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ふと目の前の文字がかすんで見えた。
それでも感覚で「a」を押し、「Enter」でなんとか最後の文字の入力を終える。
そのままディスプレイ上の文書を推敲しようと目で追ったが、文字が二重に見えてきて、エルンストは片手でメガネをはずした。
鼻当ての痕が残る鼻梁を親指と人差し指で抑え、軽く目を閉じる。
連日の作業の疲れが残っているのは、エルンストも自覚している。

次々と起きる不思議な現象。
それに対する解析。
膨大な課題は、本来エルンスト一人の手に負えるようなものではないかもしれない。
けれど、エルンストは全ての課題に目を通しておきたかった。
完全な自己満足だとわかっていても、やめられないのは、エルンスト自身の性格的なものだと、もう諦めている。
もっとも気力はあっても、体力が付いてこないというのが、今の状況であるのもたしかだ。

じっと目を閉じていると、真っ暗な視界のせいか、まるで世界に自分が一人きりになったような感覚に陥ってしまう。
誰もいない研究院は、わずかな空調と電子機器から出る独特の機械音が低く唸っているだけの、静寂の世界だ。
その静寂が今までは気にならなかったし、むしろ心地よいとすら思っていた。
けれど、なぜだろう。
このところ賑やかでいることが増えたからだろうか。
なぜか、少し、寂しいような気がする。

抑える指にグッと力を込めたエルンストは、そのまま大きく息を吐くと、再びメガネをかけた。
まだどこかかすんでいるようにも思うが、さっきよりはかなりマシだ。
背筋を伸ばし、ディスプレイに向き合ったところで、ドアの前で止まる足音を聞いた。


「まあ、エルンスト、やはりあなたでしたのね。」
ドアから顔をのぞかせたのは、女王補佐官のロザリアだ。
こんな時間にここへ来ることなど、考えもしない人の登場に、エルンストは素直に驚いた。
すでに時計は19時近くで、この研究院ですら、エルンストしか残っていない。
もっとも、この時刻自体はそう遅いわけでもないのだが…クリスマスイブという特別な日ゆえに、みな、さっさと帰宅してしまったのだ。
聖地という特殊な場所であっても、クリスマスは変わらない。
『大切な人と過ごす日』。
そんな噂をエルンストも耳にしていた。

「帰ろうとしたら、ここにだけ明かりが点いていたものですから。
 万が一、消し忘れという事もあるかと思って、入ってきてしまったんですの。
 …エルンストはまだお帰りになりませんの?」
優雅な足取りで、ロザリアは部屋に足を踏み入れてきた。
殺風景なリノリウムの床に軽やかなヒールの音が鳴る。
帰り道だった、という言葉通り、ロザリアはすでに私服姿で、いつもはまとめ上げている髪をゆるく背中に流している。
真っ白なコートが彼女の清楚な雰囲気に良く似合っていた。

「このレポートを終わらせたかったのです。
 週が明けたらで構いませんので、ロザリア様も目を通していただけますか?」
「今でもよろしくてよ。 見せて頂けますの?」
ロザリアは興味深そうに、エルンストに近づいてくる。
「聖獣の成長と新宇宙の広がりについての考察です。
 ここ数日の成長速度を関数化できないかと解析してみました。」
「結果はいかがでしたの?」
「単純化するのは難しいのですが、ある程度はできると考えられます。」

エルンストはトラックボールを転がし、ディスプレイを図表に合わせた。
さっきまとめたばかりの個所だから、説明もすらすらと出てくる。
ひとしきり解説すると
「すばらしいですわ。 これがわかれば、あの子たちも力を無駄にしなくてすみますものね。」
ロザリアが頷きながら、ディスプレイの一角を指さした。

エルンストがもっとも力を入れて書いたチャプター。
これからの育成で一番必要だと思われる部分だ。
もちろん、ロザリアもそれを知っていて指さしたのだと思うが。
「ふふ。 エルンストは優しいんですのね。」
そんな風に微笑まれると…このレポートを書いた理由を見透かされているようで、少し困ってしまうのも事実だ。


