に足を下ろすたびに小枝の折れる音がする。
いつもの重い長靴と比べれば格段に軽いこの靴でも、そのわずかな音を消すことはできなかった。
オスカーはひっそりとした闇の中を家路に急いだ。
いつも通り酒を飲んで騒いで。
それでもこの地に戻る頃にはすっかりアルコールは消えている。
「職業病だな。」
わずかに口の端をゆがめたオスカーは湖のほとりに横たわる影に気づいた。

木々の隙間から見える影はひたすらに青く、湖面の輝きを受けて美しい。
美しいものには魔物がすむというけれど。
足もとの小枝が今までよりひときわ大きな音を立てると、それを合図のように青い影が振り向いた。
その見知った顔にオスカーは足音を忍ばせることを止めて近づく。
「こんなところでなにをしている?」
詰問調になったのも仕方ない。
こんな時間に部屋着に薄いレースのガウン一枚で外に出ていること自体おかしい。
ましてや、それが密かに想いを寄せる少女であればなおさら。

やっと唇が動くことが分かる距離まで近づいて、オスカーは改めて彼女を見つめた。
泣いているのかと思った。
けれど、オスカーを見つめ返した青い瞳には悲しみよりも深い寂寥感が浮かんでいる。
「泣きたいと思ったのです。けれど、涙が出ませんでしたの。」
凛とした声はそのままなのに、今日の彼女は言いようのない危うさがある。
オスカーはロザリアを立たせると、自分の着ていた上着を彼女の肩にかけた。
「送っていこう。」
肩にまわした手を彼女は振りほどこうとしない。
ただ、小さく首を横に振った。
「帰りたくありませんの。」
理由は言わない。オスカーも聞かない。ただ、彼女に伝えたのは一言。
「俺の家に来るといい。ここでは、体に障る。」
背に回した手に力を込めると、二人はゆっくりと歩き出した。
彼女に合わせて歩く道のりはとても長い時間に思えて、オスカーは自分の手の熱さを意識せずにいられなかった。


ゆっくり夜遊びをしたいから、という理由で全ての使用人は通いになっている。
オスカーは灯りをつけようとして、手をとめた。
灯りをつけたら、手の中の彼女が消えてしまいそうで、窓にかかる分厚いカーテンを開ける。
星明かりに照らされた部屋は海の中のようにたゆたう光にあふれた。

ソファに座らせたロザリアは人形のように綺麗な姿勢のまま身動きもしない。
オスカーはその隣に座ると、優しく彼女を抱きしめた。
「なにかあったのか・・・?」
答えるはずもない。ただ、オスカーの言葉に彼女はその睫毛を伏せた。
オスカーの指がロザリアの顎を持ち上げる。青い瞳が星灯りを受けて一瞬煌めいた。
重ねただけの唇から、熱いキスへ。
彼女の背に回した腕に力を込めると、オスカーは軽々とその体をベッドに移した。
抗うことのない体の冷たさがオスカーの心を熱く変えていく。

星明かりに浮かぶほんのりと色づいた頬。潤んだ瞳。
見たいと思っていた彼女の顔。
冷えた体に自分の熱さを移すようにオスカーはロザリアを抱きしめた。

「すまない。俺はこんな慰め方しか知らない。」
重ねた体は少女のままだった。
「謝らないでくださいませ。一人にしないで下さって・・・・ありがとう。」
慰めだと、オスカーは言った。
例え同情でも、誰かにそばにいてほしいと思う時がある。
ロザリアは目を閉じて、オスカーの鼓動を聞いた。
指を滑る青紫の髪は絹のようにつややかで、心までからめ捕られてしまいそうになる。
オスカーの暖かな手に呼び起こされるように、青い瞳に涙があふれてきた。
「やっと、泣くことができましたわ・・・。」
そう言ってロザリアはオスカーの胸に顔をうずめた。涙を見せることを許さない彼女のために、ただ、抱き寄せる。
本当に見たいのは、この顔なのかもしれない。
声を出さずに泣く彼女を心から愛おしいと思った。
たとえ似合わない役回りでも、彼女を傷つける男ではなく、彼女を癒す男でいたい。
夜が明けたとき、すでに彼女の姿はなく、昨夜の名残がわずかに残るだけだった。


