Perfect couple

今日も聖地はうららかな陽気だ。

女王ロザリアは補佐官アンジェリークの目の下にばっちりと刻まれたクマを見て、美しい眉を寄せた。
昨日といい、今日といい、別にそれほどの大事件は起きていないことだし、居眠りしても困ることはない。
けれど。
机に突っ伏して涎まで垂らしている姿は、宇宙を司る聖地の補佐官としていかがなものだろう。
ロザリアはため息をつきながら、肩をすくめると、とんとん、と軽い調子でアンジェリークの肩を叩いた。

「ごめんなさい! いますぐに準備するわ!」
がたがたっと椅子が後ろにずり下がったかと思うと、盛大な音を立てて勢いよく倒れた。
簡単なパイプ椅子ならまだしも、この重い執務椅子が後ろに倒れるほどなのだ。
いかにアンジェリークの勢いがすごかったがわかるだろう。
そして、膝にくっつきそうなほどに頭を下げたまま、固まっている。
自分が招いたこととはいえ、あまりにも大きくなった事態に、ロザリアもびっくりして固まってしまった。

「あ…。」
ようやく意識がはっきりしてきたのか、アンジェリークは頭を起こすと数回瞬きをした。
緑の瞳がくりくりとした光を取り戻していき、てへ、と舌を出したのを見て、ようやくロザリアも唾を飲み込んだ。
「いくら新婚だからって、居眠りは許しませんわよ。執務だってこーんなに溜まっているんですからね。」
ばさばさと書類の束を机に降り注げば、アンジェリークは身体を小さく縮めている。
「ごめんなさい…。」
「もう!…まあ、結婚を許したのはわたくしですものね。
でも、こんなにクマができるほど夜更かししないように、ジュリアスにもクギを刺しておかなければ。」
ロザリアが『ジュリアス』の言葉を口にした途端、アンジェリークは「ダメ!」と、まさしく飛び上がった、としか形容できない勢いでロザリアの口をふさいだ。

「絶対言っちゃダメ! わたしがいねむりしてるなんて知られたら、また怒られちゃう…。」
しょんぼりとうなだれたアンジェリークに、ロザリアは口をふさがれたことにも怒るに怒れなくなった。
まるで、主人に見捨てられそうな子犬のよう。
耳としっぽがあれば、しゅーんとまるめていることだろう。
でも。
「また、とは、どういうことですの?」
どうしても聞き捨てならない言葉がある。
ロザリアは、なるべく普通に声を出そうと努力した。
そうでなければ、怒り出してしまいそうだ。
今のアンジェリークの言い方では、まるで。

「片づけができてなくて怒られたし、夜ご飯もちゃんと準備できてなくて怒られたし、お風呂の掃除もしてなくて怒られたし、寝る時間も遅いって怒られたし、朝も寝坊しちゃって怒られたし…。」
「ちょっと待ってちょうだい。」
ロザリアは指を折りながら一つ一つ数え上げるアンジェリークを遮った。
このままでは聞いているこっちが滅入ってきそうだ。
「怒られるって…あなたたちは、その、結婚したのでしょう? ケンカしてということかしら?」
「違うの!」
アンジェリークはぎゅっと握りしめた拳で机を叩くと、ロザリアをひた、と見つめた。
「わたしが、ダメだから…。お掃除も洗濯も、料理も…。全然ジュリアスの期待にこたえられなくて。このまま嫌われちゃったらどうしよう…。」


昨日、執務が終わり、アンジェリークとジュリアスは二人仲良く家に帰った。
玄関に着くまで、ジュリアスはとても優しくアンジェリークの手をとり、馬車から下ろしてくれたのだが。
家に入った途端、ジュリアスの眉間のしわが深くなり、キッチンに着くころには、額に青筋が浮かんでいた。
「これはなんだ?」
ジュリアスの指差した先には、山と積まれた汚れた皿。
シンクからフライパンの取っ手が飛び出し、リンゴの皮が干からびて、皿の上に渦を巻いている。
「ごめんなさい。朝、時間がなくて…。」
小さくなったアンジェリークにジュリアスのしわが深くなる。
「では、これはなんだ?」
ソファの上には丸められたストッキング。
「出がけに破れてるのに気づいて、あわてて履き替えたから、あの…。」
何も言わず、ジュリアスは丸まったストッキングをゴミ箱に捨てると、洗面所に向かった。

