どこへなりと移動することはたやすいがやはりきちんとするべきだろうと思った。
だから面倒だと思っても正面玄関から入り名前を名乗り、あいつに会わせてもらうための手続きを踏んだ。
意外にすんなり奥へ通されたと思ったら一番やっかいなヤツが最後に待ち構えていた。
「・・・やっときたのね」
寝室のドアの前に立ちはだかる不機嫌な顔。
ふわふわの金髪に緑の瞳。
「・・・あいつは?」
なにより気がかりなことを知りたいと思ってそう訊いた。
「さっきお医者さまが来て点滴をしてくれたの。いまは看護師さんがついてくれているわ」
「・・・そうか」
「で?」
「なんだ」
睨みつける緑の瞳。
怖くはないが、こちらには少々負い目がある。強く出られない。
「言い訳してくれるんでしょう?ずっと探していたんだから!ロザリアがあんなに苦しそうにしているのに全然連絡もとれなくて・・・、」
リモージュは最後までは言えず、きゅっと唇をかんで俯いた。
「いったいどこでなにをしていたの」そう言いたかったのだろう。
大きなエメラルドのような瞳が揺らいで肩が震えていた。
俺の所在をつかめないまま親友の容体を気遣う心細さは想像できる。
「悪かった・・・」
アリオスが髪をくしゃっと撫でてやると堪えきれず、リモージュは涙をこぼした。
「あいつに会わせてくれ」
リモージュはごしごしと手で涙を拭きながらうん、と頷いた。
もっと恨み事を言われると覚悟していたので思わず感謝の言葉が出てきた。
「ありがとう・・・」
それがよほど意外だったのか、一瞬ぽかんとしたあとリモージュは泣き笑いの顔になった。
「不気味なくらい素直ね」
思わず苦笑する。
「ふたりきりにしてあげる。なにかあったら呼んで」
湿っぽい声でそれでも精いっぱい明るく言うとリモージュは姿を消した。
この数日俺を探していたというレイチェルの怒鳴り声が蘇る。
いつもは能天気な女王陛下がしょげている姿から想像できるようにロザリアの容態はよくないのだろう。
寝室には抑えた照明。
加湿器の微かな音。
ロザリアのベッドに付き添っていた看護師はアリオスの顔を見ると訳知り顔で頷き、席を立った。
「隣の部屋で待機していますから、なにかあったら声をかけてください」
いくつかの注意事項と点滴についての知識。分かりやすい指示を与えたあと看護師は寝室から出て行った。
ベッドに近づいてそっと髪に触れる。
「・・・ロザリア」
名前を呼びかけると微かに睫毛が震えた。
浅い呼吸を繰り返している唇がときおり苦しそうに動く。
ベッドサイドに置かれていた椅子に腰かけると思わず重いためいきが出た。
ただの風邪だと軽く片づけられない。
アリオス自身がたちの悪い風邪をひいてしまい、数日間身動きできなかった。
誰にも連絡を取らずひきこもっていた。
おせっかい揃いの連中に知られたらと想像するだけでうんざりして、体調が整うまで行方をくらませていたのだ。
ひさしぶりにふらりと立ち寄ったレイチェルの執務室でさんざん嫌味を言われた。
これまでもそうだっただろう、なにをいまさら。
そう返すとレイチェルの様子が変わった。
そこで初めて聞かされた。ロザリアが高い熱を出して寝込んでいると。
・・・おまえは天使なんじゃなかったのか?
普通の人間と違って宇宙の意思によって選ばれた存在だろう?
どんな厄災もするりとかわして大胆に微笑んでいるはずじゃなかったのか。
想像したこともなかった。
おまえがこんなふうに寝つくことなどありえないと思い込んでいた。
点滴をしている左手は掛け布団から出されている。
そっと壊れものを扱うようにその手を包み込むと平常よりずっと高い体温にぎょっとした。
どう、言えばいい。
どんな言葉をかければ応えてくれる・・・?
