「うわーん!うわーん!!」
ずるずるずるっと鼻水をすする音に、思わず自分のハンカチを差し出して、エルンストはすぐに後悔した。
ピシッと折り目を付けてアイロンのかけられたハンカチに、盛大につけられた鼻水。
予想通りといえば予想通りだが、予想通り過ぎてうんざりする。
それでも目の前で泣き続ける少女を放っておけないのだから仕方がない。
「いい加減に泣き止んだらどうですか。」
ぐしゃぐしゃになったハンカチを彼女から取り上げて、エルンストはため息をついた。
「だって~~。 許せないヨ!」
ようやく顔をあげたレイチェルは、目も鼻も真っ赤。
涙と鼻水が入り混じり、本当に『ひどい顔』をしている。
「わかりますよ。 貴女の悔しい気持ちは。
ですが、教授が決めたことです。 貴女は貴女の仕事をして、認めてもらうしかないでしょう。」
「わかってる! わかってるケド! 悔しいんだよ!」
レイチェルはグッと唇をかみしめると、エルンストをまっすぐに見つめた。
レイチェルが発案した一連の新しい合成方法のプロジェクトが、チームとして教授会に認められたのが、一週間ほど前。
当然、そのプロジェクトのリーダーにはレイチェルが就任するものだと、本人のみならず、エルンストもそう思っていた。
プロジェクト自体がレイチェルのアイデアが全てなのだから、当然のこと。
ところが。
つい先ほど発表されたチームの人事に驚いた。
レイチェルはサブリーダーで、トップにはなんとこれまでレイチェルの指示で動いていた男性研究員が就いたのだ。
年は10も上だが、飛び級で大学院コースにいるレイチェルにとっては、後輩に過ぎない男性。
無能ではないが、天才ではない。
いたって普通のマスターコース1年生だ。
「リーダーは男がイイ、なんて、いったいいつの時代の話ヨ!」
チーム編成にあたって、教授が言った言葉に、レイチェルは傷ついたらしい。
『君は女性だから。』 『まだ若いから。』
エルンストとしては教授の意見もわからないではない。
なんといってもまだ実年齢中学生のレイチェルをリーダーにするのはかなりの冒険になる。
対外的にも、学内の反発を考えても、至極納得のいく人事だ。
それにこういった理不尽は珍しいことでもない。
教授が絶対の権利を握っている現状、全ては彼の思し召し、なのだ。
けれど、レイチェルの気持ちもまた、よくわかる。
お互いの立場が違えば、どちらも正しいし、どうしようもないこと。
「あ~、ホントに女って損だよネ。
ワタシ、次に生まれてくるときは、絶対に男がイイ!!」
顔をぐちゃぐちゃにしながら拳を握ったレイチェルは、本当に凛々しくて。
エルンストも本当に彼女が男だったら良きライバルになれただろうと思ったものだ。
ところが。
何の予定もない土の曜日。
エルンストは自宅でPCと向かい合い、ここ数週間分の下界での論文を眺めていた。
聖地での一週間は下界では数年を意味するから、研究の進歩は目覚ましい。
こうして目を通しておかないと、恐ろしいことに自分の知識など、あっという間に浦島太郎状態になってしまう。
だから、出来る限り、こうした学習時間を持つことにしているのだが。
今日は不意の来客で、その大切な時間を中断する羽目になってしまった。
「ね、エルンスト。 これってどうかな?」
ふわふわとした柔らかい生地のスカートが、レイチェルがくるりと回ると、まるで羽のように軽やかに舞う。
細身の体をぴったりと包むニットや、すらりと伸びた足を強調させるようなタイツ。
まあ、常々レイチェルの私服は見慣れていて、その露出には今更驚かないのだが。
なんといえばいいのか、今日は今までと雰囲気が違う。
正直、今までは露出が高くても、それは小学生男子の半そで半ズボンと同じレベルで、まるで色気とは程遠いものだった。
さっぱりとした機能性重視なイメージ。
けれど、今、目の前でくるりと回って見せるレイチェルは、まるで女の子らしい。
うっすらとメイクまで施しているのだから、驚いてしまう。
「いったい、どうしたんですか?」
「え、どうって…。 ワタシだって女の子なんだもん。
可愛くなりたいって思ったっていいじゃない?