話を逸らそうと、エルンストはメガネの縁をくいっとあげ、レポートの画面を閉じた。
「ロザリア様は、このあとどちらへ?」
本当に何気ない世間話のつもりだった。
彼女ほどの麗人が今夜、一人でいるはずがない。
ところが、ロザリアはくすっと笑みを浮かべると、いたずらっ子のような口調でこう告げた。

「家に帰りますわ。 そのあとは、シェフが作っておいてくれているはずの冷めたチキンを食べることになるかしら。
 それからは・・・サンタクロースを待つには大人になり過ぎましたし、そのままベッドに入ると思いますわ。
 明日はまたいつも通りの執務がありますもの。」

どうやらロザリアはこのクリスマスイブを一人で過ごすらしい。
あまりにも意外な彼女の言葉にエルンストは上手く答えを返せずにいた。
すると、
「エルンストは何か予定がありますの?」
無邪気な反撃にあい、ますます絶句する。

仕方なく素直に、
「いえ。 私もこの後は部屋に戻ります。」
そう言えば、
「まあ・・・。 では、わたくし達、予定がないもの同士ですのね。」
ロザリアはにっこりとほほ笑んだ。


「本当は今日は陛下と一緒にクリスマスディナーに行く予定でしたの。
 それなのに、陛下ったら、『急に彼が一緒に過ごそうとかって言いだしたの~』ですって。
 ドタキャンですわ。
 だいたい、あの方も誘うのが遅いんですのよ。
 今日の今日の午後になってから、
 『実はディナーを予約していたんです~。 まだ間に合いますかねぇ?』
 なんて言って、ひょっこり女王の間に来て。
 アンジェが断るわけないじゃありませんこと?
 全くあの二人にも困ったものですわ。 いつも振り回されるのは、わたくしなんですもの。」

普段のロザリアからは考えられないほどのマシンガントーク。
最後に『陛下』から『アンジェ』に呼称が変わっているところから考えても、かなり素のままに近いのだろう。
いつもの補佐官然とした才色兼備の彼女の印象とは少し違っていて、エルンストも緊張がほぐれる気がした。

「本当にロザリア様と陛下は仲がよろしいのですね。」
「ええ。…でも、女王試験で初めて出会ったころは、それはもう大変でしたわ。」
「大変?」
エルンストはくいっとメガネの縁をあげた。
初めて聴く、女王候補時代の話。
好奇心がわかないと言えば嘘になる。

「同じスモルニイの生徒でも、わたくしたちは全く接点がなかったんですの。
 ですから試験で初めて顔を合わせたようなものでしたわ。
 陛下は初めから、あの通りの天真爛漫で誰からも愛される可愛らしい子でしたけれど、わたくしは…。」
ロザリアはわずかに睫毛を伏せると、懐かしむような笑みを浮かべた。

「とてもイヤな子でしたの。
 生意気で自分勝手で、周囲の人間を見下していて。
 でも、そんなわたくしにも陛下は友達として接して下さいましたわ。
 本当に…アンジェと出会えて、わたくしは変われましたのよ。」

ゆったりとほほ笑むロザリアはとても綺麗だ。
彼女がまだほんの17歳で、今の女王候補たちと変わらない年齢とは、とても思えない。
陛下にしてもそうだが、やはり宇宙を担うという重責は、少女をオトナにするのかもしれない。
ふと、エルンストの脳裏に、屈託なく笑い声をあげる少女の姿が浮かんだ。
まだ幼いころから、思ったことを言い、考えたとおりに行動する少女。
もしも彼女も女王になれば、こんな風にオトナになってしまうのだろうか。
少し…寂しい。

「だからわたくしは、出来る限り陛下のお力になりたいんですの。
 ドタキャンくらい、諦めますわ。」
そう言って、ロザリアはまた笑う。
ふとした疑問がエルンストの口をついた。


