今日も飛空都市は晴天で、柔らかな風が窓辺の木々を揺らしているのが見える。
執務室で書類を眺めていたオリヴィエは、なんとなく外の空気が吸いたくなって、中庭へと向かった。
そもそもデスクワークは好きになれないし、理由をつけてサボりたいのもいつも通り。
思った通り、中庭は足を踏み入れた途端に心地よい風が頬に触れてくる。
いい気分になって、東屋で昼寝でもしようと近づいたオリヴィエはそこに先客がいるのに気づいた。
青紫の長い髪。
女王候補の一人、ロザリアだ。
試験が始まってしばらく経つというものの、実のところオリヴィエはどちらともそう親しくしてはいなかった。
こちらから声をかけるほど興味もなかったし、むこうからも特にリアクションがない。
それに、金の髪のアンジェリークは年少組と遊んでいるところを見かけたが、ロザリアは勉強ばかりしているともっぱらの噂だ。
実際どこかで見かけるようなこともなかった。
しいていえば、図書館か研究院くらいで。
だからこそ、彼女がそんなところにいるのが不思議で、オリヴィエはつい声をかけずにいた。
ロザリアは大きくて分厚い本を胸に抱え、ブツブツとなにかをつぶやいている。
呪いでもかけているのではないかと思うほど、その表情は真剣そのもの。
やがて、息を整えるように2,3回深呼吸を繰り返したロザリアは、本を抱えたまま、すたすたと歩き出した。
なんとなくオリヴィエもついて行ってしまうと、向かった先は図書館。
ロザリアは再び深呼吸をすると、自動ドアの中へ吸い込まれていった。
「ご、ごきげんよう。」
不自然なほど大きな声で、挨拶をするロザリアをカウンターの青年が出迎えた。
眼鏡姿の穏やかな青年。平凡な顔立ちだが、知的な雰囲気がする。
年のころは大学生くらいだろうから、オリヴィエと大して変わらないはずだ。
向こうのほうがはるかに、落ち着いて見えはするけれど。
飛空都市は試験のために作られた特殊な場所だが、意外に多くの人々が働いている。
聖地とは違い、ここでは時間の流れも下界と同じなのだ。
身元のしっかりした人物に限られてはいたが、将来、聖地の職員を希望する若者の研修も行われているらしい。
おそらく彼もそんな人物の一人なのだろう。
「こんにちは。もうその本を読んだんですか。すごいですね。」
にっこりと笑う青年に、ロザリアの顔が瞬時に真っ赤に染まった。
「わ、わたくしは完璧な女王候補ですもの。これくらい当然ですわっ!」
腰に手をあてて、高笑いするロザリアの声が図書館中に響いている。
いつもより声が3オクターブは高いだろう。
にこにことしている青年と2,3言葉を交わしたロザリアは彼から新しい本を受取ると、異様にギクシャクした動きで図書館を出た。
忍び足でオリヴィエも彼女の後を追いかける。
背後で自動ドアが閉まると、ロザリアは一気に駈け出した。
向かうのはさっきの東屋。
そこまで着いたロザリアはぴたりと足を止め、大きく息を吐き出した。
「今日もお話しできたわ。」
真っ赤な顔をしたまま、ぐっと拳を握りしめている。
笑い出したいのを我慢して、覗いていたオリヴィエは、いきなり顔を上げたロザリアとばっちり目が合ってしまった。
逃げ出すわけにもいかず、気まずい空気の中、オリヴィエは彼女の前に姿を現した。
「見ていたんですの?」
プライドの高い彼女のことだ。殴られることも覚悟していた。
けれど、ロザリアは真っ赤な顔をしたまま、本を抱えてうつむいている。
「おかしいと思われますか?」
「全然!!」
オリヴィエは全力で首を振った。本当におかしいとは思えなかった。
むしろ自分にもあった、その甘酸っぱい時期を思い出して、懐かしいような気さえしていたのだから。
「わたくし…。わからなくて…。」
日ごろのロザリアとは違う、か弱い声と、恥ずかしそうに伏せられた青紫の睫毛。
女王候補として育てられてきて、きっと恋も知らないまま、すごしてきたのだろう。
オリヴィエは彼女の可愛らしい一面に思わず微笑んでしまった。
