Under the blue sky

初めて来たのに、どこかで見たことのある景色。
絵にかいたような青い空と白い雲に覆われた美しい世界。

オリヴィエは聖地に似せて作られたという飛空都市の空を見上げた。
背中に当たる草の感触は、どこの世界でも変わらない。
子供時代を過ごした星の春は短くて、あの短い春の間、いつでも空を見上げていたことを思い出す。
あの頃、春という特別な季節は、特別な期待を与えてくれていた。
今はもう、特別なことは何もないのだと知ってしまったけれど。
目を閉じて、体中に当たる風を感じていると、不意に目の奥が暗くなる。
頬に触れるのは髪だろうか?
一呼吸おいて、柔らかな手が右手に触れた。脈を探すように手首に添えられた指。
やがて、安堵したような吐息が聞こえて、なにかが胸に当たる。
それが人の頭だということを理解するのにそれほど時間はかからなかった。

「ちょっと。重いんだけど。」
オリヴィエの耳に、くすくすと笑い声が聞こえる。
こんなことをするのは、きっとおせっかいなおばさんだろうと思っていたオリヴィエはその笑い声に驚いて目を開けた。
まるで春の精のように美しい少女。
青という寒い色に彩られているのに、微笑む少女の青い瞳には、春の匂いがした。
「ずいぶんと死んだまねがお上手ですのね。」
「まあね。生きてるのか死んでるのか、自分でも時々わからなくなるんだよ。」
大げさに肩をすくめてみせたオリヴィエに少女はさらに笑みを深くする。
長い青紫の髪が風に揺れた。
「偶然ですのね。わたくしもですわ。」
少しだけ翳った瞳。
え?とオリヴィエが聞き返す前に少女は立ち上がる。
「ごきげんよう。もう、お会いすることはないと思いますけれど、あなたが生きてらっしゃることを願っていますわ。」
ふわりとシフォンのスカートの裾が翻ると、少女は駆けだした。
見る見るうちに消えていく、青紫の髪。

夢のような出来事にオリヴィエはしばらくその場に座り込んでいた。
ここにいるということは、きっと、この飛空都市で働くためにやって来た少女なのだろう。
今回の女王試験のために、この飛空都市はさながら一つの町のような設備が整えられているのだ。
仕事として招集されている人数も半端なものではない。
「きっと、また会えるね。」
オリヴィエは再び草の上に寝転ぶと、少女の名前を聞かなかったことを後悔したのだった。


聖地のミニチュアのような聖殿に、今日も甲高い笑い声が響く。
一糸乱れぬ様子でカールした髪を背中に流したロザリアは、全身を青で彩っている。
その色と同じように、青い瞳は冷たい印象がした。
「わたくしは完璧な女王候補ですのよ?あんたみたいなのと一緒なはずないでしょう?」
女王試験も数ヶ月を過ぎ、そろそろ気心も知れてくる頃らしい。
「もう!ロザリアったら、またそんなコト言って~。」
当初は全く親しくなる様子がなかった二人だが、漫才のようなやり取りをこの頃よく見かけるようになった。
もちろんツッコミとボケの役割は見たままだったけれど。
「ねえ。どうして、あそこの土地ってあんなに岩みたいになっちゃったのかな?」
「それは、最初の育成が十分でないうちに、先に進めてしまったからでしょう。」
「でもね、あの時はその方がいいと思ったの。」
「じゃあ、今の状態がいいと、後で思うこともあるかもしれないわ。」

中庭は二人の休憩所のようになっているらしい。
たまたま通りかかったオリヴィエは育成の話をしている二人を見かけた。
あの日会った少女が女王候補の一人だということは試験開始とともにすぐに分かった。
ただ、驚いたのは、目の前のロザリアと紹介された少女は、あの時と姿かたちは同じでも全くの別人だった。
その言い方は少し違うかもしれない。
とにかく、まったく印象も態度も違っていたのだ。
しかも、育成のお願いに来たロザリアにあの時のことを尋ねると、ロザリアはオリヴィエをふんと鼻で笑った。
「夢でも見ていらしたのでは?夢の守護聖様という方は、昼間でも夢を見てらっしゃるのね。」
辛辣に言い返されて、オリヴィエは返す言葉もなかった。
あの時の少女の柔らかな印象と、目の前のロザリアはまるで違う。
本当に別人なのか、と思った時、淑女の礼をしたロザリアの髪が香った。
薔薇の露のような香りは、あの時と同じ。
すぐにくるりと向きを変えたロザリアは、それからオリヴィエの元に一度も来たことがない。