「ロザリア様にはお誘いになりたい方はいらっしゃらないのですか?」

瞬間、ぎょっとロザリアの青い瞳が見開く。
すぐにエルンストは自分の言葉を後悔したが、それももう遅い。
普段なら、こんなことを言うような自分ではないのに。
これもまたクリスマスという日の魔法かと、エルンストの背中にすうっとありもしない汗が流れた。

「そうですわね・・・。
 誘ってほしい方がいない、とは言いませんわ。
 でも、その方からは今年も声をかけてもらえませんでしたの。
 普段のお茶やランチには誘ってもらえても、こんな特別な日には…仕方ありませんわよね。
 きっと、あの方にとっては、わたくしはただの同僚なんですもの。」
ロザリアの表情は、補佐官の時とも、今までともまた違っている。
恋している、のだろう。

「ご自分から誘ってみることはされないのですか?」
彼女のような女性から誘われて、嬉しくない男はいないはずだ。
実際、エルンストであっても悪い気はしない。

「ふふ。 つまらないプライドかもしれませんけれど…。
 やはり、女は誘ってほしいものなのですわ。」


ふと、エルンストの脳裏に3日前の午後のことが思い浮かんだ。
研究院にふらりとやって来た彼女。
「ねえ、3日後って、ヒマ?」
そんな風に問いかけてきた彼女に、エルンストは
「ヒマという時間は私にはありません。 
 このレポートも仕上げたいですし、調査したい現象も無数にあります。」
と、いたって当然のように答えたのだ。
「ふーん。 そっか。」
つまらなそうにくるりと踵をかえした彼女に、何を言いたかったのかと思ったけれど。


物思いに沈んだエルンストに、ロザリアは優しく微笑んだ。
「エルンストはとても優秀な方ですけれど…。
 一人の女性として言わせていただくならば、そのレポートをいただくよりも、今夜、誘っていただいたほうが嬉しいと思いますわ。」

やはりロザリアには見透かされていたのだ。
このレポートが誰のためのモノか。
少しでも彼女の育成の役に立てば。 少しでも、彼女が楽になれば。
新宇宙のため以上に、彼女のためだった。
けれど。

「そう、かもしれませんね…。」
エルンストはスクリーンセーバーの動いているPCのディスプレイに目を向けた。
『12/24』
365分の1の当たり前の一日にすぎないのに。
聖殿にも研究院にも誰もいない、特別な日。
大切な人と過ごす夜。


突然、扉が開いたかと思うと、ひょい、と誰かが顔をのぞかせた。
「あ~、こんなとこにいたの?
 まさか二人でデート、とか?!」
明るい声で部屋の中に飛び込んできたのは、夢の守護聖オリヴィエだ。
かんかんと威勢のいいヒールの音と、しゃらしゃらというアクセサリーの重なる音。
一見すればシンプルにも見えるのに、ヒラヒラした布が幾重にも重なるスーツは、クリスマスイブという日にふさわしい派手な装いだ。
もっとも普段の執務服に比べれば、普通、なのかもしれないが。

「お、オリヴィエ? あ、あなたこそ、なぜ、こんなところに?」
ロザリアが間髪を入れず、問いかける。
その慌てたような口調に、エルンストは思わずメガネの縁を上げ、ロザリアをまじまじと見てしまった。
そしてすぐに理解する。
彼女の待ち人が、他の誰でもない、彼なのだと。

「さっき、ぼっちのクリスマスじゃかわいそうだと思って、ルヴァんところに行ったら、いないじゃない?
 で、アイツんちの執事を吊し上げたら、ヒミツなんだけど彼女とディナーだって、めかしこんで出かけたとか言うからさ。
 このままじゃ、私だけが一人になっちゃう、って慌てて外に出てきたわけ。
 そしたら、ここに明かりがついてたんだよね。」

肩をすくめたオリヴィエは、何気なく話しているように見えるが。
エルンストは、オリヴィエの額に前髪が張り付いていることや、わずかに息が上がっていることに気が付いた。
きっと、彼女を探して、聖地中を歩いたのだろう。
陛下がルヴァと出かけたのなら、ロザリアは一人だという事に気づいて。
どうやらここはエルンストがお邪魔虫だ。

