ゼフェルがそんなメールを開いたのは、すでに日付が土の曜日に変わったばかりの時刻だった。
端末のメールボックスに着信のランプがともっていることに気がついてはいたものの、頼まれていたおもちゃのロボットの修理に没頭していて、ついつい後回しにしてしまっていた。
「ここんとこ改造したの、気がつかねえかもな。」
ほんの少し塗装を削り、ロボットらしく見えるようにメタリックのスプレーをかけた。
両目の点滅のサイクルも単調でなく、ランダムに変えている。
純粋に、その方がカッコイイと思ったからだが…。
改造に気がついて子供たちが喜んでくれれば、それはそれで嬉しい。
明日(正確には今日だが)、庭園で子供に手渡せば完了だ。
さっき、ようやく最後のネジを締め、ロボットの両目が光りながら足を動かすのを確認したところで。
机の上に置いたままのすっかりぬるくなったペットボトルをあおり、端末のメールボックスを何気なくクリックした。
差出人を気にすることもなく、開いたメールを見た瞬間。
ゼフェルは口の中のミネラルウォーターをごくりと飲み込んだ。
「明後日?!…マジかよ。」
ガシガシと頭に手を突っ込み、銀の髪を掻き混ぜると、さっき飲んだばかりなのに、もう喉が渇いた気がしてくる。
冗談を言ったつもりはないが、本気にしたとも思っていなかったのだ。
まさか、彼女が本当にメールをくれるだなんて。
事の起こりは三日前。
いつものようにルヴァの執務室に集まり、午後のお茶を飲んでいた時のことだ。
偶然、ルヴァの部屋に届いた新しい海の生き物の図鑑。
このところ、ルヴァの中で海がマイブームらしく、これから読む予定として積み上げられている本のほとんどがソレ関係の物だった。
「僕、一度だけ家族と行ったことがあるよ。お姉ちゃんが僕に浮き輪をつけてくれてね。すっごく楽しかったよ!」
マルセルが言えば、
「俺もあるよ。守護聖になってから、リュミエール様と一緒に海洋惑星に行ったんだ。」
「わたしも!ママが水着になりたくないって、ずーっとパラソルの下にいたの。今なら気持ちわかるわ…。」
ランディと女王アンジェリークが、話に乗っている。
「オレも子供のころはよく親と行ってたぜ。デカくなってからはダチとつるんでたし。」
「え、ゼフェル、泳げるのか?」
ランディの即座の突っ込みにカチンときたゼフェルは、ふんと鼻を鳴らした。
「あたりめーだろ。泳げねえ奴なんていんのかよ。」
「はあ、すいません。」
みんなの話を聞くだけだったルヴァが突然口を挟んだ。
「私の故郷には水のあるところ自体少なくてですねぇ。泳ぎなど、とても…。」
「それは仕方ないですよ!ルヴァ様のせいじゃありません。…ゼフェル!」
マルセルにじろりと睨まれ、ゼフェルは舌打ちを繰り返した。
「ルヴァはしょうがねえか…。」
それがゼフェルの精いっぱいの謝罪とマルセルにも分かったのか、それ以上は睨まれることもない。
また、誰と海に行っただの、その時どうした、だの、ワイワイと話が盛り上がってきた。
会話の中心になる3人と巻き込まれるルヴァ。
いつも通りの午後のお茶。
その時、ゼフェルの隣から、ぽつりと声が聞こえたのだ。
「わたくし、海に行ったことがありませんわ。」
騒がしいメンバーから少し離れた窓際の席。
ゼフェルの定位置のそばに、いつの間にか立っていたロザリア。
いつも凛とした彼女の控え目な声に、ゼフェルは思わずドキリとした。
まるで、その呟きをゼフェルにだけ言ったような気がしたから。
「ホントかよ? 一回もねえの? アンジェ…じゃなかった陛下は行ったことあるって言ってんじゃねーか。おんなじ主星だろ?」
ドキドキする鼓動を隠そうとするせいか、つい饒舌になったゼフェルにロザリアは曖昧な笑みを浮かべた。
「ええ。もちろん主星に海はありますわ。…でも、行きませんでしたの。」
ロザリアの表情がほんの少しさみしそうに見えて、ゼフェルの鼓動が再び大きくなる。
貴族という人種は海でバカ騒ぎをしたりはしないのだろう。
