二律背反

ぶうん、と低いモーター音が響き、乾いた風が吹き付けてくる。
このデスクの位置は、ちょうどエアコンの送風口の延長線上にあり、温風が直接吹き付けてくるのだ。
面倒がって先延ばしにしていたが、まだ女王試験は先が見えないことだし、そろそろ本格的に模様替えをした方がいいかもしれない。
手を伸ばして、リモコンを手にしたエルンストは、ボタンを操作して、風向きを少しでも変えようと試みた。
けれど、それは徒労に終わり、風は相変わらずエルンストの髪をわさわさと揺らす。
さてどうしようか、と考えていたところで、聞き慣れた靴音が耳に入ってきた。
規則正しいリズムなのに、どこか柔らかで優雅なヒールの響き。
カツ、と控えめな余韻を残して、部屋の自動ドアが開くと、そこには予想通りの人が立っていた。

「今、お時間はよろしいかしら。」
顔をのぞかせたのは、女王補佐官のロザリアだ。
彼女にはあまり似合わないA4サイズのバッグを肩にかけ、エルンストの返事を待っている。
「どうぞ。 ちょうどキリのいいところです。」
メガネのズレを直しながら、エルンストはPCの電源を落とした。
本当はもう少しやっておきたいことがなくもなかったが、それを告げれば、きっとロザリアは帰ってしまう。
二人きりになれる貴重な時間を手放す気くらいなら、休日出勤の方がはるかにましに思えた。

「今日はどの問題ですか?」
エルンストが手近な椅子を引き寄せると、ロザリアはそこに腰を下ろし、肩にかけていた鞄を床に置いた。
重そうにドサリを音を立てる鞄の中身はかなり重そうだ。
ロザリアが鞄の中から取り出したのは分厚い本。
ずいぶん使い込まれた本にはいくつかの付箋がつけられていて、その中の1ページを開いてエルンストの前に置いた。

「ここなんですの。」
エルンストが内容を確認している間に、ロザリアは今度はノートを取り出した。
パラパラとめくったノートもやはりかなり使い込まれ、びっしりと細かな文字で埋められている。
「なるほど。 たしかに嫌な問題ですね。」
ひとしきりの沈黙の後、エルンストはペンを手に取った。
そして、広げられたノートの余白にすらすらと数式を書き込んでいく。

「…この公式を使うのは正解です。 ただ、これにこのまま数値を当てはめても、それは解にはなりません。
 まずは、こちらを導いてから、この公式に当てはめなければならないのです。
 ようするに二回、同じ公式を使うという事ですね。」
決して難しくはないが、少し頭をひねらなければ、進めないようにできている問題。
エルンストは解説をしながら、ロザリアの顔を盗み見た。
彼女はあっとわずかに目を見開き、その後、真剣な顔で小さく頷く。
どうやら理解してもらえたようだ、と、エルンストはペンを置いた。

「よくわかりましたわ。 エルンストの解説は本当に分かりやすくて…。 ありがとうございます。」
はにかむような微笑み。
それは女王の隣でいつも浮かべている、無機質な笑みとは違う。
暖かな人間らしい微笑みだった。

「いえ。 ロザリア様の能力だと思います。
 いつも一度の解説でご理解いただけますから。」
「いいえ、やっぱりエルンストの教え方が上手なんですわ。
 最近は苦手だった数学も理解できるようになりましたもの。
 ルヴァに聞いたこともあったんですけれど、あの方の専門は語学や社会でしょう?
 説明も…ふふ。」
エルンストは視線を外し、メガネの縁をくいっと持ち上げた。
褒められることには慣れていない。 …ましてや、彼女のような人には。
それからもいくつかの質問をやり取りし、やっと付箋がすべて外された。

「お時間を取らせてしまってごめんなさい。」
ロザリアは広がっていたテキストやノートを元通り鞄にしまっていく。
二人きりの勉強時間も、今日はこれで終わりだ。
名残惜しい、と思いながら、エルンストは黙って彼女の片づけを見守っていた。
『お茶でもいかがですか?』
毎回言いかけて飲み込む一言は、やはり今日も言えず。
「なぜ、ロザリア様はこんな勉強を続けられるのですか? 補佐官に必要とは思えませんが。」
代わりに口から飛び出したのは、そんな言葉だった。