「はあい、あんたたち、すっかり仲良しなんだねぇ。」
ひらひらと手を振ったオリヴィエにアンジェリークはにっこりと笑い、ロザリアは少し眉をひそめた。
「ロザリアったら、何でも知ってるから、つい頼ってしまうんです。」
アンジェリークの朗らかな笑顔は辺りを明るく照らす太陽に似ている。
「それくらいわかっていて当然だと思うから、話しているだけですわ。わたくしたちは女王候補ですのよ。」
ロザリアはふんと鼻を鳴らした。
尊大で、高飛車で、貴族らしい皮肉と、完璧な育成。
まるで、絵にかいたような女王候補としてのロザリア。
違いすぎるのではないかと思うほどに、あの時の少女とは全く重ならない。
けれど。
「生きているのか死んでいるのかわからない。」と言ったオリヴィエに「わたくしもですわ。」と答えた。
彼女がそう言った理由を知りたい。

中庭を風が通り抜ける。
オリヴィエはロザリアの手を取った。
ぎょっとした二人の少女の視線にもオリヴィエはひるまない。
「ねえ、今日の育成は終ったんでしょ?だったら、私に付き合わない?あんたと行きたいところがあるんだ。」
アンジェリークが両手を頬にあてながら、真っ赤になってロザリアとオリヴィエを交互に見つめている。
言葉だけを聞けば、告白のセリフのように取られても仕方がない。
一方、手首をつかまれたロザリアは平然としていた。
けれど、オリヴィエがほんの少し力を込めると、手首からロザリアの鼓動が伝わってくる。
その速さにロザリアの感情が表れているようで、オリヴィエは思わず微笑んだ。


半ば強引に腕を引いたオリヴィエはロザリアを丘に連れていった。
初めて出逢った場所は、今日も爽やかな風と揺れる草に覆われている。
足を踏み入れると、靴底に柔らかな草の感触があたった。
オリヴィエはその場に座ると、ロザリアのために隣にハンカチを敷いた。
「ありがとうございます。」
完璧な礼と会釈をして、ロザリアはハンカチの隅に腰を下ろした。
微妙にあいた隙間に、ロザリアの戸惑いがわかる。
「あんたさ。」
「なんですの?」
まっすぐに見つめる青い瞳は聖殿にいる時よりも幾分か優しい。オリヴィエは風に攫われそうになる髪を手で押さえた。
「もっと、やわらかい素材の方が似合うと思うよ。…こないだ着てたシフォンのワンピースみたいなさ。」
今着ているブルーのドレスも確かに彼女にはよく似合っている。
凛として、とても理知的だ。女王候補としての完璧な衣装。
ロザリアはドレスの胸飾りをつまむと、少しうつむいて微笑んだ。
「スモルニィの制服よりはずっといいと思っているのですけれど。あの制服、わたくしには似合いませんの。」
「あはは。そうかもね。」
真っ赤なミニスカートなんて、ロザリアが着たら仮装に近いかもしれない。
想像して、声を出して笑ってしまった。
「このドレスは制服と同じですわ。女王候補としての制服。」

ロザリアの声の調子が変わった。
いつものような甲高い声ではなく、どちらかといえば穏やかにさえ聞こえる。
風に溶け込むような自然な声音は、これが彼女本来の声だからなのだろう。
オリヴィエは草の上に寝転ぶと、流れる雲を眺めた。
「オリヴィエ様だって、同じでしょう?」
オリヴィエが顔を向けると、ロザリアはふんわりと微笑んだ。空に溶けてしまいそうなほど、綺麗な笑顔。
「そのメイクも執務服も夢の守護聖としての衣装ですわ。今、わたくしの目の前にいらっっしゃるのは、夢の守護聖としてのオリヴィエ様。」
「…そう。今の私は夢の守護聖さ。じゃあ、私はどうしたら女王候補じゃないあんたに会えるのかな?」
あの時のような、そのままのあんたに。
「わたくしは女王候補ですわ。幼い時からそのように過ごしてきたのですもの。でも。」
少し翳り始めた日差しが彼女の長い影を草の上に投げかける。
「試験が終われば、女王候補ではなくなります。」
はぐらかしているのか。それとも彼女自身本当にそう思っているのか。
けれど、彼女は『女王になれば』とは言わなかった。
「もう、日が暮れますわ。あまり遅くなるとばあやが心配しますの。戻らせていただきます。」
ロザリアが立ち上がると、薔薇の露のような香りが広がる。
オリヴィエは軽く手を振って、ロザリアの遠さかる足音を聞いていた。

