3.
翌日の朝礼。
ロザリアはいつものように女王の横に立ち、守護聖たちを上座から見下ろしていた。
まったく型どおりに始まり、特に変化もなく終わる一連の儀式。
オリヴィエは上座のロザリアをちらちらと盗み見ながら、気持ちが重く沈んでいくのを感じていた。
彼女の表情はまったくいつもと変わらず、補佐官らしい落ち着いた美しい笑みを浮かべている。
女王と守護聖の話を聞き、皆の意見をまとめていく、完璧な議事進行。
幸いなことに、今日はオリヴィエが関与している議題はなく、発言しなくても朝礼は滞りなく終わった。
もっとも、あの様子では、オリヴィエが発言したとしても、彼女の顔色が変わるようなことはなかったに違いない。
オリヴィエにとっては、衝撃的な昨夜の出来事も、ロザリアにとっては、それほど気にならないことだったということか。
考えてしまうと無駄に落ち込む事がわかっているから、オリヴィエはあえて考えないことにした。
ランチもお茶も、一人に慣れればかえって気楽だし、まじめにやれば、執務でロザリアの手を煩わせることもない。
彼女に会いたくて、無理やり用件を作っていた頃よりも、むしろ執務は捗るようになっていた。
ときおり、あちこちでロザリアの姿を目にすることはあったけれど、彼女は彼女で頑張っているようだ。
おそらくこうやって日々が過ぎていけば、この心の痛みも自然と消えていく日が来るのだろう。
それがいつの日かはわからないけれど。
そうやって、二週間ほどが過ぎた頃。
「ロザリアと別れたのか?」
こんなぶしつけなことをいきなり言ってくるのは、この男くらいだろう。
オリヴィエはうんざりしながら、書類を突き返して、顎で出て行くように示した。
けれど、そのくらいでめげる男ではないことも十分知っている。
「あのね、そういうことはもっと申し訳なさそうに聞くもんだよ」
嫌みを込めて言い返すと、オスカーはふっとため息交じりの笑みを浮かべた。
「お前達は上手くいくと思っていたんだがな」
それを言うならオリヴィエだって、上手くいくと思っていた。
自分たちは両思いなんだと完全に信じ込んでいたのだから。
「まあね。でもさ、考えてみたら、私達、お互いに好きだって言ったこともなかったんだよ」
実は最大の後悔がそれだった。
友達から恋人になる段階は、つきあうとか、キスをするとか、そんなことじゃなくて。
『好き』という気持ちだったはずだ。
もしもロザリアにちゃんと想いを告げていたら、あんな拒絶をさせることもなかった。
彼女を傷つけることもなかった。
「あんたの言うとおり、仲良しごっこしてただけだったのかも。あの子のいいお兄さんで我慢しとけば良かったんだ」
自嘲気味に天を仰いだオリヴィエの両肩にオスカーが手を置いた。
思いがけない大きくて熱い手のひら。
気味が悪すぎて若干引いていると。
「・・・まあ、そのうち、飲みにでも行くか。奢ってやるぞ」
「はあ?」
オスカーの優しい声に、オリヴィエは思いっきり怪訝そうに眉を寄せた。
フラれた男を馬鹿にすることはあっても、優しく奢ってやるなんて、オスカーらしくないではないか。
あまりにもオリヴィエの視線が、正直にそれを告げていたのだろう。
オスカーは決まり悪げに咳払いをすると
「バカ野郎。ただ奢ってやるだけだ。勘違いするんじゃない」
ふいっと顔を背けて、そのまま足音高く、ドアを出て行った。
まさか照れている?!
