2.
「よう、オリヴィエ。お前達、やっとつきあい始めたんだってな」
陽気に肩をぽんと叩かれ、オリヴィエは顔を顰めた。
昨日、珍しく一人で深酒をしてしまったせいか、朝一番にオスカーの軽口につきあうのが面倒くさい。
けれど、オスカーはオリヴィエのそんな態度を気にする様子もなく、にやにやと笑っていた。
「早速、昨日はデートだったらしいじゃないか。まったく、そんな疲れた顔をして、夕べはかなりお楽しみだった・・・いてっ」
オスカーの足をヒールで踏みつけ、それ以上は黙らせることに成功したが、そういう目で見られていた事が恐ろしい。
もっとも、この清浄な聖地でそんな下世話な想像をするのは、この男だけだろうが。
「ただの飲み過ぎだって。あの子とはまだそんなんじゃないから」
しっかり釘を刺しておかないと、何をばらまかれるかわからない。
するとオスカーはおや、と言いたげに片眉をあげると、にやりと笑った。
「まだ、か。まさかこれからもずっと兄妹みたいな仲良しごっこを続けるつもりじゃないよな?」
ぐっとオリヴィエが言葉に詰まる。
『仲良しごっこ』
もちろんそんなつもりはない。
オリヴィエにそんなつもりはないが・・・ロザリアはどうなのだろう。
彼女は本当に『恋人としてつきあう』ということの意味をわかっているのだろうか。
実際、昨日のデートの様子は、今までと少しも変わらなかった。
セレスティアをぶらついて、お茶をして、彼女を家まで送り届けて。
違った事と言えば、来週の約束をしたくらいだ。
昨夜、彼女を門前まで送った際、
「ね、次の日の曜日は、舞台でも見ない?」
ごく当たり前にオリヴィエは誘いをかけた。
もともと彼女と行こうと取ってあったチケットだから、ただ誘うのが、今か、明日以降の聖殿でか、の違いだけだ。
「え?次の日の曜日?」
驚いた様子のロザリアに、オリヴィエは
「あ、先約があるなら仕方ないけど。つきあい始めたの、最近だしね」
内心の落胆を悟られないように、ひらひらと手を振って、笑って見せた。
すると、ロザリアはなにかを考えるように、軽く握った拳を唇にあてて、うつむいている。
「つきあっていると、毎週末にデートをするモノなんですのね」
「そういうわけじゃないけど、まあ、暇ならするんじゃないかな」
オリヴィエとて宇宙の全カップルに統計を取ったわけではなく、ただの推測と経験則にすぎないがロザリアは納得したようだ。
大きく頷き、
「わかりましたわ。では、来週は舞台を見ましょう」
オリヴィエに膝を折って礼をすると、さっさと家の中へ入って行ってしまった。
あっさりした初デートの幕切れ。
別れのキスをしようとか思っていたわけではないけれど、ちょっと拍子抜けだったのは事実だ。
まあ、まだ最初のデートならばこんなものかと納得するしかなかったが。
「仲が良すぎるってのは、恋に有利ってわけじゃないからな」
オスカーに言われてハッとした。
「友達から恋人ってのは案外難しいもんだぜ。恋のスパイスのドキドキやときめきってヤツが薄れちまってるからな。」
たしかにそうかもしれない。
デートの場所も行き尽くしているし、彼女のことならたいていの事は知っている。
つきあう前から、新しいスポットや話題の場所には一緒に行っていたから、その点でもとくに変化はない。
またもやオリヴィエの胸に微妙な棘が刺さる。
ランチもお茶もデートの時も、今までとなんの変わりもないロザリア。
彼女は『友情』と『恋愛』の違いを理解しているのだろうか。
本当にオリヴィエに『恋』しているのだろうか。
思わず自分の髪をくしゃりと手で丸めて、がくりと頭を垂れた。
「ま、あんまり考えすぎるなよ。恋人かどうかなんて、キスでもしてみればすぐにわかる話だろ」
慰めるように、オスカーがオリヴィエの肩をぽんと叩く。
いつものオリヴィエなら、邪険に振り払うその手が、今はやけに重たく感じてしまった。
オスカーの言うことはもっともだ。
だがもっともすぎて、試すことにためらうのだ。
もしも拒絶されたら、かなり立ち直れない。
弱気だと言われるかもしれないけれど、オリヴィエにとってはそれくらい真剣な想いなのだ。
日の曜日、舞台を見終わったオリヴィエとロザリアは、ロザリアの邸でお茶を飲んでいた。
歌姫をモチーフにした悲恋の舞台は素晴らしく、アンコールが5回も続き、予定時刻よりもかなり終了が遅くなってしまったのだ。
本当は豪華なディナーでも、と考えていたが、あまり遅くなると明日の執務に差し支えるというロザリアの希望で、軽食だけにして聖地に戻ってきた。
リビングのソファに向かい合わせで腰を下ろし、中央のテーブルにはデザート代わりのケーキとロザリアが手ずから淹れた紅茶。
すぐに帰ると言いながら話が弾んで、二人ともカップのお茶が空になっている。
「おかわりはいかが?」
