俺は大笑いしているオリヴィエの頭を小突くと、うっすらと赤い右頬に手を当てた。
正直、痛みはほとんど引いている。
そもそも女性の力で殴られたところで、ダメージなどたかが知れているのだ。
それでもなんとなく痛みが残っている気がして、無意識に頬をさすっていると、
「で、バカ男としてはどうするの?」
綺麗に手入れされた爪で、目じりに浮かんだ涙を掬い取ったオリヴィエがニヤリと笑う。
コイツ、完全に楽しんでやがる。
仮にも友人の人生最大のピンチに涙が出るほど笑うとは。
恵まれない友人関係に、俺が憮然としてソファに大きく体を沈ませると、オリヴィエはやっと笑うのをやめた。
「ね、どーすんの? マジでこのまま放っておくの?」
俺は答えなかった。
いちいちコイツに答えてやる義理などないし、口を開くのも面倒だ。
けれど、
「まあ、好きにすればいいけど。
あんたが放っておくなら、逆に他の男は放っておかないだろうね。
あの子のこと狙ってる男、たくさんいるし」
オリヴィエは指を折りながら、男の名前を上げていく。
聞いたことのある名前ばかりが並び、俺は眉を寄せた。
自分の恋人がモテるのは悪い気はしないが、今はあまり聞きたくない。
「お前もじゃないのか?」
気分を変えようとして叩いた軽口に、
「あ、私も立候補していいの? じゃ、入れとこう」
楽し気に小指を折るオリヴィエを俺はじろりと睨み付けた。
俺が睨めば大抵のヤツは多少ひるむもんだが、コイツにはまるで通じない。
もっとも、これだけ情けない姿を見られていて、今更という気もしなくもないが。
「早く迎えに行った方がいいんじゃない? どうせ陛下のとこにいるんだからさ」
今までもケンカをするたびに、彼女は親友である陛下のところに逃げ込んでいる。
思いっきり愚痴を言うと気持ちが落ち着くらしい。
もともと彼女は頭の良い女性なのだ。
感情的になったとしても一時のことで、切り替えが早い。
ケンカ(その原因は主に俺だが)しても、あっという間に仲直りできてしまう。
そのパターンは本当に毎度同じなのだが、今回ばかりは違うことになるかもしれない。
殴った時の彼女は…怒るというよりも泣きそうだった。
思い出して、ずきりと痛む胸。
じっとしたまま無言の俺にオリヴィエが肩をすくめた。
「早く謝っちゃいなよ。 長引けば長引くほどよくないでしょーが」
謝るのは簡単だし、初めから誤解なのだから、何の問題もない。
俺があの女性と隠れて会っていたのには、れっきとした理由があるのだ。
彼女だってちゃんと理由を話せばわかってくれるだろう。
けれど、俺にとって少なからずショックだったのは、俺のやんちゃだった過去が尾を引いていて、今だにまるで信用がないということ。
自業自得とはいえ、やるせない。
あの日。
主星のシティホテルのロビーで、俺はある女性と落ち合っていた。
最新のファッションに身を包んだゴージャスボディのブロンド美女。
人目を惹きつけることを十分に理解して浮かべる蠱惑的な笑みは、その場にいた男が皆、思わず振り返るほどだ。
数年前の俺なら間違いなく、モノにしていただろう。
「待たせたか?」
俺がごく当たり前の挨拶をして、手を差し出すと、
「いいえ。時間どおりよ」
慣れた様子で彼女はその手を取り、女神のようにほほ笑む。
周囲からの羨望と憧れのまなざしを軽くスルーして、俺は予約しておいた客室へと彼女を連れて行った。
用件を終え、再びロビーへ戻った俺は目を丸くした。
女王陛下をはじめとした、聖地の女性メンバー4人が横並びで仁王立ちしていたからだ。
「オスカー!」
目のつり上がった女王陛下が、俺を睨み付ける。
「あなた、今さっきまで、どこでなにしてたの?」
俺は内心の焦りを隠して、大抵の女性なら腰砕けになる、とっておきのスマイルを浮かべた。
「プライベートな時間のことに関しては、お答えいたしかねます。」
慇懃に腰を折り、胸に手を当てる敬礼の姿勢をとれば、ロビーにいた女性たちからの感嘆のため息が聞こえてくる。
これが普通の女性の反応。
もっとも目の前の彼女たちに、すでにこの手が通用しないことはわかっている。
かえって、胡散臭いものを見るような視線を浴びせられて、俺は苦笑した。
「1時間40分。 美人と二人でお部屋にこもって、なにをしていたのかなあ?」
どうやら最初から見られていたらしい。
マズいことになったと頭を抱えたくなったが、ここで簡単に口を割るわけにはいかなかった。
なにせこっちも人生がかかっているのだ。
「プライベートですので」
なおも慇懃な態度を崩さずにいると、
「そこまで隠すってことは、疚しい事ってことだよネ?」
「なんでもないなら隠さなくてもいいと思いますー」
「本当のことを言ったほうが楽になれますよ」
口々に責められたが、俺は涼しい顔で、それらを聞き流した。
俺は壁に貼られたホテルのお知らせを見て、とっくに彼女たちの目的に気が付いていたのだ。
『日時限定 季節のケーキバイキング』
女王陛下の発案のお忍びに違いない。
つまり、ここで騒ぎを起こして困るのは、俺以上に彼女たちだ。
バイキングの開始時間まであと数十分。
このまま言いくるめてしまう自信があった。
ところが。
「ロザリア、傷ついてたわよ」
