ジュリアスにとって、彼女は三人目の女王だった。

「四季、ですか」
若干、呆れた口調になってしまったことは否めないが、決して顔には出ていなかったはずだ。
目の前の新女王は、変わらぬ笑顔でジュリアスをキラキラと見つめている。
先代までならば、女王は玉座で、跪くジュリアスの頭を見下ろしていたものだが、新女王はそういった形式ばったことを好まない。
だから、午後の会議ですら、女王とその隣の補佐官、そしてジュリアスの三人がごく普通の丸テーブルに並んで座り、お菓子とお茶をお供に、ごく普通の会話をしている形だ。
けれどその話の内容は、全宇宙の存続がかかっているわけで、外見と中身のギャップが激しい。
重要な議題は片付き、あとは、少しの世間話。
そう考えたジュリアスが、ロザリア手製のエスプレッソを一口飲んだところで、突然、女王が言い出したのだ。

「ねえ、聖地にも四季があったら、素敵だと思わない？」
緑の瞳を熱っぽく潤ませた女王アンジェリークは、四季の素晴らしさについて語りはじめる。
「春は桜とか花が咲いてすごく綺麗なの。　あ、ジュリアスはお花見って知ってる？　桜の木の下でシートを引いて、みんなでご飯を食べながらおしゃべりしたり、歌を歌ったりするの。すごく楽しいんだから」
アンジェリークは興奮した様子でお花見を説明してくれたが、ジュリアスには今ひとつ、ぴんとこなかった。
木の下で飲食をするなら、普段の土の曜日のお茶会とそう変わらないし、ジュリアスは歌など歌うつもりはない。

「夏はもっとすごいのよ。海･･･は聖地にはないから無理として、森の湖で泳いだり、お祭りだってやりたいわよね。それになんと言っても花火よ！夏の風物詩といえば、絶対コレ！浴衣をみんなであつらえて、夜店を冷やかしたりして･･･うふ、楽しみ～！」
キラキラした顔で詰め寄ってくるアンジェリークに対して、やはりジュリアスはぴんとこなかった。
お祭りはわかるが、花火は見たことがないし、浴衣とやらもわからない。
なにがそんなに楽しみなのか。
ジュリアスの眉間には僅かにしわが寄ったが、アンジェリークはまるで気がつく様子がなかった。

「秋は紅葉狩りでしょ、冬は雪合戦でしょ。ほら、やっぱり常春のままじゃできないことが多いもの。四季が必要よ！」
いつの間にか立ち上がっていたアンジェリークは、ふんと鼻息を一つならし、両手を腰に当ててふんぞり返っている。
素晴らしい演説だった、と褒めてもらいたいのかもしれない。
実際、彼女の表情は満足げだ。
ジュリアスはうつむいて、眉間を人差し指と中指でそっと押さえた。
また面倒なことを、というのが正直な気持ちだが、即座に却下するほどの理由は見当たらない。
アンジェリークが女王になってから、三ヶ月と少し。
ジュリアスの不安をよそに、アンジェリークは実に立派に女王としての責務を果たしている。
もちろん、補佐官であるロザリアの助けが大きいこともわかっているが、彼女自身の頑張りも認められるところだ。

「･･･よろしいのではないでしょうか」
一呼吸あと、ジュリアスは頷いた。
何もかも反対ばかりしていては、この新しい女王のやる気を殺いでしまう。
それに、ジュリアスにも好奇心があった。
お花見、お祭り、紅葉狩り。
ともすれば退屈になる聖地には、なにか楽しみが必要だ。
「わー！ありがとう！ジュリアスが賛成してくれれば、あとのみんななんかチョロいものよね！」
大喜びのアンジェリークに、若干苦々しい顔のロザリア。
女王になってから潜めていた無邪気さが、一気に息を吹き返したような笑顔に、なぜかジュリアスもほっとしていた。

