…with blue

正門へと向かう一番の大きな道。
通りに沿って植えられた大木から、オレンジ色の夕日がこぼれ、透き通る。
中心部はにぎやかなこの通りも、正門付近のこの外れになると、人影はまったくなくなる。
散歩というには少し肌寒く感じる時間だったが、リュミエールはあてもなく、この場所まで歩いてきていた。


さっきまで開かれていた女王との謁見。
256代アンジェリーク女王の時代には、午後の謁見はお茶会になるのが慣例だった。
今日も補佐官手作りのケーキと、女王が取り寄せたという大きなプリン。
それからめいめいの好みのお茶。
執務の話、雑談、話題は何でもありの、穏やかな時間だ。
このひと時のおかげで、守護聖間の棘もかなり丸くなったような気がするのはリュミエールだけではないだろう。
ただ、今日がいつもと違うことを、すでに皆が気づいていた。

「そろそろみんなに伝えておかないとね。」
アンジェリークがロザリアのほうを見た。
すると、ロザリアは確かめ合うようにほんの少し微笑み、頷いて、見つめ返す。
アンジェリークは前を向くと、皆に言い聞かせるように言った。
「新しい女王が決まりました。一ヶ月後に戴冠式が行われます。」
緊張した表情が緩み、アンジェリークはいつものようににっこりと笑った。
「今回は試験とかしなくていいみたい。
二人の女王候補のサクリアには大きな違いがあるし、もともとお友達みたいだから、きっとイイ女王と補佐官になれるわ。
だから、引き継ぎも1カ月あれば十分。」

リュミエールも覚悟はしていたつもりだった。
このごろ女王のサクリアの減少は目に見えるほど大きくなっていた。
いつかは訪れると知りながら、その日が来なければいいと願っていただけ。
女王の退任は補佐官の退任を意味するから。

「わたくしたちはこれから引き継ぎの業務などで忙しくなりますわ。皆さまは新女王と戴冠式で会うことになるでしょうね。」
ロザリアも肩の荷を下ろしたようなすっきりとした表情をしている。
宇宙という重い荷物を、彼女たちは二人で背負ってきたのだから、当たり前かもしれない。
とても澄んだ瞳をしている、と、リュミエールは思った。

それからはその話題に特別触れることもなく、お茶会はお開きになった。
いつかは来ることなのは、皆も承知している。
たとえ承知できなくても、受け入れるしかないのだ。
理解しているつもりだったのに、リュミエールはそのまま執務室に戻ることができず、外へ出てきてしまった。
彼女と自分を隔てる門を見ておきたい気がした。


大きな門はオレンジ色の日差しを受け、キラキラと輝いている。
長い影が伸びる先は、もう、別世界。
この向こうに彼女が消えるときが、永遠の別れになる。

「あら、リュミエール。」
今、考えていた彼女の声に、リュミエールはゆっくりと振り返った。
逆光に浮かぶ青紫の長い髪。執務服を解いたロザリアがそこに立っていた。
「こんにちは。こんなところでどうなさったのかしら?」
ロザリアが近付いてくる。
リュミエールはほんの少し身体の角度を変え、彼女と夕日が重ならないようにした。
ようやく見えた彼女の表情は、穏やかな微笑みをたたえている。
「なんとなく、散歩をしておりました。…貴女は?」
「わたくしもですわ。散歩をしながら、聖地を見ていたんですの。わたくしは、こんなにも美しい場所にいたのですのね。
…忙しさにかまけて、じっくりと見たこともありませんでしたわ。」

彼女は声までが色を持っているようだ。
さっきまでが、夕日のようなオレンジとしたら、今は淡いブルー。
ほんの少しの寂しさと、後悔が混じっている。
「あと1カ月だなんて。きっとあっという間でしょうね。」
「ええ。本当に。」

軽く会釈をして、ロザリアは歩き出した。
リュミエールも会釈を返し、彼女の背中を見送る。
凛とした後ろ姿を美しい、と、そう思った。




女王交代といっても、前回のような懸念はないから、守護聖であるリュミエール達は、いつも通り過ごしていればよかった。
これほど平穏な時間は少なかったのではないかとさえ思えるほど、聖地は穏やかな日々が流れている。
「申し訳ありません。クラヴィス様。」
ほの暗い部屋の隅で、リュミエールは頭を下げた。
「しばらく、ハープの演奏を休みたいのです。」
「…わかった。」
クラヴィスから演奏を望まれたことは一度もない。
けれど、これから数週間の間、訪れなくなるのだから、伝えておきたいような気がした。
しばしの沈黙。
クラヴィスの紫の瞳に、一瞬、影が走った。
リュミエールに気取られないように、ほんの一瞬でクラヴィスはそれを打ち消したけれど、リュミエールは気づいてしまった。
クラヴィスは全てを見通しているのかもしれない。
「…お前のやりたいように、するがいい…。」
一言だけで瞳を伏せたクラヴィスの背に、リュミエールは礼を返した。