タオルをとろうと洗面所の物入れの戸を開けたジュリアスはぎょっと目を見開いた。
かごから溢れた洗濯ものが、雪崩のように落ちてくる。
ばさばさ、と足元にアンジェリークの下着が落ち、ジュリアスの怒りを押し殺した声が響いた。
「ご、ごめんなさい。洗濯してる時間がなくて…。」
あわてて飛んできたアンジェリークが落ちた洗濯ものを拾い上げ、また物入れにぎゅうぎゅうと押し込む。
「もうよい。食事はできたのか?」
「もう少しだから。」
アンジェリークがばたばたとキッチンにもどり、シェフが作ってくれたおかずを温めていると、シャワーを浴びたジュリアスがダイニングに入ってきた。
「ちょうどよかった。今から御飯よ。」
パンと野菜炒めとハンバーグをちらりと見たジュリアスは不機嫌そうに椅子へ座り、アンジェリークがカトラリーを並べ終わるのを待っている。
最後にアンジェリークがグラスに水を注ぎ、椅子に座った。

「では、いただこう。」
料理に関して、ジュリアスは何も言わない。
平日はシェフの料理なのだから、美味しいに決まっているが、それは週末、アンジェリークが調理をした時も同じだ。
美味しいのか、不味いのか。
好きなのか、嫌いなのか。まるでわからない。
様子をうかがいながらアンジェリークが詰め込むように料理を食べていると、ジュリアスがフォークを置いた。
言われる前に、とアンジェリークが立ち上がると、その拍子にナイフとフォークが床に落ちる。
焦ってテーブルクロスを引っ張ってしまったのだ。
「ご、ごめんなさい。」
あわてて拾い上げて、キッチンの奥へ行くと、マシンに出来上がっているエスプレッソを注いで、ジュリアスの前に置く。
食後に必ず飲むコーヒー。
これがあるから、ゆっくり食べてなどいられないのだ。
「うむ。」
満足げに微笑むジュリアスに、アンジェリークがほっとテーブルに戻ると、フォークとナイフをキッチンに置いてきてしまったことに気付いた。
まさか、ジュリアスの物を貸してくれ、とは言えずに悩んでいると。
ゆっくりとコーヒーを飲み終えたジュリアスが席を立った。
コーヒーは苦手だから、紅茶を飲みたいけれど、そんなことをしている暇はない。
アンジェリークも半ば飲み込むように食事を終わらせた。

食器の片付けや朝食の準備などをしてリビングに行くと、ジュリアスはボルドーグラスを片手に本を読んでいる。
ちらりと時計を見れば、もう22時。
まだ帰って来てから、食事をしただけだ。
急いで、お風呂に入り、浴室の掃除をすれば23時を回っている。
ジュリアスはもう寝室に向かう時間。
彼の規則正しい生活は、結婚した今も少しも変わらないのだ。
アンジェリークから思わずため息が零れる。
まだ、明日の服のアイロンかけが終わっていないし、やっぱり溜まった洗濯もできそうもない。
ジュリアスが飲んだワインのグラスを片づけたり、動き回っているうちに気がつけば0時を過ぎている。
一度、ジュリアスがアイロンの途中で顔をのぞかせたが、「まだ終わらぬのか? 早く眠らねば、明日の執務に差し支えるであろう。」と、小言を残しただけで、すぐに寝室へ行ってしまったようだ。
アンジェリークがベッドに行く頃には、すっかりジュリアスは熟睡していた。

そして、今朝。
やっぱり目玉焼きを焼きすぎて、ジュリアスの好きな半熟にならなかった。
別に不平を言われたわけではないが、眉を寄せたのが見えてしまったのだ。
実際、残ったままだった黄身。
「わたし、がんばってるんだけど…。」
話しながら、だんだん頭の垂れるアンジェリークに、ロザリアは怒りが収まらずに腕を組んだ。



