新宇宙はこれまでの騒動が嘘のように平和そのもので、穏やかな日常が訪れていた。
けれど、その分、雑務が増え、守護聖達も毎日が忙しい。
今日も朝から執務室にこもり、書類を片付けていたティムカは、控えめなノックの音に顔を上げた。
「はい。どうぞ。」
涼やかな声で来訪者へ入室の許可を与えたのに、ドアはなかなか開かない。
空耳だったのか、と、ティムカが視線を書類へ戻しかけた時、ようやくゆっくりとドアが開き、人影が滑り込んできた。
人目を忍ぶことが多いせいか、大柄なのに、どこかしなやかで、猫のような動き。
身体を少し折り曲げたのは、会釈…なのだろうか。
「よう。 …今、時間はあるか?」
尊大なのか遠慮しているのか、よくわからない口調で、アリオスはティムカを見つめている。
おそらくこれは彼なりに気を使っているのだろう。
そうでなければ、わざわざティムカの都合を聞くような彼ではない。
「忙しいんなら、出直すぜ。」
一瞬、返事の遅れたティムカは、背を向けようとするアリオスを、慌てて呼び止めた。
「いえ。 大丈夫です。 私に何か御用ですか?」
いつも通りの笑みを浮かべ、アリオスに問いかけると、彼は少し気まり悪そうに、目を伏せた。
ティムカの知る男性の中で、わかりやすい美形と言えばオスカーだが、このアリオスはまた別の意味で、とても魅力的だと思う。
少し臥せった長い睫毛や、オッドアイの瞳。
整った容貌のなかにふと落ちる影。
なんとなく放っておけない気になるのは、ティムカだけではなく女性たちも同じなのだろう。
とにかくアリオスはモテる男だ。
少しの沈黙の後、やっと彼が口を開く。
「あのよ…。 おかしなことを聞くかもしれねえけど。
お前、あいつの欲しそうなもんとか、聞いたことないか?」
照れているのか、もぐもぐと口の中でつぶやくような口調を、ティムカは表情を変えることなく聞いていた。
彼がここを訪れた時から、なんとなくその用件は察していた。
ティムカと彼の接点は…彼女くらいしかないのだから。
「陛下、ですか?」
「あ? ああ、そうだ。」
怪訝そうな彼の様子がティムカの胸に棘を刺した。
彼の中で、彼女は『女王陛下』ではなく、一人の『アンジェリーク』なのだ。
立場を越えた関係を見せつけられたようで、苦しくなる。
「そうですね…。」
ティムカが考えるそぶりをすると、アリオスは軽く腕を組み、ドアに背中をつけ、せかすでもなく、ただ待っている。
正直、彼と二人きりになることなど、ほとんどないせいもあって、意味もなく緊張してしまっているらしい。
つい最近、彼女と話したことさえも、すんなりと出てこない。
いっそ、「知らない」と答えてしまおうか。
心の中で思いながら、ティムカは自分がそう答えられないこともわかっていた。
彼のためじゃなく。 彼女のためだから。
彼女の喜ぶ顔が見たいのは、彼だけじゃない。
「あのね、ティムカ。 よかったら、一緒にバレンタインのチョコを買いに行ってくれないかしら?」
あれはバレンタインの一週間前。
突然、執務室に現れたアンジェリークが両手を合わせてお願いしてきた。
「なぜ、私なんですか?」
嫌とかそういう気持ち以前に、なぜ、という疑問が勝って、ティムカはそう聞き返していた。
チョコレートはキライじゃないし、アンジェリークとお菓子の話をすることもある。
けれど、今回ばかりはレイチェルや他の女友達と行く方が、自然な気がしたからだ。
すると、アンジェリークは、ふうとティムカに聞こえるようなため息をついて、困ったように笑った。
「レイチェルはデートだし、あちらの陛下とロザリア様は、もう手作りの準備をしているらしいの。
だから、もう一緒に行ってくれないみたいで。
それに…。 やっぱり、男性の目線で選んだ方が、彼も喜ぶんじゃないかと思うの。
私が選ぶと、甘すぎるかもしれないし…。
お願い!」
まるで拝むように頭を下げられて、ティムカは観念した。
そもそも彼女のお願いを断れるはずもないのだが、今回のお願いは…心の底から遠慮したかった。
彼女が別の男のためにチョコを選ぶのを、見ているなんて、自虐的過ぎる。
それでも、
「わかりました。 私でよければ、お手伝いさせてください。」
ティムカがほほ笑むと、アンジェリークはとても嬉しそうに笑ってくれた。