ところが。
すぐ、ジュリアスは許可したことを後悔した。
主星に合わせた季節は夏。
早速「お祭り」とやらの準備に奔走する羽目になったのだ。
もちろん、筆頭に大忙しなのは補佐官のロザリアで、あとはお祭り好きの面々がメインに携わってはいたが、なにかと皆がジュリアスの許可をもらいに来るせいで、執務が思うように捗らない。
新しい宇宙は安定していて、そこまで差し迫った執務はないが、雑務は山のようにあるのだ。

「ねえ～、ジュリアス、打ち上げ花火の場所なんだけど」
女王アンジェリークがジュリアスの執務室を訪れるのも毎日のこと。
あちこちを勝手にうろうろして、ひょっこり現われる女王には頭が痛いところだが、
「え？聖殿の中くらい自由に動いてもいいわよね？だって、わたしの家みたいなものじゃない」
そう言われては反論の余地もない。
確かに聖殿の中はこの宇宙で一番安全だ。
「･･･外へお出かけのさいは、必ず供をお連れになりますよう」
ジュリアスが眉間にしわを寄せて礼をとると、女王は
「その時はよろしくね！」
と、元気いっぱいに笑っていた。

「湖のほとりであれば、火災にも注意を払えるであろう。問題ないな」
ジュリアスは女王の持参した打ち上げ花火の計画書を、一枚一枚ゆっくりとめくり目を通した。
祭りの準備は煩わしいが、女王以下のお祭り連中に好き勝手に暴走されるよりは、こうしていちいちチェックした方がいい。
傍らでアンジェリークは、そわそわとジュリアスの様子をうかがっている。
今日も女王は正装を解き、過ごしやすい簡単なドレスを着ているせいか、こうしていると、本当に普通の娘にしか見えない。
だが、ジュリアスはいざというときの彼女の女王としての姿を知っている。

「許可しよう」
ジュリアスは書類の末尾にサインをし、アンジェリークへと戻した。
「うふ。ありがとう。ジュリアスのお墨付きなら、みんなも安心して準備ができるわ」
アンジェリークは書類を胸に抱えると今にも空を飛びそうな勢いで、駆け出していった。
バタバタと去って行く足音は大きい。
「あの落ち着きのなさ……。まったく歴代女王を見習ってほしいものだ」
先代も候補時代は活発だったが、女王になってからはすっかり落ち着いていたものだ。
それなのに。
ふっとジュリアスの口から長い息がこぼれたが、それは苦悩のため息ではなく、どちらかというと微笑みに近く。
けれど、すぐに、いつもの厳しい顔に戻っていたのだった。

それから、祭りの日まで、やはり聖殿はざわざわとずっと騒々しかったが、ジュリアスは通常通りの執務を続けていた。
許可さえ取れれば、ジュリアスがやることはないのだ。
当日も、ジュリアスはいつも通り、執務室に座っていた。
日が沈むにつれ、聖殿の前の広場に人が集まり始めたのか、少し距離のあるジュリアスの執務室までも、賑やかなざわめきが聞えてくる。
気持ちを浮き立たせるようなテンポの良い音楽や、聞き慣れない楽器の音。
ゆらゆらと揺れる提灯の明かりが、色鮮やかに窓に反射している。
どうやら聖地の相当数の人が集まっているらしい。
守護聖たちも皆出てしまったのか、聖殿の中はしんと静まりかえっていて、外の賑やかさとはまるで別世界だ。

ジュリアスは今朝方に女王が届けに来た、祭りのパンフレットを手に取った。
会場の見取り図によれば、ずらりと出店が並んでいて、広場の中央にはステージまであるらしい。
皆で踊るダンスタイムや、カラオケ大会まで開くというのだから、まさになんでもありの大宴会だ。
もっとも、いくら騒がしくても、集中すれば気にならない。
ジュリアスは外の喧噪をよそに、一人黙々と執務を続けていた。