コレットに見立ててもらったんだヨ。 さすが女の子らしいよネ。」
言葉だけ聞けば、浮かれているようにも見えるのに、レイチェルはどこか悩んでいるようだ。
菫色の瞳の奥に時折浮かぶ不安げな影。
それがわかってしまうほどエルンストとレイチェルの付き合いは長い。
幼馴染というカテゴライズが正しいかどうかは別として、エルンストにとって、レイチェルは家族に近い存在だ。
彼女がランドセルを背負うようになる前からずっと、その成長を見てきた。
同じベッドで眠ったこともあれば、一緒にお風呂に入ったこともある。
つい最近まで同じ部屋で着替えていたくらいだ。
もっとも、気が付けば、レイチェルは女王候補になっていて、補佐官になっていて。
エルンストも研究員から守護聖になっていて。
立場は変わっても、二人のスタンスは変わらないはずだったのに、いつの間にか、彼女は先を歩いていたらしい。
男になりたかったはずが、女の子らしくなりたい、と言うのだから。
「悩み事なら聴きますよ。
恋愛ごとはあまり得意ではありませんが、男性としての一般論くらいなら、私でも説明できます。」
「は?」
レイチェルがびっくりした顔でエルンストをまじまじと見つめている。
薄くシャドウの塗られた菫色の瞳はいつもよりも少し潤んでいるし、なぜか頬もほんのり赤く染まっている。
こうしていれば、本当に可愛いのに、と考えて、苦笑した。
「私でもそれくらいはわかりますよ。
今日のファッションがどうか、という事でしたね。
ええ、いいと思います。
とても女性らしくて、貴女の魅力を引き出していると思います。」
「そ、そうかな…?」
「はい。 さすが陛下ですね。
貴女のことをよく理解してるようです。」
レイチェルはスカートの裾を気にするように、軽く摘まんだ。
短さはともかく、その素材の感じがどうも気になるのだろう。
確かに今までのレイチェルには無かった感じだ。
「そっか。 やっぱりこういうほうがウケがイイんだネ。」
「一般的にはそう思います。」
「一般的?! エルンストはどうなの?」
「私、ですか? そうですね。
私は衣服にはそう興味がありませんので、機能的であれば十分です。」
「ソレ、どうかと思うヨ?」
少し脱力したように、レイチェルは肩を落とすと、エルンストをじろりとねめつけた。
「ですが、今日の貴女の服装は嫌いではありません。」
「え、ホント! 結構イイってコト?!」
「ええ。」
なんとなく胸の辺りがモヤモヤするような気がして、エルンストはわずかに眉を顰めた。
喜んでいるレイチェルはいつになく可愛いと思えるし、彼女の恋を全力で応援したいと思う気持ちに嘘はないのに不思議だ。
この気持ちはもしかすると兄の気持ちなのかもしれない。
大切な妹を他の男に渡すとき、複雑な気分になるモノだ、と、以前誰かに聞いた気がする。
心配と祝福と、たぶんそんないろいろが入り混じるせいだろう。
自身の姉をちらりと思いだしたが、彼女が片付いた時、エルンストは心底ほっとしたことだけしか覚えていない。
引き取ってくれた相手には真剣に感謝したものだ。
姉は厄介だが、妹はまた別なのか。
なんとなく釈然としないが、そんなものなのだろうとも思った。
人間の行動様式は二進法では例えられない。
「ところで、誰なんですか?」
「誰って、ナニ?」
レイチェルにしては反応が鈍い。
やはり彼女も恋をすれば、天才少女でもなんでもない、ただの女の子になってしまうのだろう。
「貴女の気になる男性、とでもいいましょうか。
それともすでにお付き合いでもしているのですか?」
エルンストは、知る限りの男性を頭に思い浮かべてみた。
守護聖の中で一番親しそうなのはチャーリーだが、彼には想い人がいる。
セイラン、ティムカ、メル、ヴィクトールとは付き合いは長いが、そんな空気は全くないし、レイチェルとどうにかなりそうには到底思えない。
「フランシス、ですか?」
とりあえず、一番女性にモテそうな彼の名前を出してみた。
まだ付き合いは浅いけれど、一目ぼれしてもおかしくない容姿なのは間違いない。
「え?ナイナイ。」
あっさり否定されて、エルンストは考え込んだ。
レオナードとはおよそ相性が悪いとしか思えないし、ユーイは手のかかる弟だと以前からぼやいていた。
あとは、研究院や聖殿の職員だが、正直、彼らがレイチェルと釣り合うとはとても思えなかった。
「差し支えなければ、伺いたいですね。
そのほうが、私も的確なアドバイスができると思います。」
なぜかまたさっきと同じようなモヤモヤを感じたが、エルンストはそれを無視した。
モヤモヤの原因はすでに考察済みで、今、気にするべきは彼女の答え。
「ホントにわからない?」
「ええ。 もしかすると、神鳥宇宙の方ですか?
