音楽のような声に、エルンストは顔を上げた。
新宇宙のための女王試験の協力者として、聖地に来たが、ここはとても美しい場所だ。
暮らす人々もみなそれぞれに美しい。これはここへ来る前に予想していた通りの事実だった。
その中でもひときわ美しいのが、補佐官のロザリアだと、エルンストは思っている。
印象的な青紫の髪。 意思の強い凛とした青い瞳。
日頃、人の美醜に拘りのないエルンストでさえ、素直にそう思ってしまう。
「はい。ロザリア様。今のところ、全く異常は見られません。 女王候補たちは育成に力を尽くしているようです。」
「それはよかったこと。」
満足げに笑みを浮かべる横顔に、エルンストは思わず見とれていた。
新宇宙はその存在だけで確かに興味深い。
けれど、ロザリアの興味は単なる補佐官の地位以上のモノがあるとエルンストは感じていた。
「ロザリア様は新宇宙にとても関心をお持ちですね。 失礼でなければ、理由をお聞かせいただけませんか？」
なぜ、こんなことを口走ってしまったのか、自分でもよくわからない。
たまたま、研究院に誰もいなかったことも、ちょうど休憩しようとコーヒーを淹れたばかりだったことも。
きっと突き詰めればさまざまな理由があるのだろうけれど。
「そうですわね…。単純に言えば、星が好きだからかしら？」
「星が好き？」
「ええ。幼いころから、よく星を眺めていましたの。眠れないときは窓を開けて、お星様と話をするのが日課でしたわ。」
貴族の家庭では、両親と一緒に眠るという習慣はない。
一人でさびしい時、自然と星を見上げていたのだ、という、彼女の横顔は、ほんの少し切なげに見えた。
「それに、新宇宙の成長を見ていると、わたくし自身の女王試験のことを思い出しますの。」
ロザリアにとってみれば、負けた、ということになるのだろう、女王試験。
苦い思い出を懐かしむように語る、彼女の口調に、エルンストは首をかしげた。
「ふふ、負けた試験を思い出すなんて、不思議に思われるかもしれませんわね。
でも、あの試験のおかげで、今のわたくしがありますのよ。 負けた悔しさや悲しさよりも、わたくしを成長させてくれた感謝の方が大きいんですの。
補佐官という適職を与えてくれたことにも。」
凛とした青い瞳は、少しの迷いもなく、エルンストを見返している。
その瞳があまりにも美しくて。
エルンストは咄嗟に言葉を返すことができなかった。
残業もいつものこと。
すっかり暗くなった時間、エルンストはコートの襟を立て、研究院の鍵を閉めた。
最後まで残るのは当たり前で、時々泊まりこむことすらある。
何かに夢中になると時間も忘れてしまうことは自分でも良くないと思ってはいるが止められない。
それを考えれば、今日はまだ、早めに帰途についた方だろう。
常春の聖地といえど、夜風はそれなりに冷たい。
自然と足取りが速くなっていると、庭園の傍に人影を見つけ、エルンストは立ち止った。
ぼんやりとした月明かりが、彼女の長い髪を白く輝かせ、まるで彼女の背に白い翼があるかのように見せている。
女王が金の翼なら、補佐官は銀の翼をもつ夜の女神。
普段なら一切持たないはずの幻想的な考えが浮かんだことに、エルンストは苦笑した。
ふとロザリアが振り返り、青い瞳をまたたかせた。
そして、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべる。
「こんばんは。 こんな時間までお仕事でしたたのね。ご苦労様ですわ。」
声がいつも通りの補佐官だったおかげで、エルンストはようやく我に返った。
「いえ、今日は早い方です。 女王試験も落ち付いてきましたので、以前ほどハードワークではなくなりました。」
「あら、ごめんなさい。 ずっと大変でしたのね。」
くすくすと笑われて、エルンストは自分の発言が意図せずに補佐官に対する抗議のように聞こえたことに気付いた。
「失礼しました。 新宇宙は私にとっても大変興味深いので、少しも苦ではありません。」
照れ隠しのように眼鏡をくいっと上げると、ロザリアと視線が重なった。
「聖地は本当に星がきれいに見えますわ。 落ち着かないときはこうして星を見ていますの。子供のころからの癖って恐ろしいものですわね。」
少し前に聞いた、彼女の子供の頃の話。
柔らかく微笑んだロザリアは空を見上げた。
ロザリアの視線につられるように、エルンストも空を見上げる。