ノックの音がして、オスカーは顔を上げた。
誰かわかっているから、あえて返事はしない。
青い影は優雅な動きで部屋に入ると、手の中の書類を手渡した。
細い指に施されたネイルは綺麗なパール。
初めてネイルをしたときにオスカーが褒めてから、彼女は欠かさずネイルをするようになった。
「オスカー、今日は予定がありまして?」
凛とした声が優雅な笑みとともに紡がれた。
「いや、空いてるぜ。」
それだけの言葉で約束を交わす。
入ってきたときと同じように優雅な動作で出て行ったロザリアを見送ると、オスカーは部屋を出た。
「おい、今日の約束はキャンセルだ。」
「はあ?」
目を丸くしたオリヴィエの前でオスカーは人差し指を立てた。
「他に約束ができた。悪いが一人で行ってくれ。」
「まったく、女でしょ。もう、あんたは誘わないからね!」
腕を組んだオリヴィエに苦笑して手を振る。
夜までの時間がとても長く感じた。

彼女の好きな白ワインをクーラーに入れて、オスカーは待った。
時計の鐘が9回を数えたときに、ようやく現れた彼女は息を乱しながらも微笑む。
「待っていたぜ。」
部屋に入ると、オスカーはすぐにワインの栓を開けた。
小ぶりなグラスに注ぐのは辛口のリースリング。
息を整えるようにグラスを開けたロザリアはいつものようにソファに座ると、たわいもない話を始めた。

「よろしいかしら?」
取りだした銀色のディスクがプレーヤーに吸い込まれる。
流れ出したのはスローなオールディーズ。
初めにこのディスクを彼女がかけたときにオスカーはその意外な選曲に驚いた。
彼女が好むのは重厚なクラシックだと思っていたから。
そっと彼女が差し出した右手を受け取ると、オスカーは腰に手をまわした。
自然と彼女の左手がオスカーの首にまわされる。
体を寄せ合うようにして二人はステップを踏んだ。
「アンジェリークがあの方に告白されたと言いましたの。」
たった一言。オスカーは立ち止ることなくステップを続けた。
体を近付けて踊るダンスは彼女の涙を隠してくれる。

「君は本当は泣き虫なんだな。」
以前、オスカーがそう言ったとき、ロザリアは少し困った顔をした。
「違いますわ。そう、ただ、煙が目がしみるだけですの。それだけですわ。」
煙草を吸ったことはない。彼女もそれは知っているだろう。
涙のわけを強がりに隠す彼女にオスカーは微笑んだ。

ディスクが終わるまでの間、オスカーはその胸で彼女の涙を受け止める。
嬉しい時はワルツを、悲しい時はオールディーズを。
二人は繰り返し、ステップを踏んだ。


煌めくシャンデリアが虹色の光を投げかける。
背中の大きく開いたドレスが彼女の優雅な立ち姿にとてもよく似合っていた。
聖殿で開かれたパーティは明日で聖地を去る女王と補佐官のためのパーティ。
正装で出席した守護聖たちは長い間の彼女たちの苦労を次々にねぎらった。

昨夜、彼女がかけたのはスローなオールディーズ。
「最後になりますのね。」
ディスクが終わるまでの間、彼女が言ったのはその一言。
オスカーは何も答えなかった。
彼女が女王とともに聖地を去ることは聞かなくても分かっている。
涙を流した彼女の背にまわした腕に少し力を込めた。
最後の夜に、もう一度。思わなかったわけではない。
それでもただ二人でダンスをした。その間だけは彼女に触れることができたから。

「みなさんにご報告があります。」
最後のあいさつに立った女王が告げた。輝く碧の瞳の先にはあの守護聖の姿。
視線を合わせた二人は幸せそうな微笑みを向け合う。
「わたしはここに残ります。あの方の妻として。」
その場にいた人々の間にどよめきが起こった。
二人の仲を知る者、知らなかった者。反応の大小は違っても、祝福の雰囲気は変わらない。
マイクを持ったまま、幸せそうに微笑むアンジェリークと守護聖の隣でロザリアは祝福の拍手を始めた。
その拍手が重なり合って、大きな波になると、二人は手を取り合って、頭を下げた。
人垣が崩れ始め、次々に二人の元に祝福を告げるものが訪れると、会場は騒然となる。
前へ、前へ、と集まる人の中で、女王の隣にいたロザリアの姿が見えないことにオスカーは気付いた。