「そうだね。とりあえず、おまじないを教えてあげるよ。」
「おまじない?」
「そ。好きな人と話すときに緊張しないおまじない。」
「そんなものがあるんですの?」
「あるよ。知りたい?」
花のような笑顔を浮かべてロザリアが頷くと、オリヴィエもウインクでその笑顔に答えた。
そして、その日から、ロザリアはオリヴィエの執務室を訪れるようになった。
恋の相談役として、おしゃれの先生として。
結局、その青年は期間を終えたのか、すぐに飛空都市からいなくなってしまった。
けれど、オリヴィエの恋の先生役はそれからもずっと続いたのだった。
ロザリアの部屋に急に増えてきた髪飾りを見て、オリヴィエはため息をついた。
「今度は雑貨屋でもやってる人?」
「え?!」
ロザリアは手にした書類を落とすと、あわてたように目を泳がせた。
「まったくあんたってば、全然変わらないねえ。まあ、こないだのアイスクリーム屋よりはマシだけどさ。」
一人で買いに行くのは恥ずかしいというロザリアに、毎日アイスクリームを食べに連れて行かされた。
おかげで体重が増えてしまったオリヴィエは、このところエクセサイズを始めたところだ。
今、部屋のあちこちにインテリアのように置かれたキラキラ光る髪飾りは、小さなものから大きなものまで。
普通に考えれば多すぎる。
人間の頭はひとつしかないというのに、これでは毎日頭中につけまくらなければならないだろう。
「オリヴィエにはなんでもわかってしまいますのね。新しくできたアクセサリーのお店の方が、とても素敵な方なんですの。」
ほんのりと頬を染めたロザリアが青紫の髪に手を当てた。
束ねた髪の横に、ほんの小さな蝶のクリップが止まっている。
「お似合いです、と言ってくださいましたのよ。」
そりゃあ、店員が客をけなすようなことを言うはずはないだろう。
言いかけて、幸せそうな彼女の表情に口をつぐんだ。
ロザリアは本当に素直で純粋だ。
女王候補から補佐官になって、いろいろな事件があったにもかかわらず…。
だから、なのかもしれないが、ロザリアが好きになるのは店員や宮殿を訪れる使者ばかり。
親切な対応を好意と勘違いして、好きになってしまうのだ。
奥手なのも全く変わっていないから、まともに声さえかけられず、向こうはロザリアの気持ちには気づかない。
そして、定められた期間が過ぎ、その人物たちは下界へと戻っていく。何の進展もないままに。
あれから一体、何十人の恋の相談を受けたことか。
オリヴィエはすでに数えることをやめていた。
「オリヴィエ、相談がありますの。」
やっぱり来たか。
なかば苦笑しながら、オリヴィエはソファに座った。
ほぼ毎日のようにお茶をしたり、ランチをしたり。彼女のことなら大抵のことはわかる。
お茶うけに用意されたロザリア手造りのストロベリーパイをつついていると、カップに紅茶が注がれた。
「デートに誘われましたの。」
「デート!!!」
オリヴィエは思わず紅茶を噴き出した。
別に不思議なことでもないが、今までロザリアを誘ってきた男はいない。
この美貌に加えて、補佐官という地位。並みの男ならば、高根の花すぎて声をかけることもできないのだろう。
「へえ。珍しい男もいたもんだね。」
からかいの声に彼女は頬を膨らませた。出会ったばかりのころとは、明らかにロザリアは変わっている。
とっつきにくかった少女から、華やかな女性へ。高根の花ではあるけれど、触れてみたいと思う男は大勢いるだろう。
もしかすると、今度こそ、本当に恋になるかもしれない。
そう思ったオリヴィエの胸にチクリと針のような痛みが走った。
本当に一瞬で、オリヴィエ自身もはっきりと分からないほどの痛みが、確かに。
しばらくたった日の曜日、ロザリアがオリヴィエの私邸を訪れた。
執務室では毎日顔を合わせても、私邸まで来ることはめったにない。
デートのためにおしゃれした、ばら色のキャミソールワンピースにボレロ風のカーディガン。
オリヴィエが見立てた通りのファッションだが、彼女は思ったよりもずっと綺麗だった。
