満点の星空の下、エルンストは研究院からの家路を急いでいた。
少し気になるところがあり、夢中で調べていたら、あっという間に時間が過ぎていたのだ。
金の曜日の夜という気安さもあって、きりのいいところまで終わらせたころには、研究院には自分一人。
結局、最後のカギ閉めまでを行うことになってしまっていた。
すきっ腹を抱えてはいたものの、ここ聖地にはコンビニもなく、食堂もない。
部屋でカップラーメンでもすするしかないと覚悟していた。
聖地は空気が澄んでいて、月明りがまぶしいほどにあたりを照らしている。
風の音すら息をひそめたような静寂の中、一つの影が、どんどんエルンストの方へ近づいてきた。
立派な体躯と月明りに輝く緋色の髪。
遠くからでもわかる、整った容貌。
見間違いようもない特徴的な姿は、炎の守護聖オスカーだ。
オスカーもエルンストに気がついたようで、
「よお」
軽く手を挙げて、声をかけてきた。
執務服ではない、ラフなスタイルのオスカーは、もともとの素材のよさで、男の目から見ても見惚れるほどカッコいい。
普通の男なら浮いてしまいそうな派手なシャツや、細身のパンツ。
さりげなく光る胸元のゴールドのアクセサリーやピカピカの革靴まで、品よくまとまっていて、さすがと言うしかなかった。
「今、帰りか?」
「はい」
「こんな時間まで残業とは、優秀な研究員は違うな」
ともすると嫌味になりそうなセリフだが、オスカーの声音にそういう響きは感じない。
エルンストは眼鏡のブリッジを人差し指であげると、
「おかげで夕食を食べ損ねました。今日はインスタントラーメンになりそうです」
業務時間外という気持ちもあって、冗談めかして軽く肩をすくめて見せた。
すると、オスカーはちょっと驚いたように目を丸くして、エルンストの頭からつま先を品定めするように眺めた。
当然だが、エルンストは通勤着のスーツ姿だ。
常春の聖地だから、ジャケットこそ着ていないが、ネクタイまでしっかり絞めている。
「ちょっと堅苦しいが、ビジネススタイルで通るな。よし、今夜は、俺が晩飯をおごってやる。行くぞ」
「え?どこへですか?」
「ついてくればわかるさ」
オスカーは鷹揚に顎先で前を示している。
彼の様子から、行く先はきっと下界だろう。
時々、数名の守護聖が聖地を抜け出して、よからぬ遊びに興じているという噂は、エルンストも耳にしていた。
もっとも、この聖地の清浄さは、ある意味、健康な男子にはつらいものもある。
「どうした?まさかインスタントの方がいい、なんてことはないよな?」
オスカーの氷青の瞳がエルンストをとらえる。
聖地に招聘されてから今まで、エルンストとオスカーにはほぼ接点はなかった。
華やかな彼と自分は住む世界が違うと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
けれど。
「行きます。ですが、できれば、食事は野菜多めのものでお願いしたいですね」
好奇心は猫をも殺す、というが。
もともと知りたがりのエルンストにとって、未知の世界の扉の誘惑は、抗いがたいものがある。
先を行くオスカーの背中を追いかけて、エルンストも帰り道とは別の方へ歩き出したのだった。
「誰にも言うなよ」
人気のない森の小道の奥の崖っぷちが、時空の裂け目、いわゆる聖地から下界への抜け道だった。
葉の隙間をくぐると、ぐらりと足元が反転するような気配がして、あっという間に、肺に吸い込んだ空気まで、どこか懐かしいものに一変する。
あたりを見れば、そこは主星でも有名な歓楽街。
ギラギラしたネオンの隙間の路地裏にある錆びた扉が、聖地と繋がっているなど、誰が想像するだろう。
「こっちだ」
オスカーに先導され、少し歩くと、にぎやかな表通りに出た。
すでにアルコールの回った人々が、大声を出しながら、ふらふらと歩き回り、けばけばしい蝶たちが、ひらひらとその周りを舞っている。
映像としてしか見たことのない世界に、エルンストは顔をしかめていた。
ディスプレイでは感じられない、独特な夜の街のすえた匂い。
