そう言ったロザリアの瞳のはかなさに、オリヴィエは胸打たれた。
青い瞳の中に花が舞い落ちるように、さみしさと切なさが降り積もるようで。
返す言葉を失った。
女王になれなければ、カタルヘナ家に戻り、一族を盛り立てていく。
それは、ロザリアにとって暗黙のルールだった。
名門に生まれた責務とは、その歴史をつないでいくことなのだから。
「一族の皆から非難され、それでもなお、自分の望む道を進む覚悟が、まだ持てないのかもしれません。」
「私達がいても？アンジェリークだって、守護聖のみんなだって。あんたが補佐官として聖地に来てくれることを願ってるんだよ。」
誰よりも自分がそう願っている。そして彼女もそう思っていてくれると、信じていたのに。
目を伏せたロザリアの髪の上に、まだ青い葉が落ちた。
色づく前に散らした葉は、まるで目の前にいる彼女のようだと思う。
このまま、消えてしまうのだろうか。花開く姿を見る前に。
「申し訳ありません。」
すり抜けるようにオリヴィエの腕を逃れたロザリアの背中が、瞬く間に聖殿の中へと消えていく。
彼女を縛り付けているモノはそう簡単に離れてくれるものではない。
それは十分わかっているけれど。
後に残った彼女の香りに、オリヴィエは小さくため息をついた。
静まり返った部屋の中で、柱時計の鐘が部屋中に響く。
時計を見上げたロザリアは、帽子を深くかぶりなおすと、トランクの持ち手を握った。
ごろごろと嫌な音を立ててキャスターが回り始めると、あとは足が勝手に前へと飛び出していく。
新女王の戴冠式も昨日、無事に終了し、宇宙の平和は約束された。
昨日のアンジェリークは堂々としていて、誰が見ても立派な女王にふさわしい少女だっただろう。
一般の招待客の中にいたロザリアは、親友になった少女の成長に心から拍手を送った。
補佐官に、との望みを丁重に辞退し、最後まで泣かれてしまったのには閉口したけれど。
昨日の喧騒が嘘のように、下界へと向かうプラットホームには人気がなかった。
聖地はとても美しい。
ゼフェルは人工的な温室のような場所だと揶揄していたが、ここには美しいものしか見あたらない。
景色も、住む人も、なにもかも。
ロザリアはゼフェルのくれた懐中時計をバッグから取り出した。
蓋には彼自らが施した見事な細工があり、ボタンを押すと、ホログラムの針が時刻を教えてくれる仕掛けだ。
きっと彼は怒っているだろう。
『補佐官になったら、もっと時間とか気にしなきゃなんねーだろ？』
そう言ってこの時計をくれたのだから。
ゆっくりと列車が近付いてくる。
シャトルでいけば一瞬の主星までの道のりを電車にしたのはロザリアの最後のわがままだった。
この間に気持ちの整理をつける。
そして、もとのロザリア・デ・カタルヘナに戻るのだ。変わるのではなく、もとへ戻る。それだけのこと。
電車がホームを離れ、ロザリアが窓を開けると、遠くの草原でキラリと何かが光った。
銀色のエアバイクだ。
エアバイクはどんどん近づいてきたが、電車も加速していくせいで、その距離はなかなか縮まらない。
聖地に戻ったら自慢の愛車に乗せてくれると約束していた、ゼフェル。
その約束を破ったのはロザリア自身なのに、わざわざ見せに来てくれたのかもしれない。
ロザリアは窓から身体を乗り出して後方を走るエアバイクを振りかえった。
「間に合わなかったのかよ。」
オリヴィエが私邸の前にエアバイクを止めると、待ち構えたように声がかかる。
ヘルメットを外したオリヴィエは軽く頭を横に振ると、乱れた髪を気にするように前髪を掻きあげた。
「…もう出た後だった。」
オリヴィエが手渡したゴーグルをゼフェルが地面に投げつける。
何かの割れる、鈍い音がした。
「おめーはそれでいいのかよ！もう二度とあいつに会えねーんだぞ。おめーならあいつを連れ戻せるって、そう思ったから、オレは！」
「いいって、思ってたんだ。ロザリアがそう決めたなら、それでもいいって。」
なのに、彼女がここを出ていくと知った時、追わずにはいられなかった。
伝えたいことがあったわけでも、ましてや連れ戻そうと思ったわけでもない。
