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「見て。ロザリア!」
一日の力を使い果たし、庭園のベンチで一休みしていたロザリアの元に、アンジェリークが走り込んできた。
たしか、今日、アンジェリークはオリヴィエのところに育成のお願いに行くと言っていたが。
一目、アンジェリークの姿を見たロザリアは、大きなためいきをついた。
育成のお願いには行ったのだろう。
けれど、その後、二人で何をしていたのかは、アンジェリークの姿を見ればすぐわかる。
いつもと違うメイク。
一見ナチュラルに見えても、マスカラしっかり、チークやシャドウもばっちり。
ご丁寧にキラキラパールのグロスまで塗られていれば、メイクに疎いロザリアにだって、その違いはわかる。
「オリヴィエ様にしてもらっちゃった!オリヴィエ様ってすごーくメイクに詳しいの。私のこと、磨けば光る、って!」
きゃっと両手を拳にして口元に寄せる仕草は、普通ならあざとく見えるのだろうけれど、アンジェリークがやれば可愛らしい。
メイクがピンク系でふんわりしているのも、間違いなく、可愛さアップに一役買っているだろう。
オリヴィエの腕はやはり確かだ。
あのお茶会の日から、ロザリアはオリヴィエと、たびたび話すようになっていた。
ただの挨拶で終わる日もあれば、育成のお願いのついでに、お茶をごちそうになる日もある。
「今日は、美味しいお菓子が手に入ったんだよ」
オリヴィエは楽しげに綺麗な箱を取り出した。
ピンクのストライプの丸いBOXに大きな赤いリボン。
オシャレなラッピングを解き、もったいぶった様子で蓋を開けると、そこには、色とりどりの薔薇が並んでいた。
花びらの一枚一枚までもシルクフラワーのような繊細な作りで、お菓子とは思えないほどだ。
「これは…チョコレートですの?」
「そう。綺麗でしょ」
「ええ、本当に綺麗ですわ。本物の薔薇みたい」
「このピンクのチョコ、ルビーチョコレートって言って、最近になって発見された新種のチョコなんだって」
「まあ、ホワイトチョコに色づけした物ではありませんの?」
「もともとの色らしいよ」
オリヴィエの美しく彩られた爪が、ピンクの薔薇を摘まみ上げた。
今日のネイルは少しパールがかったラベンダーで、きらきらのストーンがちりばめられている。
「はい、あんたも」
オリヴィエは箱をロザリアに向けて、中身を取るように促した。
彼のこういうささやかな心遣いがロザリアには嬉しい。
誰かが掴んだ物を口に入れるのは苦手なのだ。
薔薇を一つ、口の中に入れたオリヴィエは、ゆっくりと味わった。
舌の上で甘く蕩けるチョコレートは、たしかに名品だ。
ロザリアは少し迷って、やはりピンクの薔薇を摘まみ取ると、そのまま口に入れた。
「美味しい。少し酸味があるのが個性的ですわね」
ホワイトチョコレートのこってりとした甘さを期待していると、いい意味で裏切られるようなすっきりとした甘さだ。
新種のチョコレートと言うだけはある。
「ね、これ、私が作った、って言ったらどうする?」
「え?!」
どきり、とロザリアは身体を硬くした。
オリヴィエは目を細め、少し唇を上げて微笑んでいる。
テーブルに片肘を突く姿は行儀のいい物ではないが、彼ならば、許してしまえるほどサマになっている。
この飛空都市で、アンジェリークを除いて、唯一まともに話ができる人物がオリヴィエだ。
もしかしたら、ロザリアの人生で、一番親しくなっている男性と言えるかもしれない。
でも。
飲み込んだチョコレートが急に苦く、のど元をせり上がってくるような気がする。
「あ~、冗談だよ。いくら私でも、お菓子作りの才能までは持ってないからね」
オリヴィエはビターなチョコレートの黒い薔薇を一つつまんで笑っている。