ポットが空になっていることを確認して立ち上がったロザリアの手を引き、隣に座らせた。
向かい合うよりもずいぶん近くにお互いの顔があって、少し照れくさい。
さりげなく距離を詰め、
「おかわりはいいからさ。もうちょっと話さない?」
少し艶っぽい目を意識してロザリアを見ると、彼女はいつもの笑顔でにっこりと微笑んだ。
実際、驚いてはいるのだろうが、嫌がっている様子はなく、
「ええ。あと少しならかまいませんわ」
きまじめにソファに座り直している。
うっすらと罪悪感めいたモノがオリヴィエの胸に沸き上がるが、せっかくのチャンスを逃すほどでもはない。
「ロザリア」
耳元で囁きかけ、顔を近づけていく。
まずは頬に軽いキス。
ロザリアは目を丸くして、オリヴィエをじっと見つめているけれど、まだ特に嫌がる様子もない。
まあ、頬へのキスくらいは社交界なら挨拶程度のことだから、第一関門突破という程度だ。
オリヴィエはさらにじりっと距離を詰め、ロザリアの顔を真正面から見つめた。
息がかかるほどの距離感に、
「近いですわ」
オリヴィエが近づいた分、後ろに逃げようとするロザリア。
けれど、狭いソファの上で思うようにはいかず、結局ほとんど距離は変わらない。
「オリヴィエ、近すぎますわ」
僅かに背中を反らしたロザリアの声に少し焦りが混じり、オリヴィエは内心、ほくそ笑んでいた。
さっきまでは全然色気のない様子だったけれど、オリヴィエを異性として少しは意識しているのだ。
多少強引なのは認めるが、こうでもしないと進展しそうもないのだから仕方がない。
オリヴィエは自分に言い聞かせつつ、さらに顔を近づけた。
目の前には綺麗なピンクパールのリップが塗られた、ロザリアのあでやかな唇。
自分が見立てた色だけれど、本当に彼女によく似合う。
「ン・・・」
重なった唇のスキマから、ぞくっとするほど色っぽい吐息が漏れた。
我慢していたつもりはなかったけれど、ロザリアが女王候補だった頃から想い続けて、聖地の年数でも数年。
下界なら10年。
理性の糸はかなり脆くなっていたらしい。
ただ重ねるだけでは物足りなくて、角度を変え、上唇を挟むように吸い上げ、舌で下唇をなぞる。
「や、あ」
苦しげに息を吐くロザリアの様子にも気づかず、何度もキスを繰り返した。
正直、有頂天になっていたのだ。
こうしてつきあうようになったことや、キスを受け入れてくれたことに。
どん、と胸を強く叩かれたオリヴィエが、はっと我に返って唇を離すと、ロザリアは、はあはあと呼吸を乱し、泣き出しそうに顔をゆがめている。
青い瞳が潤んでいるのは、興奮とか熱情とかではなく、おびえだ。
オリヴィエが初めて見せた男の本能は、初心なロザリアに刺激が強すぎたのだろう。
血の気のない顔のまま、ロザリアはオリヴィエをじっと見ている。
「どうして・・・こんなことを?」
困ったように眉を寄せ、まるで迷子のような表情のロザリアに、オリヴィエは愕然としていた。
純粋に困っているのか。迷惑、なのか。
とにかくこんな顔のロザリアは見たことがない。
「ひどいですわ」
たしかにひどいことをした。
彼女にとってはおそらく初めてのキスだろうし、もっと優しくしてあげるべきだった。
あんな風に欲望むき出しでは、恐ろしいと思われても仕方がない。
悪いのはオリヴィエだ。
年上でそれなりに経験もある自分が、もっと彼女を思いやって、怖がらないようにしてあげなければいけなかったのに。
どうしようもない後悔が湧いてきて、オリヴィエは何も言えなかった。
ロザリアも頑なに目をそらしたまま、同じように黙り込んでいる。
「ごめん。私達、別れた方がいいね。もとの友達に戻ろう」
オリヴィエの言葉にロザリアはぴくりと肩をふるわせた。
けれど、やはり、目をそらしたまま、なにも言い返すことはしない。
気まずい沈黙のなか、かちこちと時計の音だけが響く。
オリヴィエは静かに立ち上がると、そのままロザリアの邸を後にした。
もしかしたら追いかけてきてくれるかも、という淡い期待も、数分後には消えてなくなり、綺麗な月だけがオリヴィエの後を着いてくる。
ロザリアを傷つけた。
そして、オリヴィエ自身も傷ついた。
勝手な言いぐさだけれど、恋人同士なら許されるのではないかという甘えが、どこかにあったのだ。
多少なじられたとしても、最後は笑ってくれて、二回目は彼女から目を閉じてくれたりして。
けれど、ロザリアの答えは完全な拒否。
友達や同僚としての親愛の情はあっても、恋人にはなり得なかったということなのだろう。
おびえた青い瞳を思い出すと、胸がしくしくと痛んで、呼吸が苦しくなる。
「はあ」
ため息と一緒にこの気持ちを吐き出してしまえたらいいのに。
明日、ロザリアの前に平常心で立てるように、オリヴィエは星に願いをかけるしかなかった。