ロザリアの青い瞳が丸くなり、エルンストをじっと見つめている。
人生最大の居心地の悪さに、エルンストが固まっていると、ロザリアはふわっとほほ笑んだ。
悪戯が見つかった子供のような、けれど、それは悪い意味ではなく、楽し気で。
「差し出たことを…」
慌てて謝罪をしかけたエルンストに、ロザリアは
「いいえ。 不思議ですわよね。」
高校生レベルの数学や物理化学。
たしかにロザリアが下界で暮らしていれば、高校生なのだから、これらを学ぶのは当然だ。
けれど、この聖地では・・・無用に違いない。

「誰にも話したことがないのですけれど。 …エルンストにならいいかしら。」
やはり楽しげに笑う。
その一言にエルンストが内心どれほど動揺しているかも知らずに。

「実はわたくし、補佐官を退いたら、医療関係に進みたいと考えていますの。
 女王の御代がどれくらいの長さになるかは、わからないでしょう?
 先代女王はまだ20代で退任されましたし。
 もしも、まだ、チャンスが残る年齢で下界に降りることになったら、その時は、大学に進みたいんですの。」
来るべき時に備えて、常に勉強しておきたい。
夢を語るロザリアの顔はキラキラした輝きを伴っている。

「誰にも言わないでくださいませね。」
けれど、語ったことが恥ずかしかったのか、ロザリアはすぐに顔を赤くして立ち上がった。
「今日はありがとう。 また…来てもよろしいかしら?」
「もちろんです。 私がお教え出来ることでしたら、喜んで。」
彼女の顔を直視しなくてもいいように、手の甲全体でメガネのブリッジをもちあげる。
こうすれば、あまり顔を見られなくても済むことを、エルンストはよく知っていた。
「では、ごきげんよう。」
会釈をするロザリアに、エルンストも立ち上がり礼をする。
カツ、と聞き慣れたヒールの音を残して、ロザリアは部屋を後にした。

人が減ったせいなのか、再びエアコンのモーターが大きく音を響かせる。
エルンストはロザリアの去ったドアをしばらく見つめた後、PCの電源を押した。
開いたサイトは専門書ばかりを扱う書店。
医療関係の資料も豊富にそろっていて、初心者でもわかりやすい内容も多い。
その中のいくつかを吟味し、さらにいくつかの参考書をエルンストはカートに入れた。



それからしばらく、ロザリアはエルンストの元を訪ねてこなかった。
師走に入り単に執務が忙しいだけかもしれないし、わからない箇所が解消されているのならば、彼女の学力が向上しているという事で喜ばしい。
ふと、エルンストは足元に置かれたままのダンボールに目をやった。
以前注文した本だが、次に彼女が来た時に渡そうと思って、そのままになっているのだ。
参考書はともかく、専門書は渡しておきたい。
年末年始は女王試験中とはいえ、聖殿も数日は休日扱いになるらしい。
勤勉な彼女のことだから、休み中でも読書や勉強の時間を取るだろう。
きっとこの本たちならば、その役に立つに違いない。

日の曜日にでも、届けてみようか。
エルンストは思い付いた考えに一度は首を振った。
休みの日のプライベートにまで踏み込むのは失礼に当たるだろうし、突然の訪問を彼女は喜ばないかもしれない。
『…エルンストにならいいかしら。』
こんな言葉を真に受けてしまうほど、初心でもないはずだ。
けれど、結局、エルンストは本をダンボールから手提げにと移し替え、持ち帰る準備をしていた。
どうでもいい口実なのはわかっている。
ただロザリアに会いたいだけだということも。



日の曜日、本を詰めた手提げ袋を下げ、エルンストはロザリアの私邸へと向かっていた。
冷たい風が吹いてはいるが、日差しもあり、散歩程度ならコートとマフラー程度の防寒で済む。
本を渡すだけ、と何度も自分に言い聞かせながら、足を進めていくと、森の湖のすぐ横で思いがけない人物に出くわした。