ただ、会いたかった。
ゼフェルから強引にエアバイクを借りて、彼女の列車を追ったのだ。
「でも、決めたよ。」
オリヴィエは転がったゴーグルを拾い上げると、ゼフェルの胸元へと押しあてた。
その力が思いのほか強くて、ゼフェルの胸が詰まる。
「ロザリアを連れ戻す。…あんたと、コレのおかげだよ。あのままあの子に会わずにいたら、きっと気がつかなかった。」
エアバイクを走らせて、ロザリアに追いつこうとした。
顔に直接あたる風はいくらゴーグルをつけていても、頬を斬るのではないかと思うほどの痛みを与えてくる。
不意に列車の窓が開き、青紫の髪が外へと流れ出した。
ゴーグル越しの濁った視界が、彼女だけに固定されると、他の景色も、風の音も、列車の轟音さえ。なにも感じなくなった。
「ロザリア！」
思わずオリヴィエが叫ぶ前から、彼女は自分に気が付いていたと思う。
ゼフェルとは違う、明るいメッシュをさした金の髪が、風に流れていたから。
「オリヴィエ様。」
ロザリアの唇が名前を紡ぎ、青い瞳がオリヴィエを捕えた。
そして。
彼女が腕を伸ばした。オリヴィエに向かって、捕まえてほしい、と、懇願しているように。
オリヴィエは、エアバイクのシートをぽんと叩いた。
ぽんっと小気味のいい音が返ってきて、まるでオリヴィエに感謝しろとでも言っているようだ。
「ちょっと下界に行ってくるからさ。アンジェ…じゃなかった陛下にうまく言っといて。」
「おい！」
呼びとめたゼフェルにオリヴィエは軽くウインクをすると、ひらひらと手を振った。
暗い森がどこまでも広がっている。
まばゆい太陽の光さえ、この森の奥では、柔らかな陽だまりになってしか届かない。
作りは豪奢だがこじんまりとした家の中で、ロザリアはソファに座り、本を読んでいた。
時折ページをめくる音がするだけの静かな世界。
少し前まで、なにもない午後には必ず彼女のもとを訪れてくれていた可愛らしい親友も、今は遠い。
初めは恐ろしいと思っていたばあやと二人きりの生活も今ではすっかり慣れた。
女王試験に敗れたロザリアを、元の世界は快く迎えてはくれなかった。
表面上はねぎらいの言葉をかけても、陰では悪口を言う。
ロザリアはたいして気にしなかったが、両親にはそう見えなかったらしい。
たしかにロザリアは日に日に元気をなくしていたが、原因は違う。
ある日、ロザリアはゼフェルからもらった懐中時計を取り出して、開けてみた。
浮かび上がるホログラムは飛空都市で見た時と同じで、少しほっとしたような、それでいてさみしい気持ちに襲われてくる。
しばらく眺めていたロザリアは、時計の差している時刻が狂っていることに気がついた。
すれは初めほんの小さなものだったのに、日がたつにつれ、だんだんと大きくなってくる。
時計の針がずれるたび、ロザリアは聖地との距離を感じるようになった。
それはすなわち、彼との距離だから。
こうして少しずつ彼とずれていってしまうのだと、改めて実感させられた。
懐中時計を見ては、ぼんやりしていることが増えた娘を気遣って、両親はこの別荘を勧めてくれたのだ。
冷めた紅茶を飲みほして、ロザリアは溜息をついた。
離れてしまえば、想うこともなくなると思っていたのに。
時間がたてばたつほど、彼のことしか考えられなくなる。
いつかは忘れられるのだろうけれど、そのいつかが、いつなのか、今は全くわからない。
本当に、そんな日が来るのかさえも。
「外へ散歩へ行ってきますわ。」
キッチンにいるばあやに声をかけ、ロザリアはショールを巻いた。
さっき遠くで鳥の声が聞こえたから、もしかすると、近くに動物が来ているかもしれない。
可愛らしい動物たちに会うことは、ロザリアにとって静かな日常の中での楽しみの一つだった。
「いけません！お嬢様。」
エプロンで手を拭きながら、ばあやがキッチンから飛び出してきた。
あまりの勢いに、ロザリアは少し驚いて、ばあやを見つめてしまう。
「なぜ？少し外の空気にあたりたいだけですわ。」
「あの、今日は、天気が悪いようですので、外へ行かれるのは…。」