スイカ割りや砂山作り。
くだらないけれど、楽しかった。
「行きてぇなら連れてってやってもいいぜ。」
「え?」
驚いた声のロザリアの顔を見る勇気がなくて、前を向いたまま、ゼフェルは言った。
「休みとかあったら言えよ。…気が向いたらだけどな。」
つい言葉にしてしまったが、もしかして呆れているかもしれない。
まるで海に行こうと誘っているみたいだ。
自分が恥ずかしくなって、ゼフェルはまだわいわいと海の話をしているメンバーの元へ飛び込んだ。
「ゼフェルは、イカ焼きととうもろこし焼き、どっち派?」
いきなりのアンジェリークの質問に面喰ったものの、すぐに「イカに決まってんだろ!」と答えて、ソファに座り込む。
「やっぱりねー!」
「絶対とうもろこしだよ~!」
力説するマルセルの肩越しに、ふとロザリアの顔が見えた。
一瞬目があったかと思うとすぐに逸らされた青い瞳。
慣れないことを言うもんじゃない。
自分に舌打ちしたゼフェルは、後の会話はほとんど上の空で、いつの間にかお茶会も終わっていたのだった。
「やべえ!」
メールを穴のあくほど見た後、ゼフェルは椅子から文字通り飛び上がった。
何度も海に行ったことがある。
それは本当だが、聖地に来てからは一度も行っていない。
ゼフェルはあわてて端末をいじり始めた。
「くそっ!…時間あっかな。」
もともと真赤な瞳がさらに赤くなるまで端末を睨んでいたゼフェルは、空が白み始めたころ、ようやくベッドに転がった。
あれこれ調べて、やっと立てたプラン。
着ていく服、水着、必要な荷物を頭の中で思い浮かべて、確認するようにふっと息を吐いた後、目を閉じた。
それでも高ぶった気持ちはなかなか静まらない。
二人で出かけるだなんて、女王試験以来なのだから。
何度も寝がえりを打ったおかげで子供たちとの約束にほんの少し遅れてしまったゼフェルは、罰として別のロボットの改造を頼まれてしまう羽目になったのだった。
日の曜日の朝。
ピカピカに磨き上げたエアバイクを横付けして、ゼフェルはロザリアをタンデムシートに乗せた。
「しっかり捕まってろよ。」
ゼフェルの声に腰に回された細い腕に力がこもる。
後ろに乗せることも初めてではないが、久しぶりではある。
たった数カ月前のことなのに、なんだかずいぶん前のことのように思えて、ゼフェルはぐっと息をのみ込んだ。
背中越しに感じるロザリアの身体が以前よりもずっと柔らかい。
思い切りアクセルを吹かすと、エアバイクが宙に舞った。
一気に空を抜け、門をくぐればすぐに下界が見えてくる。
ゼフェルはスピードを緩め、後ろのロザリアに声をかけた。
「大丈夫か?」
返事の代わりにぎゅっと抱きつかれ、ゼフェルの心臓が激しく波打つ。
「ちょっと揺れるぜ。」
海へ向かう車の列を縫うように、エアバイクは車体を滑らせて走っていった。
下界では聖地のように空を駆けるわけにはいかない。
とくに主星はルールが厳しいから、下手なことはできないのだ。
交通違反で捕まって一日がパーになる…なんてことにはなりたくない。
ゼフェルは器用に渋滞の列をすり抜けて、海岸のすぐそばの駐車場にエアバイクを止めた。
メットをとると、すぐに肺全体に海の香りが広がる。
ロザリアもゼフェルから腕を解き、駐車場のアスファルトにつま先を伸ばした。
彼女のメットをとるのを手伝って、シート下のボックスにそれをしまい込む。
「変わった香りですわ。」
ふわりと流れてくる潮風がロザリアの長い髪を海の方へと誘い込んでいった。
「潮の香り、ってヤツだぜ。この匂いをかぐと、海に来たって気がすんだよな。」
運転で固まった体をほぐすように、ゼフェルが思い切り腕を空に向けて伸ばすと、ロザリアが深呼吸をしているのが見えた。
「海の香り、なんですのね。」
ゼフェルに向かって笑うロザリア。
きっと彼女も肺いっぱいに海の香りを吸い込んだのだろう。
ギラギラした太陽の光も手伝って、眩しいほどの笑顔だ。
ゼフェルはその眩しさに思わず目をそむけると、顎で建物を差した。
