naiveな恋人

2.

「うわーん!!!」
飛び込んできたなり、ソファに座り、泣きわめくレイチェルを前に、ロザリアは困惑していた。
だが、リモージュとの付き合いで蓄積された経験上、泣いている女の子は泣き止むまで放っておくのが得策だと知っている。
こういう時、慰めても怒っても、結局無駄なのだ。
やがて、声が落ち着いてきたのに気づいたロザリアは、テーブルの上にそっとカップを置いた。
ミルク多めのカフェオレ。
コーヒー派のレイチェルのために淹れてくれたとわかるチョイスに、レイチェルの眉が下がる。
両手でカップを抱えてふうふうと湯気を吹いていると、ようやく気持ちが落ち着いてきて、レイチェルはカップの中身を一口、飲み込んだ。

「いったいどうしたんですの? …なにかあったの?」
レイチェルはカフェオレをこくこくと飲み込むと、勢いよくカップをテーブルに置いた。
冷静に考えたらなんだか沸々と怒りがわいてきたのだ。
逃げ出すなんて自分らしくない。
あそこで一発ひっぱたいて、ぶっ飛ばすくらいのことをしてもよかった。
それよりもPCをぶっ壊してでもやれば、きっと一番のダメージになったはずだ。

「レイチェル?」
いぶかしむようなロザリアの声に、レイチェルは顔を上げた。
「復讐してやる・・・・!!」
「え?」
「ワタシ、復讐してやります!」
「復讐?!」
「ハイ! 復讐です。
 アイツの命よりも大事なPCを壊して、それから、補佐官権限で山のような執務を全部押し付けて、それから…。」

ぎりっと歯噛みしながら、ブツブツ言うレイチェルに、ロザリアは困ってしまった。
どうしよう。
ちらっと背後を見たロザリアに、
「ちょっとまずは話を聞かせてよ。 復讐するっていうんなら私たちも手伝うからさ。」
やっぱりここにいたオリヴィエが上手に話を割ってきた。

「わかりました。 お話します。
 ・・・聞いてもらったら、絶対復讐に賛成してくれると思いますケド!」


「それはそれは…。」
エルンストとの顛末を聴き終わったオリヴィエは小さく肩をすくめた。
目の前のレイチェルは、話し終えた興奮からかわずかに頬を赤くし、鼻息荒くソファにふんぞり返っている。
今頃、聖獣宇宙でエルンストはどうしているだろう。
鈍い補佐官を相手にしなければならないという同じ立場に、オリヴィエはエルンストへの深い同士愛を感じてしまった。
ココはひと肌脱ぐしかない。

「で、あんたはエルンストにキスされたのが嫌だった、ってことでいいの?」
「ハイ! 当たり前じゃないですか!」
「でも、やってみたかったんでしょ? ってことは誰でもよかったんじゃないの?」
「そうですケド! やってみたかったんですケド!」
「じゃ、いいじゃない。 とりあえずエルンストでも。」

あっさりとオリヴィエに言われてレイチェルは言葉に詰まってしまった。
たしかにそうなのだ。
『してみたかった』ことを『やってくれた』のだから逆に感謝してもいいはず。
オリヴィエの瞳はそうも言っているように思える。

「で、でも。」
「でも?」
「恋人じゃないし…。」
「じゃ、恋人だったらいいの? エルンストが恋人だったらキスしてもいいってこと?」
「…。」

絶句、するしかない。
数学も物理も、答えの出る問題は簡単だ。
けれど、オリヴィエから出されている問題は、答えを出そうとすると頭の中がもやもやとして上手く働かなくなる。
エルンストが恋人だったら。
・・・そんなことあるはずがない。
だって、彼はいつだって。
レイチェルのことを子ども扱いで。
どれだけレイチェルが頑張って、いろんな賞や研究成果を報告しても「頑張りましたね。」の一言で。
どんな悪戯をしても「仕方ありませんね。」の一言で。
エルンストとの思い出がレイチェルの頭の中でぐるぐるとまわっている。