クラヴィスの部屋から出てすぐ、リュミエールは湖の奥に向かった。
木々がわざと避けているかのように、湖面にだけ、眩しい光が差し込んでいる。
穏やかな風が、リュミエールの着衣の裾を静かに揺らし、木立の隙間を通り抜けていく。
リュミエールは人目につかない場所に腰を下ろすと、スケッチブックを広げた。
目を閉じても、浮かぶ景色をこの中に閉じ込めたい。


女王試験が終わり、飛空都市から聖地に戻ってきてすぐのこと。
リュミエールは、一人、この場所でハープを弾いていた。
練習のつもりもなく、ただ、一人で思いつくままにハープを奏でる時間。
「動物に聞かせているのか…?」
問うたクラヴィスに、リュミエールは微笑みを返した。
「酔狂なことだ…。」
自分でも不思議だったが、誰かに聞かせるのとは、また別の音楽が、そこにはあった。
自分自身が音を楽しむ時間。

その日もリュミエールが一人きままにハープを奏でていると、突然、別の音が加わった。
堂々とした、バイオリンの音。
凛と涼やかでまっすぐなその音を、リュミエールもよく知っていた。
「ごきげんよう。」
曲が終わり、ロザリアが微笑んだ。
演奏の名残だろう。わずかに上気した頬が、彼女の青紫の髪を際立たせている。
「お邪魔でしたかしら?」
リュミエールが首を横に振ると、ロザリアは嬉しそうに近付いてきた。
「きっとこちらだろうと思いましたわ。」
「なぜ、ここが?」
ロザリアはくすっと楽しげに声を出す。
「動物たちにハープを聞かせている、と、試験の時に伺いましたわ。そして、湖にご一緒した時、その場所のことも。」
リュミエールはロザリアが些細な話を覚えていてくれたことが嬉しかった。
あの時は、まさか、彼女がこんな形で聖地に来るとは思っていなかったから、なにげない会話のひとつでしかなかったというのに。

「また、ご一緒してもよろしくて?」
女王試験の時も、よく、こうして合奏をした。
傲慢で高飛車だと敬遠していたロザリアに興味を持ったのも、彼女の弾く音を聴いてからだ。
まっすぐな音。その音に隠れている繊細な響き。
表に出ている強さとは違う何かがある事を、その音が教えてくれた。

リュミエールは黙って、ハープを奏で始めた。
細い指先から紡がれる音は、繊細で美しい。
そこに重なるようにバイオリンの音が加わった。
彼女のバイオリンが寄り添うように、ハープの音に溶けあう。
見かけとは違い、彼女は自然に他人に合わせることができるのだ。
補佐官が適職だと、改めてリュミエールは感じた。

それからも時々、リュミエールはこの場所で、ロザリアと合奏をした。
動物たちが現れることもあったが、そのひと時は二人だけのものだった。
間違いなく、二人だけの。


思い出は、数え切れないほどある。
ため息交じりにリュミエールが最後にとりだした色鉛筆は、目の前の景色には必要のない、鮮やかな青。
リュミエールはスケッチブックに、その鮮やかな青を乗せた。




あの月が空から消える時が、ロザリアがこの地を去る時だ。
リュミエールは空を見上げながら、夜道を急いでいた。
思いのほか時間がかかってしまい、女性の家を訪れるにはいささか礼の欠く時刻になってしまっている。
それでも、今しか、彼女に会う機会はないのだ。
わきに抱えた荷物にギュッと力を込め、リュミエールはドアを叩いた。

「どなた?」
幸い、ロザリアはまだ夜着ではなく、白いワンピースに身を包んでいた。
まるで月の女神のように、彼女の姿が白く浮かび上がる。
リュミエールを認めて、彼女の青い瞳が丸くなった。
「このような時刻に、申し訳ありません。」
非礼を詫びたリュミエールに、ロザリアは微笑み返した。
「いいえ。構いませんわ。ちょうど先ほど、アンジェリークが帰ったところですの。
明日からどう過ごすか、あの子ったら、行きたいところがたくさんあるみたいで。しばらくは落ち着けそうもありませんわ。」

それでも、彼女たちが最初に訪れるのは主星だろう、とリュミエールは思っていた。
ロザリアは両親を亡くした時、初めて補佐官になったことを後悔したと言って、リュミエールの部屋で泣いた。
上手い慰めの言葉も見つからないリュミエールは、ただ、ハープを弾き、傍にいることしかできなかったけれど。

「貴女にこれを。ささやかですが、私からの贈り物です。」
リュミエールはわきに抱えていたスケッチブックを差し出した。
ギリギリまで、聖地中を回り、この地の美しい風景を余すところなく、写し取ったつもりだ。
何年もこの地に暮らしたとはいえ、彼女は忙しい補佐官の身だった。
まだ見ていない景色もたくさんあるだろう。
先日もそんなことを言っていた。