暗い廊下の先にあるテラスに彼女はいた。
変わらずに灯る星明かりがあの日を思い出させる。どこまでも美しく青い影。
テラスの石をたたく靴音にロザリアが振り向いた。
その瞳にやはり涙はなく、オスカーは彼女に近づく。
「知っていたのか?」
わずかな明かりの影が揺れて、彼女が頷いた。
「きっと幸せになれますわ。愛されているのですもの。」
寂しげな青はいつかと同じ。夜の青さに溶けてしまいそうな危うい姿。
「一人で行くつもりなんだな。」
自分の想いは永遠に閉じ込めたままで。
いつでも自分の気持ちを表すことをしない彼女がそれに応えるはずもなく、ざわめきから取り残されたテラスはただ静寂だけが残った。

大広間から風に乗って流れてきた音楽はパーティの終わりを告げる、ラストワルツ。
「踊っていただけるかしら?」
差し出された彼女の白い手をオスカーはためらわずに取った。
ラストワルツは大切な人と。誰に聞いた言葉だろう。
嬉しい時に彼女と踏んだステップが別れのステップに変わっていく。
曲が終わると、自然に手が離れた。
ロザリアは長いドレスの裾を少しつまんで、綺麗に淑女の礼をする。
言葉もなく、踵を返した後ろ姿は凛としていて、オスカーはその姿を静かに見送った。


見送りに来たのはオスカーとアンジェリークの二人だけだった。
即位して間もない新女王はまだまだ不安定で、危なっかしい。
全員が見送りを希望した中で、守護聖は一人でいいと決めたのはロザリアだった。
「さようなら。幸せに。」
昨夜語り明かした名残で目を赤くしたアンジェリークに、ロザリアは優しく声をかけた。
「さようなら・・・!」
涙もろいアンジェリークがぽろぽろと涙をこぼし始めると、ロザリアは苦笑してハンカチを差し出した。
「もう、あんたの世話を焼くのもこれが最後よ。これからはあの方にやってもらいなさい。」
うんうん、と何度も頷いたアンジェリークの背をなでながら、ロザリアはオスカーに目を向けた。
「見送りに来てくださってありがとう。」
最後まで、凛とした声。
「これからは、どこで泣くんだ?」
少し困った顔をしてロザリアは首をかしげた。
「もう、泣きませんわ。・・・・泣ける場所がなくなりましたもの。」
アンジェリークから手を離したロザリアは最後に深々とお辞儀をして、聖地の門から出て行った。

「ねえ、オスカー。」
不安定な女王を表すように突然強い風が吹いて、アンジェリークの金の髪を舞い上がらせる。
「わたし、知ってたの。ロザリアもあの方のことを好きだって。
だから、先にロザリアに打ち明けたの。そしたらきっと、ロザリアは譲ってくれるって思ったから・・・。」
舞い上がる髪のせいでアンジェリークの顔は見えない。
「どうして、誰かを傷つけないと、愛することができないのかしら?愛することと傷つけることって、とても似ているのね。」
吹き始めた時と同じように突然風がやんだ。
碧の瞳はロザリアが消えた門を見つめている。
傷つけることも、愛することも、深く関わるからこそできること。
傷つけることを恐れて身を引くことは、愛を捨てることになるのだろうか。
オスカーも静かに門を見つめていた。


主星に戻ったロザリアは一人で暮らすために小さな家を借りた。
ようやく片付けも終わり、静けさを隠すようにつけたプレーヤーから流れたのは、スローなオールディーズ。
一人きりで流れる曲に身を預けた。同じように踏んだステップで、泣きたいのに、やはり涙は出ない。
いつでも受け止めてくれた暖かな腕を思い出してロザリアは立ち止った。
思い出とともに曲だけが流れて行く。

「一人では踊れないだろう?」
ロザリアの右手を大きな手が包み込んだ。
もうひとつの腕が彼女の腰にまわされると、足になじんだステップが始まる。

「なぜ?」
あのときのことは同情だと、あなたは言ったはず。

聞きたいことはたくさんあった。けれど、目の前にいるオスカーの姿が次第ににじんで、声が出せなくなる。
ふいにオスカーの足が止まって、ロザリアを抱きしめた。

「やっぱり君は泣き虫なんだな。」
いつも胸に顔をうずめて泣き顔を見せなかった彼女が初めて上を向いた。
濡れた青い瞳がオスカーを見つめる。
ずっと見たかった彼女の顔は胸を突かれるほど美しかった。
「あなたがいるから、泣くことができるのですわ・・・。」
初めて触れる彼女の涙をオスカーは指ですくい取る。
流れる曲は失った恋を思い出す、古い古い恋の曲。
この想いを失うのはまだ早すぎるから。
繰り返すステップが愛の始まりを告げた。


オスカー×ロザリア


FIN
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