猥雑な雰囲気はエルンストには相容れないもののように思えた。
「このあたりは少しうるさいな」
苦々しい表情のエルンストに、オスカーはけろっと笑ってみせる。
道行く女性たちが、彼を見て色めき立っているのも、まるで気にならないようだ。
どこでも人目を惹く彼には、その程度のことは慣れっこなのかもしれない。
けれど、連れというだけで同じように見られることに、慣れていないエルンストは少々居心地が悪い。
もっとも、本当に見られているのはオスカーだけではなく、対照的なクールフェイスのエルンストもなのだが、もちろん、エルンストがそれに気が付くはずはなかった。
「すぐそこに食事もできるバーがある」
ギラギラしたネオン街を抜けると、落ち着いた雰囲気の通りに出た。
街灯がぽつぽつと灯り、店名だけをさりげなく記した目立たない看板で、そこが店なのだとわかる程度。
さっきまでのように、大勢のグループは少なく、2,3人で連れだって、目当ての店に向かっているようだ。
大きな黒塗りのハイヤーもゆっくりとそばを通っていく。
オスカーがその中の一つの重そうな木の扉を開けると、心地よいリズムの音楽が耳に流れ込んできた。
外の喧騒とはまるで無縁の漂うような空気は、無駄のない照明のせいだろうか。
海の底のような淡いブルーのライトと、モノトーンのインテリアは、クールさと同時に知性を感じる。
中にはそれなりに人がいてざわめいているのに、どこか幻想的な別世界のようだ。
真正面に長いカウンターと、それ以外にいくつかのテーブルがあるが、天井は高く、フロアは広々としている。
あえて、テーブルを詰め込まないことで、酒をゆったりと楽しめるようにしているのだろう。
「マスター、まずはこいつに食い物を…野菜多めで頼む」
カウンターの向こうにいるマスターに慣れた口調でオーダーをして、エルンストに視線を向ける。
いちいちの仕草が決まっていて、離れた場所でグラスを傾けていた数名の女子が途端に色めき立った。
「常連のようですね」
「まあな」
オスカーはマスターから差し出されたビールを一気に半分ほど飲み干した。
女の子たちにもしっかり微笑んで軽く手を振ることも忘れない。
エルンストが多少呆れて見ていると、目の前に料理が並びだした。
アツアツのオリーブオイルから漂う、うまみの強いニンニクの香り。
ごろごろと大ぶりのブロッコリーや芽キャベツ、ペコロスや新じゃがに尾の付いたままのエビ。
厚切りのバケットが添えられた熱々のアヒージョは、ボリューム満点だ。
もう一つはトマトのショートパスタ。
セミドライトマトを噛むと、じゅわっと酸味があふれてくる。
おつまみにもぴったりな濃い目の味が絶妙で、普段、食にこだわりがほとんどないエルンストでもフォークが止まらない。
いつの間にか、オスカーと同じビールも提供されていて、アルコールまで口にしてしまっていた。
「とても美味しかったです」
オイルソースの最後の一滴までバケットで拭い、エルンストはマスターに頷いた。
空腹だったことを除いても、酒のつまみには惜しいほどの料理だったのだ。
ついついビールも進み、かるく2杯目も飲み干してしまっていた。
ほんのり頬が熱くなっている。
エルンストが食べ終わったのを見計らって、オスカーが近づいてきた。
「一ゲーム、どうだ?」
オスカーが親指で指した方には、ビリヤード台がある。
奥の暗がりでよく見えなかったが、かなり立派なインテリア調のテーブルで、並べられているキューも芸術品のような細工のものばかりだ。
オーナーの趣味なのかもしれない。
「彼女たちはいいんですか?」
エルンストが食べている間、オスカーはバーテーブルで二人連れの女の子たちと話をしていたのだ。
楽しそうな笑い声が、ここまで聞こえてきていた。
「ああ、十分楽しいひと時だったさ。…それとも、お前、どっちかがタイプなのか?」
にやりと笑うオスカーに、エルンストは大げさに首を振った。
「まさか。オスカー様のお噂は耳にしていますので、気を使ったまでです」
しれっとあてこすってみたのに、
