オスカーはベッドでまどろみながら、愛しい女性が自分の名を呼ぶ声を聞いていた。
「オスカー。もうパンケーキを焼いてもよろしくて?」
昨夜はつい飲み過ぎた。
特別に手に入れたワインだから、と、勧められるままに杯を重ね、帰りは足元もおぼつかないほどになっていて。
なんとかベッドにもぐりこんだものの、シャワーを浴びることもできなかった。
そのツケなのか、もう眼は覚めているが、まだ頭はぼんやりとしている。
本来ならこのまま彼女を腕に抱いてしまいたいところだが、汗もかいているし、相当酒臭いはずだ。
仕方なくうっすらと目を開けたオスカーを、青い瞳がにっこりと迎え入れた。
「コーヒーでも淹れましょうか?」
ベッドの端に腰をおろしたロザリアは、オスカーの様子を一目見て、状況を察したのだろう。
微笑みながら、オスカーの髪に手を触れた。
いつもなら一分の隙もないオスカーの乱れた髪。
こんな姿を見ることができるのも、きっと恋人の特権だ。
指先から愛を感じて、オスカーはだるさの残る体をベッドから起こした。
「ああ…。ありがたいな。だが、コーヒーよりも今は。」
オスカーがロザリアの手を引き寄せる。
「君からのおはようのキスが欲しい。」
頬を染めたロザリアが目を閉じようとした瞬間、ふと、彼女の動きが止まった。
澄んだ青い瞳が一瞬潤んだかと思うと、すぐに険が乗る。
ロザリアは両手をぐっと伸ばして、オスカーの身体を押しのけると、ベッドから立ち上がった。
「コーヒーは準備しておきますわ。あとでキッチンでお飲みになって。」
凛とした表情は、執務の時と同じ顔だ。
聖地一の才女と名高い美貌の補佐官の顔。
オスカーが何かを言う暇もなく、ロザリアは足早に部屋を出て行ってしまった。
茫然としたオスカーをその場に残したままで。
二日酔いで頭がすっきりしないせいなのか、彼女の豹変の理由がわからなかった。
もしかして、自分が思っているよりもずっと、酒臭いのだろうか。
オスカーは自分の腕を鼻につけて匂いを嗅いでみたが、自分の匂いは自分ではわからない。
まさかこの程度でロザリアが離れていくとも思わないが、機嫌を損ねてしまったことは事実。
このままでは、彼女と過ごす楽しい休日がフイになってしまう。
あわてておそらくキッチンにいるであろうロザリアを追いかけてみたものの、そこにはコーヒーポットが置かれているだけで。
彼女の姿は忽然と消えていた。
コーヒーをカップに注ぎ飲み干すと、オスカーはキッチンを眺めた。
キレイに盛られたサラダとフルーツ。
ボウルの中には焼くだけになっているパンケーキの素。
今そこに彼女がいれば、いつも通りの日の曜日の朝なのに。
突然勝手口が開き、人影が現れた。
黒髪のツインテールの少女。
いわゆるゴシックロリータのファッションは爽やかな朝にはいささか不似合いな漆黒だ。
「おはよう!ロザリア!わたしもパンケーキが食べたいな。」
大げさなほどのポーズに、オスカーがポカンと少女を見つめると、少女はにやりと笑みを浮かべた。
「あ、オスカー。おはよう。・・・・・ロザリアは?」
見覚えのある緑の瞳。イヤというほど聞き覚えのある、その声。
「陛下?!」
「うふふ。別人みたい?」
アンジェリークが自慢げにくるりと回って見せると、たっぷりしたスカートがふわふわと揺れる。
ミニのスカートの上の大きなリボンも腰に沿って靡いた。
たしかにパッと見、全くアンジェリークとは気づかない変身ぶりは見事だ。
けれど、アンジェリークのおふざけにはすでに慣れっこになっているせいか、タネを知ってしまえば、驚くこともない。
