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数日後、ロザリアは軽い頭痛に悩まされていた。
朝からなんとなく身体も重だるいし、気分が乗らない。
シャワーを浴びて、花瓶に新しい薔薇を生けても、なんとなくすっきりしないのだ。
「ロザリア。 ……具合悪いんじゃない?」
朝食をほとんど残したロザリアを、アンジェリークが心配そうに見ていたけれど、ロザリアは
「なんでもありませんわ」
と、振り切るように候補寮を出てきた。
今日の育成分も決まっているし、一日たりとも休むわけにはいかないのだ。
ここ最近になって、ようやく、ロザリアはアンジェリークと食事をともにするようになっていた。
今までは、ばあやに部屋に運ばせていたのだが、食堂を使うことにしたのだ。
専用のカトラリーの事もバレているし、置いてあるグラスもいちいち拭かなければ気が済まないが、アンジェリークは特別気にした様子もないようだし、気を使う様子もない。
相変わらず、パン籠から直にパンを手づかみし、サラダもメインも同じフォークを使い、ピッチャーで置かれたオレンジジュースを、牛乳を飲んだままのグラスで飲んだりしている。
初めのうちこそ、ロザリアも気にしていたが、お互いにそれぞれの個性だから、と思えば気にならない。
時にはおしゃべりしながら過ごす食事の時間は、かなり楽しかった。
身体を引きずって聖殿にたどり着くと、
「しっかりしなさい。貴女は完璧な女王候補でしょう?」
自分で自分の両ほほを叩いて、気合いを入れる。
そして、ロザリアは、久しぶりにオリヴィエの執務室に向かった。
ネイルのやりとりの日から、一度も訪れていなかった執務室。
きらびやかなドアがなんだか自分を拒絶しているようで、気が重いし、足も重い。
それでも、ロザリアは逃げずにドアをノックした。
「はあい?開いてるよ」
いつもの軽い調子のオリヴィエの声がする。
ふわりと漂う花の香りと、あでやかな笑顔のオリヴィエに出迎えられ、ロザリアは少し胸をなで下ろして、執務室に足を踏み入れた。
「来てくれたんだね。 …今日は育成のお願い?」
久しぶり、と言っても、ほんの数日だが、ロザリアの雰囲気が柔らかくなっているような気がして、オリヴィエは驚いた。
女の子があっという間に変わる事は知っているけれど、ほんの数日で驚く程の変化だ。
堅いつぼみが僅かに開きかけ、先端に花びらの色が見え隠れしているような。
大輪の花が咲くのはもうすぐだろう。
昨日、育成のお願いのついでに、アンジェリークが話してくれたのは、ロザリアとのちょっとした衝突と仲直りのこと。
ロザリアの潔癖症は、もうあちこちで噂になっているから、聖殿で知らない者はいないはずだ。
あからさまに避ける者はいないけれど、遠巻きにしている者は多い。
わかりやすく言えば、『変人』扱いだ。
ただ人との関わり方が少し違うだけなのに。
オリヴィエとアンジェリークはそのあたりの感覚が似ているらしく、ロザリアのことを当たり前と受け入れている。
アンジェリークの場合は、ただ気にしていないだけかもしれないが、その大らかさは感嘆するレベルだ。
「ロザリアがわたしの腕を持って、立たせてくれたんですよ」
ちょっぴり自慢げに言うアンジェリークの頬をオリヴィエはつねりあげた。
「ふ~ん、こんな感じで?」
「い、痛いですううう」
アンジェリークは大げさに涙まで浮かべて抗議してくるが、嬉しそうな顔を隠さないのが憎らしい。
二人ともロザリアが好きだという点は共通だけれど、どうやら、今のところ、ロザリアの好感度はアンジェリークの方が上のようだ。
もっとも張り合うところが少しズレているのは、オリヴィエ自身も自覚している。
「今日は…あの育成ではなくて。少しお話をしてもよろしいですか?」
「もちろんだよ。 で、改まって、何の用?」
ロザリアはもじもじと身体を震わせている。
たとえ言いにくい事でも、自身の正義があれば、ずばっと言うのが、いつものロザリアだ。
そんな彼女がここまで言いよどむのは珍しい。
オリヴィエはせかすことなく、彼女が切り出すのを待った。
