双曲線

爽やかな風の流れる午後。
ロザリアはテラスのテーブルにティーセットを並べ、お気に入りのチェアに腰を下ろした。
そのチェアから眺めると、薔薇のアーチがひときわ美しく見えるのだ。
常春の聖地では、常に薔薇が咲いている。
彩りこそ月日に変わっていくけれど、花が絶えることはない。
聖地へ来たばかりのころは、それがとても不思議に思えたが、今となっては花のないアーチのほうが珍しいと思うのだろう。
それほど、この聖地という場所になじんでしまった自分がいる。

今、盛りなのは赤いバラ。
彼の人を思い出させる、見事な赤だ。

何もない土の曜日の午後、ロザリアは決まって、ここで大好きな薔薇を愛でながら、お気に入りの紅茶を飲む。
それは、忙しい補佐官の執務を慰める、大切なひとときだ。
この習慣が、いつの間にかそうなっていた、というべきなのか、そうしている、というべきなのか。
どちらなのかを考えてみても、視界の隅をよぎる緋色に、途端に意識が奪われてしまう。
・・・やはり待っているのかもしれない。
ロザリアはわずかに顔を下に向け、小さく息を吐いた。

「麗しの補佐官殿。…お茶をご一緒しても?」
言いながら、彼はもう、ロザリアの向かいに腰を下ろしている。
まだ許可していない、と言いたげに、目を細めて睨んでみても、オスカーは知らん顔で、例の人を食ったような口端を上げる笑みを浮かべているだけだ。
まるで彼を拒絶する人間など、この世にはいないとでも言いたげに。
そして、結局、それは真実なのだ。

「少しお待ちになって。 準備をしてまいりますわ。」
席を立ったロザリアの背中にオスカーの視線が注がれる。
今、この瞬間、彼が見ているのはロザリアだけ。
密かに満たされるロザリアの想いを彼は考えたこともないだろう。

キッチンでカプチーノを淹れるのは、案外難しい。
まずはスチームミルク。
温めすぎないように小鍋から目を離さずに、ゆっくりと湯気が上がるのを待つ。
それから、温めたミルクをフォーマーで混ぜて、ふわふわとした泡を作るのだ。
きめ細やかな泡を立てるのにはちょっとしたコツが必要で、ここが一番気を遣う。
エスプレッソが沸いたら、マキネッタを火からおろし、カップに注ぐ。
そこに泡立てたミルクの下層を慎重に注ぎ、スプーンで泡を乗せれば、できあがりだ。

カプチーノは他のコーヒーに比べて、ひと手間もふた手間も余計にかかる。
けれど、それがオスカーのためだと思えば、少しも苦にならない。
むしろこのカプチーノを入れるほんのひと時だけは、彼のことだけを考えていてもいい時間に思えるのだ。
手慣れた自分の動作がなんだかほほえましくて、自然に笑みがこぼれてきた。
オスカーがこの時間に現れるようになる前から、密かに練習していたカプチーノ。
いつか彼に飲んでもらいたいと思ってはいたけれど、それが本当に叶うとは思っていなかった。

一分の隙も無いカプチーノのできばえに、ロザリアはホッと胸をなで下ろした。
このくらいのことはわけもないことだと、彼に思わせなければならない。
オスカーの前では理想通りの、完璧な淑女でいたいから。
改めて凜と背筋を伸ばしたロザリアは、カプチーノをトレーに乗せ、彼の元へと戻った。





「うまいな。」
カプチーノを一口含んで、オスカーは満足げな笑みを浮かべた。
「君のカプチーノは聖地中のどのカフェよりもうまい。」
「お上手ですこと。 カプチーノなんて、めったに淹れませんのよ。 お味の保証はできませんわ。」
口に手を添えて、くすりとほほ笑むロザリア。
彼女がカプチーノを淹れる相手はオスカーだけかもしれない。
でも、エスプレッソは? ハーブティは? 緑茶は?
ロザリアならどれでも難なく淹れることができるだろう。
才色兼備の女王補佐官はきっと他の男の前でも、同じように美しい笑みを浮かべ、好みのお茶を用意するのだ。
そんな彼女の姿が目に浮かんで、ちりちりとした焦りがオスカーの胸を焼いた。