「よくお似合いですよ。陛下。」
わざと慇懃に答えてみせると、アンジェリークはぷうと頬を膨らませた。
そしてきょろきょろとキッチンを見回している。
「ねえ、ロザリアは? パンケーキ食べたいの~。」
「それがな…。」
オスカーはさっきまでの出来事をかいつまんで説明し、アンジェリークに近づいた。
「うーん、別にそんなことないけど。」
アンジェリークはさらにくんくんとオスカーに鼻を近づける。
ある意味、取り調べのような状況に、なぜか緊張してしまったオスカーは、すぐ後ろにあったテーブルに手をついた。
一見すれば、オスカーの胸にアンジェリークが顔をうずめているように見えるだろう。
「あ・・・。」
ぱっとアンジェリークが顔を上げて、オスカーと目が合う。
見つめ合うような形になった途端、再び勝手口が開いた。
「オスカー。」
硬い声に思わずびくっとした自分が情けない。
オスカーはあわてて、アンジェリークを手で押すと、勝手口の向こうに立っているロザリアを見た。
「忘れ物を取りに来ましたの。どうぞ、お続けになって。」
ロザリアはするりと中に入ると、すぐそばにあったエプロンを手に取り、ドアを閉めた。
ガチャン、と彼女らしくない大きな音が、ロザリアの怒りを伝えている気がする。
オスカーは眉をひそめ、天を仰いだ。
「わたしって、気がついてないわね。きっと。」
アンジェリークが気の毒そうにオスカーを見上げている。
たしかにさっきの状況を見れば、ロザリアが誤解するのも無理はない。
まださっきの怒りの理由もわかっていないのに、さらに彼女を怒らせるとは。
ふ、っとため息をこぼしたオスカーの耳をアンジェリークが引っ張った。
「あのね、今のことはわたしが説明しておくから。」
アンジェリークの優しさに今日ばかりは感謝するしかない。
「でもね、その前に怒った理由は、わたしにも説明できないわ。ちゃんとオスカーから話した方がイイと思うの。」
結局はそこだ。
今の出来事だって、いつも通りの朝ならば、コスプレしたアンジェリークをロザリアが出迎えて、一緒に朝食をとる、というだけの日常だったはず。
「だが、心当たりがないんだ。」
「…ホントに?」
一転して、アンジェリークの緑の瞳が冷たく光る。
まるでさっきのロザリアのように。
「わたし、ロザリアの親友だから。ロザリアが幸せじゃないんだったら、オスカーと別れた方がいいと思うの。」
さらっと恐ろしいことを言う。
オスカーの口からうめき声が漏れた。
「本当に疾しいことがないんだったら、ちゃんとロザリアに聞いてみれば?」
こころなしか、アンジェリークもいつもより冷たい気がする。
だが、女性の扱いにかけては自信のあるオスカーだ。
何かを気づいているアンジェリークをこのまま帰すつもりは毛頭なかった。
「教えてくれないか?…もし、ロザリアを失えば、俺は…。」
アイスブルーの瞳で、じっとのぞきこめば、アンジェリークの頬が染まる。
こんなところを見られたら、また誤解されそうだが、さっきのロザリアの様子では戻ってくることはないだろう。
上手くいきそうだ、と思ったオスカーにアンジェリークが肩をすくめた。
「まったく、オスカーってホントに困った人ね。ロザリアも苦労するわ。なんで、こんな人がそんなに好きなのかしら?」
失礼な発言だが目をつぶることにして、オスカーがわざとらしいほどため息をついて見せると、同情してくれたのだろう。
「じゃあ、ヒントね。…昨日、シャワーくらいは浴びておいた方がよかったんじゃない?