「着替え。…まさかそのまま海に入るんじゃねえよな。」
エアバイクで行くことを伝えていたから、今日のロザリアはパンツ姿だった。
いつもの補佐官服とは全く違う、丈の長い白のブラウスにアースカラーのカーゴパンツ。
なんとなくゼフェルに合わせてくれたようなファッション。
「もちろん着替えますわ!」
ロザリアは、さっと頬を赤らめて頷いた。
「ココで待ってるからよ。急がなくていいぜ。」
実はゼフェルは服の下にすでに水着を着ていたのだ。
手間取って彼女を待たせるようなことはしたくない。
時間がかかると思っていたが、意外にロザリアはすぐに更衣室から出てきた。
「下に着ていましたのよ。」
「オレもだぜ。おめー、わかってんじゃねーか。」
「実はアンジェに言われましたの。」
ロザリアも浮き立っているのだろうか。おどけたような返事は聖地で聞く言葉の響きとはまるで違う。
なぜか目があって、自然に笑い合っていた。
けれど、浮かれた気分も束の間。
ちくちく刺さるような視線にゼフェルは辺りを見回した。
それから目の前のロザリアを改めて見直す。
透けるような白い肌に、鮮やかなパープル地の大きな白い花がら。
ホルターネックのせいか豊かな胸がさらに強調されて、谷間のリボンが窮屈に見えるほどだ。
両サイドをリボンが飾るパンツは、はきこみが深いとはいえ、くびれたウエストを隠すほどではない。
普段は長いドレスで隠れている、すらりと伸びた足。 サイドで束ねた長い髪。
今日のロザリアはどこからどう見ても。ひいき目をなくしても。
このビーチで一番の花だった。
「なんだか目立っているみたいですわね。わたくしたちの素性が知られてしまったのかしら?」
自分を見ているのが男ばかりだと、なぜ気がつかないのだろう。
鈍感過ぎるロザリアは、ゼフェルに見当違いな言葉を囁いてきた。
たしかにこんなところで守護聖と補佐官が遊んでいると知られるのもマズイが、それ以上にマズイこともある。
「おい。これ着てろ。」
あわてて自分が着ていたパーカーを脱ぎ、ロザリアに押しつけた。
不思議そうに手の中の服とゼフェルを交互に見るロザリアに小さく舌打ちする。
「…日焼けしすぎると、あとが大変なんだぜ。いいから着てろって。」
仕方なくという表情でパーカーをはおったロザリアに、ゼフェルはほっと息を吐いた。
一日中、あんな視線を向けられていては、ゆっくり過ごすどころではない。
牽制するように、ぐるりとビーチを見渡せば、男たちの視線がすっと逸らされる。
とりあえずの目くらましにはなったらしい。
少し奥まった岩場にパラソルを立て始める頃には、二人に注目する人々はほとんどいなくなっていた。
「たくさん人がいますのね。」
パラソルの下のシートに横座りしたロザリアが、岩に座っているゼフェルに声をかけた。
困ったことに、持ってきたシートが小さ過ぎて、二人で座るとかなり接近してしまうのだ。
パーカーを着ているから露出は格段に下がったが、綺麗な足はイヤでも目に入る。
「まあ、シーズン真っ盛りだからな。一番、人出も多いんじゃねぇ?」
砂浜を飾る色とりどりのパラソル。
女の子同士のきゃぴきゃぴしたグループや、ナンパ目当ての男たち。
スポーツマンも家族連れも、みんながきれいな砂浜の上で踊っているように見える。
ゼフェルは足もとの砂をサンダルで軽く掘ってみた。
さらさらとした綺麗な砂。
端末でノイローゼになりそうなほど探しまくって決めた、主星一番のビーチに間違いはなかったようだ。
「海の方へ行ってみませんこと?」
そわそわしたロザリアが海を指差した。
青から藍へとグラデーションの輝く海が彼女の白い指先に広がっている。
鮮やかな青にゼフェルの心も浮き立った。
「行こうぜ!」
なんとなく手を差し出していた。
ロザリアはその手に捕まり立ち上がると、頬を染めてゼフェルを見る。
ふと目が合い、また、笑い合った。
ゼフェルが波に逆らうように海に入っても、ロザリアは波打ち際で立ち止まっていた。