オリヴィエは消えていった姿に目をパチパチとしばたかせて、くすりと笑った。
そういえば、この男はこういうヤツなのだ。
案外、悪くない。
思いがけない励ましに、少しだけれど、心が上向きになるのを感じた。
ところが、すぐに嵐が飛び込んでくる。
文字通りの嵐は、執務椅子に座ったままのオリヴィエを冷たい目で見下ろすと、腰に手を当ててふんぞり返った。
遠い昔のロザリアも同じポーズをしていたけれど、どことなく雰囲気が違う。
なんというか幼い子が無理して背伸びしているような・・・そんな感じだ。
「ちょっと!話があるんだけど」
オリヴィエのそんな心の声を知らず、女王アンジェリークはオリヴィエをにらみ付けている。
女王になってからのアンジェリークは一応、いろいろを気にして、所作に気を配っていた。
ロザリアからの厳しい指導があったことも言うまでもない。
ところが、今はそんなことなど全部忘れてしまったかのように、女王候補だった頃のおてんば娘に逆戻りだ。
「今日は女王としてじゃなくて、ロザリアの親友として話しに来たの」
なるほど、それで女王のドレスを着ていないのか。
ひらひらふりふりの少女らしいワンピースは、幼い顔立ちの女王によく似合う。
「どうしてロザリアを捨てたの?つきあう前はあんなに仲良しだったのに。急に心変わりするなんてひどすぎるわ」
アンジェリークは怒っている。
でも、オリヴィエにはアンジェリークが何を言っているのか、上手く飲み込めなかった。
ロザリアを捨てたことはないし、心変わりもしていない。
怒られる理由がない。
「有頂天にさせて地獄に突き落とすとか、ホントにとんでもない詐欺師よ!オリヴィエって、もっといい人だと思ってたわ。どうしてそんなことができるの?!」
どちらかといえば、有頂天からの地獄はオリヴィエの方だ。
いい人かどうかは最近自信がないが(ロザリアへのアレ以来)、そこまであしざまに非難されるようなことはしていないはず。
それにアンジェリークの言っていることは、全面的に間違っている。
けれど、オリヴィエが言い返す間もなく、アンジェリークはどんどんまくし立ててきた。
「つきあって欲しいって言われて、ロザリアがどれほど喜んでたか・・・女王候補の頃からの片思いがやっと実ったってスゴく浮かれて、大変だったのよ。いつもは絶対しないミスを、わたしが発見しちゃうくらいだったんだから」
「は?女王候補の頃からの片思いってなに?ロザリアは私のこと、友達だって言ってたじゃないか」
盗み聞きしたことがバレるかと思ったが、今の興奮したアンジェリークにそんな細かなことは気にならないらしい。
「そりゃロザリアはそう言うに決まってるじゃない!ロザリアってば超絶照れ屋で、変なトコで意地っ張りっていうか、見栄っ張りっていうか素直じゃないんだから。だからロザリアが一番の友達って言ったら、一番好きって事なのよ。仲良しだとか言ってて、そんなこともわからないの?!」
心臓をわしづかみされたような気がした。
腰に手を当てて高笑いしていたあの頃から、ロザリアは高飛車で意地っ張りで素直じゃなくて。
でも誰よりも純粋で、繊細な女の子だった。
「舞い上がってたときは、すごく幸せそうだったし、べつに執務でミスがあったって、全然カバーできたわ。でも、今みたいに落ち込んで、こっそり泣いてるのに、ずっと家にも帰らないで補佐官室に閉じこもって執務ばっかりしてる方が心配なの」
びしっとアンジェリークがオリヴィエを指さす。
「全部あなたのせいだわ」
がーん。
今度のショックは、以前とは比べものにならないほど重い。
後悔と反省と、とにかくあらゆるネガティブが詰め込まれて混ぜ合わされて、アンジェリークの前でなければ、膝から崩れ落ちていただろう。
なんとか踏みとどまれたのは、まだ一縷の望みが残っていること。
アンジェリークがこうしてわざわざ文句を言いに来たのは、オリヴィエにできることがあると思ってくれているからだ。
溺れそうなロザリアを、まだオリヴィエなら助けられると、アンジェリークは信じてくれている。
「ありがと。ホント、この年になって中学生みたいにもだもだしてて、情けないったらないよ」
若干の笑いを取る感じを醸し出したのに、アンジェリークはクスリともしない。
じっとりと恨めしそうな緑の目をオリヴィエに向けている。