「エルンストは、ワタシの、恋人になんてなってくれない。」


「って言ってるけど、あんたはどうなの?」
オリヴィエの視線の先をたどると、そこにはいつの間にかエルンストが立っていた。
「な、なんで?!」
ビックリしたレイチェルの言葉にエルンストは眼鏡の縁をくいっと持ち上げる。
「ロザリア様から連絡をいただいたのです。 ・・・戻りましょう。」
いつも通りの冷静な口調。
それがレイチェルをひどく刺激する。

「はあ? なんでワタシがあなたと戻らなくちゃいけないワケ?
 ってゆーか、もう顔も見たくないんだけど!」

「それは困りましたね。」
全然困っていない顔で言うエルンスト。
ただ気づく人が見れば、別にずれてもいないメガネの縁ばかり触っている。
なぜ長年一緒にいるはずのレイチェルがそれに気づかないのか。
不思議で仕方がない。

「当然でしょ! あんなこと…。」
怒りのあまり握った拳をぶるぶるとふるわせているレイチェルにエルンストは眼鏡の奥の瞳をうっすらと細めた。

「あのままでは貴女は誰かとキスをしてしまうところだったでしょう。
 私としては、非常に困る状況です。」
「なんで困るのヨ!」
噛みつきそうなレイチェル。
オリヴィエとロザリアは顔を見合わせて・・・・それでもこれ以上は口を出さない事に決めた。

「貴女のキスを誰にも渡したくないからです。」
「だからなんで!」
「・・・本当にわからないのですか?」
「はあ? ぜーんぜんワカンナイ!」

今度こそエルンストは、周囲に聞こえるほどの大きなため息をこぼした。
なんてかわいそうに…と、オリヴィエがより親近感を抱いたことなどはもちろん気づいていないだろう。

「ま、いいでしょう。 もう貴女とのこのやりとりには慣れましたから。
 とりあえず戻って下さい。 向こうで貴女の決裁が必要な書類があるんです。」
エルンストはさっきまでのため息が嘘のように平然とした顔で、レイチェルを促した。
けれど、レイチェルがいつまでも動こうとしないのに、軽く眉を寄せると。
「まだなにか?」

「なにかじゃない!
 なんでヨ…。 なんで…。 あんな…。」
優しいキスをしたの?
レイチェルの瞳からぽろっと滴が零れ落ちた。
我慢しきれなくてあふれたみたいに。
「バカバカ! エルンストのバカ! セクハラで意地悪で、サイアクだよ! だいっきらい!」
ビリビリと聖殿中が震えるような勢いでドアを開けて、レイチェルはまた飛び出していった。


「…さすがに今のはあんたが悪い。」
立ち尽くしたままのエルンストの肩に手を置いて、オリヴィエがため息をついた。
「ちゃんと言ってあげなよ。 女の子って、みんな王子様を待ってるもんなんだからさ。
 そりゃ、あんたにしてみれば今更って思うかもしれないけどね。」

エルンストはちらりと動いたオリヴィエの視線を追った。
その先にはロザリアがいて、少し困ったように首をかしげている。
少し離れているから、二人の話はロザリアには聞こえていないのだろう。

「そのような事は私には似合いません。」
「似合うとか似合わないじゃなくて。
 レイチェルは答えを欲しがってるんだよ。
 恋人でもないのにキスするなんて、そのほうがよっぽどあんたに似合ってないと思うけど。」

いつもははっきりとした答えを好むくせに。
レイチェルに対してだけは曖昧なままにしようとした。
証明せずに解を得ようだなんて、きっと自分は甘えていたのだ。
けれど、結局レイチェルが他の誰かとキスをしようとしていると思ったら、いてもたってもいられなくなった。
そして彼女を傷つけてしまった。
「オリヴィエ様。 ・・・私は間違っていたようです。」