窓越しに見える外は、これほどの晴天も珍しいくらいの陽気だ。
「あの、少し方角がよろしくないと、占いが…。」
占いなど、今まで気にしたこともないのに。
「あの、そういえば、もうすぐパイが焼きあがりますので、召し上がってから、お出かけになられては？」
キッチンの様子はパイではない気がするけれど。
あまりにも不自然なばあやの様子にロザリアは困ってしまった。
けれど、外に行って欲しくないという気持ちはよくわかったので、黙って従うことにした。
ロザリアはショールを戻して、再びソファで本を読み始めた。
すぐにばあやが熱い紅茶を持ってくる。
そういえば、このところずっと、ばあやは様子がおかしい。
そわそわしたり、なにかひそひそ電話をしていたり。
もしかして、ロザリアの知らないところで、縁談でも進んでいるのかもしれない。
それを受け入れる覚悟はとうにできているはずなのに、やはり胸が痛くなった。
がたっと、大きな物音がして、ロザリアは顔を上げた。
両親が訪ねてくるほかは訪れる人もほとんどいないこの家に、一体誰が。
「まあまあ、お待ちしておりました。お嬢様なら奥にいらっしゃいます。」
ばあやの弾んだ声が聞こえてくる。
目の前のドアが開いたとき、一瞬、幻を見ているのだと思った。
いるはずのない人の姿が、瞳に映ったから。
「ふう、ずいぶん田舎だね。来るだけで大変だったよ。」
メイクもしていない、髪も染めていない。服装だって、コートとシャツだけの普段着だ。
彼が夢の守護聖だと、一目では気がつかないかもしれない。
言葉もなく立ちつくすロザリアにオリヴィエは優しく微笑むと、コートを脱ぎ、ばあやへと手渡した。
「ありがとう。ばあやさんのおかげで、ここまで来れたよ。」
オリヴィエのウインクに、深深とお辞儀を返したばあやはコートを手にしたまま、部屋を出て行った。
「探したよ。…遅くなって、ごめん。」
オリヴィエが一歩近づくと、彼女は小さく後ずさったが、かまわず前へ進む。
「あんたの家の人ってば、なかなか教えてくれないんだから。私、そんなに怪しい人間に見えたのかね？」
夢の守護聖の執務服では人目に付くと、私服でロザリアの家に向かったオリヴィエだったが、何度も体よく追い返された。
聖地のことを明かせば早かったのかもしれないが、迎えに来たのは自分の意思で、聖地は関係ない。
髪の色を落とし、メイクをやめて、毎日ロザリアの家を訪れた。
根負けしたのか、ようやくロザリアと一緒にいるばあやと連絡を取ってくれたのだ。
「ばあやさん、あんたのこと心配してたよ。」
もう一歩。
彼女のそばまで近づいて、オリヴィエは手を伸ばした。
長い青紫の髪が指先に触れて、ようやく目の前の彼女が現実なのだ、と思えた。
「お肌も荒れてるし、髪の毛だってパサパサ。だいぶおしゃれに気を抜いてたね？」
「そんなこと…。」
気にしたこともなかった。
飛空都市ではいつも巻いていた長い髪も、いつオリヴィエに会ってもいいようにと、気にして差していた口紅も。
彼と離れてから、まともに鏡を覗いたことさえなかったのだ。
ロザリアの頬が染まっていく。
「まったく、また一からレッスンしてあげるから。戻っておいで。」
髪に触れていた手が頬へと滑る。
「戻れませんわ。わたくしは、この家を捨てることなんて、できませんもの。」
見つめ合っていた瞳をそらして、ロザリアから言葉がこぼれた。
頬を撫でていたオリヴィエの手が離れる。
彼のぬくもりが消えた頬は、一人で過ごしてきた時と同じ温度のはずなのに、前よりもずっと冷たく感じた。
一度知ってしまった想いを捨てることが、こんなにも難しいように。
「捨てなよ。全部。私のために、捨てて。」
思いがけない言葉に、ロザリアの頭にかっと血が上る。
言い返そうとしたロザリアをブルーグレーの瞳が静かに制した。
「あんたにだけ、なんて言わないよ。私も、捨てるから。」
オリヴィエは胸ポケットから銀色の折り畳みナイフを取り出すと、束ねた髪の根元にあてた。
キラリと日差しが刃に輝く。
そして、ロザリアがあっという間もなく、オリヴィエがナイフをひくと、金の髪が床にはらはらと舞い落ちていった。