「キスされたんですの。」
開口一番告げた彼女の言葉に、オリヴィエは胸に激しく鋭い痛みを感じた。
針よりも鋭く氷でえぐられるような、冷たい痛み。
「おめでとう! あんたにもやっと恋人ができたってこと?よかったね。」
なにかを言いかけた彼女の言葉をさえぎって、オリヴィエは大げさに手を叩いた。
キスの話をこれ以上聞きたくなかったのに、視界に入るロザリアの唇は意味のない言葉を並べている。
適当に相槌を打ち、彼女の話を聞くふりをしていた。
この痛みの意味がなんなのか。そのことで頭がいっぱいだった。
「また、教えてくださいませ。」
気がつけば、彼女を送り出していた。ばら色のワンピースは、振り返っては手を振って、だんだん遠ざかっていく。
ソファに座ったオリヴィエは彼女の飲んだカップを見つめて、天を仰いだ。
何を話したのか、ほとんど記憶がない。
わかったのは、いつの間にかロザリアを好きになっていたということだけ。
いや、初めから惹かれていたのかもしれない。あの東屋で、恥ずかしそうにほほ笑む彼女を見た時から。
まだ痛む胸を抑えるように、オリヴィエはぐっとシャツを握りしめていた。
いまさら、どう伝えるというのだろう。
ロザリアは自分をそういう目では見ていない。
親友のアンジェリークよりも近くて、でも、この間会ったばかりの男よりもはるかに遠い距離。
それからも、振られて落ち込むロザリアを慰めるたびに、心の中では安堵していた。
けれど、オリヴィエが想いを自覚した日から、急にロザリアに言い寄る男が増え始めたのだ。
まさに花開く、といったようにロザリアは急に綺麗になったような気がする。
彼女が魅力的なのだから恋人ができるのは仕方がないけれど、不思議なことにどの交際もそれほど長く続かない。
「わかりませんわ。喧嘩もしていませんのよ。」
そういいながら、首をかしげるロザリアに、オリヴィエは「もっと、いい男がいるから。」と、慰めの言葉をかけるしかない。
「がんばりますわ。ですから、もっと、教えてくださいませね。」
無邪気な彼女はデートのたびに、こと細かく報告してくる。
次の日に、必ず執務室にやってくるのだから、逃げようがないのだ。
オリヴィエは彼女のキスの回数まで、知りたくもないのに知ってしまっていた。
今日もお茶の時間。
わざと気のない返事をしたのに、ロザリアは30回目のキスの話を始めた。
ふわりと揺れた紅茶の湯気に、オリヴィエのため息が重なる。
「急に雨が降ってきましたの。だからわたくしとあの方は大きな木の下に隠れたんですわ。
そうしたら急に、唇が触れましたの。びっくりして目を開けたら、綺麗な星が見えましたわ。」
「星?雨なのに?」
怪訝に聞き返したオリヴィエにロザリアは目を丸くした。
「ええ?!その時はやんでいたのですわ。」
「ふーん。…で、それから?」
聞きたくなのに、聞いてしまうのは、やっぱり知りたい気持ちが強いからかもしれない。
「そ、それから、もっと、大人のキスを。」
「へえ。」
つやつやとした彼女の唇をつい見つめてしまった。
花のような美しい唇をあんな男が蹂躙したのかと思うと、叫び出したいような気持になる。
オリヴィエはその日、どうしても彼女をまっすぐに見ることができなかった。
いつになったら、先生役をお役御免になるのか。
思いながらも言い出せないのは、彼女と自由に話せるこの時間を失いたくないからだ。
他の男もこの花のような笑顔を見ていると思うだけで、次第に息苦しくなるというのに。
そうこうしているうちに、ロザリアに15人目の恋人ができた。
ナンパな男のようで、オリヴィエの耳に届くのはあまりいい噂ではない。
なんでもロザリアが落としたハンカチをわざわざ宮殿まで届けてくれたらしいが、その出会いもどうも怪しい気がする。
二人で歩いているところをチラリと見かけたが、たしかに女受けしそうな顔立ちをしていた。
きっと、落とした女の数をべらべらしゃべるタイプの男だろう。