たぶんここは笑うところなのだろうとロザリアもわかっていた。
けれど、上手く言葉が出てこない。
確かに一瞬、吐き出してしまいそうになったことは事実だし、今までなら反射的にそういう事態になっていただろう。
過去にクラスメイトの手作りケーキを間違って口にして、慌てて、トイレに駆け込んだこともある。
でも、今は、そこまでの気持ちにはならなかった。
吐き出しそうにはなったけれど、オリヴィエの綺麗な爪がチョコにまみれながら頑張って作っているところを想像したら。
不思議と吐き気はなくなって、すっと飲み込んでいたのだ。
なぜかはわからないけれど。
「ごめん。良くない冗談だったね。もう言わないからゆるして」
何も言えないロザリアにオリヴィエは笑顔を引っ込めて、真剣な瞳で謝ってきた。
「残りは全部あんたにあげるからさ」
オリヴィエは蓋を閉めると、ロザリアの方へとチョコレートの箱を寄せた。
やはりオリヴィエの綺麗な爪先が目に入り、つい目で追ってしまう。
「あの、そのネイル、とても綺麗ですのね」
突然の言葉にオリヴィエは少し驚いた顔をして、でも、すぐにネイルを見せつけるようにひらひらと指先を動かした。
「これ、結構時間かけてるんだよ。よかったらあんたにも…」
途中でハッと口をつぐんだオリヴィエは、メイクボックスの中から、ネイルのボトルを取りだした。
揺れる液体は、爪先と同じラベンダー。
「塗ってみて。きっと似合うから」
「やったことがありませんもの。無理ですわ」
ロザリアは首を振って、勧められたマニキュアボトルを押し返した。
ネイルなどしたことがないのだ。
オリヴィエのような綺麗な仕上がりになるとはとても思えない。
「ん~、ホントはやってあげたいところなんだけど、ネイルはさ、ちょっとね」
手を触れていなければ難しい、という言葉をオリヴィエは曖昧に笑ってごまかした。
彼女の性質はよく理解しているから、オリヴィエとしては気遣ったつもりだ。
買ったばかりのお気に入りのカラーだけれど、ロザリアにならプレゼントしてもいい。
「…いいえ。きっとオリヴィエ様の方が素敵に使いこなせますわ。わたくしがいただいても、宝の持ち腐れです」
ロザリアは頑なに受け取らなかった。
なにもしていないのに、なぜか指先が気になって、今すぐ手を洗いたい気がする。
「チョコレートはいただいていきます」
たまらず、ロザリアは立ち上がった。
オリヴィエの引き留める声を振り払い、そのまますぐに手洗いに駆け込む。
水を勢いよく流し、赤くなるまでごしごしと手を擦った。
なのにいくら洗っても、完璧に綺麗にはならない気がして、洗うことを止められなくなる。
『貴女は他の子とは違うのだから』
耳の奥に響く声に、ロザリアは無意識に頭を振っていた。
ネイルなんて似合わないし、綺麗だと思ったりもしない。
触れない。
特に綺麗なものには、触れられない。
そういえば、あれから、オリヴィエの執務室には行っていないし、チョコレートはまだ食べられずに箱の中で咲いている。
「ネイルもしてもらったの」
アンジェリークの弾む声に、ハッと我に返ったロザリアはアンジェリークの爪先を見た。
ラベンダーではなく、明るめのピンクなことにホッとしている自分がいて、軽く自己嫌悪に陥る。
「このリボンのシール、すごく可愛いでしょ?」
明るいピンクと白のフレンチネイルは、その境界線に赤いギンガムチェックのリボンのシールが貼ってある。
アンジェリークらしい可愛らしいネイルだ。
きっと育成のお願いの後、二人であれこれと試したり、話したりしながら、楽しい時間を過ごしたのだろう。
ちくり、と痛む胸。
「ロザリアもやってもらったらいいのに」
いつのまにか隣に座っていたアンジェリークがロザリアの顔をのぞき込んだ。