「ね、ホントンとこ、あんたたち、この後、どっかに行く約束とかしてるわけ?」
オリヴィエの口調は軽いけれど、その瞳はかなり冷たい。
ロザリアは全くそれに気が付いていないようだが、エルンストの方は伊達に30年近く生きてはいない。
彼の不機嫌の理由も、その解消法も心得たモノ。

何か言いかけたロザリアを遮るように
「いえ。 どうしても私がこのレポートをロザリア様に見て頂きたくて、引き止めてしまったのです。
 申し訳ありません。
 もう終わりましたので、私も帰らせていただこうと思っていたところでした。」
さっとPCの電源を落としていく。
「ロザリア様、お付き合いいただき、ありがとうございました。」
エルンストがきちんと角度を持った礼をすれば、ロザリアは怪訝な顔をしながらも同じように礼を返してくる。
それを合図のように、オリヴィエがロザリアに声をかけた。


「ね、あんた、ご飯まだでしょ?
 私もまだなんだけど、一緒にどう?
 いつも陛下に先を越されちゃって、私だって困ってたんだからさ。」
オリヴィエのダークブルーの瞳が柔らかく細められて、ロザリアを見つめている。
いつも皮肉屋のオリヴィエのそんな瞳を見たのは初めてで、エルンストまでなぜかドキドキしてしまった。

「え、あの…。」
驚いて目を丸くしたロザリアの頬がほんのりと朱に染まる。
キラキラとオリヴィエを見つめる青い瞳とはにかんだ笑顔。
年頃の少女らしい可憐な美しさだ。

「わ、わたくしでよろしいんですの…?」
ためらうようにつぶやいた声にオリヴィエはパチンと大きくウインクを投げると、ロザリアの背に手を当てた。

「あんたと行きたいんだよ。 …今日は特に、ね。
 私の行きつけの店でイイ?
 こんな日に予約なしで入れる店だから、あんたにはちょっとアレかもしれないけど。
 料理もお酒もちょっとしたモンなんだよ。」
「オリヴィエがそう言うなら、きっととても美味しいのでしょうね。」
「さあ? ついてからのお楽しみ。」

オリヴィエはさりげなくロザリアをエスコートしながら、あっという間に彼女を部屋の外へと連れ出していく。
そして、ドアの向こうにちょうどロザリアの姿が隠れたところで、ふいにオリヴィエが振り向いた。
なぜか、にっと意地悪そうな笑みを浮かべるオリヴィエに、エルンストが首をかしげていると。

「あ、そういえばさ。
 ここへ来る時に女王候補寮を通ったんだけど、あそこも明かりがついてたよ。
 たしかコレットは誰かさんとお出かけって言ってたから、レイチェルが部屋にいるのかねぇ。
 せっかくのイブなのにさ。」

ロザリアに話しかけるには、大きすぎる声。
案の定、ロザリアがたしなめている声が聞こえてきて、エルンストは苦い笑いを浮かべた。
エルンストの援護射撃に対するオリヴィエからのアシストなのだろう。
普段なら余計なお世話だと思うかもしれないが、今日は素直に笑えてしまう。


廊下を歩いていく二つのヒールの音が遠ざかり、やがて消えていくと、研究院はまた静寂に包まれた。
エルンストは大きく息を一つ吐くと、鞄の中から端末を取り出した。
聖地に来てからめったに使う事のない端末。
エルンストの番号は昔から同じ。…そして、彼女も。

呼び出し音が鳴る。
1回ごとに落胆して、切ろうかと考えて。
7回目のベルで彼女の声がした。

「あ、エルンストです。
 今から、食事でもいかがですか?
 食事が済んでいるのでしたら、飲み物だけでも構いません。
 ・・・・。
 いえ、どうしても、今夜、貴女と過ごしたいのです。
 よろしいでしょうか?」


FIN
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