「オリヴィエ。旅行に誘われたのですけれど、なんとお答えしたらいいのかしら?」
思わず、紅茶をごくりと飲み込んだ。
キスをして、その後は。当然考えないこともなかった。
「あんたはどうしたいの?」
「わたくしもちょうどそこへは行きたいと思っていましたの。とてもきれいな海があるそうなんですのよ。かわいい貝がたくさんとれるそうですわ。」
見せてくれたのは旅行先のガイドブック。
澄んだ空を映したような海と白い砂浜。
ピンク色のハート型をした貝が採れるらしく、「恋人たちの海」とキャッチコピーが付いている。
いかにも女の子が喜びそうなチョイスだし、とくにロザリアのような純粋な少女ならば、その海の写真を見ただけで、心惹かれてしまうだろう。
嬉しそうに話すロザリアの心は、もう旅行のことでいっぱいのようだ。
彼女の作ったガトーショコラがちょうどいい硬さのはずなのに、なんだか喉につかえてしまう。
「では行ってきますわ。」
数日後、笑顔で出ていくロザリアをオリヴィエは黙って見送った。
その10分後。
オリヴィエはクローゼットからトランクを取り出していた。
送り出してはみたものの、やっぱりそのまま指をくわえているなんて、どうにも無理で。
実際のところ、彼女はわかっているのだろうか?聞くのが怖くて聞けなかったけれど、男と旅行をするということの意味を。
もし知らずに行ったのなら、彼女が傷つくことになるかもしれない。
幸いというか、散々聞かされたおかげで、旅行のスケジュールはいやでも頭に入っている。
ざっとシャトルの時間を計算したオリヴィエは、トランクを片手に部屋を飛び出したのだった。
降りた星はとりあえず暑い。
変装のつもりでかけてきたサングラスだったが、ここでは皆当たり前のようにかけている。
旅行者らしく、髪の色も落とし、メイクもして来なかった。
もちろん簡単なシャツとスラックスだけの軽装だ。普段のオリヴィエを考えれば、それだけでもう変装と言っていいだろう。
サングラスをしていても目立たないことに感謝しながら、オリヴィエは彼女のホテルへと向かった。
いかにもなリゾートホテル。周りはカップルが9割といったところだろうか。
それでも、一人のオリヴィエをにこやかに迎えるところあたりは、一流のサービスといえる。
「予約してないんだけど、空いてる? 連れが後から来るんだけど。」
そう言っておけば、とりあえず疑われることもない。
案の定、フロントはダブルの部屋を勧めてきた。
ロザリアに聞いていたよりも値段が高めなのは、オリヴィエを上客と見込んでの対応に違いない。
グレードの高いフロアであることは案内を見てすぐにわかった。
なかなか商売上手の上、客を見る目があるようだ。
オリヴィエは二つ返事でその部屋をとった。
大きな窓から海が見える。
オリヴィエは窓を開け放つと、大きく息を吸い込んだ。 カーテンがはためき、風に乗って流れてくる潮の香り。耳に寄せる波の音。
これがロザリアと二人で来たのだったら、どんなに素敵な旅だろう。
しばらく海を眺めていたオリヴィエは、ホテルのプライベートビーチに青紫の髪を見つけた。
遠くからでも、どれほど多くの人がいても、一目で彼女だとわかる。
オリヴィエは上着を手に取ると、サングラスをかけなおした。
大勢の人が隠れ蓑になり、オリヴィエは少し離れた場所から、ロザリア達を覗いていた。
ピンク色の貝は、砂浜のあちこちに落ちていて、多くのカップルたちが拾い集めている。
落ちているモノは欠けていたり、色あせているモノがほとんどだから、綺麗な貝を探してプレゼントするのが一種の告白のようになっているのだ。
ロザリアも時々嬉しそうにしゃがみこんでは、拾った貝をバッグに入れている。
それを隣の男はそわそわしながら見ているだけで、手伝おうとはしていないようだ。
もはやそれどころではない、という気持ちはオリヴィエにもよくわかる。
今日のロザリアは以前も着ていたばら色のワンピースで、長い髪をそのままに下している。
海風が彼女の周りをさらうたびに、青紫の髪もやさしく景色を撫でるように流れていた。