顔を赤くして、もじもじしているロザリアは、綺麗な上に可愛らしくもあり、見ていて飽きない。
けれど、オリヴィエは、彼女の不思議な様子に気がついた。
なんだか呼吸がせわしなく、目線もはっきりしていない。
凜と伸びている背筋も気持ち揺れている感じがする。
顔が赤いのは、話したいことに理由があるのかと思っていたが。
「あの、オリヴィエ様、わたくしにも……」
ロザリアが、やっと切り出せた、と思った瞬間、周りの景色がぐるぐる回り出し、ふっと意識が遠のいた。
「ロザリア!」
天井の紫と、オリヴィエの瞳のダークブルーが繰り返し、目の中でちかちかと瞬く。
膝から崩れ落ちて、床に頭から倒れ込む寸前、力強い腕に身体ごと抱き止められた。
息を吸い込むとオリヴィエの香りがして、すぐ耳元で彼の声がした。
「すごい熱じゃないか」
それで頭が重かったのか、とロザリアは納得した。
もうずいぶんと身体の不調なんて無かったから、考えてもみなかったが、そういえば顔が熱い。
足に力が入らなくて、立ち上がることができない。
けれど、オリヴィエの腕にすがるのはためらわれるような気がして、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「ゴメン。触られたくないだろうけど、今回は許して」
ふわりと身体が宙を浮き、オリヴィエの顔がすぐ横に来た。
いわゆるお姫様抱っこ。
心配そうなダークブルーの瞳がロザリアの顔をのぞき込んでいて、オリヴィエが焦っている様子なのがわかった。
彼は本当にロザリアを案じてくれているのだ。
ロザリアをしっかりと支える手はとても暖かく、守られているような気がする。
嫌じゃない。
そう言いたかったけれど、上手く言葉がでなかった。
オリヴィエがロザリアを抱きかかえて、候補寮の私室へ行くと、ばあやが慌てて、寝室を整えてくれた。
「まあまあ、今朝から少し具合が悪そうだとは思っていたのですけれど」
お嬢様は弱みを見せない方ですから、と、ぽつりとばあやが呟く。
きっとそれは事実なのだろう。
一番身近なばあやにすら、彼女は不満を漏らしたり、愚痴をこぼすことすらしない。
なにもかも一人で抱え込んでいる。
ちらりと一瞥しただけだが、寝室の中は恐ろしいほどなにもなかった。
お嬢様らしい豪華な調度品や高価なインテリアはあったけれど、彼女らしい物に囲まれたその部屋には、彼女そのものが存在していない。
ありがちな家族の写真や、アンジェリークの部屋にあるようなぬいぐるみなどもない。
ようするに、それっぽく整えられただけの器だ。
ベッドの上に彼女を寝かせ、オリヴィエは一度寝室を出た。
あのドレスのままでは体調に良くないし、ばあやに任せるのが得策だろう。
このまま執務室に戻るつもりで、オリヴィエはばあやが出てくるのを待った。
こちらの部屋も綺麗に整えられていて、ちり一つ落ちていない。
潔癖症の彼女だから、それは当たり前なのだろうが、全体的に寒々しくて、まるでモデルルームのようだ。
ただ、花瓶の花だけが、生き生きと生命力を主張していて、オリヴィエの目は吸い寄せられた。
白い薔薇。
朝摘みしたばかりなのか、花弁にうっすらと水が残っているようにも見える。
しばらくして、ドアが開くと、ばあやが顔を出した。
ロザリアの熱は高いが、おそらく疲れからくるものだろうから、今日一日ゆっくり休ませて様子を見るらしい。
女王試験が始まって数ヶ月。
そろそろ疲れもピークに達してくる頃だ。
「じゃあ、私は戻るから。ロザリアにお大事と伝えておいて」
オリヴィエがそのまま部屋を出ようとすると、
「あの…すみませんが」
ばあやはオリヴィエに声をかけた後、少しためらうようなそぶりを見せた。
言いにくそうに、口をもごもごさせたばあやは、やがて、決意したようにオリヴィエを見上げる。
「あの、お嬢様が、オリヴィエ様のお名前を呼んでおりました。よろしければ、一度、声をかけていただけませんか?」
ばあやにしてみれば、守護聖とはいえ、男を大事なお嬢様の寝室に招くことに抵抗があるに違いない。
最後まで迷っていたのがその証拠だ。
けれど、それを押してまで、オリヴィエ伝えたと言うことは、なにかあるのだろう。