しばらくして、
「あ！ジュリアス、やっぱりここにいたのね！」
勢いよく扉が開いて、人影が飛び込んできた。
顔を上げたジュリアスが思わず目を見開いたのは、駆け込んできた彼女の姿が、あまりにもぶっ飛んでいたからだ。
満面の笑顔の女王アンジェリークは、片手に団扇と林檎の刺さった棒を掲げ、もう片手にはトウモロコシが２本入ったビニール袋とゴムのヨーヨー２つ。
頭には狐のお面を乗せ、ド派手な真っ赤な薔薇が描かれた珍妙な衣装を着ている。
ジュリアスの呆然とした様子に気がついたのか、アンジェリークはうふ、と肩をすくめると
「これ、お祭りの定番衣装の浴衣っていうのよ。で、こっちはりんごあめ。で、こっちは焼きもろこし」
アンジェリークは浴衣の袖をひらりと振って見せ、ずんずんと執務室の中に入ってきた。
彼女が歩くたびに、変わった形の木の靴が床を叩き、からからと音を立てる。
中に鈴が仕込んであるらしく、かなり大きな音だが、どこか涼やかにも思えた。

「いやだわ、せっかくのお祭りの日にまで執務してるなんて、ジュリアスったら。仕事熱心なのも度が過ぎると病気よ！」
アンジェリークはジュリアスの机の上の書類を全て裏返すと、ジュリアスの手を取って、無理やりに立たせた。
「はい、このりんごあめと焼きもろこしはあげるわ。ちょっとでもお祭り気分になるから。ヨーヨーも一つ分けてあげるわね。こっちの黄色いほうがジュリアスね。赤いのはわたし用だから」
アンジェリークは子供に言い聞かせるように、ジュリアスの手にそれらを押しつけた。
いらない、と言いたかったが、女王がわざわざ持ってきてくれたものを突き返す事もできず、ジュリアスは黙って受け取った。
りんご飴、といわれた物体は、真っ赤な林檎に、真っ赤ななにかが塗りたくられている。
おそらく水飴だろうが、身体に悪そうな派手な赤で、口にしたら、口中が真っ赤に染まってしまいそうな感じだ。
トウモロコシは一応、ビニール袋に入っているものの、密閉されてはいないから、焦げた醤油の匂いが、部屋中にあふれ出している。
どう処理すべきかとジュリアスが悩んでいるうちに、アンジェリークはバルコニーに向かって駆け出していた。

大きなテラス窓を両開きにして、
「ジュリアス、こっちよ！ここ！」
アンジェリークがうちわで手招きしている。
ジュリアスはとりあえず、リンゴ飴をペン立てに差し、トウモロコシを捨て紙の上に置いた。
そして、バルコニーに出ると、ずっとジュリアスを呼び続けている、アンジェリークの隣に並んだ。

「ちょうどいいわ。ホラ！」
アンジェリークが指差した夜空に、ぱっと開いた光の花。
夜空一面を埋め尽くすような光の洪水が、ジュリアスの目の前で鮮やかに浮かび上がった。
そして、すぐにどーんという地面を揺らす爆発音がして、次々に花の形が変わっていく。
花火、というものを書物の上では知っていたジュリアスも、目の前で実際に開くその見事な情景に、ただ圧倒されて、空を見上げていた。
立て続けに数発が上がり、しんと空が黒くなる。
次の花火までのちょっとした間に、ジュリアスは傍らのアンジェリークをそっと見た。
ゆるくアップにされた金の髪には、可愛らしい蝶のかたちの髪留めがついている。
そこから、すらりと伸びたうなじが、浴衣という特殊な構造の衣服のせいか、やけに白く眩しく見えた。

「ジュリアス、どうしてお祭りに来なかったの？」
アンジェリークは真っ暗な空を見上げている。
バルコニーに流れてくる僅かな風に、彼女のオレンジ色の帯がひらりと舞った。

「私が行けば、皆も素直に遊べまい。準備も大変であっただろうし、せっかくの祭りなのだ。思う存分に楽しめば良いだろう」
ジュリアスは思わず本音をこぼしていた。
祭りにまるで興味がなかったわけではない。
けれど、ここ最近の守護聖や聖殿の様子を見ていて、皆がとてもこの催しを楽しみにしていることがわかった。
あのクラヴィスでさえ、執務終了の時間がくるや、祭りへ向かったのだ。
もしもジュリアスが出て行って、皆の空気が緊張したものに変わったり、険悪なモノになって、祭りの雰囲気をだいなしにしたりしたら。
そう思うと、無理をして出ていく気にはなれなかった。