とても綺麗で、まぶしい。周りの男たちも通り過ぎた後に、一瞬振り返るほどに。
ゆっくりと二人の後を追いかけながら、オリヴィエの気持ちは海のように沈んでいた。
すくなくとも、ロザリアは楽しそうだ。
恋人同士、しかも深いキスを繰り返している間柄にしては、少し距離があるのが気にはなるけれど、けっして嫌がっている様子はない。
ここに来た意味もきちんと知っているのかもしれない。
自分が思っているよりも彼女はずっと大人になっていたのだ。
それにうすうす気づいていたくせに、なにも踏み出そうとしなかった。
居心地のいい場所を手放すことが怖くて。
レストランのテーブルに男と向かいあい、笑う彼女の姿。
その片隅でただ見ているしかできない自分。
オリヴィエは席を立つと、部屋のミニバーに置いてあるボトルを片っ端から取り出した。
酒に逃げる、なんて格好悪いとは思っても、何もせずに眠ることはできそうもない。
とりあえずワインを。それから、焼けつくようなスピリッツを。
飲むほどにロザリアのことばかりを考えてしまう。
そろそろ食事も終わっただろう。未成年だけれど、少しくらいは羽目をはずしているかもしれない。
以前食事の後で、ワインを一緒に飲んだことがあった。
ほんの少しで、頬を真っ赤にして、「酔ってなんておりませんわ!」と繰り返していた。
あの顔を今頃あの男が見ているのだろうか。
そして。
水のように透明の液体を飲み干せば、体中が熱くなる。
窓から来る海風に身体を包まれるように、いつの間にかオリヴィエは眠っていた。
柔らかい。
何時間経ったのかわからないまま、うっすらと意識が目覚めると、最初に感じたのはそれだった。
着替えもせずにベッドに寝転んでいたオリヴィエは、その柔らかいものを腕に抱くと、もう一度目を閉じる。
ふと鼻先をなにかがくすぐった。
ふわりと漂う薔薇の香り。その香りを楽しむように何度か吸い込んだ後、オリヴィエは飛び起きた。
「まだ早いですわ。」
窓辺から波のように揺れるカーテンのむこうは、まだ朝靄につつまれている。
夜と朝の間のあいまいな色をした空が、海との境界線を分かつように光を弾き始めていた。
混ざり合った光が溶けあって、一瞬、幻かと思う。
彼女がそこにいる。自分の腕の中に。
「あ、あんた…。誰?」
「まあ!」
ロザリアは頬を膨らませたかと思うと、すぐに青くなって起き上った。
「わたくしのことをお忘れになったんですの? どこか頭でも?」
心配そうに頬に触れる手。
間違いようのない、彼女の手だった。
「私の頭は正常だよ。そうじゃなくて…。どうして、あんたがここに?」
「それを聞きたいのはわたくしの方ですわ。なぜ、オリヴィエがここに?」
不思議そうな彼女の瞳。それを言われると返す言葉もなくて、オリヴィエはうっと声を詰まらせた。
すこし沈黙があって、ロザリアが目を輝かせる。
「オリヴィエもここへ来たくなったのでしょう? わたくしの見せたパンフレットのせいですのね? ここは本当に綺麗ですもの。
貝拾いはなさいまして?わたくしもたくさん拾いましたのよ。」
部屋の真ん中のテーブルに置かれたバッグにロザリアと一緒に視線を動かした。
彼女を見送った時に持っていた小さなトランクも一緒に置かれている。
一体何があったというのだろう。聞かずにはいられなかった。
「あのさ、あの男はどうしたの?」
「わかりませんわ。」
「はい?!」
ついオリヴィエが上げた素っ頓狂な声にロザリアのほうが驚いたのか、目を丸くして続けた。
「だって、お部屋が一つしか取れなかったなんて言うんですもの。わたくし、あの方と同じ部屋では眠れませんわ。」
まあ、常套手段といえば、そうなのだろう。
一つしか取れなかった、といって、部屋に誘いこみさえすれば、後はどうにでもなると思うのが、男というものだ。
「だから、あなたの部屋に来ましたの。」
「ふうん。」と、言ってから、首をかしげる。
「あんた、いつ、私に気づいたの?」
