その夜は満月だった。
遮るもののない空は一面の星に覆われ、爽やかな風が草原を撫でている。
もうすぐこの惑星に二人で降り立ってから3年。
記念日を二人で祝うため、ロザリアは補佐官時代に始めたお菓子作りを再開していた。
バイオリン教室の生徒も順調に増え、今や、城下町の母達のあいだでロザリアのバイオリン教室に通っていることが一つのブランドになっている。
加えて、マナー教室やダンスのレッスンなど、いつの間にか、毎日がかなり忙しい。
日中の疲れで、早めにベッドに入ってしまうロザリアに対して、オスカーはさらに帰宅が遅くなっていて、0時前に帰ることはほとんど無く、平日は泊まり込みという日も多かった。
下層民の反乱の勢いが増している。
噂では、小競り合いの域を超え、戦闘になっているというのだ。
過去にも下層民の反乱はいくつも起こっていたが、今回は規模が違うらしい。
散発的な戦闘の裏できちんと統率が取れていて、優秀な指揮官がいるのではないかと言われている。
そもそも、下層は圧倒的に数が多い。
一人一人の力は小さくても、まとまれば巨大な勢力だ。
ただ、城下町側には武器が揃っていて、これもまた噂程度だが、下層を一気に全滅させるようなものまであるらしい。
ガタガタと風で窓が揺れる。
ロザリアは鍋でリンゴを煮詰めながら、ため息をついた。
なんだか今夜は気持ちが落ち着かない。
木べらでかき混ぜる手が知らずに震えていて、何度も持ち直した。
砂糖の溶ける甘い香りも、なんだかしつこくて胸焼けしそうだ。
バタン、と扉の開く大きな音がして、ロザリアは飛び上がった。
城下町の治安は安定しているが、犯罪がない訳ではなく、ましてや今は非常時。
屋敷に一人きりは不用心すぎたかもしれない。
破られた静寂のあと、すぐにカツカツと聞きなれた長靴の音がして、やっとロザリアは息を吐き出した。
「おかえりなさい、オスカー。今日は早かったんですのね。食事はまだでしょう?今、温めますわ」
リビングのソファにどさりと座り込んだまま動かないオスカーに、ロザリアは微笑みかけた。
外套も脱がず俯いているオスカーの髪は乱れ、疲れた様子なのがわかる。
「暖かい飲み物でも用意しましょうか?それともお風呂?」
ザワザワと足元から忍び寄る不安に抗うように、ロザリアは朗らかな声をかけ続けた。
けれど、オスカーはじっと黙っている。
ガタガタと鳴る窓。
静まり返る部屋。
やがて、オスカーが顔を上げ、ロザリアを見つめた。
「ロザリア、座ってくれないか。……話したいことがある」
よく通るバリトンに反論する隙もなく、ロザリアは向かいに腰を下ろした。
定位置は彼の隣。
けれど、今の彼の周囲には、ロザリアさえも拒むようなオーラがある。
「なにかしら?」
重苦しい空気が両肩にのしかかる。
お茶を用意すればよかった。
暖かい飲み物があれば、少しは気持ちも楽になれたのに。
ぼんやりとそう思っていると。
「……子供が産まれたんだ」
「それはおめでとうございます。・・・どなたの?」
ロザリアがまっさきに思い浮かべたのは、部下のダリルだった。
あれから、何度か邸にもやって来て食事をしたこともあったけれど、整った容姿と軽妙な会話は、いかにもモテそうな雰囲気だ。
ところが。
「俺の……子なんだ……」
ため息と共に吐き出された言葉を、ロザリアは信じられなかった。
きっと聞き間違いに違いない。
「それはどういう意味ですの?……あ、あなたの子孫ということかしら?」
オスカーにはたしか妹がいて、その血筋が残っているはずだ。
「いや、そうじゃない。正真正銘、俺の子だ。俺と、ある女性との間にできた子供だ」
オスカーの氷青の瞳は恐ろしい程に凪いでいて、嘘や冗談ではないことがわかる。
「うそ……そんな……嘘でしょう?」
「嘘じゃない。さっき、生まれて、この腕に抱いてきたところだ」
