半年以上過ごしたこの飛空都市にもお別れしなければならない。
木々の隙間からこぼれる優しい日差し。どこまでも青く抜けるような空。
オリヴィエは景色を惜しむようにゆっくりと歩みを進めると、候補寮の前に立った。
もう、ここに来るのも最後かもしれない。
そう思いながら、青いドアをノックした。
少しの沈黙の後、ドアが開くとロザリアが顔をのぞかせた。
綺麗な青い瞳が驚きで少しだけ開くと、すぐにまたいつものような微笑みを見せる。
こころなしか寂しげに揺れた瞳を見て、オリヴィエは陽気に声を上げた。
「ね、今日はなんだか、いつもより景色が綺麗に見えるんだ。外へ行かない?」
どうしても一緒に過ごしたかったからだろうか。
意識してはいなかったけれど、少し早目に着いてしまったらしい。
まだ、カールされていない緩やかなウェーブの髪がロザリアの背中に流れていた。
ちらりと時計を見たロザリアはそれでも迷わなかった。
「ええ。ご一緒いたしますわ。わたくしも外へ出たい気分でしたの。」
ドアの隙間から体を滑らせるように飛び出したロザリアはいつものブルーのドレスの裾を優雅に翻らせてオリヴィエの前に現れた。
「気が合うね。それじゃ、行こうか。」
オリヴィエが足を向けたのは森の湖。
静かな場所でゆっくりと過ごしたかった。
お互い少し手を伸ばせば触れ合える距離にいるのに、どちらもそれ以上近づくことをしない。
ゆっくりと歩き続けて耳をすませば滝の音が聞こえるところまで来た。
「もうすぐ、終わりだね。」
女王試験が。
そして、こうして二人で過ごせる時間が。
歩きながら、何気ない調子で切り出したつもりだった。
「おめでとう。あんたが女王になれてうれしいよ。」
それなのに、ロザリアの足が急にとまり、つられるようにオリヴィエも立ち止まった。
緑の葉を透かして降り注ぐ光がロザリアの青紫の髪をつややかに輝かせている。
動かないロザリアの後ろ姿が何かを言いたそうに見えた。
突然、オリヴィエの腕がロザリアを包み込んでいく。
ロザリアの背中に伝わる、オリヴィエの暖かなぬくもり。
振り払うことも、抗うこともできたのに、ロザリアにはどうしてもそうすることができなかった。
「少しだけ。少しだけでいいんだ。・・・・こうしていさせて。」
首筋にかかるオリヴィエの吐息。
木漏れ日がロザリアの頬を明るく照らすと、次第に熱を帯びてくる。
確かに時間は流れているはずなのに、まるで全てが止まっているような気がした。
「もし、私が守護聖じゃなくて、あんたが女王候補じゃなかったら、どうなっていたかな?」
ありえないたとえ話だとわかっていても、オリヴィエは言わずにはいられない。
まわされた腕に力が込められたのを感じて、ロザリアは息をのんだ。
「もしそうならば、出逢うことさえできませんでしたわ。」
守護聖だから、女王候補だから、出逢うことができた、奇跡。
「それでも、もし、わたくしが女王候補ではなく、あなたが守護聖ではなかったらと、考えない日はありませんでした。」
それが今伝えられる精一杯の言葉だと、お互いにわかっていた。
ロザリアの手がオリヴィエの腕にそっと触れる。
そこにはただ、静かな想いだけがあった。
鳥の声を聞いて、オリヴィエは腕を緩めた。
名残惜しい気持ちを振り払うようにロザリアの前に回ったオリヴィエはポケットから小さな箱を取り出した。
蓋を開けると中にあったのは1対のリング。
「これをね、あんたに渡したかった。」
オリヴィエはロザリアの右手をとると、滑るような動作で薬指にそのリングをはめた。
「私にもはめてくれる?」
差し出されたオリヴィエの右手はとても暖かくて、ロザリアの手が震える。
ロザリアが時間をかけて薬指にはめたリングをオリヴィエは愛おしそうに眺めた。