きっちりと頭を下げたエルンストにオリヴィエはひらひらと手を振って見せる。
「あんたとはさ、話が合いそうな気がするんだよね。
 ホラ、同じ補佐官でああいう恋人を持ってる者同士ってことで。」
「ええ。そうですね。 私の場合は、まだ恋人ではありませんが。」
「健闘を祈るよ。」
「ありがとうございます。 お騒がせして申し訳ありませんでした。」


男同士の内緒話を黙って見守っていたロザリアは、エルンストが思ったよりも冷静に出ていくのに驚いていた。
女心としては、もっと取り乱して追いかけてきてほしいもの。
けれど、オリヴィエの楽しそうな顔を見れば、きっとよりいい結果になったことは間違いない。

「好きだよ、ロザリア。」
ふとロザリアの唇にキスが降りてくる。
触れ合った部分から、オリヴィエの暖かな気持ちまで伝わってくるような、そんなキス。
「わたくしもですわ。」
オリヴィエの腕に包まれて、幸せだと思いながらも、さっきのレイチェルの様子が気になってしまう。
自分を頼って来てくれたのに、たいしてアドバイスもできずに帰してしまったのだ。
同じ補佐官という立場の人間として、何よりも友人として、もっと彼女の力になってあげるべきなのに。

「大丈夫だよ。」
ロザリアの心を見透かしたように、オリヴィエがウインクをする。
「あの二人はちょっと、う~ん、かなり変わってるけど、お互いを大切に思ってるからね。
 回り道もいい薬になってるんじゃない?」
想い人が鈍いと大変なのだ、とは言わない。
やっと安心したように体を預けてきたロザリアに再びキスを落とし、強く抱きしめようとした瞬間。
ロザリアはするりとオリヴィエの腕から逃げ出して、ニッコリとほほ笑んだ。

「あなたがそういうなら、きっと大丈夫なんですわね。 さあ、執務の続きをしなくては。」
今の今までの甘いムードはどこへやら。
それでもロザリアらしい張り切った様子にオリヴィエは苦笑しながらも、大人しく従うことにした。
きっと、これからエルンストも苦労することになるだろう。
・・・鈍感な補佐官を恋人にするのは本当に大変なことなのだ。



ロザリアの部屋を出たエルンストは、まっすぐ次元回廊へ向かっていった。
けれど、次元回廊には使われた形跡がなく、エルンストがここへ来た時のままになっている。
さて、と頭を巡らせたエルンストは、すぐにある場所へと足を向けた。
レイチェルが女王候補に選ばれ、エルンストもまた協力者としてこの聖地へ来た時。
天才少女としてすでに名高かったレイチェルは女王になるのもまた自分だと当然のように信じていた。
けれど、現陛下と出会い、レイチェルは初めて、自分が敵わないと思う人間がいることを知ったのだろう。
悔しい思いを味わうたびに、ここで泣いていた。

「やっぱりここにいましたか。」
森の湖の奥の奥。
獣道すらないその奥を最初に見つけたのはレイチェルで。
湖の源流かもしれない、と意気込んでエルンストに教えに来てくれたのだ。
もちろんそれは単に湖の支流が湧きだしていただけだったのだが。
むせ返るような緑の匂いやところどころから覗く明るい光。
一瞬、女王試験のころに戻ったような錯覚を起こしてしまった。

「なにヨ…。」
レイチェルはしゃがみ込んで水の湧き出しているところをじっと見つめながら、エルンストの方を振り返ろうとはしない。
「いえ。特になにもありません。
 ・・・貴女を探しに来ただけです。」
「顔も見たくないって言ったでしょ!」
「そうでしたね。 では、このままで。」
しゃがみ込んでいるレイチェルの背中に背中を合わせるように、エルンストもしゃがみ込んだ。
うっとおしい執務服の裾がずるずると草に触れるけれど、別にそんなことは構わない。
レイチェルのベールだって、下に落ちて、草や土がついてしまっている。