そういえば、ロザリアを抱きかかえて部屋に入ったとき、ばあやの驚きは単にロザリアの不調という以上だったような気がする。
しばらくの沈黙に、ばあやはさらに続けた。
「私もお嬢様に触れるのは、髪を結う時ぐらいでございます。
いくら倒れたとはいえ、あのお嬢様が…」
オリヴィエに抱かれたままだったことが、ばあやには別の意味でショックだったらしい。
きっと、ばあやもロザリアのことが心配なのだ。
オリヴィエは柔らかく微笑むと、ロザリアの寝室へ向かった。
ロザリアは真っ赤な顔で、荒い息を吐いている。
強気なイメージを与える青い瞳を閉じた素顔は、まだあどけなさが残り、年相応の少女らしい。
「オリヴィエ様…」
聞き取りにくいほどの声だったけれど、ロザリアははっきりとそう言った。
オリヴィエがベッドの脇に跪き彼女の耳元で
「ここにいるよ」
と告げると、ふわり、と彼女の手がなにかを探すように宙をさまよう。
オリヴィエはその手をそっと掴むと、ベッドの上で両手で包み込んだ。
陶磁のように滑らかな肌の細い手。
初めて触れた彼女の手は、熱で暖かく、しっとりと湿っている。
オリヴィエの口から、長い長いため息がこぼれた。
ずっと考えないようにしていたけれど、こうして、ロザリアに触れたかったのだ。
もちろん、物理的に触れることだけではなくて、彼女の心にも。
彼女が何を思い、なぜ他人を拒むのか。
知りたいし、彼女が変わりたいと願うなら、それを助けたい。
この気持ちはただのお節介でも、好奇心でもなく。
きっとずいぶん前から、彼女に惹かれていたのだ。
うつつの中、ロザリアは自分の手を包む、暖かな光を感じていた。
誰かのぬくもり。
こんな風に人の体温を感じたことは、記憶にない。
いつからだろう。
一人でいることが楽になったのは。自分だけが他の世界にいるような気になったのは。
『貴女は他の子とは違うのですから』
ロザリアは母からずっとそう言われて育ってきた。
貴族では跡取りを作ることが、義務の最優先になり、特に男子が期待される。
けれど、カタルヘナ家の子供はロザリア一人。
男子ができなかった出来損ないの妻は、かなり肩身の狭い思いをしていたのだろう。
それが、女王候補を産んだ母として一転して讃えられるようになったことに、ロザリアの母は狂喜した。
ロザリアが特別な子供で周囲の自慢になることで、やっと、自身の虚栄心と自尊心が満たされたのだ。
『私の娘は普通の男子よりもずっと価値がある』
それが歪んだ愛情だと気づかず、母はロザリアの生活を厳しく縛るようになっていった。
初等部に入る少し前、公園でよく会うようになったパン屋の息子とのつきあいも、すぐに止められた。
ばあやとの散歩で偶然、鳩にパンを与える彼に声をかけたのが始まりだった。
彼がこっそり持ってくる失敗作のパンを二人でおやつ代わりに食べ、公園内を走り回って遊んでいたのだ。
少年の友達や弟、そのまた友達が集まって、かくれんぼや鬼ごっこ。
キャッチボールや缶蹴りなど、身体を使う遊びをしたのは初めてで。
ロザリアは夢中になって、毎日公園に出かけた。
ところが、ある日、
「あの子は貴女の友人にふさわしくありません」
母から外出を止められた。
重い扉は一人で開けられるはずもなく、ばあやも主人の命令には逆らえない。
家を出ることができなくなったロザリアに代わりに与えられたのは、バイオリンやバレエのお稽古。
そして、家柄と見た目はいい、つまらないお友達。
母はその友達達にも
「ロザリアはいずれ女王となる特別な子供なのだから」と言い続けた。
子供というのは素直で正直だ。
そして残酷でもある。
ロザリアが面倒くさい存在になるのは時間の問題で、カタルヘナの屋敷を訪れるたくさんの子供達の中で、ロザリアは孤立を深めていった。
もしも、一人きりしか知らなければ、それが当然とも思えたかもしれない。
けれど、ロザリアは太陽の下で仲間と走り回る楽しさを知っていた。
知っていたから、それを忘れなければいけなくなり、無意識の中に沈めた感情は、別の形でロザリアを苦しめるようになっていった。
自分だけが周囲と違っている。