「それはひどいね。」
「でしょう?!」
イライラと部屋中を歩き回るロザリアに、オリヴィエはくすっと笑みをこぼした。
女王としての彼女はとても理性的な名君なのに、こと親友のことになると、この通りだ。
けれどその怒りも当然といえば当然かもしれない。
アンジェリークとジュリアスの結婚を認めさせるために、ロザリアはかなりギリギリな手法を使った。
それなのに、その結婚が不幸だったとしたら。
怒りたくもなるだろう。

「アンジェリークだって、補佐官として毎日きちんと執務をこなしているんですのよ? それなのに、帰ってから家事の全部をやらせるだなんて!
 寝不足になるのも当たり前ですわ。これ以上無理をしたら、過労で倒れてしまうではないの!」
ジュリアスがその場にいたら噛みつきそうな勢いで、まくしたてたロザリアは、ふう、とため息をつくと、ソファに腰を下ろした。
テーブルの上にあるカップをもちあげ、心を落ち着かせるように一口飲む。
オリヴィエが淹れてくれたのは爽やかなダージリン。
ロザリアは恥ずかしそうにほほ笑んだ。

「わたくしは幸せですわ。」
「どうして?」
ロザリアは頬を赤らめると、オリヴィエの隣へと移動した。
「あなたはわたくしの執務のことも理解してくださっているし、それに…。」
「それに?」
ますます顔を赤くしたロザリアはオリヴィエの首に手を回し、ギュッと抱きついた。
「あなたといると、とても…。幸せとしか言えませんわ。」
「私もだよ。」
ふと唇を触れ合わせ、寄り添うとロザリアは再び思い出したのか、大きなため息をついた。

「ジュリアスも気づいてくれればいいのだけれど…。」
ロザリアもジュリアスに悪意があると思っているわけではなかった。
幼いころから聖地で過ごしてきたジュリアスは、一般の家庭の姿を知らない。
おそらく、『そうあるべきだ』という古い固定観念に縛られているのだろう。
あれほどアンジェリークを愛しているのだから、彼女を不幸にするようなことができるとは思えない。
「そうだねえ。…ま、ジュリアスはバカじゃないから、ちょっときっかけがあればわかると思うんだけど。」
「きっかけ…。」
ロザリアが考えこんだ。
「いっそ、アンジェリークに家出でもさせましょうか?ありがたみがわかるのではなくて?」
「それじゃ、二人の仲が悪くなっちゃうかもしれないじゃないか。・・・しょうがない。一肌脱ぐ?」
「なにかお考えがありますの?」
「…ちょっと耳貸して。」
ごそごそと話すオリヴィエにロザリアはうんうんと頷くと、顔を綻ばせた。



次の日。
アンジェリークに特別な残業を言いつけたロザリアは、ジュリアスの執務室に向かった。
優雅なノックを響かせ、ドレスの裾をはためかせると、ジュリアスの前に立ち、にっこりとほほ笑んでみせる。
威厳のある態度は、この後の誘いを断りにくくするためだ。
案の定、女王に対して特別な敬意を持っているジュリアスは、神妙な顔つきで立ち上がり礼をした。
「今日、アンジェリークにどうしても外せない執務をしてもらうことにしましたの。よろしいかしら?」
ジュリアスの表情が一瞬悲しそうに歪んだ。
アンジェリークがいないことがさみしいのだ、と、ロザリアは笑いそうになる口元をぎゅっと引き締めた。
「突然でジュリアスもお困りでしょう? よろしかったら、わたくしの屋敷で一緒に夕食をいかがかしら?」
ロザリアの誘いに、ジュリアスは考えた。
たしかに使用人のいない今、一人では夕食の支度すらままならないだろう。
アンジェリークを待つこともできるが、ロザリアの口ぶりでは、帰りが何時になるかもわからないようだ。

「オリヴィエは、構わぬのか?」
二人がともに暮らしていることは公然の事実だ。
女王という立場ゆえに、正式な婚姻こそしていないが、ジュリアスですらその事実を認めていた。
「ええ。彼もぜひにとおっしゃっていますの。」
再び、にっこりとほほ笑まれて、ジュリアスも頷いた。
もとより断る理由もない。
執務の終了とともに、3人は女王の居室へと向かったのだった。


