「はい。 仰せの通りに。」
胸に手を当て、軽く腰を折る。
一糸乱れぬ、その所作は、軍隊時代に培った習性のようなものだ。
上司と部下を分ける、明確な一線がそこにある。
「ところでジュリアス様。」
一転して、オスカーはやや楽な口調でジュリアスに向き直った。
ここからはプライベート。
ジュリアスも
「なんだ?」 と、執務の時とは少し違った調子で答えを返してくる。
「先ほど、陛下が補佐官室に来ました。」
その一言で、ジュリアスの眉がピクリと上がる。
「今度の日の曜日、フリーになったので、ぜひ、ロザリアにセレスティアでの買い物に付き合ってほしい、と。
なんでも、もともとの約束をしていた人物に、急なキャンセルをされたとか。」
オスカーの言葉が最後まで終わらないうちに、すでにジュリアスの眉間には大きな縦じわが入っていた。
そして、今。
その縦じわはさらに深くなり、マッチ棒を乗せる芸当がすんなりできそうに思えてしまうほどになっている。
「オスカー。」
「はい。」
ジュリアスは深いため息をつくと、オスカーをまっすぐに見つめた。
けれど、それはいつもの一点の曇りもない視線とは違い、明らかな困惑が見て取れる。
「このところの執務の立て込みようは、そなたも知っているであろう。
我々だけでは立ちいかず、陛下のお力に頼ることも多かった。
さぞ陛下もお疲れになったことであろう。」
確かに。
オスカーも大きく頷いた。
ここ数週間、ある星系であった地殻変動の影響で、女王以下の全員が毎日のような残業に追われていた。
昨日になって、ようやく変動は収まりを見せ、今日は通常の執務に戻ったが、それまでは本当に慌ただしくて、オスカーでさえも彼女とプライベートで会う時間が全く取れなかったほどだ。
「ゆえに次の日の曜日くらいは休むべきだと私は考えたのだが。
間違っているか? 」
もしも執務に関する相談であれば、間違っていないと答えるだろう。
ジュリアスはオスカーの数倍は忙しいのだから、疲れも相当のモノのはずだ。
それは陛下も同じこと。
休んだ方がいいとも思う。
けれど、今、ジュリアスが求めている答えが執務とは違うことに、もちろんオスカーは気が付いていた。
「お言葉ですが、苦しい時期を乗り越えたからこそ、大切な人とのひと時を持ちたいと、陛下はお考えなのではないでしょうか?
体の疲れは休めばとれます。
ですが、心の疲れをいやすことは、それだけではできないはずです。」
ジュリアスと過ごす時間こそが陛下にとって大きな癒しになる、と言外ににじませた。
すると、
「そうか…。」
呟いたきり、ジュリアスは机に両肘をついて顎を乗せたまま、考え込むようにじっと押し黙っている。
オスカーは、もう一度、礼をとると、静かに執務室を出ていった。
執務の終わり、オスカーは補佐官室を訪ねた。
慌ただしかった昨日まで、彼女と会えない日々が続いたぶん、今日はどうしても二人の時間を持ちたかったのだ。
「ちょうど終わりましたわ。」
立ち上がって出迎えたロザリアを、オスカーは両腕で包み込んだ。
途端に彼女の甘い薔薇の香りを感じて、自然と笑みが浮かんでしまう。
「あの、さっき、アンジェリークが来ましたわ。
日の曜日の約束、やっぱりなかったことにしてほしい、ですって。
まったく、あの子ったら。」
「そうか。」
答えながら、オスカーはジュリアスの顔を思い浮かべていた。
難しい顔で考え込んでいたが、オスカーの諫言を聞き入れて、すぐに行動に移すところはやはり彼らしい。
自分に非があると思えば、折れることを厭わない。
厳しいだけでないジュリアスの人間としての大きさは尊敬に値する。
「これで、君も日の曜日はフリーになったわけだ。
もちろん、俺との約束はまだ有効だろう?」
イエスの答えを期待して、オスカーはロザリアの耳元に囁いた。
ところが。
彼女からは何の返事もない。
抱きしめた腕には体を預けてくれているのに、まるで心は別の場所にあるようだ。
わずかに伏せられた青紫の長い睫毛は、憂いを示す長い影。
こぼれた吐息は、微かなため息。
オスカーは腕をゆるめると、彼女の顎をとらえ、顔をあげさせた。
「なにかあったのか?」
いつもの凛とした瞳もキレイだが、彼女のこんな顔は珍しい。
怒っているわけでもなく、哀しいわけでもなく。
たとえるならば、困惑している、というのが一番正しいだろう。
