その日の昼過ぎ、私はカフェテラスから聖殿への途中で、この聖地で一番出会いたくない人に遭遇してしまった。
もし、もう少し後に出会っていたらと後悔したけれどその時点ではどうにもならない。
そして彼はその時も、女性なら誰をも虜にしてやまない笑顔を、見慣れている私にも出し惜しまなかった…。
「よう。
君らしくないな、今日は。えらくしょ気た顔してるじゃないか。」
さり気なく肩に回される手は適度に馴れ馴れしい。
彼に骨抜きの女官たちの間では、セクハラよりもスキンシップという表現の方が好まれているという。
会話も振る舞いも近づきすぎず、離れすぎず。
いつも「もう少し話していたい。」と思わせる辺りで切り上げさせられてしまうから。
なんとなく、置き去りにされたような気分になるのかもしれない。
皆次に彼と出会える時を待ち焦がれるように、仕向けられてしまうのだろう。
それが自分一人に対してだけではないと、分かっていても…。
彼のようなタイプは元々苦手だった。
年少期から鍛錬を重ねて培われてきたはずの騎士道精神の上に、わざわざ獣の仮面を被る。
そんな天邪鬼な性質が理解できなくて。
けれども女王候補の頃ならいざ知らず、今の私ならば難なく躱せるはずだった。
それなのに胸の中を重たい煙のようなものが覆っていて、適当な言葉が見つけられない。
彼はくるくると手慰みにしていた野薔薇を私の髪に差し、無遠慮一歩手前の探るような視線を寄越した。
返事を返しあぐねている私を弄ぶように。
「珍しいですわね、オスカー。
バレンタインデーの、しかも土の曜日に貴方がお一人でいらっしゃるなんて。
取り巻きのご婦人方はどうなさったの?」
一瞬彼の表情が変わったらしいように見えた。
けれどもその時の私は、私自身の気持ちを抑えつけることで手一杯だった。
「さぁ…俺のお嬢ちゃんたちはどこでどうしていることやら…。
君のおかげで俺は聖地一の…いや、この宇宙一の伊達男という綽名を返上させられてしまったからな。」
フッ…と彼おきまりの、見えていればバラ色をしているに違いない吐息が空に消えた。
一言挨拶を交わして済まそうと思ったのに、もう彼のペースに巻き込まれて話を引きずらされてしまっている。
「まぁ…それは貴方が健全な紳士にご成長あそばされたという意味でしたら喜ばしい限りですわ。
ですけど…どうしてそれが『わたくしのおかげ』なのかしら。」
すると彼は予期していたという様子で口角を上げた。
「そりゃ、君がリュミエールと付き合うようになって、リュミエールの株が上がったからに決まってるだろ?
おかげでこっちは土日も開店休業状態さ。」
オスカーはそう言って大仰に肩を竦める。
忸怩たる思いというのはこういった状況の時にぴったりの表現だろう。
安物のドン・ファンに己を擬えて、彼は私の不機嫌の理由をさりげなく言い当ててしまうのだ。
胸を覆っていた煙が渦になって、しだいに塊になって体の中を蠢いている。
「リュミエールが人気者なのは昔からですわ。
でもそれは老若男女すべての尊敬や憧憬に基づいているものですもの…貴方と違って。
………あ…。」
彼はまた、余計なひと言を足してしまって焦る私に嘲笑を浮かべる。
「ごめんなさい…わたくしったら…。」
私は心の中が暴かれそうになるのを、言葉の棘を纏って必死で防ごうとしていたらしいのだ。
オスカーには知られたくないと思うのに、それが焦りにつながっていらない動揺を誘う。
彼に知られたら、遠からずリュミエールにも知られてしまうに違いない。
…そんな焦りが。
リュミエールにだけは、子どもじみた嫉妬をしていたことを知られたくない。
追い詰められるのを予感していたからなのか、私は無意識に後ろ手で拠り所を探していた。
けれどもそんな私の心境を知ってか知らずか、彼の声は貪欲に耳孔を侵して行く。
「その通りさ、君は間違っちゃいない。
ただ、少なくとも本来は俺の所に寄越されるはずだったチョコレートだ。
その何分の一かは、単なる尊敬だけでアイツに渡されているとは思えなくないか?」
私の反応を愉快そうに眺める彼を睨み返そうとしたけれど、心が伴わないせいか説得力に欠ける。