豪奢なリビングはロザリアの趣味だろう。
ただところどころにモダンな部分も混じり、さりげないがオリヴィエのセンスも合わせて品よくまとめられている。
けれど、どことなく雑然とした感じがするのは、ジュリアスの家とそう違いがあるわけでもない。
ようするに、片づけが行き届いていないのだ。
勧められるままソファに腰を下ろしたジュリアスの前に、オリヴィエが紅茶を置いた。

「ま、ゆっくりしてて。ちょっとバタバタするかもしれないけどさ。」
ジュリアスは目の前におかれたカップとオリヴィエを交互に見ながら、ゆっくりとカップを取り上げた。
「このお茶はそなたが淹れたのか? 陛下はどうなされた?」
「ん? 私が淹れたけど。ロザリアなら、着替えと食事の準備をしてくれてるよ。」
バタバタする、と言った通り、オリヴィエは部屋の片づけを始めた。
テーブルの片隅に重ねられていた新聞をまとめて物入れにしまったり、ソファにかけられたままだった上着をどこかへ運んだりしている。
ジュリアスは、動き回るオリヴィエに声をかけた。
「そのようなことは妻の仕事であろう? 家に戻ったのだ。ゆっくりしておればいいではないか。」
「自分の家を自分で片付けるのって普通じゃない? ロザリアだっていろいろやることあるんだし、できることはやるのが当然でしょ。
 私たちは助け合うために一緒にいるんだからさ。」
「しかし…。」

ジュリアスが続きを言うよりも前に、オリヴィエはどこかへ行ってしまった。
しんとした部屋で紅茶を飲んでいると、常の自分のことが思い出されてくる。
この前も帰ってくるなり『片付けができていない』と不満をぶつけ、アンジェリークは一人バタバタしていた。
その間、ジュリアスはシャワーを浴びたり、本を読んだり。自分のことをしているだけ。
それが当たり前だと思っていた。
なのにオリヴィエの言葉を思い出すと、なぜかもやもやとしてくる。
考えこんでいると、
「遅くなってごめんなさい。食事の支度ができましたわ。」
家着なのだろう。ゆったりとしたワンピースに着替え、小ざっぱりとしたロザリアが顔をのぞかせた。
いつも着替えもせずにキッチンに立つアンジェリークとは大違いだ。

「あ、ちょうどよかった。お風呂の用意、できたよ。」
どこかへ行ったと思っていたオリヴィエも戻ってきている。
浴室の掃除をしていたらしく、袖をまくっていた。
「ありがとう。」
女王とは違う顔をしたロザリアがオリヴィエに向かってほほ笑んだ。
愛する者にだけ向ける、特別なまなざしであることがジュリアスにもわかる。
同じようにオリヴィエも優しくロザリアを見返している。
ジュリアスはまた、胸がもやもやしてくる気がした。


促されるまま、ジュリアスがテーブルに着くと、ロザリアが食事を並べ始めた。
パンとサラダと野菜の煮込み。それとステーキ。
その間にオリヴィエがカトラリーを運び、グラスに水を注いでいる。
二人の動作は慣れていて、ごく自然だ。
時々目で交わす言葉が、不思議なほど心地よく思える。
「シェフの料理ですから、お味は問題ないと思いますわ。」
ステーキだけは今、焼きましたのよ、と笑うロザリアに、オリヴィエが「ちょうどいい焼き加減だね。おいしいよ。」とウインクをしている。
会話しながらの食事は、瞬く間に進んでいった。
ちょっとした執務のこと、聖殿の噂話、読んだ雑誌。
ジュリアスも会話に加わりながら、ゆっくりと食事を楽しむことができた。

「ひさしぶりに落ち着いて食事ができた。」
ナプキンで口をぬぐい、コーヒーに手を伸ばしたジュリアスは、ロザリアに笑みを浮かべた。
「満足していただいてうれしいですわ。」
ロザリアも同じように口をぬぐい、紅茶を飲んでいる。
一足先に食事を終えたオリヴィエが二人のために用意してくれた飲み物だ。
「お代わり、ココに置いておくからね。」
コーヒーのポットをテーブルの中央に置き、オリヴィエはジュリアスの皿を重ねてキッチンに運んで行った。
その後を追うように、紅茶を飲み終えたロザリアが残りの皿を重ね、運んでいく。
しばらく二人の話し声が聞こえたかと思うと、カップを手にしたオリヴィエが戻ってきて、席に座った。