ふわりと靡く金の髪が光をはじき、グロスをたっぷり乗せた唇もツヤツヤと輝いている。
可愛らしい女の子というのは、まさにアンジェリークのような少女を言うのだろう。
だれからも愛される存在。
ロザリア自身、すぐ隣のこの距離でアンジェリークがいても、あの妙な嫌悪感は沸いてこない。
彼女以外では、ばあやと両親と…すこしだけオリヴィエの姿が思い浮かんで慌てて打ち消した。
「ロザリアの手、すごく綺麗ね」
ぼんやりしていたせいだろうか。
一瞬、避けるのが遅れて、アンジェリークの手がロザリアの指を握った。
「爪の形も整ってるし、ネイルしたらすごく映えると思うなあ」
じわっとアンジェリークの手から熱が伝わってくる。
そう感じたとたん、ロザリアの背筋にぞおっと寒気が立ち上り、全身が粟立った。
そして。
「離して!」
ロザリアは叫ぶと、ベンチから立ち上がり、勢いよくアンジェリークの手を振り払っていた。
掴まれたところがぞわぞわする嫌悪感はいつものアレだが、それとは別に胸のあたりがもやもやする。
立ち上がったロザリアの視線の先には、ベンチに座ったまま、呆然とロザリアを見ているアンジェリーク。
ただでさえ大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれて。
傷つけてしまったのかもしれない。
そう思うと、ロザリアの胸のモヤモヤは鋭い痛みに変わった。
「ひどいよ!ロザリア!」
いきなり聞えてきた叫び声にロザリアは振り返った。
庭園の中央から勢いよく駆けてくるのは、マルセルとランディだ。
二人は険しい顔をして、ロザリアとアンジェリークのところまで走ってくると、アンジェリークをかばうように間に入った。
「いきなりアンジェリークを突き飛ばすなんて!どうしてそんなことを?!」
「大丈夫?アンジェリーク」
ランディがロザリアに詰め寄り、マルセルが振り払われたまま宙を舞っていたアンジェリークの手を掴む。
完全にロザリアが悪役の展開だ。
遠目に見れば、いや、近くで見ていたとしても、ロザリアが一方的に悪いのは、自分が一番よくわかっている。
アンジェリークに罪はない。
手を触れられただけで耐えられないのも、アンジェリークの可愛いネイルに胸がむかむかするのも。
全部、ロザリアのせいだ。
「なにがあったんだい?よかったら、俺たちに話してくれないか?」
ランディの口調は真剣で、彼の誠実な人柄が伝わってくる。
けれど、なにを話せばいいのかよくわからない。
「アンジェリークが不愉快なことをするからですわ」
「え?」
アンジェリークの顔がわかりやすく曇ったあと、はっと目を見開いた。
「わたし…」
両手をぎゅっと握り、うつむいたアンジェリークの肩は小さく震えている。
やはり傷つけてしまった、と思っても、今更、言い訳をする気にはなれなかった。
「もうよろしいでしょう?わたくし、部屋に帰って休みたいんですの」
三人に向かって言い捨てると、ロザリアはすたすたとその場を立ち去った。
背後で、ランディとマルセルがアンジェリークを慰める声がする。
別に傷ついてなんかいない。傷ついていいのは、自分ではない。
こんなことは慣れている。
ロザリアは毅然と顎を上げ、背筋をまっすぐ伸ばして歩いていった。
その夜、ロザリアは、お気に入りの入浴剤でゆっくりとバスに浸かり、体中を隅々まで磨いた。
ロザリアにとって、お風呂の時間は一番心が安らぐし、イヤなことを全部流してしまえる時間だ。
アンジェリークの傷ついた顔。 綺麗な爪。 ランディとマルセルの非難の目。
庭園には他にも人がいたから、きっと明日には、噂が広まっているだろう。
入浴の後、ロザリアはドレッサーの前で髪をとかしていた。