ただのお嬢ちゃんに過ぎなかった少女。
それがいつの間に、こんなふうに心乱される存在になったのか。
オスカー自身もわからない。

美しい女性と美味しいお茶がそろえば、すでに極上の時間だ。
ロザリアはとても頭がいい。 おまけに上流階級の育ちらしく会話のセンスもいい。
女王候補のころから、彼女との会話は楽しかった。
そのころはただ、気楽で楽しかっただけだったのに。 今は。


「は~い、 ロザリア。 ちょっと早かった?」
風が嗅ぎ慣れた派手な香りを運んできて、オスカーはわずかに眉を顰めた。
執務服よりは幾分地味だが、華やかな衣装に身を包んだオリヴィエが、薔薇のアーチをくぐってくるのが見える。
大きな荷物を抱えているところを見ても、ロザリアと約束をしていたのだろう。
ロザリアは艶やかな笑みで、席を立ち、オリヴィエを出迎えている。

「いいえ。お待ちしていましたわ。」
「…邪魔した?」
チラリとオスカーに視線を向け、オリヴィエが尋ねる。
オスカーは首を振り、黙って、カプチーノのカップを傾けた。
最後に残ったエスプレッソが喉を焼くように苦い。

「オスカー、今日のパーティはあなたも出席なさるんでしょう?」
「ああ。 女王陛下主催のパーティだ。守護聖が欠席するわけにはいかないだろう?」
肩を竦めたオスカーに、ロザリアが薄い笑みを浮かべる。
「では、あなたもそろそろ帰って準備をなさった方がよろしくてよ。
 ごめんなさい、お菓子もお出しできなくて。」
本気で申し訳ないとは思っていないのが、ロザリアの口ぶりでわかる。
もっとも最初に彼女から勧められたお茶菓子を断ったのは、オスカーの方だった。
あれ以来、彼女はお茶しか出してくれない。
あからさまな退出を促す気配に、オスカーは立ち上がった。

「ごちそうになったな。」
「ええ。 また後ほど。」
型通りのあいさつを交わし、オスカーは薔薇のアーチをくぐった。
食器を片付ける音、オリヴィエの「手伝うよ。」という声。
背中から感じる、ロザリアとオリヴィエの親密な気配。

ふと、オスカーに苦笑が浮かんだ。
この感情を人は何と呼ぶのだろう。
恋ならばもっと純粋なはず。 愛ならばもっと暖かいはず。
独占欲と嫉妬。 
彼女に出会うまでは知らなかった、黒い感情。
あがいてみようか、とも思う。
気障でプレイボーイな自分を投げ打って、ロザリアの前に愛を乞おうかとも。
けれど。

哀れな男になり下がったオスカーを、ロザリアが愛するのか。
気位の高い、ある意味女王よりも女王らしい彼女ならば、手に入れたものに興味を失い、簡単に捨て去ってしまうかもしれない。
・・・今までのオスカーが多くの女性たちにしてきたように。
一度だけでも手にできればいい、と思えるほど、すでに想いは小さなものでない。
一度でも手にしたら、きっと二度と手放せなくなるだろう。
情けなく泥にまみれるオスカーを冷たく見下ろす青い瞳が脳裏に浮かぶ。
美しく、だからこそ恐ろしい。 ・・・そして欲しくなる。
自らに残る薔薇の移り香を脱ぎ捨て、オスカーはパーティのための正装に着替えた。



