補佐官であるレイチェルも日々の執務に忙しく、プライベートな時間もほとんどない状態で、早数ヶ月。
今日も慣れない守護聖同士の衝突にため息をこぼしていたところだ。
書類を抱え、補佐官室から女王の間へ向かう途中、レイチェルはある部屋の前で足をとめた。
まだ新しいドアの向こうに、彼がいる。
聖獣の宇宙の鋼の守護聖として、今度こそ、本当に同じ時間を歩むことができるようになったのだ。
少しだけ、顔を見たくなった。
会えば、なかなか素直になれず、憎まれ口ばかり言ってしまうけれど。
レイチェルは静かにドアノブを回すと、足音を忍ばせて、部屋の中へと滑りこんだ。
まじめ一辺倒のエルンストの部屋は、ちりひとつなく、整理整頓が行き届いている。
同じ部屋を与えられているはずなのに、それぞれの守護聖の部屋はその個性のように全く違っているのだ。
部屋の無機質でシャープな印象は、エルンストそのもの。
見渡せば、部屋の主であるエルンストは執務机ではなく、傍のソファに座っているようだ。
こちらに背を向けているせいか、まだレイチェルの存在に気が付いていない。
そっと近付くと、エルンストは手に一枚の紙を持ったまま、ぼんやりとしていた。
彼のこんな様子は珍しい。
好奇心で、エルンストの手からその何かを取り上げた。
「!!」
声にならない声で、エルンストが振り向く。
「レイチェル!…あなたはこんなところで、なにをしているんですか。」
一瞬の動揺をすぐに隠すところは、本当に彼らしい。
「返してください。」
冷静な声の裏に見えた羞恥心に、レイチェルは手にした紙を見ると、そのままエルンストに手渡した。
「…ゴメン。」
そうとしか言えなかった。
生け垣の隙間はまるで緑のトンネル。
身体を縮ませて、トンネルを通り抜けると、目の前に芝生の絨毯が広がる。
その向こうには大きな木と、その木にぶら下がったブランコ。
手作りのテーブルに、5つ並んだ椅子。
「いらっしゃい。レイチェル。」
優しい声が頭上から降り注いだ。
「姉さん。それは僕の分です。」
「っるさい!男ってのはなんでも女に譲るもんなのよ。」
姉がどん、とテーブルに手をついた勢いで、置いてあったポットとカップが飛び跳ねた。
二人の言い争い…と言っていいのかは微妙だが、姉弟喧嘩はいつものこと。
たいてい姉である彼女がエルンストにちょっかいを出し、それをエルンストが諌めるという形に落ち着くのだが。
今日の発端は、エルンストの母が手作りした美味しいスコーン。
一人2個、が姉上にはお気に召さなかったらしい。
「コレ、あげる。」
レイチェルが自分の皿から残りの1個を差し出すと、エルンストは「結構です。」と、首を振った。
「僕は姉さんが太るのを心配しているんですよ。
レイチェルはもっと大きくなった方がいいのだから、たくさん食べるべきです。」
「なんですって!!!このアタシのどこが太ってるっていうのよ!」
まさに椅子を蹴るようにして立ち上がった姉は片手を腰に当てて、モデルのようにポーズをとった。
実際、姉はビックリするほどの美人だ。
彼女の通った後には、魂の抜けた男の腐乱死体が累々と折り重なっているという、恐ろしい噂まである。
気の強さも頭の回転も速い。
決してエルンストやレイチェルのような天才ではないけれど、案外、地球最後の日まで生き残るのは、姉のような人間かもしれない、と思えるほどだ。
「いいの。レイチェルはちゃんと食べなきゃ。どーせ、こいつは味なんて分かんないの。
好きな食べ物はサプリメントなんていうようなヤツなんだからね。」
残り一つのスコーンにたっぷりとジャムを塗って、姉がレイチェルの唇にスコーンを寄せた。
あーんと素直に口を開けると、甘いイチゴの香りが口中に広がる。
「おいひい。」
「ん。おいしいね。」
にっこりと笑うレイチェルにつられて、姉も笑顔になった。
頬張ったスコーンが多すぎて、もぐもぐと口を動かしていると、ふとエルンストの顔が目に入る。
「ほしいの?まだあるよ。」
食べかけのスコーンをエルンストに差し出した。