予想外のセリフが俺に突き刺さる。
ロザリアがいないことには気が付いていたが、俺はそれを不思議に思わなかった。
彼女はケーキバイキングなどを楽しむタイプではないし、お忍びを咎める立場だから、おおかた、ロザリアの目を盗んで抜け出して、こっそり4人で来たのだろうと予想していた。
ふと、女王陛下の視線の先を辿れば、一面ガラス張りになった壁の向こうに、走っていく青紫の姿がある。
路地を曲がり、消えていく背中。
瞬間、俺はなにもかも忘れて、その背中を追いかけていた。
人通りの多い通りを抜け、星の小道にあと数歩、というところで、ようやく俺は彼女の腕を掴むことができた。
「君の誤解だ」
走ったせいか、顔を赤くして息を乱しているロザリアに、俺は静かにそう告げた。
だが、内心は静かどころか暴風雨。
ロザリアをどう誤魔化すか、そのことで頭がいっぱいだった。
「彼女とはなんでもない。 昔からの知り合いで、たまたま会って、懐かしくて、部屋で少し話をしただけだ。」
嘘をつく時は3割ほど真実を混ぜるのがいい。
俺はいつもの調子で、煙に巻いてしまおうとしたのだが。
じっと俺の顔を見ていたロザリアが、ふと俯いた。
泣かせたか?と、彼女の顔を覗き込もうとした俺は、彼女の手から放たれた急な一撃を、まともに食らってしまった。
「ウソつき! あの方と何度も会っていること、ちゃんと知っていますのよ!」
見事な平手打ち。
細い彼女の腕のどこにそんな力が宿っていたのかと思うほど、キツい一発だ。
バチン、と、響いた音は俺の頬から耳へ抜け、驚きと衝撃が俺の動きを止める。
何度も? 知っていた?
予想外のセリフに思わず俺の手が緩んだすきを逃さず、ロザリアはあっという間に、星の小道を渡って、聖地へと戻ってしまったのだった。
俺が呆然と立ち尽くしていると、背後からざわざわと人の気配がする。
「逃げられちゃったんだね~」
薄笑いの女王陛下一同に、俺は引きつった笑みを返すことしかできない。
「あ、わたし達はあの女性からちゃんと話をきいたから大丈夫です」
「オスカー様って、意外にロマンチストだったんですね!」
「でも、大事なのはそこじゃない、って気がするけどネ」
「そうよ! サプライズもいいけど、嘘つくのはサイテー。 女心わかってるようで、全然わかってないんだから」
「ご自分がどれだけ目立つかも、全然わかってませんよね」
「そうそう、オスカーが浮気してるって、いろんな人から密告があって、わたしも困っていたのよ」
「ロザリア様だって、気付かないふりしていましたけれど。ねえ?」
結局、俺たちはそのまま、全員で星の小路を使い、聖地に戻ることになった。
ケーキバイキングを逃した恨みも手伝い、帰途の間中続いた厳しい評価に、俺は苦笑するしかなかった。
世の中は、俺が思っているよりも、ずいぶん狭く。
ロザリアが俺の浮気疑惑にどれだけ我慢していたのかも、その時、初めて知ったのだった。
結局のところ、俺は何がしたかったのか。
食べそこねたケーキバイキングの代わりに、次回のお茶会のデザートをすべて揃えさせられる羽目にまでなって。
あのブロンド美女から受け取ってきたモノは、今、テーブルの上に置いてある。
赤いベルベットの小さな小箱。
ようするに、アレだ。
男がこんなものを必要とする瞬間なんて、一生に一度しかない。
その一世一代のためにずいぶん前から俺はブルーダイヤを探していた。
蒼が最も似合う彼女に、ふさわしい石を。
俺の思いのすべてを形にできる石を。
そこで俺は有名宝石商である、かのブロンド美女と相談を繰り返し、やっと満足の行くものを作らせることができたのだ。
彼女を喜ばせるためのサプライズの演出。
けれど、それが彼女を傷つけたのだとしたら、なんの意味も無い。
バカみたいに何度もため息をつく俺を、オリヴィエがキャハハと笑う。
「笑いたければ笑え」
「もー、あんたがすねてどうすんのさ。 ホラ、早く、それ持って行きなよ。 留守番なら私が引き受けてあげるから。」
オリヴィエはすでにサイドボードから高価な酒ばかりを選び出して並べている。
まるで俺が明日の朝まで戻らないことをわかっているかのように。
「…奥のワインは残しておけよ。 彼女の生まれ年のヴィンテージだからな。
結婚記念日に開けると決めてるんだ」
「はー、あんたってやっぱ、とんでもないロマンチストだね」
呆れたように天を仰いで肩をすくめたオリヴィエがニヤリと笑う。
「おまけにとんでもない自信家だね。すげなく追い返されるとは思ってないわけ?」
「当然だ」
俺とロザリアの関係が、この程度で揺らぐような物じゃないことはわかっている。
出会ってからこれまで、どれだけの障害を乗り越えてきたことか。
だが、それにいつまでもあぐらをかいていては、彼女はいつか俺の元を去ってしまうかもしれない。
ロザリアは俺の世界をまるごと変えてしまった、ただ一人の女性。
だからこそのコレ、なのだ。
「ま、それ以外は美味しくいただいておくよ」
「好きにしろ」
俺は立ち上がると、リングの入ったベルベットケースをポケットにしまい込んだ。
彼女の前に跪き、永遠を誓う。
たった一つの愛を手に入れた俺は、その瞬間、宇宙一の幸せ者となるだろう。
FIN