「エルンスト?」
先に声を上げたのは、彼女の方。
正反対の方向から歩いてきたのは、ロザリアだ。
休日らしく、ロザリアは私服で長い髪を下ろしていた。
真っ白なコートに青紫の長い髪が映え、ひざ丈のスカートの裾からは補佐官のドレスでは見えないすらりとした長い脚が覗いている。
ハッとするほど瑞々しい清楚な美しさ。
エルンストに気が付いた彼女は、笑いながら、小走りで駆けて来た。

「こんなところでどうなさったんですの?」
にっこり微笑まれて、エルンストの鼓動が跳ねる。
彼女が美しいことは十分知っていたし、その笑顔に胸が高鳴るのはいつものことなのだが。
服装や髪型が違うだけで、こんなにも…。
エルンストはぎゅっと手提げの取っ手を握りしめると、メガネのずれを直した。

「散歩です。 このところ研究院に詰めていて、運動不足になっているので。」
「そうなんですのね。 …そう言われれば、わたくしもかもしれませんわ。
 このところ運動らしい運動をしていませんもの。」
考えるように小首をかしげ、ロザリアはほほ笑む。
執務ばかりの毎日では、それも致し方ないだろう。
同意の意味を込めて頷いて見せると、ロザリアの手にした袋が目に付いた。
赤い小さな紙袋に可愛いリボンが付いていて、一見してプレゼントだとわかる。

「ロザリア様はどちらへ?」
なにげなく聞くと、ロザリアはハッとしたように目を丸くして、頬をわずかに赤らめた。
困ったような微笑みを浮かべ、どう答えようか逡巡しているようだ。
けれどエルンストの視線が赤い袋にある事で誤魔化せないと悟ったのか、
「プレゼントを届けようと思って…。」

誰にか、を曖昧に濁すのが彼女らしくないとは思ったが、エルンストはそれ以上追及しなかった。
クリスマスも近い。
エルンストですら、家族や友人にプレゼントを贈る予定があるのだ。
ロザリアにもそうした人物がいるのは当然だろう。
それよりも、ロザリアが出かけるなら、この荷物をここで渡されても困るに違いない。
かといって、留守宅の郵便受けに入れられるような大きさでもない。
少し考えてから、また後日手渡せばいいか、と、思い直し、そのままロザリアと立ち話を続けた。


すると、ロザリアの背後から、またエルンストのよく知る人物達が歩いてきたのが見えた。
オスカーとコレットの二人連れが、楽しそうに笑いながら、こちらに向かってくるのだ。
やがて、エルンストと目が合ったオスカーは
「よう。こんなところでどうした?」
軽く手を上げながら、さらに近づいてきた。

「デート中か?」
オスカーはエルンストからロザリアに視線を移し、ニヤリと笑った。
シニカルともいえる彼の態度はいつも通りなのに、ロザリアは補佐官然とした笑みを浮かべるだけで、なにも答えない。
むしろ彼女の周りに、固い殻のようなものが張り巡らされているかのようだ。
聖殿でごく普通のやり取りをしている二人を知っているだけに、エルンストは首をかしげた。

「もしかして、お前たちも森の湖へ行くのか?
 だとしたら、俺たちは遠慮しなくちゃいけないな。
 恋人たちの湖でブッキングは無粋だろう。」
オスカーが言うと、
「そうでうすよね。 二人きりの方がいいですもん。」
うっとりとオスカーを見上げるコレットが、可愛らしく応える。
どうやらオスカーとコレットは森の湖に行くつもりだったらしい。
日の曜日は守護聖と親睦を深めるデートをする日なのだ。
コレットがオスカーに夢中なのは見ていればわかるし、二人が一緒でも何の不思議もない。

「いいえ。 私とロザリア様はたまたまで…。」
言いかけたエルンストに隣から大きな声がかぶさる。
「ええ。わたくしとエルンストは湖に行く途中でしたの。
 これから二人でお話をするつもりですわ。」
なぜか事実とは違うことを言うロザリアに、訂正しようと即座に思ったエルンストだったが、彼女の震える指先を見て気が変わった。
きっとこう言わなければならない理由が。
彼女にあると思ったから。

「…そうか。 それは邪魔をしたな。
 では、あとから来た方が出ていくとするか。」
「はい! じゃあ、私の部屋でお茶でもどうですか?」
コレットの同意を得ると、オスカーはくるりと体の向きを変え、元来た道へと歩き出した。
ロザリアは彼らの背中を見つめたまま、じっと動かない。
顔はあのいつもの笑みを浮かべているのに、ぎゅっと紙袋の紐を握りしめた指先は凍ったように白くなっていた。