女王陛下の乾杯の合図が終わると、フロアに人が流れ込んでくる。
オーケストラの演奏に合わせて、ダンスをする者。
テーブルに並んだ食事に手を伸ばす者。
耳が痛くなるような雑踏の中で、ひときわ輝く青い姿を、オスカーは見つめ続けていた。
オリヴィエにエスコートされた彼女が現れた時、人々は一瞬にして魅了され、感嘆のため息を漏らしていた。
優美な身体のラインを引き立たせるコバルトブルーのドレスをまとい、ほほ笑むロザリアは、まるで女神のように美しい。
ゆるく纏められた髪にちりばめられているラインストーンが月の欠片のようで。
目が離せなかった。

ロザリアは多くの男たちに囲まれ、その一人一人に、にこやかに対応している。
補佐官という立場上、それは当たり前なのだが、オスカーにとっては面白くない。
しばらくじっと見つめ続けたが、全く振り向く気配にないロザリアに諦めて、手にしていたシャンパングラスに口をつけた。
女王陛下の好みに合わせて甘めのシャンパン。
思わず顔をしかめた。


「ね、ロザリア、綺麗でしょ? 」
からかうようにかけられた声をオスカーは無視した。
一瞬ムッとして、すぐに面白そうな笑みを浮かべたオリヴィエがオスカーに近づいてくる。
肩に置かれた相変わらず手入れの行き届いた指先。
さっきまでロザリアに触れていたのかと思うと無性にいらだたしくて、オスカーは体をずらして手を避けた。

「あの子の願いどおりに私が特別に仕立てたんだからね。」
得意げな様子が気にかかる。
オリヴィエがこんな言い方をするときは、たいてい裏があることを長い付き合いで知っているのだ。
「願い…?」
問い返せば、やはり、わが意を得たりというようにオリヴィエがウインクを返してきた。

「そ。 この世の男全部を虜にできるくらいに綺麗にしてほしい、って。
 ふふ~、それを叶えちゃう私の腕ってすごいと思わない?」
オスカーはふんと鼻を鳴らした。
オリヴィエの腕がすごいかどうかは別として、確かに今夜の彼女は格別に美しい。
今すぐこの場から連れ去ってしまいたいほど魅力的だ。


「あんたさ、どうしてあの子に好きって言わないの?」
まさかこんなシャンパンに酔うオリヴィエではないはず。
驚いたオスカーがちらりとオリヴィエを見ると、彼は思いがけない真剣な目でオスカーを見ていた。
「言わないさ。 口が裂けても…なんてつまらないたとえだな。」
ごまかすように甘いシャンパンを一気にあおったが、やっぱりこの酒では酔えそうもない。

「なんで?」
たたみかけるオリヴィエに、オスカーはグラスを掲げ、その泡の向こう側に浮かぶ青い姿を眺めた。
取り囲む人は途切れず、女神の慈悲は未だにオスカーに与えられる気配がない。

「手の届かないものほど、欲しくなるだろう?
 俺は彼女にとって、そういう男でいたいのさ。…最後の瞬間まで、な。」
この地を離れる時まで。
いや、この地を離れてもなお、彼女の心を縛るには、オスカーが堕ちないことだ。
彼女の周りを彩る数多くの一つになるよりも、たった一つの染みになりたい。

「変わってるよ、あんた。」
「…そうかもな。」





曲が終わり、まばらに散らばっていた令嬢達が、新しいパートナーを求めて、ざわめき始めた。
その中でひときわあでやかな一団が、あっという間にオスカーを取り囲む。
普段、話しかけるチャンスすらない守護聖を相手にできる数少ない場だ。
どの令嬢達もめいっぱい着飾って、瞳をキラキラさせている。

「オスカー様、踊ってください。」
「私も。」 「わたしも!」

若い女性たちのエネルギーに押し出されるように、オリヴィエはオスカーから離れた。
そばにいれば、巻き添えを食って、したくもないダンスに付き合わされる羽目になる。
やがて、ダンスの順番が決まったのか、オスカーが一人の女性の手を取り、フロアへと連れ出した。
タイミングを計ったように曲が流れ出し、再び、賑やかなダンスが始まる。