だからって、許されるとは思わないけど!」
途中から明らかに怒りだしたアンジェリークは、最後に一つ、盛大なアカンベーをして、勝手口から出て行った。
もちろん、パンケーキの入ったボウルをしっかりと抱えて。
ますますわけのわからなくなったオスカーは、まだポットに残っていたコーヒーを飲んで、ため息をついた。
すっかり冷めてしまったコーヒーは、さっきのロザリアの冷たい瞳を思い出させる。
もちろん怒っていたけれど。
それ以上に、悲しそうな寂しそうな表情をしていたことが、気にかかる。
彼女にあんな顔をさせてしまったことが情けなかった。
頭をすっきりさせるためにも、とりあえずは休息が必要だ。
テーブルに乗ったままの朝食にラップをかけ、オスカーはシャワールームに向かった。
起き抜けよりはマシだとはいえ、寝癖の付いた緋色の頭に思い切り冷水をぶっかけると、多少は思考もクリアになる。
それと同時に思い出す、ロザリアの顔。
日の曜日の朝は、補佐官ではない彼女と過ごす貴重な時間だ。
わかっているからこそ、あれほど飲んだにもかかわらず家に戻ってきた。
目覚めた時の彼女はあんなにも愛おしく、名を呼んでくれたというのに。
冷水を浴びたまま、目の前の鏡に手をついて、自分の顔をじっと見た。
アイスブルーの瞳。薄いけれど整った唇。
誰もが振りかえる端正な顔も、ロザリア一人が振り向いてくれなければ、何の意味もない。
全宇宙の女性の恋人でいることよりも、ただ一人の彼女の恋人になることを選んだ。
幸せにすると、跪いて愛を乞うた時のロザリアの瞳。
彼女を幸せにしているといいながら、実は自分が幸せをもらっているのだと、今はわかっている。
「ロザリア…。」
鏡に拳をついた拍子に、金のピアスから滴り落ちた水が、床に跳ね、足にかかる。
温度の違う水の感触に眉をひそめ、首を下に向けた瞬間、鏡に映る自分に違和感を感じた。
真正面からでは見えなかっただろう。
首筋のやや後ろ。
紅色に染まったそれが目に染みた。
髪を乾かす時間ももったいなくて、オスカーはシャツをはおると、急いで屋敷を飛び出した。
向かった先はロザリアの家。
聖地の優しい風が濡れた髪を通り抜け、頬を乾かしていく。
走るオスカーが珍しいのか、声をかけようかとして、ためらう人々の姿。
そんなことにも一切構わず、オスカーは走って行った。
早く彼女に会いたい。
ただそれだけの気持ちで。
ドアを大きく叩くと、ひょっこりと覗いたのは、金の髪。
「なに? さっきのことならちゃんと説明しておいたわ。他に言い訳があるなら、まず、わたしを納得させてからにするのね。」
仁王立ちになったアンジェリークに、オスカーが耳打ちする。
すると険しかったアンジェリークの顔が、だんだんと緩んでいき、やがてにっこりと笑みが浮かんだ。
「でもね。あなたの普段の態度がよくないから、信用されないのよ?わかってる?」
アンジェリークがオスカーのシャツの裾をぐっと引っ張った。
それを言われれば、返答のしようもない。
「でも、今回は許してあげる。…ホントに、なんでロザリアはあなたなんかが、あんなに好きなのかしら?」
心底理解不能だ、と言いたげなアンジェリークの言葉。
「光栄なセリフだな。褒め言葉だと受取っておくぜ。」
ロザリアがアンジェリークに何を言ったのかは分からないが。
アンジェリークに、そう聞こえたというのなら、間違いなく、ロザリアの想いは自分のものだ。
「一番奥の部屋よ。」
入れ替わるように外へ出たアンジェリークがぐっと親指をつきたてる。
オスカーもそれに応えるように、ぐっと親指を突き出した。
実はロザリアの家に入るのは初めてだ。
彼女を送ることはあっても、玄関まで。
ばかばかしいと思うかもしれないが、本気の恋人にどう切り出したらいいのかわからなかったのだ。
コンコン、とドアを叩くと、「オスカーは帰りまして?」
ロザリアの声がする。
「帰るわけないだろう?」
いきなりドアを開けたオスカーにロザリアは目を丸くしている。
青い瞳がほんの少し赤くなっているのは、涙のせいかもしれない、とオスカーは胸が痛んだ。
青で整えられた室内は、几帳面な彼女らしく、きちんと整頓されている。
