一番近くで

「もう、ちょっと待ってなさい。」
携帯にかかってきた電話を終えたロザリアはすぐにベッドから這い出すと、身支度を始めた。
本当なら休日のはずの土の曜日。
しかも、今日は…。
本来の予定を頭に思い浮かべて、ロザリアは一瞬、眉を寄せる。
けれど、彼女にとって、女王アンジェリークは何よりもの優先事項なのだ。…たとえ今日がどんな日でも。
髪を結い上げ、最後に香水をつけると、ロザリアは一度深呼吸してから、携帯のボタンを押した。

「あ、オリヴィエ? ごめんなさい。 こんな朝から…。
 ええ、今日の約束なんですけれど、キャンセルにしていただけないかしら?」
ロザリアの言葉に電話の向こうでオリヴィエが息を飲んだ。
それから、すぐに長いため息が聞こえてくる。
ロザリアはグッと携帯を持つ手に力を込め、なるべく声音を変えないように意識して話を続けた。

「実は、陛下が…。 きっと彼とケンカしたんじゃないかと思うんですの。 泣いてるようで放っておけなくて。
 本当にごめんなさい。」
言い訳しても仕方がないから、淡々と事実だけを述べる。
急な呼び出しがあったこと。 今から聖殿に向かうこと。 だから、今日のデートはキャンセルしたいこと。
これまでも何度も交わした会話だ。

「…別にいいけどね。 ま、頑張って。」
電話の向こうのオリヴィエも淡々と受け入れて、すぐに電話が切れた。
約束を反故にしたのは自分の方なのに、あまりにも普通のオリヴィエにロザリアの胸が痛む。
「勝手なものですわ…。悪いのはわたくしなのに。」

補佐官としての職務はロザリアにとって、なによりも大切なことだ。
女王試験に敗れて、自分の行き先を見失っていた時、補佐官の職務だけがロザリアを支えてくれた。
だから雑務であろうと、陛下の相手であろうと、どんなな執務でも真摯に向き合い続けてきた。
けれど、職務を優先するあまり、その他のことを疎かにしているのかもしれないと、最近は考えてしまう。

特に恋人であるオリヴィエのこと。
はじめのうちはキャンセルの電話をするたびに、
「え~、キャンセル?! ちょっとひどくない?」とか「また? ちょっとは休まないとあんたが体壊すよ?」とか、いろいろ引き止めようとしてくれていた。
けれど、最近は。
さっきのよう素っ気なく受け入れられてしまうだけ。
引き止められれば、それはそれでうっとおしいのに、引き止められないのも寂しい。
ただのわがままだとわかっているけれど、やっぱり。
なんとなく重い気持ちを抱えながら、ロザリアは女王の元へと向かっていったのだった。


結局、ロザリアが屋敷へ戻ってきたのは、すっかり日も暮れた頃だった。
案の定、彼とケンカしたというアンジェリークの愚痴を、午前いっぱいでたっぷりと聞き。
そのあと、ランチに出るという名目で2人を会わせ、3人でご飯を食べ。
ようやく空気がほぐれたところで、お茶にして。
やっと元のラブラブ状態まで持ち込むことができた。
その間、ロザリアは会話を取り持つだけでなく、お茶を淹れ、お菓子を準備し、なにかと動き回っていたのだ。

「…本当にあの方の口下手にも困ってしまいますわ。」
頭もよくおっとりした彼がケンカというモノにとことん向いていないことはよくわかる。
おまけにちょっと鈍感で不器用だから、なぜアンジェリークが怒るのか、どうすれば彼女の機嫌が直るのか、よくわからないのだろう。
ケンカのたびにこうして呼び出される身としては…たまったものではない。
けれど、女王であるアンジェリークを助けられるのは補佐官である自分だけだし、親友としても助けになりたい気持ちも本当だ。
ただ今日は…できればケンカをしないでほしかったと思ってしまう。

「ふう」
ため息と同時にドアに鍵を差し込んだロザリアは、そのドアに鍵がかかっていないことに気が付いて、一瞬後ずさった。
しかも開いたドアの隙間からは、思いがけない香りがする。
この甘い香りは…。
考えていると、
「お帰り。」
中から聞こえる声。
聞き慣れているとはいえ、今、その声が聴けるとは全く予想していなかったロザリアは、目を見開いたまま、その場で固まっていた。


「ん? どうしたの?」
入ってこないロザリアに業を煮やしたのか、奥からオリヴィエが顔をのぞかせ、近づいてくる。
その姿を見てロザリアは、ますます目を丸くした。
「ど、どうなさったんですの?」
それだけいうのが精一杯というロザリアに、オリヴィエがいつものように軽くウインクをしてみせる。
「どう、って・・・? お料理中?」
着けているエプロンを摘まみ上げ、楽しくて仕方がない、という笑みを浮かべたオリヴィエは、悠々と近づくと、ロザリアの手にしていたバッグを取り上げた。

「お疲れ様。
 ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?」
耳元で艶っぽく囁かれ、ロザリアは真っ赤になって飛び退った。
まるで子ウサギが逃げ出すような仕草で、あっという間に二人の距離は1mほども開いている。

「ちょっと~。 そんなに逃げなくてもイイじゃない?」
「だ、だって・・・!」
不満そうに唇をとがらせているオリヴィエに、ロザリアはますます赤くなってしまう。
「で、どうするの? ご飯?お風呂?私?」
「え・・・。」
どう答えたらいいのか。
ロザリアは恥ずかしさと困惑ですぐに返事ができなくなった。
「ふふ。 私、って言ってくれたら嬉しいけど、今日はさ、まず、こっち。」
オリヴィエは空いている手でロザリアの手を掴むと、ダイニングへと引きずっていく。
まだ混乱したままのロザリアは、素直にオリヴィエに引かれていった。