「ジュリアスって、そういうへんなところ、優しいのよね」
バルコニーの手すりを掴んで、アンジェリークが長いため息を吐き出した。
「うん、でも、そういうところ、すごくわかる」
空を見ていたアンジェリークがくるりと振り向き、ジュリアスに笑いかける。
彼女はもうリンゴ飴を食べたのか、微笑みを作る唇が、やけに赤く艶っぽく見えた。

「わたしが女王候補だった時も、ジュリアスはいっつも怒ってばっかりで、すごく怖かったから、なかなか育成のお願いにも行けなかったもの」
「･･･そうであろうな」
ジュリアスもそう思われているであろう事は自覚していた。
女王候補達に厳しすぎるとオスカーにも何度か忠告されたし、ルヴァにやんわりと咎められたこともあったからだ。
けれど、不思議なことに、アンジェリークはめげずにジュリアスを訪れてくれていた。
育成だけでなく、話だけの時もあったし、日の曜日に遊びに誘われたりもした。

「でも、わたしは知っちゃったから。
飛空都市の図書館で、本棚の上の方の本が届かなくて困っていたら、次の週にはちゃんと踏み台があったり。遊星盤がちょっとコワイってパスハさんに話したら、次の時にはゆっくり飛ぶようになってたり。育成がちょっと上手くいかないときに、新しい資料が用意されてたり。あ、朝ご飯は牛乳よりもオレンジジュースがいいな、って、思ってたら、いつの間にかジュースも選べるようになってたりもしたわ。
ホントにどうでもいいようなことかもしれないけど、わたし達が過ごしやすいように、ちゃんと気をつけてくれていたのよね」

ひゅーんと花火の上がる音があたりを切り裂き、ジュリアスもアンジェリークも再び空を見上げた。
ぱっと光って散る花火。
それきり、アンジェリークはなにも話さず、ジュリアスも話しかけず。
はらはらと光の粒が舞い落ちて、祭りは終わっていった。

月日の過ぎるのは早いもの。
それからも毎年、聖地では夏祭りが開かれ、最後には花火が上がることが恒例となった。
夜店の数も増えていき、イベントも華やかなものが増えていく。
けれど、ジュリアスはやはり祭りには参加せず、祭り囃子や色とりどりの提灯を執務室の窓から眺めているだけだった。
数年前、偶然、忘れ物を私邸に取りに戻ろうとしたときに、はっぴを着たランディとすれ違い、
「ジュリアス様も、参加されるんですか･･･？」
と問われ、なんとなく気まずい空気になったことがあったのだ。
彼らももちろん悪気があるわけではないのだろうが、ジュリアスは納得していた。
それに、ジュリアスにとっての祭りは、ちゃんと毎年やって来ている。

「ジュリアスー！今年も一人なのね。さあ、花火が始まるわ！」
バタンと大きな音を立てて開く扉。
派手な真っ赤な薔薇柄の浴衣を着たアンジェリークが、両手をいっぱいにして、執務室に入ってくる。
「はい、これはリンゴ飴。それから、たこ焼きと焼きそばのツインセット。あ、これはスーパーボールよ。焼きもろこしも好きよね？」
アンジェリークは勝手知ったる様子で、リンゴ飴をペン立てに差し、机に捨て紙を敷いて、買ってきた諸々を並べた。
「今年のたこ焼きはすごいの！見て、この大きさ。テニスボールくらいあるわ」
たしかに大きい。
「でも、中のタコはいつもと同じなのよ。ちょっと問題よね」
憤慨した様子のアンジェリークに、ついジュリアスの顔がほころぶ。
女王になって何年経っても、彼女はまるで変わらない。
それが喜ぶべき事なのかはわからないが、どこかでホッとしている事も事実だ。

バルコニーに出ると、待っていたように大きな花が夜空に開く。
技術も年々向上しているのか、丸だけでなく、この頃はいろんな形の花火がある。
ハートや三角、猫。
いろんな形が上がるたびに、傍らのアンジェリークは目を輝かせて手を叩いていた。
ふと、花火が途切れ、暗闇が訪れる。
背中越しに執務室からこぼれる明かりで、バルコニーは薄明かりに包まれている。
アンジェリークは手すりをもったまま、ジュリアスを見上げた。