それから、オリヴィエはロザリアを誘うようになった。
お茶の時間、日の曜日、時には平日も。
「このドレス、あんたに作ったんだけど。」
初めて、ロザリアを私邸に招いた日、オリヴィエは自分がデザインして縫製までしたドレスをプレゼントした。
トルソーに着せたドレスは、女王候補のドレスとは違う、女性らしいミディ丈のライン。
ロザリアはドレスの裾をつまむと、ほんの少し微笑んだ。
このごろ、二人きりの時は初めて会った日のように、優しく笑うようになった。
「今はまだ着れませんわ。このドレスは女王候補には柔らかすぎますもの。」
「じゃあ、いつかでいい。だから持って帰って。」
オリヴィエはトルソーからドレスを外して、ケースに詰めた。
ロザリアは大切なものを持つように、ケースを胸に抱えている。
「今日の紅茶はね、ちょっと変わってるんだ。」
ゆっくりとした時間は、流れる砂のように早く過ぎていった。


「オリヴィエはロザリアのどこをそんなにかっているのですか?」
穏やかで思慮深い守護聖が尋ねてきた。
「彼女はライバルを見下しているのでしょうか?悲しいことです。」
争いの嫌いな守護聖が言った。
「すっげえ生意気でムカつくよな。」「ロザリアって、ちょっと怖くて苦手だよ。」
「あんまり悪くは言いたくないけど、人を傷つけるようなことを言うのはよくないと思うな。」
年少の守護聖たちも口をそろえた。
「わたくしは完璧な女王候補ですのよ。あんたなんかに負けるはずありませんわ。」
その言葉が聞こえなくなったのはいつからだろう。
ずっと勝利を続けていたロザリアが初めて中間試験で負けた。

「元気だしなよ。」
オリヴィエの言葉にロザリアはほんの少し微笑んだ。本当に、彼女は優しく笑う。
「オリヴィエ様もわかっているのでしょう?アンジェリークが女王になると。」
午後の陽が二人の背中を照らしている。
見渡す限りの草原は風で揺れるたびに光の波を作った。
「わたくしは完璧で尊大で嫌われ者の女王候補でいなければならないんですわ。アンジェリークに負けるために。」
青い瞳を閉じたロザリアの横顔は驚くほど儚く見えた。
聖殿で腰に手を当てて高笑いする彼女しか知らない人間には理解できないに違いない。

「ずっと、完璧な女王候補として生きてきたんですもの。それが宇宙の意思ならば、最後まで演じてみせますわ。」
「そのあとは、どうするんだい?」
完璧な女王候補の役が終わったその後、ロザリアはどうするんだろう。
「女王候補のロザリアが終わったら、そのあとは?」
ロザリアの青い瞳にオリヴィエが映っている。
まっすぐな視線にオリヴィエの方が先に目をそらしてしまった。
「では、オリヴィエ様は、いつまで夢の守護聖様ですの? 女王候補であるわたくしと、夢の守護聖であるオリヴィエ様と。それでよろしいのではなくて?」
そう言ったロザリアはもう聖殿で見るいつもの彼女に戻っていた。
演じている、といった姿に。