女王になってから、いや、彼と付き合うようになってから、急に大人びいたアンジェリークだけれど、こんな笑顔は昔のままで。
とても嬉しいのに、同じくらいの痛みも感じてしまう。
数年前。 女王試験が行われていたころ。
ティムカとアンジェリークは、よく二人で話をしていた。
どちらかといえば、大人しくて、聖地に馴染みにくかった二人が集まった、という雰囲気ではあったけれど、仲が良かったことは間違いない。
不安なこと、寂しいこと。
それをさらけ出しても大丈夫な関係は、お互いに居心地がよくて。
友達、というよりも、仲間のような関係だった。
けれど、それからだんだん恋へと気持ちが変わっていったティムカに対して、彼女は全く変わらなかった。
ティムカの容姿が大きく変わっても、彼女の中のティムカは初めて会ったころのまま。
年下の気の合う友達で、そこに甘い空気は微塵もなかった。
そして、彼女が恋をしたのは、ティムカとは全く違うタイプの男。
特別に会話なんてなくても。
ただ一緒にいたい。
はにかみながらアリオスへの恋心を語るアンジェリークに、ティムカは助言や励ましをかけ続けた。
彼女にとっての自分の存在意義は、何でも話せて、気楽に付き合えること。
それだけだと知っていたから。
次の週末、ティムカとアンジェリークは聖獣宇宙で一番文化の進んだ星にお忍びで出かけた。
この宇宙が生まれた時から、バレンタインという行事は当たり前のようにあって、いまや祝日扱いになっている星もある。
ここもそんな星の一つで、その高い文化水準から、チョコレートのレベルも神鳥宇宙に負けないほどになっている。
バレンタイン前最後の週末、大きなデパートの催事場はどこを見てもチョコレートだらけ。
オマケに女性だらけだ。
あちこちに吊るされた賑やかなPOPや女性特有の喧騒に完全に圧倒されながらも、ティムカはアンジェリークを見失わないように、その後ろをついていった。
アンジェリークはのんびりしたところがあるから、うっかりしていると人波に流されてしまうのだ。
そのせいで、何度か同じところばかりをグルグルと廻る羽目になってしまった。
「あれ? こっちなんだけどな。」
フロアガイドを眺めながらアンジェリークは首をかしげている。
このままではチョコレート売り場につく前に力尽きてしまいそうだ。
ティムカはアンジェリークの視線や足の動きを見て、人波を避けながら彼女を誘導していった。
アリオスのための買い物だけれど。
この時の彼女のナイトはティムカであって、それはとても・・・・素敵な時間であることには違いない。
「ね、これはどうかな?」
ある棚の中のそれほど大きくないチョコレートを手に取って、アンジェリークが尋ねてきた。
箱は高価そうにも見えるが、チョコレートのブランドには詳しくないティムカには、そのチョコレートが他のものとどう違うのか、いまひとつわからない。
アリオスはモテる。
そして、クールな外見とは裏腹に、意外にも女性に優しい。
去年のバレンタインも断り切れなかったチョコレートを両腕にいっぱい抱えて、聖殿の中庭の隅でため息をついていたのを覚えている。
その手の中にあったチョコレートと。 今、アンジェリークが手にしているチョコレートと。
どこがどう違って、なにが変わるのか。
その疑問のまま、ティムカは
「なぜ、このチョコレートを?」
そう聞いてしまっていた。
「うーん。 なんで、って言われるとちょっと困るかも。」
ティムカの質問に、少し遅れて首を傾げたアンジェリークは、本当に困ったように眉を寄せた。
手の中のチョコレートをちらりと見ては、何度も「うーん。」と考え込んでいる。
その間にもどんどん人波は押し寄せてきて、アンジェリークと同じチョコレートを手に取って、かごに入れる女性もいる。
特別じゃない。
普通のチョコレート。
「…ティムカは笑ったり、呆れたりするかもしれないけど…。」
アンジェリークはチョコレートを手にしたまま、ためらうような口ぶりで話し始めた。
目を合わせようとしないのは、言いにくいことなのかもしれない。
ティムカはあえて、そのまま聞くことにした。
「あのね、アリオスって、いっぱいチョコレートをもらうでしょ?」
ティムカは頷いてみせる。
「去年もすごくたくさんもらってて。 あ、ソレは別にイヤじゃないのよ?