「右手なのはね、これで終わりじゃないから。いつか、左手にプレゼントするよ。それまで、待っていて。」
頷いたまま、ロザリアはリングを見つめた。
「信じていますわ。いつか、あなたが左手にはめてくださることを。」
二人の影が近付いて、やがて一つになる。
明るい飛空都市の空が二人を包んでいた。
その日の夜、オリヴィエはバルコニーでたくさんの星が流れていくのを眺めていた。
降り注ぐ星が花火のように夜空を彩っている。
「ねえ、試験に負けたら、あんたはどうするの?」
何度目かのデートで少し意地悪に聞いたオリヴィエの言葉に、ロザリアはあの高飛車な態度でこう答えた。
「負けるなんてこと、考えてもおりませんわ。わたくしは女王になるために生まれてきたのですもの。」
いかにもな返事に、オリヴィエは少しがっかりした。
見たままの人間であるならば、これ以上知りたいと思わない。
「ですが、もし、女王でなければ、愛する人と暮らしたいと思いますわ。」
可愛らしい声に頬を染めた顔。
「小さな赤い屋根の家で猫を飼うんですの。」
「猫?」
「ええ、ずっと、猫を飼ってみたいと思っていますのよ。」
一瞬のぞいた本当のロザリアはまるで普通の少女だった。
あのときから、ロザリアを愛したのだと思う。
流れて行く星のようにオリヴィエの脳裏にたくさんの思い出がよぎる。
古い宇宙から新しい宇宙へと女王の交代が行われた。
謁見の間でひざまづいたオリヴィエは女王の足音が近づいてくるのを聞いていた。
御簾越しにしか見ることのできなかった姿をやっと今日見ることができる。
オリヴィエが顔を上げると、ロザリアはまっすぐな青い瞳で瞬きもせずにオリヴィエを見つめていた。
「夢の守護聖、オリヴィエ。」
名前を呼ぶ声がいつものように凛と部屋に響く。
心なしか震えているように感じるのはうぬぼれではないと、オリヴィエには思えた。
「今日まで守護聖としてよく働いてくれました。ご苦労様でした。」
台本を読むような言葉の後に流れた沈黙。
いつもなら女王の傍らに立つ補佐官のアンジェリークが、謁見の終了を告げるはずだった。
けれど、アンジェリークにはどうしてもその一言が言えない。
オリヴィエの声が沈黙を破った。
「陛下。最後に二人でお話ししたいのですが、お聞き届けいただけませんか?」
執務服も2度変わった。
けれどロザリアの目に映るオリヴィエはあの頃と少しも変わらない。
優しいブルーグレーの瞳がロザリアを包んでいる。
ロザリアがアンジェリークに顔を向けると、アンジェリークは小さく頷いた。
人払いの後、しばらく二人はその場に立ち尽くす。
見つめあう瞳は会えなかった長い時間を取り戻すようにお互いだけに注がれていた。
「あの約束、まだ覚えてる?」
オリヴィエは小さく頷いたロザリアの手を握ると、その腕の中に抱き寄せた。
「私の気持ちは変わらない。これからもずっと。」
自分の右手のリングをロザリアに見せる。
「このままにしておこう。・・・きっとまた会えるから。」
ロザリアは何も言えなかった。
『今度』がないことを誰よりもよく知っている。
最後に二人はゆっくりと唇を重ねた。
ロザリアの心にリングよりも大きな想いを残して、オリヴィエは謁見の間から立ち去って行った。
何度目かの春が過ぎて、ロザリアは宮殿の外に出た。
穏やかな景色は初めて聖地に来た時と同じ、ひたすらな空の青。
歩きながら見上げた木々の隙間から優しい日差しがこぼれている。
自分が守って来た世界の美しさをロザリアは胸に焼き付けるように大きく息を吸い込んだ。
目をつぶり、頬をなでる風に耳をすませると、背中に流したままの髪がふわりとそよいでいく。
華美なドレスはすべて処分して、荷物はこのバック一つだけ。