「早いものね。もう夏祭りも１５回目よ。結局、ジュリアスったら、一回も来ないんだもの。ちょっと残念だわ」
しゃらん、とアンジェリークの金の髪に留まっている蝶の飾りが揺れる。
そういえば、毎年、彼女は浴衣も髪飾りも新調していたけれど、この蝶の飾りは、初めて二人で花火を見た時と同じ気がする。
断言できるほどに、記憶がはっきりしていないのが歯がゆい。

「まったく･･･今年くらい来てくれてもいいのに。･･･きっと、わたしには最後の夏祭りなんだから」
一瞬、アンジェリークは泣きそうに顔をゆがめて、すぐに笑みを浮かべた。
女王らしく、凛と。

この頃、ジュリアスも彼女のサクリアの衰えを感じ取っていた。
ごく緩やかではあるけれど、そろそろ皆も気づき始める頃だろう。
女王交代が近づいている、と。

「女王になって１５年よ。ジュリアスにとってはすごく大変だったかもしれないけど、わたしはすごく楽しかったわ。それに、めちゃくちゃがんばったって、胸を張って言えるもの」
「そうですね。本当に陛下はよく頑張られました。今の宇宙の平和は、全て陛下の努力のたまものです」
「やだ、普段は全然褒めてくれないくせに。･･･ずるいんだから」
少しはにかんで、上目遣いにジュリアスを軽く睨んだ彼女の緑の瞳は、女王候補の時と変わらない光をたたえている。
１５年経ち、姿こそ、少女から大人の女性へと変わったけれど、この強い瞳の輝きはあの頃と同じだ。
「本当にすごく、楽しかった。幸せな１５年だった。･･･わたし、女王になって良かったわ」
大きな事をやり遂げたという満足感なのか。
アンジェリークの微笑みは、聖母のような慈愛を兼ね備えていて、ジュリアスは息をのんだ。
彼女がまだ女王候補の頃から、ずっと見てきたはずなのに、いつの間にか、彼女はジュリアスの手の届かない高みへと上って行ってしまったような気がする。
胸に刺さる痛みは、寂しさかもしれない。
アンジェリークはもうすぐ、この地を去るのだ。
ジュリアスを残して。

「ね、ジュリアス、わたし、すごーく頑張ったわよね？」
「はい」
「本当に本当によく頑張ったわよね？」
「･･･はい」
「じゃあ、もうちょっと褒めてくれてもいいと思うの。さあ、もっと褒めて？褒めていいのよ？」
アンジェリークは腰に手を当てる懐かしいポーズでジュリアスに挑むような目を向けてくる。

ジュリアスはゆっくりと右手を持ち上げた。
彼女の肩付近でその手が一瞬、宙をさまよう。
そして
「よくやった」
ジュリアスは浮かした手を彼女の頭の上にぽんと乗せた。

「本当にそなたはよく頑張っていた。この光の守護聖ジュリアスが、その頑張りを認めるのだ。これからの人生でも、誇りにするがよい」
二度、三度、優しく、頭を撫でる。
大切な宝物を触れるように、そっと、何度も。

しばらく、アンジェリークは呆然と目を丸くして撫でられていたが、そのうち、
「やだ～！ジュリアスったら！ホントに面白いんだから！」
腰をかがめて大笑いし始めた。
ひとしきり笑って、ひいひいと、目尻に浮かんだ涙を人差し指ですくいながら
「やっぱりジュリアスはジュリアスね。･･･わたし、あなたのこと、ずっと忘れないわ」

再び花火が上がり始めると、また二人は無言で空を眺めた。
爆発音できっと話をしようとしてもかき消されてしまっただろうし、何を話せばいいのかもわからない。
ジュリアスが時折、隣のアンジェリークをちらりと見ると、彼女の髪の蝶とオレンジの帯がゆれている。
「わあ、綺麗」
最後に上がった花火は、空一面を覆うほどの大きな大きな金の花で。
花びらの光がキラキラと長い尾を引いて消えていくのを、ジュリアスはただ見つめていた。