断ってほしい、とか思わないし。
受け取ってもらえないのって、辛いでしょ。
…アリオスの優しさだとも思うし。」
そこで、アンジェリークは小さく息を吐いた。
「私、去年、すごく張り切って、手づくりのチョコレートを渡したの。
バレンタインっぽく、特別なチョコにしたくて、ロザリア様に教えてもらって、ハートの形にして。
アリオスがもらったチョコの中で、私のが一番大きくて、目立ってたわ。
アリオスも『お前のチョコでかすぎ』って笑ってくれて。」
よく目にする二人の光景。
恥ずかしそうなアンジェリークとあまり自分の気持ちを表に出さないアリオスの照れた顔。
お似合いすぎて、何も言えなくなる。
きっとその時も、そんな感じだったのだろう。
「でもね…アリオスが食べてくれた後、なんだか悲しくなっちゃったの。
大きくて、目立ってたから、私のチョコに気が付いたんじゃないかな、って。
もしも、私のチョコがたくさんの中の一つだったら、、わからないんじゃないのかな、って。
だから…。」
話ながら、どんどんアンジェリークは俯いて、最後の方は声が小さくなって聞き取れないほどになっていた。
「私、嫌な子みたい。
たくさんの中でも私だけに気づいてほしいって、思ってるの。」
突然、アンジェリークの後ろに立っていた女の子が振り返り、肩がぶつかった。
「きゃ!」
意識が別のことに向いていたせいで、一瞬の反応が遅れたアンジェリークがよろめく。
足を大きく踏み出して、倒れかけたところを、ティムカは彼女の腕を引いて、何とか踏みとどまった。
「ごめんなさい。」
謝る女の子から離れて、ティムカはアンジェリークを庇いながら、人ごみから連れ出した。
フロアの片隅の休憩スペースは、あの場所の人混みが嘘のように、落ち着いている。
「大丈夫ですか?」
ティムカが尋ねると、アンジェリークは安心させるように微笑んで頷いた。
「私こそごめんなさい。
あんなにたくさんの人のいるところで、ぼんやりしてたらいけないわよね。
聖地でのんびりしすぎて、こういう感覚、忘れかけてるみたい。」
人ごみを眺める目はどこか遠くを見ているようで。
あの場にいる女の子と違う立場であることを実感しているようにも見えて。
ティムカはアンジェリークの手を握ろうと自分の手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。
数年前なら無邪気に許されたことも。
今はきっと自分の方が後で辛くなるだけだ。
「あ、このチョコ、持ってきちゃった。」
手にしたままのチョコレートを見て、アンジェリークが笑う。
「そう言えば、どうして、このチョコにしたのかって、一つ思い当たったの。」
「なんですか?」
「ね、ここのリボン。
アリオスの目と同じ、緑と金のストライプなのよ。」
アンジェリークが指差した先を見ると、確かにその箱にはストライプのリボンが結ばれていて。
銀色の箱もなんとなく、彼を連想させる。
「やっぱり私、このチョコに決めるわ。
お会計してくるから待っててね!」
長蛇の列のレジを指さして、アンジェリークが駆けていく。
本当なら付いていくべきなのかもしれないけれど、ここからでも、十分に彼女の姿は確認できるから、あえて付いていくのは止めた。
並んでいるのが女性ばかりというのもあるけれど。
やっぱり少し…胸が苦しい。
「きっと彼なら、貴女のチョコレートに気が付きますよ。」
列に並んでいるアンジェリークの赤くなった頬。
ソワソワした様子は、その前後に並んでいる女の子たちと何一つ変わらない。
この宇宙の女王で、ただの女の子。
彼女は自分のことをイヤな子だと言っていたけれど、ティムカはそうは思わなかった。
むしろ、アンジェリークがどれほどアリオスを好きなのか、思い知らされたような気さえしている。
特別な人の特別な存在でいたい。
そして、それを常に確かめたい。 実感したい。
そんなことは誰かを好きになれば、当たり前のことだ。
今日こうして、アリオスのためにチョコレートを買うアンジェリークについてきたティムカも。
彼女の中で特別な異性の友人という地位を失くしたくないと思っているのだから。
チョコレートなんて、全部同じ味だ。
けれど、全く同じチョコレートなんて、この世界に一つも存在しない。
もしも彼女がティムカにチョコレートをくれたなら。
それが世界一甘くて幸せな、ただ一つのチョコレートになるのだろう。
清算を済ませたアンジェリークが笑顔でこちらに向かってくる。
チョコレート売り場を去る時、
「ずっとチョコレートの匂いを嗅いでいたせいか、食べていないのに、チョコレートを食べたような気になってしまいましたよ。」
ティムカの冗談にアンジェリークは天使のような笑顔で笑ってくれた。
カチカチと時計の音だけが響く中、ようやくティムカは顔をあげると、アリオスを見つめた。
「そういえば、お気に入りのペンを失くしてしまった、と言っていましたよ。」
「ペン?」
アリオスが怪訝そうに眉を寄せる。
「ええ。 スモルニイのころから使っていた、お気に入りのペンだったそうなんですが。
インクを変えようとペン立てから出しておいたら、無くなってしまったそうなんです。
使い慣れたものが無くなって困ると言っていました。」
「ペン、か…。」
真剣に悩む横顔が微笑ましい。
「そんなもんで、いいのか?