「…ご自分がそうだからってリュミエールまでを貶めるのはお止めになって…。」
必死に反論しかけたところへ、顔の両脇に彼の腕が伸びた。
いつの間にか私は被食動物さながらに壁と彼の間に挟み込まれてしまっていた。
決してそれ以上狭まることは無いと分かっているのに。
逃げようと思えば逃げられそうなのに、なぜか足が地面に貼りついたように動かない。
「ヤツだってあの仰々しい服を取り払えば俺と同じただの男さ…。
君がよく知っているように、な。」
彼の声が首筋を舐めるように掠めて、鳥肌が立ってくる。
無遠慮な言葉を投げつけられた怒りよりも、その意味するところの恥ずかしさの方が勝っていた。
どこまでオスカーは私たちの事を知っているのだろう。
「リュミエールは分別を弁えていますわ…。
贈り物をされるのが例え陛下であろうが名もなき民草であろうが…同じように感謝の気持ちで受け取る人です。」
迷いを振り切るように、そう言い捨てた。
それは彼を諌めようとしているからなのか、自分自身を納得させようとしているのか分からない。
「『貴方と違って下心なんかなしに』…か?」
「…リュミエールはただ真心を無下にしないというだけですわ。」
オスカーの笑顔が次第に酷薄なものに変わっていき、私は唇を噛みしめる。
「つまり…言い換えれば、リュミエールにとって君からの愛情は、陛下や他のお嬢ちゃんたちから贈られるものでも代償が適うわけだ。」
「なっ…。」
けれども反射的に振り上がった右腕は、あっけなく彼の掌に捕われた。
「君もリュミエールも互いに傷つけるのを恐れて、本音では何も言えないんだからな。
本当の愛情がそこにあるのか甚だ疑わしい…そうは思わないか?」
続けざまに、押し広げるように奪われた唇からは血の味がにじむ。
「博愛主義なんて聞こえはいいが、それは結局誰も本気では愛していないという意味じゃないのか?」
彼の言葉が心の綻びまでを押し広げる。
彼がなぜ、ここまで私を挑発するのか理解できずに悔し涙が零れそうになる。
「…男性の嫉妬は見苦しくてよ、オスカー。
プライドが傷つけられたなら、奪われたものをご自身で取り返してごらんになったら?」
まるで屈辱を与えるためだけにされたような口づけの余韻で声が震えた。
でも握りしめられた右腕で拳を作ったところで何の甲斐もない。
彼はもう一度私の両手を壁に押し付けると肩口に顔を埋め、吸い上げるようにこう囁いた。
「ああ、無論そうさせてもらうさ。
その時は…たとえ君であっても加減はしない。」
厚かましさを通り越した侮辱。
オスカーがいなくなっても、私はその場所をしばらく動けなかった。
☆☆☆
注がれたまま手つかずのお茶は、もう冷めてしまっただろう。
焼き立てだった甘みを抑えたクッキーも、オーブンから出したばかりのあの香りと歯触りは戻らない。
監視しているわけでもないのに、こんな時のリュミエールは、聡く先回りして私を甘やかす。
そういう彼に、私は未だに当惑してしまう。
そして…そんな私ごと彼は包み込んでしまうのだ。
心の綻びも繕わないまま、纏った棘も取り払わないまま。
温めの湯船のような愛情で。
「どうかなさいましたか…?」
リュミエールの指に、後れ毛が絡まる。
気づかれたくないことほど、鋭敏に察してしまう彼に時々胸が痛む。
「いえ…なんでもございませんわ。」
うなじに添えられた手から伸びた長い人差し指が、そっと顎に添えられる。
危うい愛情に裏付けられた優しさで、労わるように唇が触れ合う。
「ロザリア。
わたくしは貴方を傷つけようとするものから守りたいのです…。」
滑稽なまでに誠実な、美しい眉を歪める彼に思わず微笑が浮かぶ。
でも彼は、彼しか本当の意味で私を傷つけられるものはいないのだという事を知らない。
「あまりわたくしを甘やかさないでいただきたいですわ、リュミエール。
それに…わたくしはそんなに弱くはございませんのよ。」
彼から齎される柔らかなカモミールの香りは麻薬のように、一時、ささくれ立った想いから私を解き放つ。
穏やかな彼の腕の中にいると何もかも忘れられると思う。
忘れたいと思う。
彼が私を悲しませたがらないように、私も彼を悲しませたくない。
ただ傍に、いられれば。
Fin