ロザリアは目を見開いた。
そもそもオスカーはこんなタチの悪い冗談を言う人間では無い。
だから最初の一言を聞いたときから、本当はわかっていた。
今、この世界のどこかにオスカーの子供がいて、けれどそれはロザリアの子供ではなくて。
彼にとって一番大切な存在は、もはやロザリアではなくて。
彼の言葉の重みがじわじわと身体の奥に侵食してきて、息をするのも苦しい。
「わたくしを……裏切っていたと……そう、おっしゃるんですの……」
聞けば決定的な事になるのに聞かずにはいられない。
ロザリアは信じていたのだ。
飛空都市で運命的に出会ってから、結ばれるまで過ごした愛の日々。
草原の惑星に二人で降り立った日、永遠に共に生きると誓った。
確かにすれ違いもあったかもしれない。
特にここ最近はお互いに忙しく、愛を交わす回数も減っていた。
それでも、つい先週も同じベッドで過ごしたばかり。
まさか他の女性のお腹に子供がいる状態で、ロザリアを抱いているとは思いもしなかった。
「弁解はしない。君への愛も変わっていないつもりだ。だが、子供が産まれた以上、俺には責任がある。……子供を父親の知らない子供にはしたくない。俺が父から教わってきたことを伝えてやりたいとも思っている」
オスカーは赤子を包むように両手を広げ、拳をぎゅっと握りしめた。
そこにいない息子がオスカーには見えているのだろう。
「君はこのまま、ここで暮らしてくれて構わない。俺に支払われる金銭に関しても自由にしてくれていい」
ソファから立ち上がり、オスカーは外套の裾を払った。
「……君への償いは俺の持っている全てのものと引き換えても足りないことはわかっている。俺のために女王の夢を諦め、補佐官の職を辞してくれた君に、せめて生活の苦労だけはさせないと約束するから……」
許して欲しい。
最後に呟かれた言葉に、ロザリアは呆然とオスカーを見上げた。
頭が混乱して、どうしたらいいのかわからなかった。
泣くことも喚くこともできず、ただ真っ白で、そこにいるだけ。
いっそ、今ここで死ねたら、オスカーはロザリアを哀れんでくれるのかもしれない。
けれど、ロザリアの体も心も、金縛りにあったように動かなかった。
オスカーの瞳は苦痛に満ちていたけれど、もう悩んでいる様子はない。
告白した時点で、オスカーの中では、既に決まっていることなのだ。
……彼はもうロザリアを……。
ただ座って俯いているだけのロザリアを置き去りにして、オスカーは長靴の音を響かせ、邸を出ていった。
砂糖の焦げた匂いが強くなる。
「あ、りんご……」
3周年のお祝いに、彼の好きなアップルパイを焼くつもりだった。
あまり甘いものを食べないオスカーが、唯一、子供の頃から食べていたと話してくれたアップルパイ。
手作りのケーキと肉料理。
二人でささやかなディナーを楽しんで、久しぶりにお風呂に一緒に入ったりもして。
もしかしたら赤ちゃんにも恵まれるかもしれない。
そんな小さな希望も粉々に砕けてしまった。
『俺の持つ全てのものと引き換えに』
何もかも失っても、オスカーはもう一人の女性と子供との人生を選んだのだ。
「全てのもの……愛以外は、ということですのね」
ロザリアには愛以外の全てを。
新しい家族には愛だけを。
ロザリアが夢よりも仕事よりも、一番欲しかったものを、彼は奪うつもりなのだ。
焦げた匂いがさらに強くなり、ツンと鼻をつく。
ロザリアはようやく立ち上がると、鍋に勢いよく水を入れた。
焦げ付いた砂糖がジョワジョワと音を立てて固まり、りんごと一緒に黒くこびりつく。
鍋ごとゴミ箱に放り込み、ロザリアはようやく、自分が泣いていることに気がついた。
泣いたところでどうなる訳でもないし、悲しいのか悔しいのか分からないけれど。
泣き疲れて、そのまま死ねたらいいのに。
声が枯れ、涙も枯れた時、ロザリアは一人、冷たいベッドで夜を明かしたのだった。