ダイニングに入ると、すぐにテーブルがある。
ほとんど一人で食事をするから、その上には何もないのが普通なのだが…。
「これは・・・ケーキですの?」
今、テーブルの上にはホールケーキがおかれていた。
一目で特別だとわかる、美しい薄紫のケーキ。


aya様より



「そう。 あんたの好きなシャルロットポワール…だけど、中身はババロアじゃなくて、ヨーグルトムースなんだ。
 今日みたいな日には、さっぱりした味の方がイイんじゃないかと思ってね。
 なーんて、これはパティシエの受け売り。」
ロザリアはテーブルに近づき、まじまじとケーキを眺めた。

薄くスライスされて一面に敷かれた洋ナシと黄桃。
紫と黄色が交互に重ねられているさまは、二人が仲良く並んでいるように見える。
そして中央に咲いた見事な薔薇。
洋ナシの花びらを幾重にも重ねて作られた繊細な薔薇は、とても手の込んだ細工になっている。
きっとすごく時間がかかったに違いない。

「これは・・・?」
ロザリアが薔薇を指さすと、
「それね、あんたをイメージして作ったんだよ。 
 チープなイメージかもしれないけど、やっぱりあんたを花にたとえるならバラしかないと思ってさ。」
オリヴィエの指がすっとロザリアの頬を撫でる。

「いつも頑張ってるあんたに、何かしたかったんだ。
 今日もホントにお疲れ様。」

ロザリアは何も言えずに俯いた。
彼の掌はそっとロザリアの頬に添えられていて、目を閉じれば、優しい口づけをくれるだろう。
でも。

「わたくしは…ダメな恋人ですわ。
 こんなふうにあなたに優しくしてもらう資格なんて、全然ありませんの・・・。」

今日。
二人が付きあい始めた記念日。
ずっと前から、二人で過ごそうと約束していた。
それなのに、いざ、アンジェリークからの電話が入れば、すぐに気持ちはそちらへ向かってしまって。
補佐官としての執務を優先させてしまうのだ。
いつもいつも。
飛び込んでくる執務やアンジェリークの都合ばかりで。
…オリヴィエのことは後回しで。

「ダメなんですの。
 わたくしは一度にたくさんのことを考えられなくて、補佐官の職務を頑張ろうと思ったら、それしかできないんですわ。
 だから…。」
オリヴィエにはふさわしくない。
けれど、それを口にしたら、本当にオリヴィエが離れていってしまいそうで、結局何も言えない。
ロザリアは黙って、オリヴィエから視線を逸らし、ケーキを見つめていた。
綺麗な薔薇の細工。
オリヴィエならきっと何でもできるし、どんな女性だって惹かれる。
いつまでも引き止めておきたいなんて…思ってはいけないのかもしれない。

「知ってる。
 あんたって、ホントに不器用だもんね。」
くすっと零れるオリヴィエの笑い声。
「女王候補の時は女王にならなきゃって一生懸命だったし、補佐官になってからは、執務と陛下の世話。
 前しか見えないんじゃないかって思うくらい、まっすぐでさ。」
「…ごめんなさい。」
オリヴィエの言葉の真意を測りかねて、ただ謝罪の言葉を口にする。
今日の約束を守れなかったのは、ロザリアのせいだから。

「あんたは今日、私と一緒に過ごせなかったことを申し訳ないと思ってるかもしれないけど、私はあんたと一緒にいたって思ってる。」
「え?」
意外な言葉に、ロザリアはオリヴィエを見つめた。
今日一日、別々に過ごしていたのは間違いないのに。

「ふふ。
 だってさ、このケーキを作ってる間、ずっとあんたのことを考えてたんだ。
 どうしたらあんたを喜ばせられるか、美味しいって言ってもらえるか。
 それって、一緒にいるのと同じじゃない?」

ロザリアの目頭が熱くなる。
目の前がどんどん滲んできて、喉の奥までもツンとしてきた。

「一緒にいるとか付きあうとかって、同じ場所で同じことをしているだけじゃないと思うんだ。
 あんたの手が執務と陛下でいっぱいで、両側から引っ張られてるなら、倒れないように支えてあげたい。
 前しか見えないなら、横からくるものは除けてあげたい。
 重すぎるときは、半分持ってあげたい。
 私はそういう付き合いをあんたとしたいんだ。」

すうっと頬を伝った雫をオリヴィエの指が掬う。
ロザリアは彼の爪がいつものように彩られていないことに気が付いた。
きっとケーキを作るのに邪魔だから、飾るのをやめたのだろう。
いつも派手でお気楽そうに見えるけれど、そんな小さな心遣いをごく自然にできる人なのだ。

「わたくしは、なにもあなたに返せませんわ。
 きっとこれからも執務と陛下でいっぱいいっぱいで。」
「それでいいよ。 あんたはその二つだけ考えたらいい。
 それ以外の全部。
 たとえば、今からキスを何回するかも、明日の朝ごはんの紅茶の銘柄も、全部、私が決めてあげるから。」

まだシロップの香りの残るオリヴィエの唇がロザリアのそれに重なる。
ふと視界の隅にケーキが映り、早くそれを食べたいと思ったけれど。

「やっぱり、ケーキは後。 まずは『私』を選んでもらうよ。」
優しくそう囁かれれば、もう抗うことなどできない。
ロザリアは目を閉じて、その口づけの甘さに溶かされるのだった。


FIN
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