ゆっくりとカップを口に運ぶオリヴィエ。
食事の間も、二人は自然に仕事を分担していた。
水のお代わりは水差しのそばにいるオリヴィエが。
パンのお代わりはキッチンの近くにいるロザリアが。
それを見るたびに、もやもやとしたジュリアスは思わず眉を寄せていた。
「女王陛下を妻に持ったからとはいえ、家庭でも仕えなければならぬことはないであろう。
 この家の主人はそなたなのだ。もっと毅然とした態度で接した方がよかろう。」
「はあ?」
オリヴィエは紅茶を噴き出しそうになりながら、ジュリアスをまじまじと眺めている。
その視線にジュリアスがますます眉を寄せると、眉間にくっきりとした皺が浮き出た。

「なにそれ。私が主人なら、ロザリアは奴隷? 」
「そうではないが…。」
面と向かって聞かれ、ジュリアスは困惑した。
オリヴィエの言い方は極端だが、意図は間違ってはいない気もする。
「そなたは陛下を甘やかし過ぎている。お茶を淹れたり、掃除をしたり。家事は女性の仕事であろう。」
「でもね、ロザリアは女王の仕事もしてる。私よりもずっと責任重大で、気苦労だって多いんだよ。
 家に帰ってきたら、ゆっくりさせてあげたいじゃないか。」
オリヴィエは空になっていたジュリアスのカップにコーヒーを継ぎ足した。

「好きな女の子に何かしてあげたいって、普通のことだと思うけどね。あんたは違うの?」

ジュリアスは今までのもやもやの理由がわかった気がした。
自分は嫉妬していたのだ。
自分がしたいと思ってもできなかったことを、当たり前にこなしているオリヴィエ。
オリヴィエといて、幸せそうにほほ笑むロザリア。
結婚したというのに、自分たちの間には、二人のような空気がなかった。

「私は家事などしたことがない。」
ジュリアスはカップになみなみと注がれたコーヒーを見つめて、溜息をこぼした。
幼少のころから聖地で育ち、使用人に囲まれてきたのだ。
洗濯機一つ、回したことがないのは事実だ。
「今からやればいいんじゃない? いつも誰かさんも言ってるじゃない。『やろうとしない態度が問題なのだ』ってね。」
ジュリアスの眉間の皺がほころんだ。
たしかに、いつもクラヴィスのやる気のなさに愚痴をこぼしている。
アンジェリークに同じように思われていたのだとしたら、なんと情けないことだろう。

食器の片付けを終えたロザリアがキッチンから出てきた。
「御苦労さま。」
すぐに声をかけたオリヴィエに柔らかく微笑んだロザリアは、ジュリアスに皿を差し出した。
「残りものですけど、お持ちになって。」
皿の上には、野菜サラダが乗っている。
「これで一品になるよ。」
オリヴィエがウインクして、ジュリアスはようやく二人の意図に気がついた。
「うむ。では遠慮なく頂いていこう。…陛下はよき伴侶を選ばれたようだ。」
「でしょ? 私ほどのいいオトコ、なかなかいないと思うね。」
「まあ! おっしゃいますこと!」
愛しげに抱き寄せたオリヴィエに、ロザリアは頬を染めながら抗議するように唇を尖らせている。
ジュリアスは幸せそうなロザリアに、胸がチクリと痛むのを感じた。
このごろ、こんな笑顔のアンジェリークを見たことがないかもしれない。



家に着いたジュリアスは、相変わらず散らかった部屋にため息をこぼした。
けれど、思い起こせば、アンジェリークはジュリアスよりも先に起きて朝食を準備していたし、着替えも済ませていた。
それに引き換え自分は、コーヒースプーンすらアンジェリークに取りに行かせたくらいだったのだ。
テーブルの上にある赤いリボン。
彼女が髪に結ぶ間もなく出て行かなければならなかったのだとしたら。
「できることから、だな。」
ソファに置き去りにされていた昨日の新聞とリボンを拾い上げたジュリアスは、ぐるりとリビングを見回した。