オリヴィエはフロアの向こう側にいるロザリアに目を向けた。
感情を押し殺したような青い瞳。
彼を見ていないつもりなのだろう。
実際、彼女の周りを取り囲む男たちは誰一人、そのことに気が付いていない。
彼女の目以外のすべてがオスカーに注がれていることを。



パーティが始まる前、オリヴィエはロザリアの髪にブラシを入れていた。
女王候補の頃から、ロザリアの専属アシスタントとして、パーティの時の身支度を引き受けてきた。
綺麗なロザリアをより綺麗にする、この役割をオリヴィエは気に入っているのだ。
ツンとしたロザリアが、この時間はオリヴィエに少し甘えてくるのも楽しみの一つになっている。

鏡越しに会話を交わし、いつものように、長い髪を整えていく。
もともとのクセで軽く波打つ髪が、彼女は気に入らないらしく、しっかりとしたまとめ髪にすることが多い。
けれど、今日はそのウェーブを生かしたスタイルにしようと決めていた。
髪の一束をねじりながら、
「あんた、なんでオスカーに告白しないの? 好きなんでしょ?」
あまりに何気ない調子だったからだろう。
鏡の中のロザリアからは、いつもの仮面が剥がれ落ち、明らかに動揺していた。

「…なんのことかしら?」
青い瞳を揺らしたまま、それでも、ロザリアはとっさに貴族らしい笑みを浮かべた。
無表情なアルカイックスマイル。
けれど、
「隠してもムダだよ。」
淡々と髪を結いあげていくオリヴィエに、ロザリアは小さく肩を落とした。

「そうですわね。 オリヴィエに隠し事なんて、できませんわよね。」

ゆるく編んだ髪の上に、ラインストーンを乗せていく。
青い髪にキラキラと光を弾くストーン。
今日の彼女のイメージは月の女神だ。
気の強い、純潔の女神は、彼女にふさわしい。

「想いを告げたら、応えてくれると思いまして?」
言ってすぐ、ロザリアは小さく首を横に振った。
「たぶん、応えてくれるでしょうね。
 オスカーは女性からの告白を冷たくあしらうような方ではありませんもの。
 たとえわたくしからでも、一度は受け入れてくださるでしょう。」

オリヴィエは何も言わなかった。
オスカーの想いはそんなに軽いものではないと知っている。
けれど、それをオリヴィエの口から告げたところで、ロザリアは信じないだろう。

「恋人になって、結ばれて。 でも、そうしたらきっと、彼は…。
 わたくし、あの方の中の、たくさんの過去の女の一人になるのは嫌なんですの。
 それくらいなら、落ちなかった女の一人でいる方が、あの方の記憶に残るでしょう?」

全宇宙の女性の恋人だという彼を、永遠に手に入れられるとは思わない。
ただ、忘れないでほしいだけ。
いつか、お互いにこの地を去り、別々の時間を生きていくことになったとしても。
彼の心の中に、「ロザリア」という女がいたことを覚えていてほしい。
それ以上は望まない。

鏡の中のロザリアが振り返り、美しい青い瞳でオリヴィエをまっすぐに見つめた。



オーケストラの演奏は続いている。
フロアで踊るオスカーと壁際で話し込んでいるロザリア。
どちらも別の男女に囲まれ、その中央で魅力的な笑みを浮かべている。
オリヴィエは二人を交互に見ては、小さくため息をついた。
「似すぎてるね、あんたたち。」
同じ想いを抱え、同じ恐れを抱き、同じ終末を望む。
どちらも愛を信じきれない二人。

彼らは気づいているのだろうか。
相手の心に残りたいと、叶わぬ想いを抱き続けること。
それは同時に、自分の心からも相手を消せないということ。


曲が止まり、ダンスの輪が崩れる。
その一瞬、二つの視線が密かに交錯したことに、オリヴィエだけが気づいていた。


FIN
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