「拝見してもよろしくて?」
リュミエールが軽く頷くと、ロザリアはスケッチブックの紐をほどき、表紙をめくった。
一番最初のページに描かれていたのは、あの湖。
よく二人で合奏をしたなじみの場所だ。
次のページは同じ場所の夜の景色。次は朝靄の時、夕陽。
同じ場所のそれぞれの時間をリュミエールは描いていた。
「時間が違うだけで、こんなにも美しさが違うんですのね…。」
ページを数枚めくって、ロザリアの手が止まった。
再び、最初のページに戻り、それから、ゆっくりと何かを探すような瞳でスケッチブックをめくっていく。

最後のページまで見終わって、スケッチブックを閉じたロザリアが言った。
「最初は主星へ行きますわ。」
リュミエールの思った通りだ。
「でも、住むところは、別の惑星にするつもりですわ。アンジェリークも同意してくれましたの。」
どこなのだろう。
リュミエールが考え込んでいると、
「わたくしが一度も見たことのない場所。行ってみたい場所。」
リュミエールの脳裏に、ある場所が浮かんだ。
彼女はあの時の言葉も、おぼえていてくれたのだろうか。
確かめようかとも思ったが、リュミエールは何も言わなかった。
「ありがとう。大切にしますわ。」
ロザリアはスケッチブックをぎゅっと抱きしめた。



大きな門を夕陽が染め上げている。
別れにふさわしい、見事な夕焼け。
オレンジ色の門が大きく開いて、二人の少女を送り出そうと待ち構えている。
新女王と補佐官、それに聖獣の宇宙の全員もが、アンジェリークとロザリアの新たな船出を見送るために集まった。
泣いている者もいる。
それぞれが別れを惜しむ言葉や励ましの言葉を口にしている。
長い別れの儀式に、リュミエールは人垣の一番後ろの列でひっそりと加わっていた。
ロザリアの淡いブルーのワンピースが風に揺れている。
小さなバレッタで止めただけの長い髪が、頭を動かすたびに、波のようにさざめいた。

「ごきげんよう。皆さまもお元気で。」
最後にぐるりと皆を見回したロザリアと、リュミエールの目があった。
青い瞳。
もう、見ることのない、愛しい人。
リュミエールは静かにほほ笑んだ。
長い間、見つめ合っていたような気がしたが、本当はほんの一瞬だったのだろう。
大勢の人影が彼女たちを包み、やがて大きな門が閉じられた。
長い影が彼女に付き添うように、だんだんと小さくなって、消えていく。
一人二人と、人影が消えても、リュミエールはなかなか動き出すことができなかった。
最後まで、振り向かなかった彼女。
でも、その手にリュミエールが渡したスケッチブックが抱えられているのが、はっきりと見えた。
それだけで十分だった。



カンバスを前に、リュミエールは大きく息を吐いた。
もう少し、白を足した方がいい。
パレットに新しい絵の具を足し、描いた波に白をまぜこんだ。
うす曇りに包まれることの多い太陽は、それほどの光を与えない。
青よりもどこか白のイメージの強かった、故郷の海を思い浮かべながら、リュミエールは白を重ねた。
うすい色の空と、白味がかった穏やかな波。
思い出のままの海を描き終えて、リュミエールはパレットに新しい色を出した。
「…お前には、こう見えるのだな…。」
「クラヴィス様!」
滅多に自室から出ることのないクラヴィスが、リュミエールのもとを訪れることは異例だ。
驚いて腰を浮かしかけたリュミエールを、クラヴィスは軽く手で制した。

床に置かれた多くの絵。
風景画を得意としているリュミエールらしく、それぞれに聖地のあらゆる場所が描かれている。
クラヴィスは一番手前の一枚を手に取った。
まだ、絵具の渇きも緩い、描いたばかりの一枚だ。
広がる草原は、聖地の奥の丘だろう。
なだらかな稜線を緑のじゅうたんが包み、時折のぞく野の花が緑だけの世界に優しい色どりを与えていた。
そして。
その草原に淡く描かれた青。
小さくではあったけれど、青をまとった一人の少女が草の中で眠っていた。
クラヴィスは一枚一枚、絵を取り出しては眺めていく。
湖、森、小さな薔薇園。
そして、そこにあった全てに、青があるのを確かめると、一言、「…あの者に、伝えたのか…?」と聞いた。

「…スケッチを渡しました。今、クラヴィス様がご覧になった絵のスケッチです。」
あの時、ロザリアも気がついていた。
どの景色にも、存在する青い少女。
リュミエールの見る全ての景色に、ロザリアがいる。今までも。きっと、これからも。


音もなくクラヴィスが去った後、リュミエールは、乾き始めていたパレットに液を挿した。
にじむ青に、彼女が泣いているような気がする。
「一人で行かせてしまいましたね…。」
今頃、ロザリアはこの海を見ているだろうか。
リュミエールが連れて行きたいと言った、故郷の海を。

青を描いたリュミエールは、パレットに再び白を置いた。
叶わなかった想いが、絵の中で繋がるように。
混ぜ合わせてできた水色で、青を柔らかく、包み込んだのだった。


FIN
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