秋が来て、芋１０００個を大きなたき火で焼き上げる芋掘り大会が終わったところで、アンジェリークとロザリアは連れだって聖地を去った。
安定した宇宙では女王試験を行うまでもなく、女王のサクリアを持った少女達が、それぞれ女王と補佐官として聖地にやってきた。
何も知らない少女達をジュリアスは首座の守護聖として導く立場で、まるで教師と生徒、いや、年齢的には父と娘だろう。
以前のように、額に青筋を浮かべて無鉄砲な女王達を叱ることもなくなったし、守護聖たちに雷を落とす回数も減った。
思えば、あの頃は、皆、年も近くて年長者を立てるような空気も少なくて、なによりジュリアス自身も若かったのだ。
４人目、５人目の女王と共に宇宙を治め、６人目の女王とは、まるで孫のような年齢差だと思った時、ジュリアスはサクリアを失った。

「ようやくこの地を去るのだな」
豊かに背に流していた金の髪も、少し前から肩ほどに切り落とし、執務服も柔らかい素材と最小限の装飾に変えていた。
まだまだ首座の守護聖としての能力は衰えたとは思っていないが、疲れやすくなっているのだろう。
集中して端末のディスプレイを眺めていると、頭の奥がちかちかするような感覚が増えている。
肩も凝るし、腰も痛いときがある。
もういいだろう。
もう。

ジュリアスは広めのウッドデッキにしつらえられたロッキングチェアに腰を下ろし、ほんの少し揺らした。
心地よい日暮れの風が、耳のそばを通り過ぎては、髪をさらさらとくすぐる。
少しくすんだ金色が視界の端を過ぎるたびに、自分の人生について考えてしまう。
５歳で聖地にあがり、そこから６０年以上を宇宙の安定に尽くしてきた。
後悔はないけれど、このところ、なにか、大きななにかを忘れてきたような気持ちがするのだ。

退任が決まったとき、ジュリアスは終の棲家に、海辺の施設を選んだ。
今更、第二の人生というような年でもないし、残りの余生はゆったりと一人の人間として暮らしたいと願ったからだ。
研究員が探してくれたこの施設を、ジュリアスはとても気に入っていた。
海がすぐ近くにあり、ウッドデッキの外はプライベートビーチが広がっている。
今のようにチェアで揺られているのも快適だし、気が乗れば、砂浜を散策するのも良い。
地平線の向こうにゆっくりと日が沈み、一つ、二つと星が瞬き出す。
やがて空は一面の星を抱く闇に包まれ、ただ寄せては返す波の音だけが響き始めた。
暗い海から光の粒が沸き上がってくるような、美しい光景に、現宇宙の平和を実感する。

「こんなところでうたたねか？まさか死んだのか？」
ウッドデッキへの出入り口からのそりと大きな影が現われて、ジュリアスは眉間にしわを寄せた。
この施設はとても気に入っているのだが、唯一、この男がなぜか１ヶ月遅れで入所してきたおかげで、ゆったりとした余生が少しあやしくなっている。
犬猿の仲と言われて数十年。
結局はこの男と離れることはできない運命なのだろう。
宇宙の意志とは恐ろしいものだ。

「クラヴィス。そなたこそ昨日までは死にかけだったではないか」
昨日、一日熱があると言って、クラヴィスは部屋に引きこもっていたのだ。
「ああ、それはくだらぬレクリエーションにつきあうのが面倒だっただけだ･･･」
くくっとわずかに唇の両端を持ち上げたクラヴィスに、ジュリアスのこめかみがぴりりと引きつる。
「サボりというワケか。そなたのそういう態度は全く昔から変わらぬのだな」
「お前こそ･･･。ここに来てからもまじめ一辺倒では疲れるぞ」
「私は疲れてなどおらぬ。あのようなレクリエーションだとて、介護士達が我らのために一生懸命考えてくれたものなのだぞ。それをそのようにサボるなど許されることではない」
「全くお前は変わらぬな」

