世界は奇跡に満ちている

1


「アンジェリーク!起きなさい、アンジェリーク!!」
ほんのりピンク色の扉をがんがんと拳で叩き、中に向かって声を荒げる。
はしたないとは思うが、きっと彼女にはこのくらいの音でもまだ足りないはずだ。
確かに今日は土の曜日で、通常ならば、いくら寝ていても構わない日。
けれど、月に一度の最終週だけは、定期審査が行われる大切な日になる。
昨夜の夕食の時間にも、口を酸っぱくして言い聞かせたはずなのに、朝食の時間が過ぎてもアンジェリークは姿を表さなかった。

本来なら、女王試験のライバルで特に友人でもないのだから、放っておけばいいのかもしれないが。
それができないのがロザリアなのだ。
高飛車でわがままに見えて、なんだかんだで面倒見が良く、いつのまにかクラス委員や生徒会役員を押しつけられてしまう性格。
飛空都市に来て1ヶ月あまりだが、結局、ロザリアは、あれやこれやとアンジェリークの世話を焼いてしまっていた。
この口調と態度のせいで、まわりからはアンジェリークを虐めている、と思われているようだったが、それも慣れたものだ。

「全く・・・」
静まりかえった部屋の前で、ロザリアは腕を組んでため息をついた。
扉を蹴飛ばしてやろうか。
『放っておけば良い』『いや、それは良くない』
心の中でせめぎ合っても、結局やっぱり放っておけない。
ロザリアはドアを叩き続けた。
「アンジェ!いい加減に起きなさい!あんたって子はいつもこうなんだから」
どんどんどんどん・・・。
繰り返されるリズムは、遠いなにかを呼び起こす。
ドアを叩きながら、ロザリアの意識がふと遠くなっていった。


急に沸き上がってきたデジャブ感。
今日が初めての定期審査のはずなのに。
なぜ、『いつも』アンジェが寝坊していると『知って』いるのだろう。
瞬間、ロザリアの頭の中に、様々な記憶が奔流のように溢れてきた。

『いつも』定期審査で寝坊するアンジェリークを起こしに来たこと。
完璧な女王候補だったロザリアが、初めは育成をリードしていたこと。
けれど、一人で試験に向き合い、育成だけを続けたロザリアに対し、守護聖たちの支持を得たアンジェリークが終盤になって、みるみるうちに追い越したこと。
・・・そして、アンジェリークが新女王に就任したこと。

一コマ一コマが映画のワンシーンのように、ロザリアの中を駆け抜けていく。
最初は女王試験が始まり、知らずに感じていたプレッシャーが、そんな幻を見せているのかと思った。
ロザリアが漠然と感じていた不安が『試験の敗北』という夢を見せたのだと。

けれど、いつの間にか叩くのを止めていたドアが向こうから開いて、
「おはよう、ロザリア。わざわざ声をかけてくれるなんて嬉しい」
アンジェリークが明るい笑顔で言い、
「あんたが遅れたら、同じ女王候補のわたくしが恥ずかしいだけですわ。さあ、行くわよ。あ、ちょっとお待ちなさい」
アンジェリークの頭の上で不格好によじれたリボンを手際よく直したとき、はっと気がついた。
「ありがとう。ロザリアって優しいのね」
キラキラした瞳でロザリアを見つめる緑の瞳。
同じセリフ、同じ動作。
全く同じ状況をロザリアは知っていた。
それはまさに言葉通り。
知っているとしか言いようのない感覚だった。


二人で研究院に向かう間も、アンジェリークはにこにこと嬉しそうにいろんな話をしてくる。
ロザリアは半ば上の空でその話に軽く相槌を打っていた。
アンジェリークが話していることも全部、ロザリアはもう知っていることばかりだ。
知っているはずがないのに、知っている。
不可思議な状況だったけれど、ロザリアは一つの仮説を思いついていた。
ばかばかしくて、とても信じられないけれど、自分の頭がおかしくなったのでなければ、それしか考えられない。


