聖地に似せてつくられたこの飛空都市は似ているはずなのにまとう空気は違っている。
明日から始まる女王試験に気付かないうちに緊張していたのか、いつもの時間にベッドに入ったジュリアスは何度も寝がえりを繰り返した。
そして、最後にはベッドから出て夜の散策に出たのだった。
心を落ち着かせようと足を向けた先は、森の湖。
ジュリアスはいつしか耳に流れ込んできたその音に引き寄せられるように奥へと足を踏み入れた。
夜風に乗って漂う調べは月明かりにふさわしい、夜想曲。
ふと開けた視界の先に一人の少女が立っていた。
青い夜に輪郭を失うような青い影。
二人を隔てた湖が音の響きに共鳴するように月明かりを揺らした。
月明かりに輝く白い顔は眼を閉じていても美しいことが分かる。
ジュリアスは言葉もなく、ただその調べに身を任せた。
8番から2番へ。夜想曲は続いていく。
少女がバイオリンの弦から弓を離したとき、思わすジュリアスは足を動かしてしまった。
足もとの草が静寂を破ると、少女の瞳が開いて、ジュリアスの姿を捕らえた。
「ロザリアだな?」
月明かりに浮かぶ姿は妖精のように美しく、名前を呼んで現世に留めなければならないような気さえする。
ロザリアと呼ばれた少女は動じることもなく、ジュリアスを見つめた。
「人に名を尋ねるときは自分から名乗るのが礼儀というものですわ。」
凛とした声が響いて、ここが幻想世界ではなく飛空都市だということを思い出させた。
「私は光の守護聖、ジュリアス。このような時間に女王候補が出歩いているというのは感心できぬな。」
一歩、近づくと、夜の空気が震えた。
「試験は明日からのはず。今のわたくしはただのロザリアですわ。」
バイオリンをケースに収めると、ロザリアはゆっくりと歩き出した。
姿が消えても、ジュリアスは動けなかった。もし、湖がなければ、彼女を引き留めていたかもしれない。
ジュリアスは伸ばし損ねた手を悔やむように、自分の手のひらをじっと見つめた。
女王試験が始まって、すぐにロザリアは頭角を現した。
もう一人の候補であるアンジェリークとは明らかに違う女王としての資質。
たち振る舞いや知識、全てにおいてもう一人の候補を圧倒していた。
夕方、ロザリアが図書館からの帰り道を歩いていると、アンジェリークがいることに気付いた。
「あら、こんなところでなにをなさっているのかしら?」
声をかけても返事のないアンジェリークの前に回ると彼女の手には大きな花束があった。
「アンジェリーク?」
やっとロザリアの声に気付いたのか、アンジェリークが顔を上げる。
けれど、まだその顔は夢見心地でぼんやりした瞳をしていた。
「あ・・・。ロザリア・・・。」
アンジェリークは野原の花のように可愛らしく微笑むと、ロザリアの袖を引いた。
「ねぇ、聞いてくれる?」
そのまま話しだしそうになったアンジェリークをロザリアはあわてて押しとどめる。
「お部屋で聞くわ。・・・あんたの話はいつも長いんだから。」
エへ、と舌を出したアンジェリークと部屋に戻った。
アンジェリークの話は思った通り長かったけれど、ロザリアは少しも嫌だと思わなかった。
「ね、バイオリンを弾いて?」
アンジェリークにねだられて、ロザリアは弓を構えた。
恋をしている彼女のために甘い愛の曲を奏でる。
何度も弾いた曲のはずなのに、自分でも音が変わった気がした。
「ロザリアは好きな人いないの?」
花束を花瓶に生けるのに悪戦苦闘するアンジェリークを助けるために、手を伸ばしたロザリアに尋ねた。
「どうかしら?」
なぜか否定する気にはなれない。夜の闇に鮮やかに浮かんだ金の髪。
「あ、その言い方。気になる方がいらっしゃるのね? 教えて~~~。」