オスカーの胸に同時に二つの感情が湧き上がった。
一つは、憂いの理由を知りたいという事。
そして、もう一つは、彼女のこんな顔を見ることができるのは自分だけだという優越感。
全く、自分は相当にロザリアにイカれているらしい、と苦笑するしかない。
「…いいえ。なにもありませんわ。」
彼女らしい返答だが、何でも一人で抱え込もうとするのは彼女の悪い癖だ。
それに、じっとオスカーを見つめる青い瞳は、確実に何か言いたげで。
とても見過ごせない。
「俺が何かしたのか?」
「…違いますわ。」
「じゃあ、誰だ? 君の憂いを払うためなら、俺は陛下にだって剣を向けるかもしれないぜ。」
「御冗談ばかり…。 あなたはそんなこと、なさいませんでしょう?」
ロザリアの言葉に、オスカーは片眉をあげた。
『陛下』という言葉に対する彼女の反応が、いつもと微妙に違う事を感じたからだ。
「陛下となにかあったのか?」
ロザリアは答えない。
この二人に限って、まさか仲違いなんてことはないだろうし、小さな言い争いくらいなら別にオスカーに隠す理由はない。
オスカーは少し考えて、すぐにもう一度尋ねた。
「ジュリアス様との話で、なにか聞いたのか?」
それくらいしか原因が思いつかない。
ジュリアスが女王アンジェリークと日の曜日の約束を再度交わして、ロザリアに断りを入れに来た。
きっとその時になにか言われたのだろう。
「オスカーのせいではないんですの。 ただ、わたくしが、勝手に思っているだけですわ。」
オスカーは自分の予想が当たったことには満足したが、ロザリアの憂いの理由はよくわからない。
一体、何を言われて、何を思っているのか。
「俺以外のことで君が心を動かされることの方が、よほど我慢ならないな。
まさか俺はジュリアス様と決闘をしなければならないのか?」
わざと軽く、ロザリアに向かってウインクしてみる。
すると、彼女はうっすらと頬を赤らめて、うつむいた。
「そんな。 ジュリアスは関係ありませんわ。
ただ…。」
「ただ?」
言い淀んだロザリアにオスカーは優しく問いかけた。
「ジュリアスはアンジェのことをとても大切に想っているんですのね。
それが、少し…。」
羨ましかった、との言葉は声にならずに、ロザリアの口の中で消えていく。
けれど、オスカーの心にははっきりとその声が聞こえていた。
「俺は君を大切にしていないか?
君が疲れているのを知っていて、日の曜日に約束をいれようとしたことで、そう思ったのなら、許してほしい。」
「違いますわ。 そんなことではなくて…。」
ロザリアは甘えた様子で、オスカーの服に手を伸ばすと、きゅっとしがみついてきた。
「ジュリアスは本当にアンジェのことしか見ていませんの。
女王としても、一人の女性としても…。」
確かにその通りだ、とオスカーも思う。
ジュリアスの目には女王しか映っていない。
守護聖の時は女王として敬い、一人の男の時は恋人として慕い。
「俺はそうは見えない…か。」
自嘲気味にオスカーがつぶやくと、ロザリアは一瞬だけ顔を上げ、またすぐに俯いてしまった。
でも、オスカーの服をぎゅっとつかむ手に力がこもったことで、彼女の答えがわかる。
「全宇宙の女性の恋人はとっくに返上したつもりだぜ。
今の俺には君だけだ。
それともただの挨拶すら、君以外の女性にはしないでほしいと?」
「そんなこと…。 」
ジュリアスだって、女官たちにも挨拶くらいはしているし、ロザリアと話す時間も長い。
時間だけなら、女王よりもロザリアと過ごすことの方が多いくらいだ。
それに、彼女が気にしているのは、そんなことではないことも、オスカーにはわかっていた。
ジュリアスにとって、アンジェリークは最初で、おそらく最後の恋人。
彼女が現れて、ジュリアスは恋を知った。
それに比べて、オスカーは、ロザリアと出会う前から、数多くの恋をしてきた。
一夜限りのモノもあれば、振ったことも振られたこともあった。
魅力的だと思う女性は今もたくさんいるし、そんな女性にはそれなりの敬意をもって対応している。
けれど、本当に心から大切だと思う女性は、ロザリアだけだ。
たくさんの女性の中から、たった一人、彼女を選んだ。
オンリーワンとナンバーワン。
それはまるで違うようで、実は同じなのに。
「俺の愛し方は、君の望む愛し方とは違うのかもしれないな。
君が不満に思うならば、俺はどうすればいい?」