「こうしていると、貴女と会ったばかりのころを思い出します。
 本当に貴女は負けず嫌いでしたからね。 
 高校生に負けて泣いてる幼稚園児など他には見たことがありません。」
「だって!」
エルンストはいつだって大人で何をやっても敵わなかったから。
深いため息をこぼすエルンストの気配が背中越しに伝わってきて、落ち着かなくなってきた。

こんなことは珍しくない。
同じベッドで一緒に昼寝をしたことも、お風呂に入ったことだってあるのだから。
それなのに。
レイチェルは勝手に騒ぎ出すわけのわからない鼓動に悩まされ始めていた。
今まで感じたことない緊張感。
エルンストの次の言葉が待ち遠しいのに…なぜか少し怖い。

「まずは謝らなくてはなりませんね。
 突然、あのようなことをしてしまって申し訳ありませんでした。」
レイチェルは答えない。

「私は・・・貴女のことが好きです。
 できれば今後、恋人として交際してほしいと思っています。
 もちろん貴女さえ、よければ、ですが。」

エルンストの背中は緊張のせいなのか、わずかにこわばっていて。
そのことに気が付いたレイチェルは、なぜがかくすくすと笑い始めてしまっていた。
ドレスのスカートのなかで足をばたつかせてみても、どうにも笑いが止まらない。

「ヤダ。エルンスト、すごいオカシイよ!」
「…おかしいとは理解できませんね。」
「理解できないからオカシイって言ってるの!」


ひとしきり笑ったら、なんだかすっきりした。
レイチェルは急に立ちあがると、しゃがんだままのエルンストを見下ろした。
レイチェルがいなくなったせいで、支えを失ったエルンストは身体をふらつかせている。
自分がエルンストを翻弄しているような気がして、楽しい。
やっとわかった気がする。
キスをしてみたいと思いながら、エルンストがあげた誰とも、そんな気にならなかった理由。
嬉しいよりも悲しいと思った理由。
こうして一緒にいるのを楽しいと思ってしまう理由。
それら全部の事象を積み重ねれば、導かれる定理は一つだ。

「仕方ないなあ。
 コイビト、になってあげてもいいヨ。
 ただし。」

つられて立ち上がったエルンストの鼻先に、レイチェルはびしっと人差し指を突きつけた。

「キスをやり直して!」

ふっとエルンストのメガネの奥の瞳が黒く揺らいだ気がした。
危険信号がレイチェルの全身に鳴り響く。
「知りませんよ?」
前言撤回、と言う間もなく押し付けられたエルンストの唇。
悔しいくらいに、からめとられて、体から力が抜けてしまいそうになる。

「これからも貴女の初めては、全部、私がもらいますから。」
抱きかかえられたまま、耳元に囁く声。
レイチェルは頷きかけて…ハッと目を覚ました。

「残念でした! もう他の人にあげちゃった初めてがあるもんネ!」
「えっ?!」
絶句するエルンストにレイチェルは勝ち誇った笑みを浮かべる。
そしてそのまま猛ダッシュで逃げ出した。

「ロザリア様にきいてみるといいヨ!」



後日、ロザリアのところに憔悴しきったエルンストが訪れた。
悩みに悩んだ挙句、どうしても知らずにはいられず、こうして来てしまったのだ。
そしてレイチェルの言った『初めて』が『初めて焼いたケーキ』だったことを知り、思わず天を仰いだエルンストに、
「やっぱり苦労してるみたいだね。」
オリヴィエが訳知り顔で肩を叩く。
「いえ、慣れていますから。」
「そっか…実は私も最近、そう思えるようになってきたよ。」
同時に深いため息を吐き出して、微妙に笑い合った。

そして、そのまま、オリヴィエは『残念な恋人に悩まされる同志の会』として、エルンストを行きつけの店に飲みに連れて行ってくれた。
思いっきり愚痴を言い合ってすっきりしたのは、エルンストだけではなかったのだろう。
ちょくちょく二人が連れ立って飲みに行く姿を見かけるようになったのは、当然と言えば、当然なのかもしれない。


FIN
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