昨日、彼女の目には一度も触れなかったはず。変装もどきまでしていたというのに、一体いつ気づかれたというのだろう。
ロザリアはくすり、と笑った。とてもとても可愛らしくて、それだけでドキリとする。
「浜辺で、わたくしの後ろを歩いていらしたでしょう?」
あの人ごみの中では、絶対に気づかれていないと思っていた。
「わたくし、オリヴィエのことなら、どんなに遠くても、どんなにたくさんの人がいても、絶対に見つけられますわ。なぜかしら。すぐにわかるんですのよ?」
「そうなんだ…。」
オリヴィエの絶句に、ロザリアは鼻高々といった風情だ。
自分がそこまで目立つとか、ロザリアに超能力があるとか思ったわけでもなく。
その言葉の別の意味を考えてしまったから。もしかして。彼女も、そうなのではないかと。
「あの男はいやなのに、私とは一緒の部屋でいいの?」
探るように聞いてみた。
「ええ。あなたったら、わたくしが入ってきても少しも気づかないんですもの。おかしくて。気がついたら、一緒に眠っていましたわ。」
昨日と同じばら色のワンピースは、眠ったせいか、ほんの少し皺ができている。
改めて、彼女との距離の近さに、心が動いた。
「それよりも。…誰かとご一緒なのではありませんの?」
そこで、初めてロザリアは少し悲しそうな顔をした。
「もし、今からいらっしゃるなら、失礼しなければいけませんもの。」
「来ないよ。あんたこそ、今からあっちへ戻るつもり?」
戻らないでほしい、とはまだ言えなかった。
ロザリアがあの男と付き合っていたのは事実なのだから。
「戻りませんわ!だって、あの方、手をつなごうとしたり、キスしようとしたりするんですもの…。」
「キス?!キスくらい何回もしてるんでしょ!」
12回。数えていたのだから間違いない。
「え?! ええ、それは…。」
目が泳いでいる。じっと見つめるオリヴィエに観念したのか、ロザリアはため息をついた。
「1回だけ…。」
「1回?!私は何回も聞いたけど。」
「初めての1回だけですわ。あの方とは、一度も。なんだか、嫌なんですの…。相手が近づいてくれば来るほど、嫌になるんですわ。
でも、オリヴィエはそういうお話がお好きのようだから、つい話が大きくなってしまいましたの。」
オリヴィエの口から長い長いため息が出る。
今まで、我慢していた分まで一気にこぼれ出したような、長い長いため息。
たしかに知りたくて、何度も聞き返した。それを彼女がこんなふうに感じていたなんて。
しかも今、これほど自分と近づいていることを彼女はどう感じているのだろう。
同じベッドで眠っても、何も感じないことを。一体。
ロザリアはバツが悪そうに顔をそむけたまま、頬を赤らめた。
「怒っているんですの…?嘘をついていたから…。」
安心した、とは言えずにオリヴィエが黙っていると、青い瞳がうるんでいる。
「あなたがわたくしの話を聞いてくださることが嬉しかったんですの。ごめんなさい。」
思わず、彼女を抱きしめていた。
窓から流れる潮風がカーテンを揺らし、二人の周りを通り抜けると、いつの間にか朝の光が辺りを照らし始めている。
突然のことに驚いたロザリアが一瞬身体をこわばらせたのに気づいて、すぐに腕を緩めた。
「ねえ、もう、今日は何の予定もないんだよね?」
「ええ。あの方のところへは戻れませんもの。」
「それじゃあさ。」
開け放たれた窓から、潮の香りが流れてくる。
昨日は彼女のことばかり気になって、この美しい海を見ることさえ忘れていた。
いつの間にか朝日が昇っていて、二人を明るく照らしている。
きっと今日も一日、穏やかに晴れるだろう。
オリヴィエはロザリアを見つめると、羽のように優しく包み込んだ。
今なら、何でもできそうな気がする。
たとえば、この浜辺で一番綺麗で大きなピンクの貝を見つけることだって。
そうしたら、きっと、今まで言えなかった言葉を言えるはずだ。
「浜辺に行こうよ。二人で。」
オリヴィエの差し出した手をロザリアはしっかりと握りしめ、小さく頷いたのだった。
FIN