「ただいま。遅くなってごめんなさい。」
バタバタと廊下を走るアンジェリークの足音が聞こえ、ジュリアスは読んでいた新聞をたたんだ。
その瞬間、まさに飛び込んだ、という勢いでアンジェリークがドアを開ける。
しばらく、ハアハアと肩で息をしていたアンジェリークはジュリアスが立ち上がったのを見て、首をすくめた。
別に怒った様子はなかったのだが、日ごろの反射とは恐ろしい。
「疲れたであろう。ここへ座るがよい。」
ジュリアスは茫然としたアンジェリークの手を引いて、ソファに座らせると、入れ替わるように奥へと向かった。

消えていくジュリアスの背中を見ていたアンジェリークは、身体の疲れもあって、すぐには動けなかった。
もしかして、ジュリアスは怒っているのかもしれない。
また、失敗したのか、と今日一日のことを思い巡らせていたアンジェリークは、妙に部屋が片付いていることに気がついた。
今朝、出しっぱなしにしたはずのリボンも。
後でしまおうと思っていた昨日までの新聞も。
食べかけて時間がなくなって、そのままにしまったパンのかけらも。
見事になくなっている。
「まさか小人さんが来たとか…。」
アンジェリークが呟いた時、ジュリアスがキッチンから出てきた。
手にはカップの乗ったトレー。
鼻をくすぐる紅茶の香りに、アンジェリークは目を丸くした。

「紅茶とは難しいものなのだな。陛下にいただいた貴重な茶葉なのだが、飲んでみてはもらえぬか。」
ジュリアスは困ったような顔をして、アンジェリークを見つめている。
アンジェリークは狐につままれているのではないか、と思いながらも勧められるままカップに口をつけた。
ほのかな渋みの中に、爽やかなフルーツの香り。
ロザリアの好きなダージリンだ。

「美味しい・・・。」
ほっと一息つくと、ぽたっと、カップの中に滴が零れおちた。
「やだ、わたしったら。どうしちゃったんだろ?」
疲れ切った身体の中に、暖かな紅茶が染みわたるようだ。
ぽたぽたっと零れおちる滴が涙なのだと、アンジェリーク自身、すぐには気がつかなかった。
「おかしいわ。とっても美味しいのに。これじゃ、変な味になっちゃう!」
あわてて紅茶を飲みほしたアンジェリークは、目を赤くしながらにっこりと笑った。
久しぶりに見たアンジェリークの笑顔。ジュリアスは思わず、彼女を腕に抱きしめていた。

「どうしたの?」
きょとんと聞き返されれば、今さら言い訳めいた詫びを言うことがどうにも恥ずかしく思えてしまう。
ジュリアスはこほんと咳払いをすると、「風呂の準備ができている。そなたから入るがよい。」と告げた。
「え?お風呂? ジュリアス、準備なんてできたの?」
聞きようによってはかなりの失礼な発言だが、今までの行いを考えればやむを得ない。
ジュリアスはほんの少し眉間にしわを寄せ、頷いた。
「ありがとう! すっごく嬉しいわ!」
首に飛びつくように抱きついたアンジェリークの背中を、ジュリアスはそっと撫でた。
お茶を淹れることも、風呂の準備をすることも、やってみれば、簡単なことだ。
それでアンジェリークがこんなに喜んでくれるのなら。
もっといろんなことを覚えてみるのも悪くはない。


「一緒に入る?」
腕の中のアンジェリークがジュリアスを見上げながら、まるでいたずらをする前の子供のように瞳を輝かせている。
「そなたが望むなら、そうしよう。」
ジュリアスはアンジェリークを軽々と抱きあげ、浴室へと向かった。
「なんだか久しぶりね。」
「そなたが忙しそうにしていて、一緒に眠ることもできなかったからな。」
「あ、もしかして、いつものぞきに来たのって、誘ってたの?」
「…。」
抱きあげられたままのアンジェリークが楽しそうに笑い声をあげている。

『好きな女の子を笑顔にしてあげるのが、男の仕事だよ。』
帰り際、オリヴィエに言われたこと思い出したジュリアスは、ふっと唇を端を上げ、アンジェリークを見つめた。



後日、すっかり家事を覚えたジュリアスに、アンジェリークが別の意味で毎日怒られるようになるのだが…。
今の二人は、もちろん知る由もなく。
その日は、とても幸せな夜を過ごしたのだった。


FIN
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