確かに美しい星空だったが、主星と比べるとどうだったかと言われても、答えることのできない自分がいた。
ここへ来るまで、空を見上げたことなど、一度もなかったのだから。
「美しいですね。」
それ以外、気の利いた言葉が見つからず、二人で静かに星空を見つめた。
「エルンストは星座にも詳しいのかしら？」
「いいえ。そういった方面は全く不勉強です。」
「では、わたくしにもエルンストに教えられることがあるということですわね。…あの辺りに星が並んでいるのが見えまして？」
ロザリアの細い指先が小さな星を指差している。
エルンストが頷くと、彼女はその星座の名前と、由来を語ってくれた。
生贄としてささげられるはずだった娘が偶然通りかかった男に助けられ、愛し合う話。
今までのエルンストなら、一笑に付してしまうような遠い昔の夢物語だ。
けれど、静かなロザリアの声にエルンストは聞き入っていた。
包み込まれるような星空だけを眺めていると、まるで世界に自分と彼女の二人きりのような気がしてくる。
その不思議な心地よさは、今まで感じたことがなかった。
それからの晴れた日、エルンストは決まった時間に仕事を終えるようになった。
その時刻に庭園を通りかかると、時々星を眺めているロザリアに会うことがある。
もちろん毎日の仕事で、ロザリアに会うことは少なくない。
新宇宙の発展や女王候補たちの様子。二人きりでも、守護聖たちを交えても、話す機会がある。
けれど、庭園で星の話をする時、エルンストは主任研究員である自分を忘れていた。
始めのうちは、何となくだった期待が、次第に明らかな期待に変わっていく。
会えたらいい、が、会いたい、に。
彼女の紡ぐ物語に心惹かれているのだと思っていた。
研究者として、未知の世界に触れることへの喜びが、 このワクワクする気持ちの答えなのだと。
その夜も仕事を終えたエルンストは、星空の庭園にロザリアを見つけた。
いつも通り、空を見上げ、噴水の縁に腰をおろして、彼女の話を聞く。
「もうだいたいのお話はしてしまいましたわね…。」
柔らかく微笑んだロザリアは少し残念そうだ。
エルンストも彼女の言葉にドキリと胸が震えた。
話すことがなくなったのなら、この時間も無くなってしまうかもしれない。
そう思っただけで、なぜか息が苦しくなった。
「でもちょうどよかったのかもしれませんわ。 新宇宙の誕生まで、あとどれくらいかしら?」
エルンストはすぐに答えられなかった。
もちろんデータ上の事実を知っている。知っているけれど、考えないようにしていた。
新宇宙の誕生は女王試験の終わりを意味する。そして女王試験の終わりは、自分が聖地を去るということだ。
ここで過ごした日々の全てが終わるということ。
「そうですね。あと数週間でしょうか。」
「思ったより早そうですわね。あなた方のおかげで、とても順調に進んでいますもの。」
再び彼女が微笑んだ。
その顔がやはり残念そうだと思ったのは、エルンストの願望だろうか。
「ごめんなさい。 もしかしたら、あなたは気づいていたかもしれませんけれど。」
ロザリアの唐突な謝罪に、エルンストは眼鏡の縁をくいっと持ち上げた。
「なんでしょう？」
「聖地と主星では、星の見え方が違いますの。 ここでは見えないものがあちらで見えることも、その逆もありますわ。」
当たり前のことなのに、エルンストは言われて初めてそのことに気がついた。
主星と聖地ではどれくらいの空間を隔てているのか。
とにかく途方もないほど離れているのだから、同じ星が見えるはずもない。
「まったく違うというわけではありませんのよ。 きっと同じ星もあると思いますけれど。」
エルンストの沈黙をロザリアは不機嫌のせいだと思ったらしい。
美しい眉を寄せ、申し訳なさそうに、「ごめんなさい。」 と頭を下げた。
「いえ。ロザリア様が謝られる必要はありません。 ただ、主星とこことでは、それほどにまで離れているのだと考えていたのです。」
星の見え方まで変わってしまうほど、遠く離れた世界。
ロザリアが立ち去った後、エルンストは改めて、星空を見上げた。
女王試験もあと数日で終わるという夜。
エルンストはいつもの時刻に庭園に向かった。
このところあわただしく日が過ぎ、ここを訪れることができなかったのだ。
多分それはロザリアも同じだろう。新宇宙の動きが活発になるにつれて、補佐官の執務も増えていっているのだから。