「昔の話さ。今の俺の心は一人の女性に捧げているからな」
軽い口調で言うオスカーの瞳が、思いのほか真剣で、エルンストは驚いた。
「…素敵なことですね」
「そうだろう?お前はどうなんだ?恋人はいるのか?」
問い返されて、エルンストは返事に詰まる。
恋愛ごとに関して、誰かに話すという経験が今までなかったのだ。
つい、眼鏡のブリッジに触れてしまうと、
「そうですね。今は研究が忙しいので」
「フリーなのか?好みのタイプとかはないのか?」
きっとオスカーはこういう話が好きなのだろう。
恋多きプレイボーイは他人のコイバナにも敏感なのだ。
「タイプなどで女性を考えたことはありませんね。人間を分類するという点で、私にはデータが少なすぎます」
「言ってる意味がよくわからんが、見た目の好みはあるだろう?どうだ、聖地で一番美人と思うのは誰だ?」
ぐいぐいくるオスカーに多少引き気味になりつつも、少し考えてみる。
「美しさ、という項目ですか」
「ああ。外見のみ、だ」
「…それでは、ロザリア様でしょうか。造形が整っていて、左右の対称性もあります」
ぶほっとオスカーが口に含んだビールを吐き出しかけて、
「ロザリア?!お前、彼女がタイプなのか?」
「いえ、純粋な美しさという観点で、との質問だったと記憶していますが」
「…そうだな」
なぜかオスカーは微妙に渋い表情で、ビールを呷っている。
そして、
「たしかレイチェルとは幼馴染なんだよな?彼女とはどうなんだ」
急におかしなことを言い出した。
「どう、とはどういう意味ですか?たしかにレイチェルのことは彼女が幼稚園のころから知っていますが、それだけです」
「近すぎて逆に、というやつか。レイチェルも苦労するな」
「え?」
「いや、なんでもない」
ははは、と楽し気に笑うオスカーは、すっかり機嫌がよくなったようだった。
「で、どうする?」
再び、オスカーがビリヤード台を指した。
かなりやる気の様子に、断る理由が見当たらない。
「…ナインボール程度ならお相手できますよ」
「決まりだな」
かすかな酔いも手伝って、エルンストはケースに並べられたキューの中から、手ごろなものを手に取った。
ツヤのある良質な木と象牙のような質感は、ひとめで高級品とわかる代物だ。
本来なら、こんなふうに無造作にゲームに使う物ではないに違いない。
オスカーはすでにボールをラシャの上に並べ、ラックを組んでいる。
通っている様子から見ても、そばにあるキューがお気に入りなのだろう。
彼に似合う、大きめのしっかりした造作だ。
「オスカー様からどうぞ」
先を譲ったつもりはないが、オスカーはにやりと笑うと
「いいのか?」
手玉をあっさりと突き、ブレイクした。
強烈なショットに、ころころと転がった一つがポケットインし、オスカーのプレイが続く。
エルンストはその間、ボールの行方を一つ一つ確認しつつ、頭を回転させていた。
「おっと」
ようやくオスカーがポケットを外した時、すでに台の上のボールは9を除いて、あと2つまでに減っていた。
「ミスったな」
オスカーが肩をすくめて、サイドテーブルのビールグラスに手を伸ばす。
ミスというよりは運が悪かった、といえる配置だが、たしかにエルンストにとっても難しいショットだ。
エルンストはネクタイを緩め、先端をポケットに差し込んだ。
そして、指でブリッジを作ると、数回、キューを滑らせて、感触を確かめてみる。
悪くない。
そのまま手玉を突くと、かつん、と小気味のいい音を立てて、ラシャの上をまっすぐ転がっていく。
二つのボールは勢いよくぶつかり合うと、手玉はその場にとどまり、ボールだけが反対側のポケットに吸い込まれた。
完璧なドローショット。
「お見事」
エルンストのプレーに、オスカーがビールのグラスを掲げて称える。
続けて狙うボールは距離こそ近いが、サイドのポケットには角度があり、一筋縄ではいかなそうだ。
けれど、エルンストは、難なく手玉を当て、斜め上のボールを沈めた。
あとは9番のみ。
テーブルのほぼど真ん中にある9番は普通に突いてもインすることはないだろう。