「まったく!なんてレイチェルはイイ子なの!」
ぎゅーっと豊満な胸に抱き寄せられ、レイチェルの頬が赤くなる。
オーバーなほどの姉の可愛がり方は、小学生になったレイチェルには少しくすぐったい気もする。
ましてや、外では「天才少女」として、大人にも一目置かれる存在なのだ。
でも、決して嫌ではなく、むしろ、その胸の暖かさに癒されている。
「だって、ワタシはエルンストのお嫁さんになるんだもん。」
にっこりと笑うとさらにぎゅっと抱きしめられた。
「こんなイイ子、絶対に離しちゃダメよ!エルンスト!」
「あんたみたいなツマンナイ男のお嫁さんになってくれるのは、このコしかいないわ!」
「そんな…。レイチェルはまだ一年生ですよ。そんな先のこと、予想できるはずないじゃないですか。
だいたいレイチェルが年ごろになるころには、僕はもうおじさんです。」
あきれ顔で言うエルンストにレイチェルは姉の腕から逃げ出すと、スコーンを彼の口元に寄せた。
「ワタシのモノはエルンストのモノだよ。だって、結婚するんだもん。」
まだ小さな手のなかに、少し形の崩れたスコーン。
「エルンスト、あーんして。」
言葉に詰まるエルンストを姉と母が見つめている。
少し照れた顔のエルンストが口を開けると、二人は顔を見合せて笑った。
レイチェルの両親は、留守がちで、3人で出かけた記憶はほとんどない。
有能な科学者である二人は、それこそ惑星じゅうを駆けまわっていたのだ。
それでもさびしくなかったのは、エルンストがいたから。
エルンストだけではない、その家族もみんながレイチェルを愛してくれたから。
女王候補に選ばれたことを最初に報告に行ったのも、エルンストの家だった。
もう緑のトンネルは小さすぎて通れない。
母の育てた薔薇のアーチをくぐり、ドアを開けると、そこにみんながいた。
「ワタシ、女王候補に選ばれたよ!」
「おめでとう~~~。」
最初に抱きしめてくれたのは、やはり姉で。
「アタシの自慢の妹だね。こうなったら女王になって。」
「本当に。私たちもうれしいわ。」
口々に褒める中、エルンストだけは最後まで口を開かなかった。
誰よりも認められたかった人が、喜んでくれない。
寂しい思いを抱えながら旅立ったレイチェルが、協力者として参加しているエルンストに会ったのは、聖地に着いてからだった。
騙された腹立たしさよりも、嬉しい気持ち。
確かに小さい時からエルンストのお嫁さんになる、と言ってきたけれど。
その時、初めて、それが本当の願いになったと知った。
「レイチェル。元気で。お前ならきっと、素晴らしい補佐官になれるよ。」
涙にくれる母に代って、別れの言葉をくれたのは、いつも寡黙な父。
「うん…。ワタシも、そう思ってる。今まで、ホントにありがとう。」
実の両親は手放しで喜んでくれた。
娘の決意を尊重する、というのが、両親の考えだったから。
けれど、本当は誰かに、引きとめてほしかった。
この世界で、こんなにも自分は愛されていたのだと、知りたかった。
そして。
泣いてくれる人達がここにいた。
季節外れの薔薇のアーチに花はなく、ただ深い緑が覆うだけだ。
ところどころにある、枯れた棘が、触れた手を傷つけようと待ち構えている。
普段は口の立つレイチェルが、何も言えなかった。
姉に見送るように言われたエルンストが、隣を歩いている。
もともとエルンストは必要なこと以外、無駄におしゃべりをするような人ではない。
黙ったまま、アーチをくぐると、エルンストの足が止まった。
「レイチェル。今までありがとうございました。」
「え?ワタシ、なにもしてないよ?」
エルンストの表情はほとんど変わらない。
「あなたが家に来ると、まるで家じゅうに花が咲いたようでした。
私も、家族も、みな、あなたが大好きでしたよ。」
ワタシも、大好き。
言おうとしても、言葉にならなかった。
でも、泣くのは嫌いだし、なにより、エルンストは、泣いている女を好きではないだろう。
「お元気で。」
「ウン。」
もし、もう一度、出会うことがあっても、その時は別の流れの時を生きている。