『至高の青薔薇』と呼ばれた女王はシンプルな青いドレスに身を包みまっすぐ歩いた。
今日からは一人きりで生きて行くことになる。
アンジェリークは大切な人とこの地に残るのだ。
「ねえ、ロザリア。あなたは一人じゃないの。いつでも・・・そばにいるから。」
昨夜、ロザリアの手をとって、アンジェリークはそう言った。
離れていても心はそばにいると、そう励ましてくれたのだと思う。
自分の人生を後悔はしないけれど。
ただ、会いたい。
ロザリアはじっと一度も外したことのない右手のリングを見つめた。
「ロザリア。」
後ろからかかる声に振り向くことができなかった。
もし、振り向いて誰も居なかったら、きっと泣いてしまうから。
動かないロザリアの体を暖かな腕が包み込む。
背中を伝うぬくもりは、あの日と同じ。
「会いたかった。」
ロザリアの髪に顔をうずめたオリヴィエもそれきり何も言えなかった。
震えるロザリアの右手がオリヴィエの右手に触れて、指輪を確かめる。
「あの時言ったよね。もし、私が守護聖でなくて、あんたが女王候補でなかったとしたら。」
通り抜けた風がオリヴィエの金の髪を舞いあがらせる。
懐かしい香りにロザリアはただ、オリヴィエの手を握った。
「きっともっと早く言えた。・・・あんたを、愛してる。」
ずっとこらえていた涙がせきを切ったようにロザリアの頬を伝っていく。
その涙が止まるまでオリヴィエはロザリアを抱きしめていた。
長い長い想いがようやく溶け合って、一つの影になる。
木漏れ日が時折風に揺れた。
オリヴィエはロザリアの右手から指輪を抜き取ると、左手にはめなおした。
「私のそばにいてくれる?」
頷いたロザリアがオリヴィエの右手から左手へ指輪を移す。
「わたくしのそばにいてくださいますか?」
返事の代わりにオリヴィエが差し出したのは1枚のチラシ。
『マダム・オリーのヘアサロン 閉店のお知らせ』
「こんな男らしいカッコしたのは久しぶりだよ。ずっとスカートばっかりだったからね」
ロザリアはウインクしたオリヴィエと、チラシの写真を何度も見比べた。
「まさか、この、マダムというのが、あなたですの?」
にっこりほほ笑む黒髪の美女はよく見れば確かにオリヴィエで。
「だってさ、このまま残るのはマズイってアンジェが言うからさ。これならバレないって言われたけど、ホントにバレないもんだよねぇ。」
オリヴィエのブルーグレーの瞳がロザリアを捕らえた。
「ずっと待ってたんだ。今さら、離すわけないでしょ?」
強く抱きしめられた腕の中でロザリアはオリヴィエの背に手をまわした。
『一人じゃない』。
アンジェが言った言葉の意味がやっとわかった。
オリヴィエがいてくれる。これからもずっと。
オリヴィエの瞳がゆっくりと近づいてきて、ロザリアは目を閉じる。
今、こうして、オリヴィエの腕の中にいる、そのことが奇跡。
唇が触れようとした瞬間、「にゃ~。」とロザリアの足元から声がした。
はっと目を開いて下を見ると、綺麗なブルーの瞳の子猫がいる。
オリヴィエは苦笑して、子猫を抱きあげるとロザリアに見せた。
「どう?あんたに似てると思わない?」
ロザリアの顔の隣に子猫を並べると、オリヴィエは楽しそうに笑った。
渡された子猫の初めて触れる柔らかな毛並みに、ロザリアはなんだか暖かな気持ちになる。
ざらざらした舌になめられて、ロザリアは声を上げた。
その様子を見て、オリヴィエは二人の荷物を持ちあげると、ロザリアの背にそっと手をまわした。
「さあ、行こう。」
「どこへ?」
ロザリアと子猫の4つの青い瞳がオリヴィエを見つめる。
夢にまで見た幸せな風景にオリヴィエも優しく見つめ返した。
「そうだね。・・・・まずは赤い屋根の家でも探しに行こうか。」
FIN