晴天の星空は、まさに宝石箱をひっくりかえしたような輝きだ。
エルンストはいつもの場所にロザリアの姿を見つけると、足早に近付いた。
「お疲れ様ですわ。」
補佐官らしく労をねぎらう言葉をかけたロザリアは、静かに空を眺めている。
エルンストもその隣に静かに並んだ。
「もうすぐですわね。」
「はい。２、３日のうちに新宇宙の誕生に立ち会うことになると思われます。 楽しみですね。」
宇宙の誕生を目にするという体験は、エルンストの人生において、もう二度とないことに違いない。
研究者としてのエルンストはその瞬間が待ち遠しかった。
どれほどの仮説を立てていたとしても、真実という実証にはほど遠い。
その瞬間になにが起こるか。 確かめることができるのは無上の喜びだ。
けれど、エルンスト自身の心は、素直に喜んでいるとは言い難い気がする。
主星に戻り、元の研究を続けることははじめからの希望だったはずなのに。
「ロザリア様。」
空を見ていた彼女の青い瞳がエルンストに向けられる。
聖地のどんな夜空よりも、その青は美しい。
「あの星を見ていただけますか？」
エルンストが伸ばした指の先を、ロザリアが見つめている。
「以前、教えていただいたあの星座です。その隣にある、ぼんやりとした光が見えますか？」
「ええ。」
ひときわ明るい星の隣にある、小さな星。
この聖地では、数多くある星のひとつにすぎない、小さな星。
「あの星は主星からでも見ることができます。 この聖地でも主星でも肉眼で見える、数少ない星の一つです。」
ここ数日、終わりを迎える試験のために、主星との行き帰りを繰り返したエルンストは、ようやく、その小さな星を見つけた。
主星の星図はすぐに手に入ったが、聖地との比較になるような資料はなかなか見つからない。
それでもエルンストは諦めずに、探し続けた。
もしも遠く離れた二つの場所で、同じ星を見ることができるのなら。
ささやかな願いが通じたのか、ようやく、昨日、その星を見つけることができたのだ。
「試験が終われば、私は主星に戻ります。」
ロザリアの青い瞳がじっとエルンストを見つめている。
「ここへ来る前の生活に戻り、研究を続けることになるでしょう。ですが。」
じっと彼女を見つめ返したエルンストは、穏やかな笑みを浮かべていた。
「この時刻、必ずあの星を見ることにします。 どんな時も。必ず。」
見つめ合ったロザリアの瞳が一瞬潤んだ気がした。
けれど、ふと俯いた後、顔を上げた彼女の瞳は、とても優しい青だった。
「わたくしも、そうしますわ。」
たった一言。
それがこの場所で交わした、彼女との最後の言葉だった。
試験が終わり、主星に戻ったエルンストは、マグカップを手に取ると、インスタントコーヒーの粉をスプーンでバラバラと落とし入れた。
しばらくの間留守にしていたはずなのに、エルンストはすぐに日常を取り戻した。
慣れ親しんだ研究院の空気はやはり肌に合っている。
聖地の華美な照明よりも、無機質なこの蛍光灯の方が、自分にはぴったりだ。
湯気の立つカップをＰＣから離れたサイドテーブルに置くと、エルンストはブラインドを上げた。
窓の外は一面の星空。
文明の発達した主星は、やはり空気が淀んでいるのか、聖地に比べれば見える星が少ない。
それでも。
かすかな光を放つあの星が、エルンストにはどの星よりも鮮やかに見えた。
「珍しいな。お前が星を見ているなんて。」
背後からのからかうような声にエルンストはコーヒーカップを持ち上げた。
「そうですか？」
「ああ。 今までのお前は星なんて興味なかっただろう？ 聖地に行って、気分でも変わったのか？」
エルンストは答えの代わりに、眼鏡の縁をくいっと持ち上げ、コーヒーを口に運んだ。
「ま、確かにちょっと変わったよな。お前。」
「変わっていませんよ。」
「いーや、変わった。なあ、なにがあったか、教えろよ。」
悪友の追及にエルンストは窓の外を見た。
何もなかった。 彼女と自分との間には、何もなかったのだ。
ただ一つの約束以外は。
きっと、この時刻、彼女もあの星を見ているだろう。
時の流れも場所も、何もかも違ってしまったけれど。
それだけは信じることができる気がした。
また出会える時がくるかもしれない。
彼女との間に何かが始まるとしたら、その時だ。
まだ騒いでいる悪友の声を聞きながら、エルンストは小さな星を静かに見上げていた。
FIN