呆れた調子のクラヴィスは、隣に並べられたリクライニングチェアにゆったりと身を横たえた。
そうしていると、まるであの頃と変わらない様子で、ジュリアスにしてみれば、それが妙に腹立たしく思える。
「変わっておらぬのはそなたの方であろう。だいたい昔からいつもいつも執務もサボってばかりで、必要最小限しか動くことすらしなかったではないか。どれほど私が苦労したことか･･･」
昔からの愚痴も含めて、つい饒舌になってしまう。
独演会のように話し続けて、しばらくたっても少しも耳を傾ける様子のないクラヴィスに、ジュリアスは盛大なため息をついた。

「･･･何を考えているのだ」
クラヴィスは寝そべったまま、ぼんやりと星空を眺めている。
「気になるのか？」
「言いたくないなら言わずとも良い」
つんとジュリアスが顔を背けると、クラヴィスは僅かに身体をずらし、
「･･･アンジェリークのことだ」
深いため息と共にそう吐き出した。
「なに？！」
つい声が出てしまい、クラヴィスが目を丸くしたのが薄闇でもわかった。

「いや、すまぬ。少し驚いただけだ。そなたが･･･」
ジュリアスの目から見て、クラヴィスと彼女がそこまで交流があったとは思っていなかったのだ。
こんな星空の下で、つい思い出してしまうほどのなにかがあるとは。
慌てた様子のジュリアスにクラヴィスはふっと息を漏らして笑った。

「いや、私の方こそ悪かった･･･私の言ったアンジェリークはお前のアレではない。その前だ」
今度はジュリアスが目を丸くし、息をのんだ。
奇しくも二代続いた、同じ名前の女王。
そういえば、クラヴィスは、かの女性とは情を交わしていたはずだ。

「･･･すまぬ」
なんの謝罪かは、もうどうでもよかった。
今でもあのときでも、今更何も変わらないのだから。

「だが、私のアレ、とはどういうことだ」
一つだけ引っかかりを覚えた部分を、どうしてもジュリアスは見過ごせなかった。
クラヴィスと255代女王はともかく、ジュリアスと256代女王は･･･決してそんな間柄ではなかったのだ。
「ああ、アレはお前のものだろう？」
いつもと同じ口調で、ごく当たり前の、まるで太陽が東から昇ることを教えるように、クラヴィスはそう言った。
「なぜそのようなことを･･･。私とあのアンジェリークはそのような関係ではない」
「ああ･･･お前達に何もなかったことは知っている」
では、なぜ。
不信感が知らずに顔に出ていたのか、クラヴィスはまたふっと息を漏らして笑う。

「少なくとも、お前はあの娘を好きだった。違うのか？」
また当たり前のようにクラヴィスは言う。
さらりと耳に流れ込んできたその言葉に、ジュリアスは呆然と目を見張った。

好きだった。
彼女の光を弾いて輝く淡い金の髪も。キラキラと好奇心に溢れた緑の瞳も。
元気いっぱいに飛び跳ねるおてんばなところも。涙もろいくせにいざとなると強いところも。
遠く離れてこんなにも長い月日が流れても、一日たりとも忘れたことなどなくて。
･･･今でもずっと忘れられなくて。

「いや、違うぞ。クラヴィス」
「･･･ん？」
クラヴィスは目を細めて、ジュリアスを見つめ返した。
深いアメジストの瞳に見つめられるのは、実は子供の頃から苦手だったものだ。
そして、やはりこの年になっても、苦手を克服したわけではないらしい。
どうにも、この瞳に見つめられると、嘘をつけなくなる。

「今も好きだ。･･･おそらく、ずっとこの先もな」
「そうか･･･」
お前もか、と、動かないクラヴィスの唇から、声が漏れたような気がした。

見上げた空一面に輝く無限の星。
この中のいくつかは、何百年前かに彼女も見た星なのかもしれない。
全く同じではないだろうけれど、星の寿命は人より遙かに長いのだから、きっといくつかはまだ残っているはずだ。
ジュリアスの脳裏で、あの日見た大輪の花火が金の花びらを散らしながら、ゆっくりと消えていったのだった。