女王候補と守護聖、パスハが揃った研究院で定期審査を受けると、3つほど建物数がリードしていたロザリアが女王から直々にお褒めの言葉を賜ることになった。
「これからも育成に励みます」
綺麗な淑女の礼をとったロザリアをディアが優しくねぎらってくれる。
相変わらずの優しい笑顔。
相変わらずと思うほど、まだディアとのつきあいはないはずなのに、その言葉が浮かんでしまう。
ディアからの言葉も、細かなセリフまでは全部記憶していなかったけれど、感覚的に同じだと思ってしまった。


「ふう」
ベッドに入り、テーブルランプの明かりを一番小さく絞ると、ロザリアはため息をついた。
今日一日、なにもかもが『知っている』と感じることばかりだった。
始まったばかりの女王試験なのに、もうずいぶん前からこの飛空都市にいて、守護聖たちのアレコレも見知っていて。
これはたぶん、というか、間違いない。



『なぜわたくしは女王になれなかったの?もう一度、試験をやり直せたら、今度こそ、絶対に、女王になってみせるのに』

あの日。
エリューシオンの民が中の島にたどり着き、あまたの星が空一面に流れた夜。
全てを察したロザリアは、候補寮を抜け出し、森の湖に走った。
空一面を覆う星で、あたりは夜とは思えないほどに白く光り、ロザリアを照らしている。
このまま夜が明ければ、アンジェリークが女王となり、ロザリアは敗北者として、生家に戻されるのだ。
その押しつぶされそうな事実から逃れたくて、夜着のまま、ただ逃げ出した。

森の湖は空を流れる星を映して銀色に輝き、静寂の中で滝の音だけがわずかに楽を奏でている。
静謐の世界で、ロザリアは湖の中に一歩、足を踏み入れた。
水はひやりと冷たく、ほんの少し足首が浸っただけで、全身ががくがくとが震えてくる。

「なぜ?なぜ、わたくしは?」
気がつけば、ロザリアの顔はびっしょりと濡れていた。
それは生暖かい涙のようで、実は冷たい湖の水だったのかもしれない。
湖面に浮かぶ青紫の長い髪と白いレースの裾。
いつの間にか、全ての感覚がなくなって、身体が宙を舞うように軽くなった。

「・・・もう一度、試験をやり直せたら」
呟いて、息をしようと開いた口の中に、ごぶりと水が流れ込んで、そこからの記憶は無い。



「死んだんですわね。きっと」
布団の中で、ロザリアは自らの身体を抱きしめた。
なぜあのとき、湖に向かったのか。
おそらく無意識に、「願えば会いたい人に会える」という伝説に一縷の望みをかけたのだ。
もしかして、このありえない願いも湖の奇跡で叶うかもしれない、と。

急に全てが腑に落ちて、ロザリアは微笑んでいた。
理由も理屈もどうでもいい。
きっとロザリアの必死の願いに、奇跡が応えてくれたのだ。
とにかく、もう一度、女王試験をやり直すことができる。
一度やった育成のコツは覚えているし、自分の失敗もわかっている。
今度こそ。
「女王になりますわ」
固い決意で、もう一度チャンスをくれた存在に感謝の祈りを捧げ、ロザリアは目を閉じた。




「では、育成を少しお願いいたします」
「少しだな。わかったぜ」
思わせぶりなウインクと気障な笑顔。
正直、ロザリアはオスカーが苦手……というか、むしろ嫌いだった。
だから、前回は徹底的に無視をして、育成以外では一切近づかなかったのだが。