「オスカー…。 違うんですの。 わたくし…。 わたくしは…。」
ぎゅっと服を掴むロザリアの手が震えている。
その手ごと、オスカーはロザリアを抱きしめた。
本当にヒドイ男だと自覚している。
別れるつもりなど微塵もないくせに、彼女がこうして縋ってきてくれるのを期待して。
掴む手の強さで、彼女の愛を確かめて。
こんなことで愛を計ろうとする男は本当にヒドイ奴だ。
「君だけなんだぜ。…俺をここまで悪い男にするのは、な。」
ふっと浮かんだ笑みと共に呟けば、腕の中のロザリアは、不思議そうにオスカーを見上げてくる。
その瞳の美しさに吸い込まれるように、オスカーは唇を落とした。
初めは軽く触れ合うだけ。
その後は深く、奪うように。
彼女の腰を抱き、息をする間も与えないほど貪るような口づけ。
オスカーが強引に唇の間に舌を割り込ませ、彼女のそれを絡めると、ロザリアもぎこちなく返してくれる。
必死なのはどちらの方だろう。
翻弄しているつもりが、翻弄されているのは自分の方かもしれない。
彼女の味は麻薬のように、オスカーを甘く包み込む。
「ん。」
苦しそうなロザリアの声に、オスカーがいったん唇を離すと、伏せられていた青紫の睫毛が震え、ゆっくりと青い瞳がのぞく。
思いを込めた口づけが彼女にも届いたのか、その瞳にちらりと灯る、艶めいた光。
もっと欲情させて、オスカーを欲しがればいい。
耳を甘く食み、舌先で奥を探る。
ぴくんと体を震わせたロザリアの背中を撫でながら、耳に息を吹きかけると、
「や…。」
体をよじるたびに揺れる巻き髪がオスカーをくすぐった。
再び唇を重ねたが、今度はオスカーは動かない。
つん、と舌で彼女の唇をつつき、ただ催促を繰り返した。
おそるおそる、伸びてきたロザリアの舌をじっと受け入れて、彼女のするがままに任せる。
巧みとは到底言えない、たどたどしい動き。
もどかしいけれど、彼女からされているということに舞い上がるような高揚感を得るのだ。
本当にオカシイほど、どうかしている。
「あ。」
唾液があふれそうになって、ロザリアが唇を離すと、オスカーはギュッと彼女を抱きしめた。
耳まで赤くなって、それでもそっとオスカーを抱き返す姿に、愛おしさがこみ上げてくる。
「ずっと君に会いたかった。 触れたかった。
キスをしたかった。 君を・・・愛している。」
一番ありふれた言葉を、たった一人の彼女に捧げる。
ちゅっと音を聞かせるキスを彼女の唇に、頬に降らせ、そのたびに「愛してる。」と繰り返した。
黙ったまま、ぎゅっと抱く腕だけに力を込めた彼女に、オスカーは言葉をねだる。
「君は?」
「わ、わたくしは…。」
ふう、とロザリアからため息が零れるが、それでも許さずに、キスの雨を降らせ続ける。
言うまで解放するつもりはない、というオスカーに呆れたのかもしれない。
でも。
「わたくしも会いたかったですわ。」
零れ落ちた言葉と極上の笑みに、自然と心が癒される気がする。
『心をいやすのは大切な人とのひと時』。
嘘偽りでなく、心からそう思えることが増えたからこそ、さっきもつい口をついたのだろう。
今頃、きっと彼らも同じことを感じているはずだ。
見つめ合って、微笑み合って。
けれど、それ以上のモノが欲しくなるのは、男なら当然のこと。
『心をいやす』なんて恰好のいい言い訳をしながら、オスカーの全身の、それこそ細胞の一つ一つまでが、彼女を欲しいと疼いている。
全宇宙の女性の恋人だなんてうそぶいて、繰り返してきた欲望の果て。
その先に見つけた眩暈がするほどの幸せを、どうして欲しがらずにいられるだろう。
「今夜は帰らなくてもいいだろう?」
イエス以外の返事は認めないけれど、それを彼女の口から聞きたかった。
ワガママでヒドイ男。
彼女の前ではそうでしかいられないのだと、改めて感じた。
「帰りたくな…。」
その先をキスで塞いで、一秒も惜しいと、彼女の体を抱え上げる。
「きゃ! お、オスカー! 降ろして!」
うろたえるロザリアに、ありったけの想いをこめて囁いた。
「離したくないんだ。 許してくれ。」
ナンバーワンでオンリーワン。
世界でたった一人の愛する人。
先のことなんてわからない。
保証なんてどこにもない。
けれど未来なんて、所詮は今の積み重ね。
今、この瞬間。
たしかに彼女を愛しているという、それだけが『すべて』。
FIN