「あなたが守護聖じゃなかったら、とっくに聖地から追い出してるわよ。あ~、まったく。守護聖で一番大人だと思ってたオリヴィエでさえこんなんじゃ、他のメンツは恐ろしいわね」
「あんたのアイツは特に恐ろしいと思うよ。無機物相手じゃ勝負もできないしね」
「なんですって・・・!」
やられた分、ちょっぴり仕返しの槍を返して、やっと浮上できた。
次にやるべきことはただ一つ。
「あのさ、たまった執務は明日頑張るから、今日は早退って事でおねがい」
両手を顔の前で合わせて、拝み倒す。
「・・・ロザリアも?」
「まあ、それは今から次第だけど」
アンジェリークは腕組みをして、鼻から息を吐き出した。
「そうね、たしかオスカーが暇そうだったし、なんとか片付けておくわ」
「さすが!話のわかる女王様で私も嬉しいよ」
あれだけの仕事を押しつけられるオスカーには、本当に申し訳ないから、逆に今度、自分が奢ってやろう。
オリヴィエはアンジェリークへの挨拶もそこそこに部屋を飛び出すと、補佐官室へ向かった。
夢の執務室から補佐官室まではたった一部屋、地の執務室があるだけだ。
オリヴィエのヒールで3.5歩。
ノックするのもまどろっこしくて、お行儀悪くドアをいきなり開けた。
すると。
そこには当然ロザリアがいた。
どの執務室もほぼ作りは同じで、ドアを開けると真正面に、その部屋の主が執務机にいるのだが。
「どなたですの?ノックもしないなんて失礼ですわよ」
ロザリアは顔を上げる気配がない。
突然の侵入者がオリヴィエだなんて予想もしていないのだろう。
綺麗な巻き髪のあちこちが乱れ、鬼のような形相で必死に書類をにらみ付けている。
無理してるのがバレバレで、それが痛々しくて・・・アンジェリークも心配するはずだ。
このロザリアはいつものロザリアじゃない。
「お仕事中ゴメン」
オリヴィエが言うと、ロザリアは効果音がつくような勢いで顔を上げ、ゆっくり眉を寄せた。
ものすごく困った様な顔。
オリヴィエはつい最近、この顔を見たことがあった。
それはあの日のキスの後。
見たこともないような目で責められたと思った時と同じだ。
ロザリアはふいっと顔を背けて、何も話さない。
オリヴィエはそのまま、ずいずいと部屋の中をまっすぐにつっきり、ロザリアの前に立った。
「好きだよ。だからもう一度、私とつきあって欲しい」
「えっ?!」
ロザリアが勢いよく立ち上がる。
椅子が無理やり後ろに動いて、足が床を擦ると、ぎいっときしむような大きな音がした。
実はこの黒板を擦るような音が苦手だったが、そんなことを気にしている余裕はない。
「そんな、もう、だまされませんわ!先日もそう言って、すぐに別れようって・・・」
ぐっと眉が寄り、眉間に深いしわが浮かぶ。
怒ってるのか、迷惑そうな顔。
とてもじゃないけれど、嬉しそうでも幸せそうでもない。
でも、オリヴィエは思い出していた。
意地っ張りで素直じゃない彼女はわかりにくいけれど、とてもわかりやすくて、いつも通りの方がいつも通りじゃなかったのだ。
今ならわかる。
「私さ、あんたが私のことを一番の仲良しって言ってるのを聞いて、これじゃダメだと思ったんだよ。このままじゃ友達止まりで終わっちゃうって」
突然始まったため息交じりの告白話を、ロザリアはじっと聞いている。
「だから、まあ、ちょっと焦ってたのかもしれない。あんたの気持ちを早く恋愛に向けなきゃ、恋人らしくしなきゃってね。全然焦る事なんてなかったのにさ、大人ぶってるくせに私もまだまだだよねぇ」
本当に今思えば、なぜあんなに急いでいたんだろう。
聖地の時間は緩やかで、これから先、まだ長いのに。
それだけロザリアが好きで、独占欲が出てしまった、ってことなのだが。
本当に、まだまだだな、とそれしか言えない。
「いいえ。違うんですの。わたくしがいけないんですわ。あなたからつきあって欲しいと言われて、舞い上がりすぎて、どういう顔をしてあなたと一緒にいたらいいのかわからなくなりましたの。嬉しさを顔に出すのに慣れていなくて、執務でも失敗ばかりで・・・。結局、いつも通りの自分でいようと無理をしすぎてしまって」
つきあうようになったことを、ロザリアがそんなに喜んでいてくれたとはわからなかった。
あのいつも通りの表情や態度を、無理をして作っていたことにも気がついていなくて。