「感謝いたしますわ。あとは少しお話などもよろしいでしょうか?」
「おっと、珍しい事もあったもんだな。やっとお嬢ちゃんも俺の魅力に気がついたのか?」
オスカーはわずかに目を見開き、驚いた様子を見せたものの、スマートな仕草でロザリアをソファへと導いた。
秘書官がオスカーにはカプチーノ、ロザリアには紅茶をサーブして、そのまま、部屋を出て行く。
執務室に二人きりになってしまったことが微妙に居心地悪く、もぞもぞしたロザリアに、オスカーがクスリと笑った。
「おいおい、まるでオオカミの前の子羊だな。そんなに俺は危険にみえるのか?」
からかうようなそぶりに、ロザリアのプライドが逆なでされる。
今までロザリアにこんな気安い態度をとる男性はいなかったから、本当に腹が立つのだ。
前回の試験の時だったら、即座にこの場から立ち去っていただろう。

「いいえ、そのようなことはありませんわ」
僅かに目を伏せたロザリアは、胸に溜まっていた緊張を逃がすように細く息を吐き出した。
ここで、怒って席を立ってしまえば、前回と何も変わらない。
せっかくやり直すチャンスを得たのだ。
やりとおさなければ意味が無い。
それに、今のロザリアはこういうときの正解を知っている。……前回のアンジェリークのやり方を見ていたのだから。

「わたくし、あまり男性と親しくしたことがありませんの。ですから、オスカー様に何をお話ししたらいいのか、よくわからなくて」
落ち着きのなさは不慣れなせいだ、と、ほんの少し上目遣いでオスカーを見つめ、頬を赤らめる。
多少、わざとらしいのは承知の上だ。
バレバレの媚びでも、見ていたロザリアが馬鹿らしくなるほど、皆嬉しそうだったのだから。
予想通りというべきか、オスカーは氷青の瞳をうっすらと細めたあと、さっきの笑みとは違う、優しげな笑みを浮かべた。

「急に可愛らしいことを言われると、この俺でもドキッとするもんだな。不慣れだというなら、これからいくらでも慣れていけばいいさ」
「わたくしにできますでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。そうだな、お嬢ちゃんのために俺が練習台になっても構わないんだぜ」
「まあ、オスカー様が?」
ロザリアは少しはにかむように目を伏せ、
「嬉しいですわ。明日もまたお話に参ります」
きゅっと膝の上で軽く両手を握り合わせた。
その仕草がいじらしく見えたのか、オスカーは
「ああ、待ってるぜ。いつでもお嬢ちゃんのために俺の時間をあけておこう」
と、ロザリアへの印象を少し変えてくれたようだ。
それから、お茶を飲みつつ、オスカーの話を聞き、ロザリアは炎の執務室をあとにした。


こつこつとなるヒールの音が段々早くなり、いつの間にかほぼ駆け足の状態で、ロザリアは人気の無い森の湖までやってきた。
「あーーーーもう!」
なにか手頃なものがあれば、思いっきり蹴飛ばして、爪先で粉々に踏みつぶしたい気分だ。
でも、それらしいものがないから、仕方なく、ロザリアは地団駄を踏んで、拳で自分の腿を叩いた。
人が見たら、なにかの呪いの踊りかといいたくなるような動作。
それにしても、まったく心にもないことをしなければならないというストレスは、本当に半端ない。

昨日、ランディのところで同じような事をしたときもそうだった。
ランディはもっとわかりやすく、顔を真っ赤にして、
「君のことをもっと知りたくなったよ!」
と言っていた。
思わず手を握られそうになったのを、素早く避けたのは言うまでもない。

ロザリアだとて、決して彼らが大嫌いなわけではないが、軽い失望感があるのは事実だ。
前回の女王試験の時、ロザリアは自身の気持ちに正直に行動していた。
何よりもフェリシアを優先し、学習と育成に最も時間を割き、守護聖との交流はあくまで余暇の片手間、挨拶程度だった。
おかけでフェリシアはロザリアの期待通りの肥沃な大地に美しい街並みを持つ理想の大陸に育ったのだ。
けれど、結果的に試験に勝ったのはアンジェリーク。
たとえどれほど地形的に問題があり、文明の発達がバラバラな都市が乱立していても。
爆発的な人口増加で、絶えず新しい土地を求めざるを得なかった民たちが、侵略に近い形で中の島にたどり着いたのだとしても。
ロザリアは負けたのだ。
競うようにエリューシオンに贈られた守護聖達からのサクリアのせいで。