「参りましょうか。」
彼らに背を向け、早足で湖へと歩きだしたロザリアを、エルンストは追いかけた。
土を踏みしめる彼女の靴音は、いつもよりも荒々しく、それがエルンストの胸に重く響く。
滝が見えるところまで一気に進むと、やっとロザリアは足を止め、エルンストに振り向いた。

「ごめんなさい。 ご予定があったのに、わたくしに付き合わせるような形になってしまって。」
哀し気に眉を下げて、無理に笑おうとしている。
オスカーとコレットの前で見せていた完璧な笑みとは違う。
いつもの輝くような笑みとも違う。
きっとこれが、彼女の今の素直な表情なのだ。
なにか気の利いたセリフの一つでも出てくればいいのに、結局、黙っていることしかできない自分をエルンストは歯がゆく思った。

「お詫びにもなりませんけれど、よかったら、これを食べていただけませんこと?」
ロザリアが手にしていた赤い紙袋のリボンを解くと、綺麗にラッピングされた小袋が出てくる。
その小袋のトップを絞るように結ばれていたリボンも外し、ロザリアが取り出したのは手のひらほどのサイズの大き目のクッキーだった。
「エルンストはチョコとプレーンとどちらがお好きかしら?」
片方ずつに2色のクッキーを持ち、エルンストに見せる。
エルンストがプレーンを指さすと、ロザリアは少し笑って、それを手渡した。

「どうぞ。 召し上がって。」
「…ありがとうございます。」
食べていいのか、との、わずかな躊躇を引っ込めたのは、ロザリアがにっこりと笑ったからだ。
これ以上、断る理由もない。

「美味しいですね。 もっと固いかと思いましたが、歯に触れると、さくっとほどけるようです。」
嘘偽りなく、贔屓もなく、そのクッキーは美味しかった。
食感も甘さの加減もちょうどいい。
甘いものを食べ慣れていないエルンストにも甘すぎず、全部食べ切れそうだ。
迷わず二口目をかじると、ロザリアが嬉しそうに笑う。

「実はかなり苦心しましたの。
 何度も試食品を作りましたのよ。 このところ、ずっとこのクッキーにかかりきりでしたわ。
 勉強もサボってしまって…。
 エルンストに質問に行く時間も削っていましたの。」
「そうだったのですか。 これだけのものを作るとあれば、仕方ないかもしれませんね。」
彼女の生真面目さはよく知っている。
だからこそ、これほど美味しいクッキーを作るまでになれたのだろう。

「…ええ。 頑張ったんですの…。 とっても…。」
不意にロザリアの声が詰まり、肩が震える。
ばさり、と音を立てて落ちた紙袋を拾ったエルンストが顔を上げると、彼女の瞳からこぼれた雫が、地面に吸い込まれていく。
「あら、いやですわ。 わたくしったら、どうしたのかしら。」
慌てて、ロザリアは目尻をぬぐう。
けれど、ぬぐい切れない涙は、やっぱりまた地面に落ちて。
エルンストは胸ポケットに入れていたハンカチを彼女の手に握らせた。
やっぱり何も言えない自分に、怒りを感じながら。

ほんの数分。
ハンカチを目に当てていたと思ったロザリアが顔を上げた時、もう、その瞳は凛とした佇まいを取り戻していた。
「ごめんなさい。
 ハンカチは洗濯してからお返ししますわ。」
何事もなかったように、優しく微笑むロザリアに、エルンストも「はい。」と、頷いて返した。

「また勉強を頑張りますわ。」
「わからないところがあれば、いつでも尋ねてください。」
「そう言っていただけると、心強いですわね。
 わたくしは良い先生に恵まれて幸せですわ。」
楽しそうにエルンストとの会話をするロザリアの笑顔は、まるでさっきまでの涙など、何もなかったように美しい。
本当に美しくて…。
エルンストは切り刻まれるような胸の痛みを感じていた。

彼女の笑顔が好きだから
いつも笑っていてほしいのに
彼女を泣かせる男になりたいと思う私を…どうか許してください



FIN
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