女って、もっと、高価なアクセサリーだったり、キラキラしたもんを喜ぶもんじゃないのか?」
「それはそうかもしれませんが…。
陛下はあまりそういったものに興味がないですし。
毎日使うものの方が喜ばれると思います。」
「そんなもんか。 ま、あいつならそうかもしれねえな。」
アリオスは一瞬考え込んだ様子を見せたが、すぐに納得したようだ。
「邪魔して悪かったな。」
足音を立てずに踵を返すと、すぐにドアに手をかけた。
「あ、アリオス。」
その背中をティムカは呼び止めた。
「あの、一つ伺ってもよろしいですか?」
アリオスの目が諾と言うように瞬く。
「アンジェリークのチョコレートは…どうでしたか?」
不思議な質問だっただろう。
けれど、アリオスはふと唇の端を上げ、
「どう、って・・・別に。 普通のチョコレートだったぜ。
大きさも味も普通だった。」
柔らかな銀の髪をかき上げ、目を細めた彼は、とても幸せそうにそう答えた。
「そうですか。」
当たり前の普通のチョコレートをちゃんとアリオスは食べたのだ。
抱えきれないほどのチョコレートの中でも、きちんと彼女のモノだと気が付いて。
ティムカが我に返った時、もうアリオスの姿はそこになかった。
彼らしいと言えば彼らしい去り方に、ティムカは苦笑する。
でも、あのアリオスがここまで来てくれたのだ。
アンジェリークと共にいることで彼も少しずつ心を開いているのかもしれない。
聖獣宇宙の守護聖として、それはとても喜ばしいことだ。
ティムカは執務机の引き出しを開け、小さな箱を取り出した。
バレンタインの当日、アンジェリークがティムカにくれたチョコレート。
それはアリオスに選んだものとは違うメーカーのもので、綺麗なスカイブルーの箱をしている。
「ティムカ、甘いもの好きでしょ?」
「はい。 大好きです。 ありがとうございます。」
天使みたいな笑顔のアンジェリークが差し出してくれた箱を受け取って、ティムカは封を開けずに、この引き出しの中にしまい込んでいた。
他の守護聖達にプレゼントしていたチョコレートとは違う。
これはきっとティムカのために選んでくれたものなのだ。
そう思ったら、すぐには食べられなかった。
賞味期限が気になって、箱を裏に返すと、そこにかかれた日付まで、本当にあと少しで。
けれど、その日付がこの聖地でも有効なのかと少し考えてしまう。
ティムカはため息のような笑みをこぼすと、箱のリボンを解いた。
スカイブルーの箱に合わせた、海とイルカのような綺麗なブルーのリボン。
中のチョコレートを摘まんで口に入れてみると、それはやっぱり。
ごくごく当たり前の普通のチョコレートだった。
甘いのに苦くて。
新しいチョコレートを口の中に入れるたびに、アンジェリークの顔が次々に浮かんでくる。
優しい笑顔も。 凹んだ顔も。 怒った顔も。 真面目な顔も。
どれもやっぱり全部好きで。
でも、きっと彼女の一番素敵な顔はアリオスしか知らないのだろう。
いつか当たり前のチョコレートでも、それだけを特別だと思える時が来るかもしれない。
いつか。 今、心にいる彼女ではない誰か。
もしもそんな誰かに出会えたら、きっと、この苦さも溶けてくれるはずだ。
ティムカはこみ上げてくるしょっぱいものと一緒に、喉の奥へと最後の一つを飲み込んだ。
FIN