教えてくれ。
「アリオス・・・?」
ゆっくりと瞼が開いた。
弱弱しく微笑むとロザリアは囁く声で言った。
「ひどい顔・・・。だいじょうぶ?」
・・・ったく。いまのおまえがそれを言うのか?
「それはこっちのセリフだ。・・・心配させやがって」
抱きしめようとしてはっとなり、点滴のラインを用心深くよけながら腕をまわす。
力を入れないようにそっと抱きこむ。
「夢をみていたの。・・・あなたの夢を」
囁く声に耳を澄ませる。
抱きしめた体の自分のそれとは明らかに違う高い体温。
それでも確かにここにある。幻のように消えたりしない。
「あなたが病気になった夢」
ぎくりとした。
「あなたはわたくしの手が届かないところへ行ってしまうのよ。治るまで誰にもなにも言わないでそっと身を隠してしまうの。
・・・まるで手負いの狼みたいに群れから遠ざかって」
「狼、か」
思わずふっと笑うとロザリアの右手がそろそろと動いてアリオスの頬に触れた。
「・・・ごめんなさい。でも、わたくし目が覚めたとき泣いていたのよ。胸がつぶれそうなくらい悲しかった。夢だと分かってすこし安心したけれど」
「・・・ただの夢だろう」
実際似たような状況だったとは言えなかった。口が裂けても。
「ええ。・・・でも」
アリオスは肘をついて上体を起こし、間近に目を合わせる。
「おまえこそまわりがどんなに慌てたか分かっているのか?」
指で髪をすくように撫でる。
この場合、主語は「まわり」ではない。もちろん、ロザリアの周囲は慌てただろう。
だが、こうして眼を開けて息をしているロザリアを見るまで冷たい手で心臓を掴まれたようで息苦しかった。
言いようのない不安が胸をふさぎ、生きた心地もしなかった。
「あなたも・・・?」
澄んだ瞳でみつめられて否、とは言えなかった。
「ああ」
少々ぶっきらぼうに返すとロザリアは泣きそうな顔になり、こみあげるものを押し殺して震える声で言った。
「では、わたくしがあなたのことを心配した気持ちも分かってくださる?」
・・・ばかやろう。
ここへ来るまで俺がどんな気持ちだったか、知っていてそう言っているのか?
「アリオス・・・?」
温かい雫がロザリアの頬に落ちた。
たまらなかった。
どれほどこの女を愛しているか、いまほど思い知らされたことはなかった。
消せない記憶。
暗いあの塔の中で毅然と背筋を伸ばしてまっすぐ正面を見据えていた青い瞳の輝き。
どんな理由でこの世界に転生してきたかなど誰も教えてくれないがひとつだけ分かったことがあった。
差しのべられた手を取って指先にくちづける。
壊れもののようにそっと抱きしめる。
「・・・ああ。よく分かる。・・・だから死なないでくれ」
おまえがいなければ意味がない。
「ただの風邪ですもの、死んだりしませんわ」
「・・・肺炎手前までいったおまえの言葉など誰が信じる」
涙交じりの言葉と温かい抱擁。
ただ感謝したい。
互いのぬくもりを抱きしめられることに、その声を聞くことができることに。
こうして胸のうちを伝えられることに。
愛おしいその存在に。
生まれてきてくれたことに。
面会謝絶の札などなくても好んでこの部屋に立ち入ろうとするものはいないだろう。
そろそろ点滴が終わる頃だと腕時計を見ながら眉間にしわを寄せた看護師がノックのタイミングを計っていることなど当のふたりは気づく由もない。
500mlの点滴を1時間半かけて落す。
寝室から出たときの残量と滴下数を確認したから計算通りならあと10分。
できれば向こうから声をかけてくれればいいのだけど。
・・・お邪魔虫になるのは避けたい。
看護師は深いためいきをついた。じりじりと秒針が時を刻む。
ひとによって時間の長さは違うものらしい。
おわり。