女王試験のころ、貴女と親しかったのは確か…。」
誰だっただろう?
全く思い出せなくて、エルンストは首をかしげた。
試験の間、レイチェルはどの守護聖とも同じくらいの親密度だった。
しいて言えば、ルヴァかもしれないが、彼には恋人がいるし、レイチェルが割り込むには分が悪すぎる。
「誰ですか?」
重ねて言ったエルンストに、レイチェルの瞳が急に輝きだした。
彼女がこんな風な顔をするときは、大抵良くないことだ。
ビッグバンを再現すると言って、ペットボトルを爆発させて部屋中をふっ飛ばしたり。
プラズマの研究と言って、庭で火柱をあげたり。
でも、一人では怖くて眠れなくて、エルンストのベッドにもぐりこんできたり。
バラバラな思い出がよぎり、なぜか落ち着かない。
きっと、メイクをした彼女の顔が…とても大人びて見えるからだ。
男だったら良きライバルになれただろう彼女。
では、もしも女の子だったら・・・なにになるのだろう。
「気になる? ワタシが誰を好きかってコト。」
キラキラした菫色の瞳が、ずいっとエルンストに近づいてくる。
「言いたくないなら構いませんよ。
私も一般論でお話させていただきます。」
妙な緊張感に、目を逸らして、エルンストはくいっとメガネの縁をあげた。
「ワタシの好きな人はね。
超鈍感で、女の子の気持ちなんて、全然気づいてくれなくて、いつまでも人を子ども扱いしてくるような人なの。
しかも、性格悪いっていうかクールでなんでも合理主義で、女の子よりもPC大好きで。
年だって全然離れてるし。
でも…すごく優しいとこもあるし、ワタシと話が合うのって、その人くらいだし。
いつもそばにいてくれて、さりげなく助けてくれて…。
気が付いたら、好きになってたんだヨ。 悪い?!」
自分の言葉にエキサイトするのは、彼女の悪い癖だ。
あの時もこうやって、教授や彼の悪口を言いながら、いつの間にかわんわん泣いていた。
でも。
エルンストは自分の左胸にそっと手を当ててみた。
きっと今、彼女の言葉に誰よりもエキサイトしているのは自分自身だろう。
間違いなく、心臓がバクバクと音を立てて、今にも破裂しそうだから。
エルンストは肩で息をしながら、じっと自分を見つめる菫色の瞳を見つめ返した。
普通なら、こんな時、女の子は泣き出しそうな顔をしていたりするものなのだろうが。
レイチェルときたら、獲物を前にした獣のように、今にもとびかかりそうな目をしている。
あの研究で、サブリーダーに任命されたレイチェルは、それこそ馬車馬のように研究に没頭し、目を見張るような成果を上げた。
それはリーダーである彼を差し置いて、数々の賞を総なめにするような成果で。
苦々しい顔で授賞式に出席していた教授にむかって、思いっきり舌を出したことを、エルンストははっきりと覚えている。
どこまでもポジティブで、目が離せなくて。
「ああ、そうでしたね。」
ずっとそばにいてあげなくては、危なっかしくて見ていられない。
そんなふうに思った時、すでにレイチェルにつかまっていたのだろう。
兄だなんて、都合のいい隠れ蓑。
守護聖に選ばれた時、真っ先に浮かんだレイチェルの笑顔の意味が、ようやく腑に落ちた。
エルンストは、メガネの縁をくいっとあげると、すぐ隣のポールハンガーにかけてあった白衣を手に取った。
守護聖になってからは執務服があるおかげで、あまり着ることはなくなったが、白衣は今でも自分の戦闘服だと思っている。
PCを見るだけの研究とは言えないようなことばかりをしていても、これを着ると気持ちが改まるのだ。
いつか守護聖の任を解かれた時、またこの服に袖を通し、研究を続けたい。
それが密かな夢でもある。
「これを着てください。
さっきの意見はあくまで一般論ですので。」
洗濯したばかりの白衣は、糊もパリパリで、まるで新品同様に真っ白だ。
キョトンと白衣を受け取ったレイチェルに、メガネの奥でエルンストは目を細めた。
「私の個人的な意見としては、白衣の似合う女性が最も好ましいのです。
できれば、貴女にもそれを着て頂きたいですね。」
「ええ~~!!! ホントに!?」
レイチェルの叫び声がどういう意味のモノだったのか。
それからたびたび、補佐官服の上に白衣、という、奇妙なファッションを揶揄されるようになったのを見ていれば…。
きっとわかるに違いない。
FIN