「完璧な女王候補とかって言ってたくせに、たいしたことねーじゃん。」
「違うよ!アンジェがすごいんだよ。」
「アンジェリークこそ、女王にふさわしいということでしょうね。」
アンジェリークの勝利が確定的になってくると、守護聖たちでさえ、そう話をした。
それでもロザリアは相変わらず傲慢で、尊大な態度を変えることはない。
「わたくしは完璧な育成をしていますわ。」
「ロザリアの育成の方が完璧だと思うんだけどなあ~。どうしてか、わたしにもわかんない。」
周囲の声とはお構いなしに、二人の少女はとても仲良くなっている。
本当に皮肉だと思うのは、ロザリアのアドバイスを受けて育成をしたエリューシオンが爆発的な成長を見せたこと。
「それが、女王のサクリアということなんですわ。」
ロザリアは言った。
「同じことをしても、わたくしとアンジェリークでは結果が違いますの。最初からわかっていましたわ。」
オリヴィエの淹れた紅茶をロザリアはおいしそうに飲んだ。
彼女のために取り寄せた茶葉を、彼女の好みの濃さに淹れて。
それくらいしか、応援する手段もない。
オリヴィエの執務室に来たロザリアは少し疲れた顔をするようになった。
「もう少しですわね。」
ぽつり、とつぶやくと、寂しそうに笑った。


流星が空一面を覆い尽くした夜、アンジェリークが女王になった。
いよいよ女王試験が終わる。
新女王の戴冠式が行われる日、オリヴィエはロザリアを訪ねた。
聖殿の一角に与えられたロザリアの部屋をノックすると、しばらく経ってからドアが開く。
オリヴィエを見たロザリアは一瞬、目を大きく開いたかと思うと、すぐに微笑んだ。

「聖地は本当に美しいところですのね。」
飛空都市でよく過ごした丘に似た場所がある、とオリヴィエが連れてきたのは、一面の草原だった。
ウソみたいに青い空と白い雲。
オリヴィエの敷いたハンカチの上に座ったロザリアは、緩やかな風に長い髪をなびかせていた。
少し前ならば、髪が乱れることを気にしていただろう。
完璧な女王候補は身だしなみも完璧でなければならないと、いつも言っていたから。
「アンジェリークに言われたよ。あんたが補佐官になるように説得して欲しいって。」
「まあ。オリヴィエ様も大変ですわね。新女王の頼みなら聞かないわけにはいきませんもの。」
足元の草が揺れる。

「ここにいてよ。」
言葉がこぼれた。ロザリアの青い瞳がオリヴィエをじっと見つめている。
「アンジェリークに言われたからじゃない。夢の守護聖としてでもない。オリヴィエとして、言ってるんだ。わかるだろう?」
今日、オリヴィエは執務服を着ていない。メイクもしていない。
夢の守護聖の衣装を着たままでは、本当のロザリアには会えないから。
「女王候補のわたくしはもういませんわ。これからどうしたらいいのか、自分でもよくわかりませんの。」
儚く笑うその顔が、本当のロザリアだとしたら、その笑顔を見ていたい。
「そのままのあんたでいい。そのままのあんたに、そばにいて欲しいんだ。」
草の上についたロザリアの手にオリヴィエは自分の手を重ねた。
女王候補でもなく、守護聖でもなく。
お互いに素顔のままで本当の気持ちを伝えあいたい。
「ダメかい?」
ロザリアは重ねられた手を避けることもなく、じっと動かずにいる。
やがて、ロザリアはためらうようにゆっくりと、春の精のように笑った。
「メイクをしていないあなたを初めて見ましたわ。これからも二人の時はそのままのあなたでいてくださいませ。」
くすくすと笑うロザリアの髪がふわりと風に揺れた。
「ん。わかったよ。あんたといるときだけ。ね。」
寝転んだオリヴィエの目に、空がまぶしい。
隣で微笑むロザリアが、オリヴィエの金の髪にそっと触れた。

「あ、ごめん。間違えた。」
「なんですの。」
突然の言葉に戸惑うロザリアはとても可愛らしくて、オリヴィエは彼女の手を引いて、自分の方へ近づけた。
「女王候補のロザリアの次はさ、私だけのロザリアになってよ…。」
言いながら、ロザリアの頬に唇を寄せたオリヴィエは彼女の膝に頭を乗せた。
「やっぱり似合ってる。そのドレス。」
「女王候補でなくなったら最初に着ようと思っていましたの。」
以前プレゼントした柔らかなブルーのドレス。
これからの彼女には、きっとこんなドレスが似合うだろう。
薔薇の露のようなロザリアの香りに包まれながら、オリヴィエはドレスのデザインを考えた。
二人が過ごす時間はまだ始まったばかり。
穏やかな風が新しい聖地を吹きぬけていったのだった。


FIN
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