足元を攫う波の感覚が気持ち悪いのか、片足を何度も上げ下げしている。
「バーカ。入っちまえばなんともねぇって。」
ざぶざぶと波をかき分けて砂浜に戻ると、ゼフェルは再びロザリアの手を引いた。
太陽の光で、知らずに汗が溢れてくるほどの気温なのに、ロザリアの手はどこかひんやりとしている。
くるぶしくらいまで海に浸かったところでゼフェルは足を止めた。
「怖いのか?」
返事はなかったが、ロザリアは足元の波をじっと見ている。
初めてならば、無理もない。
ゼフェルはロザリアに向き合うと、両手を繋いだ。
驚いたように顔を上げたロザリアに、ゼフェルの全身がカッと熱くなる。
とんでもなく恥ずかしいことをしている自覚はある。
多分顔も真赤になっているだろう。
でも、それがこの太陽の暑さのせいだと、彼女も思ってくれるかもしれない。
「捕まってろ。…ゆっくり行くぜ。」
波に背を向けて、ゼフェルは後ろ向きに歩きだした。
時々不安そうにぎゅっとゼフェルの手を掴むロザリア。
膝まで海に入ったところで、やっとロザリアが微笑んだ。
「気持ちがいいですわ。…とても癒される気がしますの。」
足をくすぐるように波が攫うリズムは、人間を癒す波動だと聞いたことがある。
「もういいだろ?」
じっと立ち止まっていると、急につないだままだった手が恥ずかしくなった。
ゼフェルはパッと手を離すと、ロザリアに背を向けて、沖へと進みだした。
腰まで浸して、顔に海水をぶっかけると、すぐに太陽の熱で塩が吹きだしてくる。
痛いくらいがちょうどいい。
目だけで振り返ると、ロザリアはまだ同じ場所に立っている。
けれど、その表情が初めのように怖がっていないことがわかって、ゼフェルはほっと息を吐いた。
どうしようか、と思っていると、ロザリアに男が近付いてくる。
ヤバい。
ゼフェルがくるっと振り向いたのに気がついて、のんびりと手を振るロザリアに、ちっと大きく舌打ちした。
近付く男よりも早く波をかき分け、ゼフェルはロザリアの手を掴んだ。
パーカーの裾が海に触れるか触れないかくらいの深さまで彼女を連れてくる。
「ったく、ボーっとしてんなよ。鈍い女だな。」
「な!」
一瞬カッとしたロザリアの表情が、すぐにいたずらっぽく変わると、とたんにゼフェルの視界に水のしぶきがきらめいた。
「やりやがったな!」
口の中の塩気にゼフェルは腕で口をぬぐった。
それから両手で水をすくい、ロザリアに向かって投げていく。
二人の間に水のしぶきが行き交い、光の粒のシャワーが一面に広がった。
キラキラと太陽を浴びて眩しい雫。
けれど、真正面から見ることができないのは、光の眩しさよりも彼女の笑顔のほうだ。
ゼフェルはロザリアの顔に水がかからないように加減しながら、水を投げ、また逃げる。
追いかけてくる彼女から思いっ切り水を浴びせられ、視界がぼやけた。
「降参ですの?」
水音に重なるロザリアの笑い声が、いつも聖地で聞くよりもずっと可愛くて、ゼフェルは思わず両手を上げていた。
それから、2人で大きな砂山を作った。
ゼフェルのこだわりに付き合って、ロザリアも懸命に砂を集めてくれる。
海水を掛けながら、砂を盛っていくと、膝くらいの高さの山が出来た。
「トンネル掘ってみようぜ。」
両サイドから繋がるように軽く指で砂を掻き出し、丸く入口を作ってみる。
けれど言ってから、ロザリアの細い指に気がついた。
薄いピンクにネイルされた爪はすでに砂で汚れてすすけてしまっている。
なんだかそれ以上言いづらくて、ゼフェルが黙って砂を掻いていると、ロザリアも同じように砂を掻き始めた。
「おい、汚れるぜ。」
「ゼフェルこそ、顔に付いてますわよ。」
「あ?」
砂の付いていない手の甲で頬に触れると、ザラザラとした感触がする。
それでも気にせずに砂を掘り続けていると、ロザリアがくすくすと笑っていた。
「お。」「あら?」
指先が触れあって、同時に声を上げた。
ゼフェルが最後に思い切り砂を掻き出して覗き込むと、トンネルの向こうにロザリアの青い瞳が見える。