クセのある髪はきちんと手入れをしないと、すぐにぼさぼさになってしまうのだ。
豚毛の柔らかなブラシはすっと髪に通るたびに、ふんわりとした艶になる。
髪を梳かすのが好きなのは、無心に梳かしていると、なにも考えなくて済むし、自分が綺麗になれた気がするからだ。
ドアを叩く音がして、ばあやが顔を出した。
「あの…」
ばあやがなにか言うよりも早く、荒々しい靴音を響かせて、アンジェリークがドアを勢いよく開けた。
「ごめんなさい!」
アンジェリークはばあやを押しのけて部屋に入り込むと、そのままスライディングで土下座をする。
驚いたロザリアの手からブラシがころがり落ちた。
「ごめんなさい。わたし、ロザリアがそういうの苦手だってわかってたのに…。
急にあんなことしてびっくりさせて、それでランディ様やマルセル様にまで誤解させちゃって」
土下座のまま、アンジェリークはまくしたてた。
床に膝をついて。
スカートだって汚れるし、手のひらなんてひどいことになっていそうだ。
もっともアンジェリークはそんなことを気にしないだろうけれど。
「…苦手だって、わかっていたですって?」
「うん。 だって、ロザリアは必ず椅子に座るときウェットティッシュで拭いてるし、カトラリーも自分専用しか使わないし、ドアノブもハンカチを巻いたり、部屋に戻ったら必ずシャワーを浴びたりしてるでしょ?
だから、絶対すごく綺麗好きで、人がべたべたしたりするのも嫌いだろうな、って思ってたの。気をつけてたのに、さっきはちょっと浮かれちゃって。
本当にごめんなさい」
額を床にくっつけたアンジェリークに、ロザリアはぐっと息を飲み込んだ。
隠すことも、止めることもできなかったから、噂になっていることは知っていた。
『ちょっとオカシイ』『やりすぎだ』
わかりやすく嫌みを言われたりはしなくても、なんとなく雰囲気でわかるものだ。
けれど、アンジェリークは今までそれを指摘してきたこともなかったし、尋ねてくることもなかったから、気がついていないだろうと思っていたのだ。
無邪気で、言い換えれば、無神経な少女だと思っていたから。
本当は何もかも気がついていて、あえて、ロザリアを気遣って、黙っていてくれたなんて。
思ってもいなかった。
「わたくしこそ、ごめんなさい」
ロザリアはその場にしゃがみ込み、アンジェリークが起き上がるのを待った。
ロザリアの気配を感じたのか、顔を上げて、土下座から床にぺたりと座り込んだアンジェリークと目を合わせて、微笑む。
「あんたが嫌いとか、イヤだったとかじゃないの。
ただ…そうね、わたくしは誰かと触れ合うことに慣れていないのですわ」
「慣れてないだけ? じゃあ、そのうち、わたしと手を繋いだり、腕相撲してくれる?」
「腕相撲……?したいんですの?」
「うん!」
「……約束はできませんけれど、そうできたらいいとは思いますわ」
「ホントに?嬉しい!」
ご褒美をもらう前の子犬のように、緑の瞳をキラキラさせるアンジェリーク。
そこまでうれしがってもらえることが、なんだか面はゆくて、ロザリアは顔を背けて立ち上がった。
そして、手を伸ばし、アンジェリークの袖のあたりを掴んでみる。
「…服の上からなら、大丈夫そうですわね」
「ってことは、手袋してたら、手も握れる?」
「それは今後の課題にしておきましょう」
座り込んだままだったアンジェリークも、よっこらしょ、と大げさに膝を伸ばして立ち上がる。
同じくらいの目の高さで向かい合い、二人同時にふふっと笑ってしまった。
せっかくのオリヴィエの力作だったアンジェリークのメイクは、はげかけて滑稽だし、ロザリアの巻いていない髪は、あちこち跳ねていて不格好だ。
「なんだかとても変ですわ」
こんなどうでもいいことで笑っている自分が、ロザリアにはとても新鮮だった。