いったん、キューを下したエルンストはじっとラシャの表面を見つめた。
慎重なショットでは、ラシャ面の流れも重要なファクターになる。
ふっと肩の力を抜き、鋭く突いた手玉は、反対側のクッションにあたり、少し流れてボールを跳ね返した。
かつんと響いた音とともに、サイドポケットに落ちる9番ボール。
思わず、笑みがこぼれたエルンストに、オスカーが手をたたく。
「やるじゃないか。ここまでの腕前とは思わなかったぜ」
オスカーの手放しの賞賛に、エルンストは照れくさそうに顔を緩める。
「ビリヤードは物理学と数学のゲームですから。私のような運動音痴でもある程度は可能です」
学生時代、理系仲間の遊戯と言えば、ビリヤードが多かった。
皆、スポーツとは無縁な人間ばかりで、体力もない。
キューの扱い方さえ覚えれば、ボールの当たる角度や力の計算で、理論的な勝負ができるビリヤードは、恰好のゲームだったのだ。
「なるほどな。オリヴィエもなかなかの腕だが、お前ほど綺麗にポケットインしないな」
「恐縮です」
ポケットの隅に当ててインするのも技としてあるが、エルンストは昔から、ストレートにインする角度を計算するのが好きだった。
ごとり、とボールが落ちるまで、なるべく音がしない。
自分の計算の正確さが実感できる瞬間の爽快感がたまらないのだ。
「もちろん7ラックだよな?」
グラスを飲み干したオスカーが、早くもトライアングルを手にしている。
「そのつもりですよ」
眼鏡のブリッジを人差し指で持ち上げて、エルンストは好戦的に微笑んで見せたのだった。
「今日はさんざんだったぜ」
オスカーは、やけ酒と言わんばかりにグラスをあおる。
いつの間にか、中身はビールからスピリッツに変わっていたが、オスカーに酔った様子はなく、純粋に負けたことが、かなり悔しいようだ。
「今日は私に運があったようです」
正直、実力にそれほど差があったとも思えない。
今夜の女神がたまたま、エルンストに味方しただけで、だからこそゲームは面白いのだ。
重い扉をあけて、外に出ると、すでに空が白み始めていた。
支払いはゲームに負けたオスカーが持つということでまとまり、エルンストは緩めていたネクタイを締めなおした。
ぶらっと歩き出した先は、もちろん、時空の裂け目だ。
夜の間は眠っていたカラスたちの騒ぐ羽音が響き、街の澱が目につきだす。
闇に紛れて見えなかった汚れが、朝日のもとにさらけ出されてくるのだ。
今からがこの街の眠りの時間なのだろう。
一転して、たどり着いた聖地は、清浄な空気と神々しい朝の光に包まれていて、エルンストは、あまりの違いに目を瞬かせた。
「目に染みるな」
エルンストの横で、オスカーも目を細めている。
徹夜明けだというのに、オスカーには、まったく疲れが見えない。
体力の違いを痛感したエルンストは、眠気を払うように頭を振り
「久しぶりにはしゃぎすぎました。今日は一日、寝て過ごすことになりそうです」
ため息交じりにつぶやいた。
「ははは、たまには頭も休めた方がいいんじゃないか。もし体も鍛えたいなら、いつでも相談に乗るぜ」
オスカーは快活に笑うと、
「またな」
ゆったりとした足取りで、後ろ向きに手を振りながら、私邸の方へと歩いて行く。
朝もやの中、小さくなっていくオスカーの背中に、エルンストは小さな礼をした。
『またな』と、オスカーが言ってくれたことが嬉しい。
この年になれば、それが、二度とない約束かもしれないことも十分わかっている。
けれど、エルンストは、初めて、自分が聖地の仲間の一人だと、感じられたような気がしていた。
アラサーになってからの徹夜に、体は悲鳴を上げている。
とりあえずシャワーだけを浴びて、ベッドに倒れこむと、エルンストの意識はあっという間に夢の世界へ落ちた。
心地よい疲れで、泥のように眠る。
夢を見たような気もするが、全く記憶がなかった。
数時間後、
『あんた、オスカーに勝ったんだって?ぜひ、私とも手合わせしてほしいね』
そう言って、オリヴィエにたたき起こされることになるとは…
まだ知らないエルンストなのだった。
FIN