「覗いてんじゃねーよ。」
「あら、そういうゼフェルだって、覗いているじゃありませんの。」
「出来上がりを確認してるだけだってーの。」
「わたくしもですわ。共同作業ですもの。その権利はありましてよ?」
いちいち言い返してくるところがなんとなく女王試験のころのようで。
ゼフェルは舌打ちしながら笑いがこみあげてきてしまった。
さすがに二人ではスイカ割りは諦めるしかなかったけれど。
いつの間にかゼフェルも夢中で遊んでいた。
午後を過ぎると、まず帰り支度を始めるのは家族連れだ。
その後もぽつぽつと人が消えていく。
にぎやかだったビーチもだんだんと波の音の響きのほうが大きくなっていった。
疲れてパラソルの下に座っていたロザリアに、「そろそろ帰るか。」と先にゼフェルが切り出した。
風に揺れる青紫の髪が午後の太陽の光をキラキラと乗せている。
少し強い風に、ふわりと髪が舞い上がった。
「もう少し…。」
膝を抱え、ロザリアは海を眺めている。
ずっと強い日差しにさらされていて、ゼフェルも疲れていた。
狭いとわかっていたが、シートの隅に腰を下ろすと、あぐらをかいて座り込んだ。
海の香りが二人の間を通り抜ける。
ふと肩が触れると、まるで火傷をした後のようにその部分が熱を帯びた。
日焼けのせいかもしれないし、違うかもしれない。
真赤になっているロザリアの顔も、そのどちらのせいなのか、ゼフェルにはよくわからなかった。
白い顔に真赤な頬。綺麗な青い瞳。
先に自分が見つめていたのに、「なんだよ。」と、そっぽを向いた。
バカみたいに激しくなる鼓動で、胸が痛いくらいだ。
ロザリアはまだ海を見ている。
ココまで届く波音に、ゼフェルも黙り込んで耳を傾けた。
こんなに静かな時間は聖地では得られないだろう。
また風が吹いて、ロザリアの髪が揺れた。
「きっと星もきれいでしょうね。」
水平線の境界に、オレンジ色の夕陽が広がっている。
この空一面に星が光れば、本当に宝石箱のように美しいだろう。
そんな夜空をロザリアと眺めることができたら。
星空の下で微笑む彼女を想像して、「帰ろう」と言ったさっきの言葉を少しだけ後悔した。
もう少し。
いや、もっと。
満天の星が空を覆いつくすまで、こうして二人で過ごしていたい。
混ざり合う空色とオレンジの境目のような曖昧な気持ちで、ゼフェルも海を眺めていた。
「帰るぜ。…遅くなると、あいつらがウルセエからな。」
聖地と下界は時間の流れが違うはずなのに、下界で過ごした時間はちゃんと聖地でも同じだけ流れているのだ。
どこで過ごしても一日は一日。
今日一日をロザリアと二人で過ごしたことは、変わらない。
重たい腰を上げたゼフェルは、まだ立ち上がろうとしないロザリアに背を向けて、パラソルをたたみ始めた。
あれほど強かった夏の日差しも、今は砂の熱さにその名残があるだけ。
波の寄せる音が静かに耳を通り過ぎる。
鮮やかなオレンジが赤みを帯びてきて、ようやくロザリアが立ち上がった。
「ありがとう。」
元の服に着替えたロザリアがゼフェルにパーカーを手渡した。
なんとなく彼女の香りが残っているような気がして、羽織らずに丸めてバッグの中に放り込んだ。
ゼフェルが黙ってメットを手渡すと、ロザリアはそれを胸に抱えたまま、じっと黙っている。
彼女の手から再びメットを奪い返したゼフェルは、強引に青紫の頭にかぶせた。
青い瞳に睨みつけられて、舌打ちする。
自分だって、本当は帰りたくない。
宝石箱のような星空を見てみたい。
けれど、星空を見たら、きっと朝焼けも見たくなる。
ロザリアがどう思っているかは知らないが、自分の気持ちならとうに気が付いている。
「また連れて来てやるからよ。」
シートにまたがって言えば、ロザリアがぎゅっと背中にしがみついたのがわかった。
「必ずですわよ。」
「ああ。」
今はまだ、その約束だけで十分だ。
「飛ばすぜ。」
アクセルを吹かして宙に浮いたエアバイクの後ろで、一番星が白く輝き始めていた。
FIN