運命は二人を分かったはずだった。
エルンストはレイチェルから返された写真を、そのまま本に挟み込んだ。
分厚い本は、エルンストが守護聖になるとき持ってきた数少ない荷物の一番上に置いてあったもの。
レイチェルも幼いころ、彼の母親に読んでもらった童話集だ。
一度泣き出すと、なかなか寝付けないレイチェルのために、父も、姉も、エルンストも、繰り返し聞かせてくれた。
エルンストは本の表紙をじっと見たまま、何も言わない。
多分、見られたくなかったのだろう、と思う。
家族の写真を見つめ、瞳を潤ませている姿を。誰にも。
「エルンスト!」
大声で名前を呼ばれたエルンストが振り向くと、レイチェルはさっと眼鏡を取り上げた。
あわてた様子で眼鏡を探す肩を押さえつけると、
エルンストは顔を赤らめながら、眼鏡に手を伸ばしてくる。
「何をするんです。返してください。」
エルンストが極度の近眼なのはよく知っている。
勉強しすぎ、と、姉にからかわれ、よく眼鏡を隠されていた。
レイチェルは顔を彼にずいっと近付けて、淡いグリーンの瞳を覗きこんだ。
視界いっぱいにレイチェルの顔が映っているせいなのか、エルンストの頬がさらに赤くなる。
「眼鏡がないと、遠くは見えないんだよネ。」
ポカンとしたエルンストをじっと見つめる。
「遠くばっかり見ないでよ。 無くなったモノばっかり見ないでよ。」
…近くにいる、ワタシをもっと見て。
素直に言えないのは、昔から同じ。
「昔、お姉ちゃんに言われたヨ。エルンストと結婚したら、ホントの姉妹だね、って。」
まだ固まったままのエルンストの瞳が少しだけ揺らいだ。
「そしたら、ワタシも、ホントの家族になれるのかな、って思ってた。
ずっと、エルンストの家の子になりたかったから。」
優しい両親と、魅力的な姉と。そして、大好きなエルンストと。
本当の家族になりたいと、ずっとずっと願っていた。
「あなたはずっと、家族の一員でしたよ。」
眼鏡のないエルンストは、少しだけ若く見える。
まだおやつを一緒に食べていた、あの頃のように。
エルンストはさっき挟み込んだ写真を、もう一度取り出した。
鮮やかな写真の色は、まるで、この出来事がほんの数時間前のことのように見える。
生け垣に囲まれた緑の庭に、白いエプロンをした母と、パイを取り合う子供たち。
『我が家の庭にて。妻と子供たち』
裏に書かれた力強い父の文字が、レイチェルの欲しかった答えをくれていた。
「眼鏡を返してください。」
写真を見ていたレイチェルは、手にしたままだった眼鏡をエルンストにつき返した。
「全くあなたという人は。困った人ですね。」
かけなおした眼鏡の位置を気にするように、エルンストは数回レンズを押し上げる。
「眼鏡は遠くを見るためだけではありません。それに。」
こほんと咳ばらいが聞こえた。
「近くのものも、いつも見ているつもりですが。」
「えー?全然見てないヨ!昨日だって、セイランと言い争いしてたじゃない!
アレのせいで、ワタシ、帰るのが遅くなったんだからね。」
「それは…。」
「隣の部屋の人のことも分かんないのに、どこ見てるっていうワケ?」
レイチェルにじろりと睨みつけられて、エルンストは小さく溜息をついた。
近すぎても見えない、というのは、どうやら本当らしい。
廊下に出たレイチェルはドアの向こうにウインクをすると、にっこり笑ってみせた。
「まあ、いいか☆ これからだよね!」
あの緑の庭のエルンストの家族にはなれなかったけれど。
エルンストと一緒に新しい家族を作ることはできるのだから。
「そうだ。宮殿の中庭に、生け垣を作るっていうのはどうかな?」
緑のトンネルができる頃には、きっと、新しい家族がそこを通り抜けるはずだ。
美味しいスコーンを焼いて出迎えよう。
そのためには…。
「ロザリア様にお菓子の作り方を習わないと。ワタシは天才だもん!すぐにできるよね。」
楽しい想像を思い浮かべながら、レイチェルはたまりにたまった執務を片づけるため、女王の間へと急いだのだった。
FIN