周りをくるくると回りながら同じ言葉を繰り返すアンジェリークに苦笑する。
あの方は、そんな想いを望んでいないかもしれない。それでも。
一人になったロザリアはバイオリンケースを手に取ると静かに夜へと抜けだした。
また、バイオリンの音が聞こえてくる。
ジュリアスは夜の散歩の途中で気づいたその調べに誘われるように湖へ向かった。
やはりそこにはロザリアがいて、バイオリンを弾いている。
夜を奏でるその姿は凛とした月の女神のように思える。
ジュリアスは静かにその調べに耳を傾けた。
「従うことはできませんわ。」
2度目にここであった夜、ジュリアスは夜間の外出を禁止すると告げた。
けれどもロザリアのきっぱりとした拒絶にジュリアスは驚いた。
「毎日の練習が必要なのです。この時間で候補寮で練習しては皆さまにご迷惑になりますわ。」
目をそらすこともなく言うロザリア。
「昼のうちに練習を済ませればよかろう。」
そのまっすぐな瞳にそれだけをやっと口に出した。
「図書館は昼しか開いておりません。ルヴァ様に質問したいことなどもございます。
昼の時間は女王候補としての勉強にあてたいのです。」
譲らない口調にジュリアスも黙った。
ロザリアの言うことは正論ではないような気がしたが、なぜかそれ以上言うことができない。
再びロザリアはバイオリンを抱えた。流れ出す、夜想曲。
ジュリアスはもっと聞いていたいと思う気持ちがあふれてくるのを、心の奥に無理に閉じ込めたのだった。
以前のことを思い出しながら、今日もジュリアスはバイオリンを聴いていた。
練習の最後は夜想曲の8番から2番。いつも通りに8番が終わる。
「ジュリアス様はわたくしが女王にふさわしいとお思いですか?」
突然弓を下ろしてロザリアがつぶやいた。
湖の向こうで弾いていたロザリアが隣で弾くようになってからしばらくが経った。
すでに試験の大勢はみえ、ロザリアが女王になるのも時間の問題になっている。
立ったままロザリアの演奏を聴いていたジュリアスはその言葉に一瞬息をのんだ。
「もちろんだ。そなたが最も女王にふさわしいと、考えている。」
それが宇宙のために最良なのだ、という思いは当然ある。しかし、なぜ、それを認めることがこんなにも苦しいのだろう。
ジュリアスは月明かりに浮かぶロザリアの横顔を見つめた。
ロザリアは凛としていたが、どこかいつもと違っていた。
「そうですわね。ジュリアス様のご期待に添えるような、立派な女王になりますわ。」
青い瞳は湖のように澄んでいる。
そのままロザリアはバイオリンをケースに戻した。
ジュリアスが後ろから付いていく帰り道、ロザリアは一度だけ立ち止った。
歩みを進めたジュリアスがロザリアのすぐ後ろに立ち止る。
一言もない時間がほんの少し流れて、またロザリアは歩きだした。
綺麗な月明かりが二人の影をぼんやりと照らしていた。
それからすぐにロザリアは女王になった。
バイオリンの練習は女王の部屋で行われるのだろう。
そう思いながらもジュリアスの足は湖に向いていた。
聖地にある湖は飛空都市のそれよりも大きく、二人で過ごした場所とは微妙に違っている。
やはりそこには誰の姿もなく、しんとした中に滝の音だけが響いていた。
「滝の音が聞こえるのだな・・・。」
いままで、滝の音に気付かなかった。ロザリアのバイオリンだけが耳に聞こえていたから。
「私は・・・。」
心の中に流れてくる夜想曲2番。あの日、なぜロザリアはあの曲を弾かなかったのだろう。
ジュリアスはただじっと煌めく滝のしぶきを眺めていた。
ヴェール越しに女王の声が聞こえる。
首座の守護聖であるジュリアスは一番女王と過ごす時間が長かった。