「私が持ってる過去はこれだけなんだ。あんたにくらべれば、少ないかもしれないけど、許してくれるかい？」
床に広がったハニーブロンドが、まるで黄金色の麦穂のように風に揺れている。
茫然としたままのロザリアの前で、オリヴィエはこぼれた髪を拾い集めると、テーブルの上に乗せた。
束ねたゴムのおかげで、それほど散らばらず綺麗な房のような金の髪。
腰まで届いていた髪が肩に触れないほどの長さになったオリヴィエは軽く頭を振った。
「さっぱりしたよ。さあ、行こう。」
「わ、わたくしは…。」
狼狽して後ずさるロザリアの腕を掴んで、オリヴィエはにやりと笑った。
「もう逃がさないよ。私のをあげたんだから、あんたのももらう。」
こんなに強引なオリヴィエを見たことがない。
いつでも軽くかわすばかりで、本心をつかめない人だと思っていたのに。
「無理ですわ。」
何度となく繰り返した言葉は、試験の終わりごろから、ずっとずっと考えて出した答え。
「わたくしがいなくなれば、カタルヘナ家はなくなってしまいます。」
ロザリアが結婚し、家を継がなければ、ここで、家系は潰えてしまう。
家を助ける術を持っているのに、見知らぬふりはできない。
代々受け継がれてきた家名を守ってきた両親のためにも。
「なんで？大丈夫だよ。あんたが聖地に行っても、家は潰れたりしないから。」
くすっと笑いをこぼしたオリヴィエの手をロザリアは振り払った。
からかっているとしか思えない言い方にまた頭に血が上る。
「跡取りはわたくししかおりませんのよ！」
「だから。」
オリヴィエはとても楽しそうに、こう言った。
「あんたに弟か妹ができるから。心配しないでいいって言ってんの。
私を誰だと思ってんの？夢の守護聖だよ？私がちょいと本気になれば、それくらいお手の物なんだから。あんたのお母さんってば、もともとすごい綺麗だしね。」
ロザリアによく似た面差しをした夫人に、ほんの少しアドバイスをした。
長年連れ添って、お互いに愛情はありながらも、表に出しにくくなっていた二人はそのアドバイスを素直に受け入れてくれたのだ。
まるで新婚当初に戻ったようだと、屋敷の使用人たちが噂するまでに。
ポカンとしたロザリアに、オリヴィエはふっと笑みをこぼして、肩をすくめた。
「物分かりの悪いお姫様だね。…しかたがない。」
いきなり、体が軽くなった。
空を飛んでいる。そう思えるほど、オリヴィエは軽々と彼女の身体を抱きあげると、ギュッと強く抱きしめた。
「しっかり手を伸ばして、私に捕まって。あの時みたいに、離れたりしないように。」
彼女が伸ばした手を掴めなかった。
遠ざかる青い影に、どれほど後悔しただろう。
もう二度と、離すつもりはない。
オリヴィエの想いをこめた瞳が、ロザリアの全身を包みこんだ。
ロザリアは手を伸ばすと、オリヴィエの短くなった髪に触れた。
「わたくしのせいですのね。オリヴィエ様の髪、とてもきれいで好きでしたのに。」
「そう？」
ロザリアを抱いたまま、オリヴィエが歩き出すと、強引に切ったせいで不揃いな毛先がふわりと揺れる。
「じゃあ、伸びるまで、傍にいてよ。」
「伸びるまで…ですの？」
拗ねたような口調にオリヴィエは笑みを深くすると、彼女の瞳を覗きこんだ。
深い深い綺麗なブルー。
今、彼女が見ているのは、自分だけだ。
「そうだね。それからどうするかは聖地に帰ってからゆっくりと決めようじゃない？…二人でさ。」
家の扉を開けると、オリヴィエの肩をさわやかな風が通り過ぎた。
長い髪も、それにつながる過去のすべても、この腕の中にあるものに比べれば、少しも惜しくはない。
「皆も待ってるよ。…あんたを連れて帰れば、私も陛下にそんなに怒られないと思うしね。」
「まさか、陛下に黙って？」
「んー、多分ゼフェルがなんとかしてくれてると思うけど。」
「まあ！」
元々の気まじめさから、つい声を荒げてしまったロザリアにオリヴィエは微笑んだ。
柔らかな光がオリヴィエの金の髪を照らしている。
ロザリアはオリヴィエの首にしがみつくと、彼の頬へ小さなキスを落としたのだった。
FIN