贈り物のサクリアで育成されたエリューシオンはロザリアから見れば歪な成長をしていた。
特に炎と風のサクリアが多かったせいか、エリューシオンの民達は呆れるほどに貪欲でアグレッシブで、どんどん大陸を拓いていった。
もしも、これが女王試験の為の大陸でなければ、いずれフェリシアはエリューシオンに侵略されていたに違いない。
だからこそ、二度目の試験で、まずロザリアが考えたのは、オスカーとランディをアンジェリークから引き離すことだった。
この二人の競い合いが契機になって、エリューシオンへの贈り物合戦が始まった記憶がある。
そのためには、と、この一週間、ロザリアは二人と親密度を上げようと苦心していた。
お手本を見ていたのだから、やることはわかっているし、何も難しいことはない。
ただ、心にもない言葉や仕草をしなければならないストレスだけが半端ないのだ。

湖の畔に座り込んだロザリアは、水の中に手を浸した。
澄んだ水は思ったよりも冷たく、ロザリアの肌を刺してくる。
「負けませんわ。今度こそ。今度こそ、絶対に女王になってみせますわ」
暗い水の中に沈んでいった時を思い出せば、なんだっでできる。
ロザリアは改めて固く決意したのだった。


ロザリアが湖を去ったあと、滝の裏の木々がざわざわと不自然に動いた。
枝を掻き分けるように、ひょっこりと木陰から顔を出したのは、オリヴィエだ。
気持ちの良い午後の陽気に誘われて、ちょっとした散歩…ようするにサボって昼寝をしていたのだが。
いきなり足音高くやってきたロザリアの形相が恐ろしくて、声をかけずに身を潜めていた。
もちろん、気づかれれば、軽く挨拶くらいはするつもりだったが、ロザリアは全く気がつく様子もなく、湖をじっと見つめている。
その様子が変だ、と断言できるほど、オリヴィエはロザリアと親しくしているわけではない。
むしろ接点ゼロだ。
だから、こちらから声をかけるつもりはさらさら無かった。
たまたま寝転んでいた視線の先にちょうど彼女の姿があっただけで、早く去ってくれればいいとさえ思っていたのだ。

湖に手を浸したロザリアは、何を考えているのか、暗い表情をしている。
いつもある意味、冷静に感情をセーブしている彼女のそんな憂い顔をオリヴィエは初めて見た。
高飛車で傲慢で自己中心的な振る舞いばかりが目につくロザリアだが、もしかすると、なにか悩み事でもあるのかもしれない。
ひとりぼっちで、こんなところに来ざるをえない、なにかが。
オリヴィエは小さく頭を振り、その考えを追い払おうとした。
好奇心旺盛すぎるのは自分の悪いクセだ。
お節介で深入りしてもどうせろくな事は無いのだから、無視するに限る。
けれど、耳に飛び込んできたのは、オリヴィエの想像もしていない言葉で。

「負けませんわ。今度こそ。今度こそ、絶対に女王になってみせますわ」
今度こそ?今度とはいつだ?
今度も何も、女王試験に再試などないし、今現在、その試験の真っ最中ではないか。
それなのに、まるで、以前にも同じ事があったのかのように彼女は『今度こそ』と言いきったのだ。

優雅な所作で立ち上がったロザリアは、ドレスのスカートを手で払い、来たときとは別人のようなゆったりとした足取りで去って行く。
しばらくして、オリヴィエは湖の畔に近づくと、ロザリアの座っていた場所を見た。
わずかに踏み荒らされた草以外、なにも変わった様子はなく、滝の水の流れる涼やかな音と、風がさわさわと湖面を揺らしているだけだ。
「今度こそ、ってなに?」
ただの言葉のあやか、何か意味があるのか。
少しだけ不思議に思ったが、どうしても問い詰めたいほどでもない。
けれど、少しだけ、今までよりもロザリアに興味を持った自分に気がついたのだった。