力のすべてを宇宙の安定に使わなければならなかった先代と違い、今上陛下はあらゆる執務を自分でこなしている。
「このごろ、バイオリンの練習をさぼっていますの。」
突然女王が言った。
「陛下ったら、遠慮しないで夜でもジャンジャン弾いたらいいのに。わたし、陛下のバイオリンとっても好きだわ。」
アンジェリークに同意を求められてジュリアスは言葉に詰まった。
「そうね。また練習を始めようかしら。女王じゃなくなってからバイオリニストになれるように。」
笑いあった二人のそばでジュリアスは胸の鼓動が高くなるのを感じていた。
その夜、森の湖の奥から聞こえるバイオリンの音色。
木々の隙間から青い影が見えた。
いつも結いあげた髪を腰まで下ろした姿は彼女を年相応の少女に見せる。
「陛下。このような時間にお一人では危険です。」
ジュリアスの声にロザリアは顔を向けた。
バイオリンを肩からおろしたロザリアの凛としたまっすぐな瞳がジュリアスを見つめている。
「あなたが来て下さるのではないかと思っていましたわ。」
再びロザリアはバイオリンを弾き始めた。
夜想曲8番。ロザリアにふさわしい貴婦人の曲。
曲が終わると、しんとした夜の静けさが戻ってくる。
二人の視線が交わると、ロザリアは微笑んだ。
「戻りますわ。」
差し出された左手にジュリアスは自分の右手を添えた。
今はまだ、女王と臣下として。
ロザリアの言葉が聞こえたような気がして、膝をついて手に口づけると、宮殿に送り届けた。
その夜から、ジュリアスはほぼ毎夜湖に向かうようになる。
彼女がいる時もあれば、いない時もあった。
そうして何年もの時が過ぎ、ついに、次の女王が決まった。
即位式も終わり、その時が近づいてきた。
眩しいばかりの日差しが木々の隙間からこぼれおちる。
ジュリアスは自然と足が湖に向いていることに気付いて歩みをとめた。
鳥の声にまぎれて聞こえるのはバイオリンの音。
足を速めたジュリアスの視界の先で光を浴びて輝くロザリアがいた。
風に揺れて起こる葉ずれの音にジュリアスの足音が重なる。
目を閉じてバイオリンを弾いていたロザリアはその音に気付いて顔を上げた。
変わらないまっすぐな青い瞳がジュリアスを見つめる。
飾り気のないシンプルなワンピース。
綺麗に巻いていた髪をルーズに下ろしたロザリアは初めて会った時よりかなり大人びていた。
「そなたがいるのではないかと思った。」
ジュリアスは口から飛び出した自分の言葉に戸惑う。
ロザリアは再びバイオリンを構えると、静かに弓を引いた。
流れ始めるのは夜想曲2番。
あの夜から一度も聴くことのなかった曲が思い出とともに耳に流れてくる。
「この日差しにふさわしいとも思えぬが。」
最後の余韻が消えると、ジュリアスの声が響いた。滝の水音さえもなぜか耳に入らない。
「あのときからもう一度、やり直したいのです。
・・・女王候補でも、女王でもないただのロザリアのわたくしに、ふさわしい場所はどこでしょうか?」
流れる風に日だまりが揺れる。
ジュリアスは膝をついてロザリアの左手をとった。
手の甲のキスは敬愛のキス。
ロザリアはジュリアスの唇が手の甲に触れたのを感じて、ふと微笑んだ。
「それが、あなたの答えなのですわね。わたくしには敬愛がふさわしいと。」
凛とした声の中に寂しげな色がのぞいた。
「ロザリア。」
久しぶりに聞いた自分の名前は心が苦しくなるほど、何度も夢見た声。
「もう2度と、その名を呼ぶことはないと思っていた。」
ジュリアスが手を引くと、ロザリアはその腕の中に閉じ込められる。
「これからはこの腕の中がそなたの場所だと思ってはくれないだろうか・・・?」
唇へのキスは愛情のキス。
女王から一人の女性に戻ったロザリアの笑顔が木漏れ日に輝いた。
FIN