どことなく漂う薔薇の香りも、柔らかく室内を包む光も、全てが彼女を表しているようだ。
ベッドの縁に腰を下ろしたロザリアがオスカーを睨みつけた。
「お帰りになって。」
「帰らない。」
きっぱりと言い切って、彼女の隣に座った。
途端に立ち上がり逃げ出そうとしたロザリアの手をオスカーはしっかりとつかむと、自分の方へと引き寄せた。
そのまま抱きしめてしまおうかとも思ったが、まずは話を聞いてもらいたい。
隣に座らせると、ロザリアは諦めたようにおとなしくなった。
「これのせいか?」
オスカーが差し示した首筋に、しっかりと残る紅。
ロザリアは一瞬それを見たものの、ぷいっと顔をそむけ何も答えない。
けれど、その態度が何よりもの答えだ。
オスカーはロザリアの手を握りしめた。
「昨夜、俺が誰と飲んだか、知ってるか?」
「いいえ。でも、わかりますわ。きっとこの色の似合う、綺麗な方なのでしょうね。」
ロザリアがいつもつけている口紅よりも数段赤い紅。
大人の色気の漂う色は、美女と呼ぶにふさわしい女性がつけていたのだろう。
ロザリアの青紫の睫毛が伏せる。
「あなたにとってわたくしなど、まだ子供なのでしょう? わたくしにはそんな色、似合いませんもの。」
「子供と思えたらどんなに楽かと思うがな。」
握りしめた手を組み換え、ロザリアの細い白い指をなぞるように、指と指とを絡めた。
指から伝わる熱に、身体が溶けてしまいそうだ。
オスカーは、うつむいたロザリアの顎を支え、視線を合わせた。
「たしかに美人だが、俺の守備範囲外だ。…ああ見えてもオリヴィエはれっきとした男だからな。」
「え?」
ぽかんと目を丸くするロザリア。
そんな表情でさえ、たまらなく愛おしい。
口づけたくなるのを我慢して、彼女の顔から手を離すと、言葉をついだ。
「俺も忘れていたぜ。昨日はしこたま飲んで、床に寝ちまったアイツをベッドに連れていくのに肩を貸したんだ。
たぶん、その時についたんだろう。普段のアイツはメイクしたまま寝るとどうのこうの、って煩いのに、昨夜はそのままだったからな。」
「そんな…。」
ロザリアは困ったように頬を押さえ、うろたえている。
「誤解、でしたの・・・?」
潤んだ瞳で見つめられて、オスカーはふっと笑みをこぼした。
「今すぐオリヴィエのヤツに聞いてくれてもかまわないぜ。まあ、今頃はアイツも二日酔いで頭を抱えてるとは思うがな。」
これだけ迷惑をかけられたのだから、むしろ叩き起こしてやりたい。
そんなことを考えていたら、絡めていたロザリアの指にきゅっと力がこもった。
「ごめんなさい…。」
耳まで赤く染めたロザリアがオスカーをじっと見上げている。
上目遣いの潤んだ瞳に、思わず唇を寄せた。
唇に彼女の睫毛が触れる。
すぐに目を閉じたままのロザリアの唇に、オスカーは唇を重ねた。
短く触れ合うだけでも、想いが伝わり合う。
「君が謝ることはない。アンジェリークにも言われたのさ。俺の日ごろの行いが君を不安にさせていると。」
ロザリアの瞳が揺れる。
「本当にその通りかもしれないな。」
「いいえ。オスカー。わたくしは、今のままのあなたが好きなんですの。あなたが優しいのは女性だけではないわ。
ランディたちや秘書の方たちにも、いつも気を配ってらっしゃいますもの。…だから、無理に変えようとなさらないで。」
オスカーは胸に倒れ込むように寄り添ったロザリアの肩を抱き寄せた。
「俺も口紅をつけていない、そのままの君が、一番好きだ。」
今度はゆっくりと唇を重ねた。
彼女の背に優しく手を回し、その頬に指を滑らせる。
「やっと、おはようのキスをもらえたな。」
オスカーが微笑むと、
「朝食はどうなさいますの?」
ロザリアも微笑みを返してくれる。
「そうだな…。」
考えこんだオスカーをロザリアが見つめた。
今すぐに戻れば、サラダとフルーツは残っている。
パンケーキの素はアンジェリークが持って行ってしまったけれど、二人でやればすぐに準備もできるだろう。
「とりあえず、キスをもう一度、だ。」
言いながら、唇を寄せたオスカーの背をロザリアは両手で抱きしめたのだった。
FIN