ロザリアにはない何かを、他の人々は持っている。
気がつけば、ロザリアは他人の触れた物に触れなくなっていた。
それでもスモルニイ女学園で、だれにも気づかれることなく生活できていたのは、やはりロザリアが特別な存在として扱われていたからだ。
「ロザリアは私達とは違うのよ」
机も椅子も、彼女は私物の使用を許されていたし、食事も専属のシェフがいた。
なにをするにしても一番最初に、だが、代わりに皆の見本となることを要求された。
ロザリアの能力は高かったから、教師達の要求にも全てパーフェクトに応えることができたが、そのせいで、クラスメイトでさえも一目置く学園の女王となってしまった。
孤高で、友人と呼べる人間は一人もいない。
そんな学園生活。
女王候補として、飛空都市に招集されるという知らせを聴いて、一番喜んだのは間違いなく母だ。
知らせが届いてから、母は毎日のように夜会に出かけ、ロザリアの自慢をした。
出発までの間に、一度、ロザリアも一緒に連れて行かれたことがある。
くだらないパーティだったが、母は上機嫌でロザリアをあちこちに紹介して回った。
「私が産んだ、次代の女王になる娘ですわ」
母の言葉に合わせるように淑女の礼をとり、儀礼的な笑みを浮かべる。
扇の縁から降り注ぐ、多数の値踏みするような目。
「素晴らしいご令嬢ですこと」
「お美しい上に、女王の資質までお持ちなんて」
白々しい賞賛に、母は満足し、ロザリアもホッと胸をなで下ろした。
母が機嫌のいい日は、屋敷の雰囲気もよくなるのだ。
気にしているつもりはなくても、ロザリアとっては無意識に母の機嫌をとるのが当たり前になっていた。
飛空都市に旅立つ日、ロザリアは最後の別れに、母に手を差し出した。
もし、ロザリアが女王になれば、二度と会えないかも知れないのだ。
けれど、抱き合って涙を流すようなことは、はしたないと教えられてきたし、握手くらいしか思いつかなかった。
ロザリアはふと、母に触れるのは、いつ以来だろうと考えた。
幼い頃から、ばあやに育てられてきて、母となにかをして過ごした記憶はほとんど無い。
お稽古事は教師がいたし、学園に通うようになってからは、夕食をともにすればいい方だ。
だからこのときまで、ロザリアは忘れていた。
母はロザリアが差し出した手をちらりと一瞥した後、その場でにっこりと微笑み
「必ず女王になるのですよ。 貴女の価値はそれなのですから」
言い捨てて、くるりと背を向けた。
行き場を失い、宙に置かれたままのロザリアの手。
他の誰に触れることはできなくても、母には手を繋いで欲しかったのに。
ただ別れの挨拶をして。
ロザリアがいなくなることを、悲しんで欲しかったのに。
忘れていたのは、愛されていなかったこと。
女王の資質が現われる前、一度も話しかけてもらえなかったこと。触れてもらえなかったこと。
抱きしめられたことも、絵本を読んでもらったことも、子守歌を歌ってもらったことも、ない。
どれほどロザリアが特別な人間になっても、結局は変わらないのだ。
母も、世界も、ロザリアを受け入れてはくれない。
だから、手を触れることができないのだ。
触れて欲しくないと、彼らがロザリアを拒むから。
ロザリアのまなじりからこめかみに、一筋の涙が伝っていく。
オリヴィエは人差し指をそっと沿えると、その雫をぬぐい取った。
凜として、時に高飛車で、自信に溢れているロザリア。
その彼女の無言の涙に、オリヴィエは彼女の手をさらに強く握りしめた。
潔癖症はメンタルの問題が大きいと、ルヴァは言っていた。
だから、治療すれば治るものではないけれど、まったく治らないものでもないらしい。
握りしめた手のぬくもりは、彼女を温めているだろうか。
普段は触れることはできないけれど、今、確かに、ロザリアはオリヴィエの手を握り返してくれている。
無意識にでも求められている、と思えば、単純に嬉しい。
しばらくすると、ロザリアの呼吸が次第に穏やかに変わっていった。
どうやら深い眠りに落ちたらしい、安らかな寝顔。
手を離しても、ロザリアの手が追ってくることはなく、オリヴィエは布団の中に彼女の手を戻し、そっと部屋を立ち去った。