まったく、自分は彼女のどこを見ていたのか。
「あ、あの・・・キスも本当は嬉しかったのですけれど」
どきりとすることを言われて、オリヴィエは固まった。
嫌がっていたのは間違いないし、あのときのことを思い出すと、自責の念で土下座しそうになるのだ。
「息が苦しくて・・・途中で息継ぎしたくても、上手くいかなくて、限界でしたの。本当に死ぬかと思いましたわ。自分でも恥ずかしくて、何も言えませんでしたの」
話ながらロザリアの顔がだんだん赤くなって、語尾が小さくなっていく。
よほど恥ずかしかったのだろう。
あのときの迷子のような表情は、本当にどうしたらいいのかわからなくて困っていたのだ。
息が苦しくて、涙目にまでなって。
「あは、はは!」
たまらなくなってオリヴィエは笑い出してしまった。
全部勘違いで、全部すれ違いで。
人生、上手くいかないときはこんな感じなのかもしれない。
ごろごろ転がる雪玉がどんどん大きくなって止まらなくなってしまうように、一度掛け違えたボタンが最後までズレたままになってしまうように。
「笑うなんてひどいですわ!」
真っ赤になったロザリアが瞳を潤ませて怒っている。
そういえば、最近はこんなふうに感情むき出しの彼女を見たことがなかった。
補佐官らしい上品な微笑みを彼女を、『いつも』と思っていたこと自体が大きな間違い。
『いつもの』ロザリアが無理しているロザリアで、『いつもじゃない』ロザリアが本当のロザリア。
オリヴィエが愛しくてたまらない、意地っ張りで素直じゃない彼女。
「そんなに怒らないでよ」
本当は抱きしめたかったけれど、また理性が吹っ飛ぶのも怖くて、オリヴィエはロザリアの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
赤ちゃんをあやすように、優しい手つきで。
するとロザリアは癒やされるどころか、恐ろしい目つきでオリヴィエを下からじろりと睨めつけてくる。
綺麗な青い瞳に、オリヴィエがぎょっと息をのむと、ロザリアは
「子供扱いはおやめくださいませ!」
ちょっと前によく聞いたセリフで、つんと顎をそらした。
そんな赤い顔で言っても、まったく説得力もなければ、迫力もないけれど。
オリヴィエはクスリと笑みを浮かべると、ロザリアの耳元で囁いた。
「じゃあ、大人扱いしてもいい?女の子を黙らせる方法、他にも知ってるんだけど」
さあ、どうする?
目を細めてロザリアを見つめ、彼女の返事を待つ。
ロザリアは意味がわからない様子で、小首をかしげていて、それでも、オリヴィエの妖しい雰囲気に警戒心が働いたらしい。
「い、いえ、結構ですわ」
うわずった声で、一歩、後ろに下がる。
オリヴィエは逃げるロザリアの腰を抱き寄せると、一気に距離を縮めた。
「きゃ!」
「そんなふうに逃げられると捕まえたくなるんだよねぇ。どうしよう?」
ぎゅっと抱きしめて、彼女の髪に顔を埋める。
セットが乱れてはいるけれど、甘い薔薇の香りは残っていて、めまいがするほど魅力的だ。
「オリヴィエ!まだ執務時間中ですのよ。離してくださいませ」
「それは大丈夫。もう陛下には早退の届けを出してあるからね」
「ええっ?!そんなこと」
「しっ。騒ぐと誰か来ちゃうよ」
「でも……」
このままなし崩しで執務を切り上げるなんて、彼女の辞書にはない言葉だろう。
オリヴィエの腕の中でロザリアはもぞもぞと体を動かし、なんとか抵抗しようとしている。
その仕草がかえってオリヴィエを煽っていることなんて思いもしないに違いない。
実際、あちこちが柔らかい部分に触れて、少し焦る。
「うーん、なんかこういうやりとり、ちょっと恋人っぽいよね」
きゅっ抱きしめる手に力を入れると、ロザリアの動きがぴたりと止まった。
おずおずとオリヴィエを見上げる青い瞳が、嬉しそうにキラキラと輝いている。
「・・・そうですの?コレは恋人らしいんですの?」
「うん。だって、友達はこんなにくっつかないでしょ?」
唇をロザリアの目尻に軽く触れさせて、彼女の表情をのぞき込んだ。
眉をぐっと寄せて、とても困った顔をしているけれど、それは恥ずかしいだけだともうわかっているから。
二度目のキスは、とても甘やかで。
本当の恋人同士の時間が、やっと始まったのだった。